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ブッダは 神ですか

 絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

みんなの回答

  • magga
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回答No.32

<<☆ (1) 《想定する》とは 《〈虚構〉として設定する》という意味です。小説という虚構を読んで・あるいは著わして それは 虚構だと分かっているのですから…。>> 決め付けるのではなく。現実とつなげるのではなく物語として・虚構(事実でないことを作り上げること。)としての物語として思考すると言うことですかね。この先の話は「こうだからこうではないか。」と言う性質でなく、ただ言ってみただけということですね。 <<(2)《見たと想定する》というのは 結局 基本としては あとに出てくるように 《〈絶対〉が ある または ない》といういづれか一つの虚構を設定することです。《何かを見たと言い張る》ことではないのです。「決め付け」ではありません。>> 虚構の設定ならば一つに限定せずとも、両方と無回答。「有る」「無い」「議論さえない」の三つが有るでしょうね。 それぞれについての虚構の物語としての無限の想定が発生しますね。 ここまでは決め付けは無いかもしれませんね。「まぁ、無限にあるよね」と受け入れている状態かも知れません。 しかし、ここに自分の愛好する設定に対して、論拠無く全てを信じ仰ぐ(信仰)をなせば、多くのものが決め付けと他の見解の排除の思考にいたると思います。 もちろんその他の見解の排除や、決め付けを禁じるような想定ならそうはならないでしょうが…。 仏道では「信じろ」とは言いません。仏法やいろいろなものにより学んで納得・実証なしてない部分は「想定」と言えるでしょう。つまりその「想定」も新たな事実が見つかれば、柔軟に変えていき、更新していくのが仏教的と言えると思います。「想定」は実証するまで「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」と言うものですからね。 <<小説という虚構を読んで・あるいは著わして それは 虚構だと分かっているのですから 読んだり書いたりしたことを 《妄想思考》したとは言わないでしょう?>> 妄想思考にはなりやすいとは思いますね。解りやすいのは感情が出たら確実に妄想してますね。論理的に理性的に読んだなら妄想思考したことにはならないでしょうね。 <<それと同じように 心の志向性として 涅槃を 神として 設定するのです。涅槃を 無や無神としてではなく 有神として 想定するのです。>> 決め付けではない、根拠論拠を必要としない事実と関係ない虚構の物語としての数多有る中の想定に中の一つですよね。 涅槃=神=有≠無としなくても良いのですね。何の根拠も必要としない貴方の物語を只述べているだけ。他人に押し付けたり、これこそ正しいのでは?と試行錯誤の考えでもないのですね。 貴方はこのように想定するのですね。 <<ということは 無ないし空(無自性)と設定するのと 類型として 同じです。>> これも貴方の想定ですね。 <<しかも この無ないし有 もしくは 無神ないし有神 どちらも 《絶対》あるいは《涅槃》のことを表現したものと想定しており>> 貴方は想定しているのですね。 <<互いに 同等で対等であるという認識を持ちます。>> そのように想定しているのですね。 <<決めつけているのではないわけです。>> 決め付けてないのですね。 <<むろん それは 想定であり 虚構であると言いますが>> はあ。そのように想定するのですね。 <<★仏教では全生命に対して「慈悲喜捨の念を持つ」ことを勧めています。むしろその念を持たねば平等を実践したことにならないとしています。それを完全に行うだけでも悟りを得ることが出来るといわれています。☆ この仏道が 絶対であるというお立ち場なのですね。>> 絶対と言う決め付けの態度ではありません。いつでも更新可能な柔軟な見解です。論理的に道徳的に実証的に検証を重ねるものです。 「慈悲喜捨の念を持ち身口意で行為する」ことに反対の論を持つものを私は危険なものと考えます。 <<経験思考による試行錯誤の道に就くなら いづれは ★ 物事を観る能力がついて、幸福を享受しながら振り撒き、ありのままを見て悟りを得て涅槃に至る。と言う見解を持ってます。☆ ということなのですね? ここで magga さんも 《絶対》を想定しておられませんか?>> 物語として、と言っても論理的に道徳的に実証的に最大限に理性的に「設定・想定・仮置」はしてますが、新たな情報が入ればいつでも更新可能です。絶対は想定しているつもりはありません。 <<《無》だということだから 想定してはいないとおっしゃるのでしょうか?>> 涅槃自体を「設定・想定・仮置」はしてますが、有とは想定してません。何だか難しいですが。それも一つの自由な想定ですよねw <<《涅槃》は 絶対ではないということでしょうか? 無余涅槃と言ったところで 絶対ではないということなのでしょうか? 