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プライド、欲なんか捨てるべきだと昨日思った

noname#75437の回答

noname#75437
noname#75437
回答No.3

>自分はいっつも何か足りないんじゃないかと考えていて、 それは、いいことです。向上心の糧になります。 でも、「足りない」ことを意識するのでなく、増えるイメージを持つほうがいいです。 お金にしても才能にしても、足りないことに意識を向けると、どんどん不足が 現実化します。 モテないと思い込めばますますモテなくなるのと同じだし、学力が低いという意識 を持てば、成績はあがりません。 ところが、モテたいと切実に願ってだんだんモテはじめていく自分を意識したり 次第に学力が伸びていくことに意識を向けたら実際、モテるようにもなるし 成績も伸びるものです。 足りないことを「向上心」につなげるか、悲観につなげるかの違いです。 >昨日は自分に問い詰め続けて考えていると、自分はプライドが高く、 プライドというのは、足りないものを「増やしたい」という意識の元です。 自分は「今の自分」ではなく「上」を目指す男なんだという認識だと思います。 これ、持っていたほうがいいです。 プライドというのは、自分の中には持っていたほうがいいですが、これを 人と自分の比較で使うとよくないです。 競争意欲というのは、真のプライドとは「別物」です。 自分が目指すべき目標に近い人を「具体的なモデル」として、自分は あの人以上になりたい。 そう思うのは、創造性を発揮する上でいいことです。 でも、自分の望まない姿の他人を見て、見下して「あいつより俺のほうが マシ」とか、ああいうレベルの低いやつらと自分は違う。 という風に思うのは、自分の現実を高める上で少しも役に立たないです。 受験勉強ひとつとって考えても、そうでしょう。 下が沢山いると安心していたら、成績は伸びないどころか落ちていく。 逆に、少し上を目指し続けることで学力は伸びたりします。 >打算的な考えで生きてきたということがわかりました。 打算的というのは、こうすれば得、ああすれば損という思考のことです。 確かに損得で動くと、幸運からは遠のくケースが多いですね。 なぜなら、何事も計算通りにいかないからです。 >例えば、挑発的な言動に反応するというのはプライドをきづつけられたから そのまえに、なぜ相手が挑発的な言動をとるのか考えてみましょう。 ひょっとしたら、あなたが相手のプライドを傷つけるような態度やものの言い方や 考え方をしているのかもしれません。 または、あなたがいつも誰かから馬鹿にされることを恐れているからかも しれません。 挑発的な言動とは、馬鹿にしたからかう言葉ですよね。 コンプレックスを意識すると、人にはその劣等感が余計に伝わるものらしいです。 ハゲがカツラや帽子を被ると、相手の意識は嫌でも頭に向かうでしょう。 チビが厚底靴を履けば、余計にチビが目立ちます。 人は、他人がコンプレックスを感じているのを見るのは好きではないようです。 むしろ、劣等感をく克服した姿にすがすがしさを感じるようです。 >友達が欲しいと思い続けてきたのは、話せる人がいることで安心したいと >いう打算的な欲があったからです。 話せる人がいるということは、打算的な欲とはいえません。 なぜなら、人間の根底には、人と仲良くしたい、お互いにわかり合いたいという 「愛」の気持ちがあるからです。 この「愛」は「打算」の対極にある概念ではないでしょうか。 >そのような考えに気づけたことで、自分に足りない核心を見つけること >ができたと思います。 私は、それは「愛」だと思います。とりわけ、最初の「プライドを捨てる」と あなたが仰る部分は、逆にもっと自分自身を愛してあげる・・・自分が好きになる ことだと思います。 自分の中に、他人に触れられたくない「弱み」や「誤解されると腹が立つ思い」など を抱えていると、他人に攻撃的になりやすいです。 そうじゃなくて、今のままの自分の「個性」を認めて「これでいい」と思うこと 自分は誰と競争する必要もなく、自分としてオリジナルの価値を持っているのだ と感じることが「真のプライド」ということではないでしょうか。 >そして打算的な考えにならないためには、物事の価値観という物が大切な気がします。 全くそのとおりです。自分なりの価値観を持つこと。その独自性が意味のない他人と比較や 競争意識からあなたを救ってくれます。 >このようなプライドの高さや打算的な欲がすべてにおいてあると、 >他人はどういう風に感じるのでしょうか? プライドが高くても、それを表に出さない生き方があります。 例えば、ビル・ゲイツにしても孫正義にしても、成功した経営者にこれみよがしな プライドは感じられないですよね。 しかし、成功するまでは、自分の目標や夢を否定する事柄や障害に対して、自分の 中にあるおおいなる「プライド」を支えに生きてきたのは間違いないでしょう。 つまり、プライドは他人に向けるものではなく、自分自身にむけるものです。自分の 行動や考え方の規範として「俺ともあろうものが、そんなことをしてはいけない。 そんな弱気でどうする。こんなみっともないもので我慢してはいけない。」 そう考えて自分を高める意識を失わないことです。 見得、や虚栄心ではなく、自分への励まし、ご褒美として「プライド」を使うのです。 打算的な欲も善用すれば、力になります。これも自分の中だけで考えて納得していれば いいこと。 >これに気づけたら意識して心からこのような考えを変えていくべきでしょうか? 自分がいいと思ったら、その考えに自信を持って行動したらいいのではないでしょうか。 他人がどう思おうと、自分の価値観は自分だけのものですからね。 自分の生き方を他人に左右されないのが、本当の意味での「プライド」ですよ。

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