限りなく絶対にちかづくということでしょうか?>> 絶対としての想定はなしていません。論理的に道徳的に実証的に最大限に理性的に「設定・想定・仮置」はしてますが、新たな情報が入ればいつでも更新可能です。絶対は想定しているつもりはありません 「絶対の想定」が常に更新し変化し続ける性質のものでないならば。 <<そうであっても そこでも 《絶対》は 想定されていますね!!>> 貴方の決め付けの想定はそうなのですか。 仏教は「ちゃんと観なさいよ」とガイドラインを引いているだけなので…自らがきちんと観るまでは「想定」は柔軟に変化更新していく性質のものですから…。この「想定」も根拠論拠に基づいたものですが。。 何も想定しなくとも、今をちゃんと観ることだけを実践している人も結果として、同じ道を歩んでいるのです。 我々の実践は八正道ですから。 八正道の論理理性に納得し実践する人は、何を想定しても柔軟に同じ道を歩むものとして認識しています。 有神も無神もない気がします。 想定し決めつけづ、柔軟に事実にもとずいて、自他の幸福のために、悩み苦しみを減らすように設定を変化させることが可能で、自己の見解に執着し、それを守ろうと他の見解を根拠論拠範囲も考えず壊そうとしないなら。危険なものにはなりにくいと思います。 そのような平和なものが多いと良いのですが。 この世を見渡すとなかなかうまくいかないみたいですね。 この辺にしときます。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん 逃げましたね。これで 何度目でしょうか。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ この辺にしときます。  ☆ ということが 都合の悪くなったときには 回答者にはゆるされているということでしょうか。それならば 今後は一切取り合いません。  可能性をこちらから消さないために 返答を述べます。  (1) 虚構の想定は 絶対にかんしては 有か無かの二つに一つです。  ★ 虚構の設定ならば一つに限定せずとも、両方と無回答。「有る」「無い」「議論さえない」の三つが有るでしょうね。  ☆ とはなりません。無神論だということになると 都合の悪いことがあるのでしょうか どうして 議論を曲げるのでしょうか。これは 想定するということは 経験合理性による議論ですよ。  たとえば 無限を思い浮かべてください。一・二・三・・・と始めて限りなく数え続けるというのとは 少し違います。無限という想定は それを分割しても その部分は やはり 無限なのです。そういう想定です。《無回答・議論さえない》という回答はありません。《八正道》が泣きますね。  無限という絶対を 概念として扱えば いくら分割しても やはり部分それぞれも無限であるという内容になりますが これは 想像の世界にしか 《有る》とは言えません。したがって この経験世界の人間の言葉では その同じものを《無い》と表現しても《有る》と表現しても 同等のこととなります。《答えない》のであるならば この議論を 反駁しなければなりません。それが 経験合理性による議論です。  (2) 《涅槃》の定義を しっかりとしなければいけません。絶対か否かです。その次元としては 上のように 《無回答・議論さえない》の答えや定義はありません。そういう無回答という回答は 自由ではなく はっきりと 妄想になります。  ★ 涅槃自体を「設定・想定・仮置」はしてますが、有とは想定してません。何だか難しいですが。それも一つの自由な想定ですよねw  ★ 絶対としての想定はなしていません。論理的に道徳的に実証的に最大限に理性的に「設定・想定・仮置」はしてますが、新たな情報が入ればいつでも更新可能です。絶対は想定しているつもりはありません。  ☆ いいですか。無限や絶対として想定したことの内容を説明すれば 有限性や相対性を超えているからには 経験的なものごとが有る・無いを超えているのです。《有とも無とも決められない》という仮構です。これを 《神》という言葉で代理表現させれば 有神論となります。《涅槃》という言葉で代理表現させるなら 何となるでしょう?  あっ ちょっと考え足りないところがあるのに気づきました。絶対をめぐる想定の問題で 《無回答・議論さえない》という立ち場が ひょっとしてあるかも知れません。《涅槃》を 人間の考えた思考と想像の産物だと見なす立ち場です。涅槃とは あるいは 成仏とは 泡沫(うたかた)や浮き草のごときまぼろしの理想だという意味です。  おそらく この立ち場は 結局は成り立たないのですが いわば人間以前の状態にある人間にとっては そう思い込まざるを得ない状態にあるというところでしょうか。無神論にしろ有神論にしろ 信仰という原点に立つことがおそろしいのであり この恐怖を紛らわせるために 涅槃を 自分たちの都合のよいように 概念づけ変えて この概念の繭のなかに あるいは 甲羅のなかに 閉じ籠もっているのでしょう。八正道が泣きますね。はやく人間になってくださいよ。  ★ 有神も無神もない気がします。  ☆ 気がするだけで 済むなら 世の中 まあるく治まるでしょうね。maggaさん 理性さえ放棄してしまっているのではないですか。

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回答No.31

神、絶対、悟り、愛、等々抽象的な概念に対する態度には二面性があって、それを解くには、 たとえば「絶対とは何か」とう問いと、「何が絶対であるか」という視点を持つことにあると思います。 「絶対とは何か」と問うとき<絶対>の性質や原理あるいは原則を要求されているのではなく <絶対>の定義、あるいは<絶対>の概念そのものが問われます。 これに対して「何が絶対であるか」は<絶対>の性質や原理、原則をその解答として問われます。  <絶対>概念の表現者は、自己のもつ<絶対>の意味やイメージを万人に共通する完全な定義がなされる前に、 「何が絶対であるか」のみを使っておかしくありません。 定義が重要な法律関連であっても、結論が出るまでは多くの抽象的概念がそうして展開がされているじゃありませんか。  定義や概念の限界の確定など後回しなのです。紆余曲折あるにしろ、結論の時にその結論範囲内で前提概念が定義される あるいはお互いの共通部分のみの概念として確定するのです。また、そうでないと結論が確定しませんし、 結論は前提にの概念に拘束されます。当たり前です。  そして、お互いに共通の概念が存在しなければ、そもそも対立点もないし言語は同じでもお互いに別の概念を イメージしていることになり接点もないのです。理解不能、曲解、誤解、錯誤であって、この状態で仮に結論に達したなら、 その結論も勿論バラバラで、無効だったり、取り消し自由という状態なわけです。お互いに解っているなら、よく条約にみられる いわゆる玉虫色の結論ですね。 両者肯定における<絶対>の定義は単純です。森羅万象の対立概念としての変化しないものです。当然に単に物質、エネルギー が変化しないのではなく、原子、量子、電磁波、運動、思考、想念、感情、感覚あらゆるレベルで変化しないという概念であって 森羅万象の発生原因です。ここまでです。無とも言えるし神とも言え、これらはこれまでの記載で使いましたが、そこまで範囲に入れる 必要はありません。森羅万象の定義は必要ないでしょう。 最後に悪い癖でメルヘン、ある意味狂気の世界を一つ。そして<絶対>の補完でもあります。 神、絶対、悟り、そして特異点と宇宙、森羅万象・・・・ 両者肯定の帰着点から、もう一つの森羅万象を考え得るというメルヘンです。 一点に集中した無限大のエネルギーという特異点から発生したと考える森羅万象は、 実は、未だに特異点そのものを包含している、あるいは、特異点などそもそも無いという物語です。 別の言い方をすると森羅万象側を<絶対>(→変化しないもの)として無理矢理固定してしまうということです。 一般相対性理論の風穴ですが、森羅万象には、完全に厚・み・が無いという実相からの帰結です。 これほどまでに鮮烈な森羅万象は実は無いのです。 厚みをもたせ、過去と未来を紡いで質感をもっているのは森羅万象から乖離した意識のみです。 物質、光、エネルギー、空間の実相は点と変わらないのです。厚・み・がないのですから。 では、なぜ絶え間なく変化するのか・・・ 森羅万象が時間軸に沿って変化しているのではなくて、 変化など全くしていない森羅万象=特異点=絶対を人間が直接知覚していない次元に沿って 意識側がスイープしているとするのです。 空間的無限を無限に重ね、さらに人間が知覚していない次元を加え、 因果律が守られた量子論的可能性を全て包含した超多層構造の宇宙が森羅万象であって、 (必然的に意識も森羅万象側としては超多層構造として固定されているのですが)、 潜在意識がその超広大な変化のない絶対の海を泳ぐから変化を体感するということです。 (パラドクスはあります。森羅万象に固定された意識がなぜ変化を体感するのか。       しかし、これは絶対から発生した森羅万象がなぜ変化するのかの逆の相なのです。) そうであっても、時間軸は無く、結局森羅万象に厚・み・はないのです。これこそが人間知性から見て特異点であり 絶対だからです。(さらに上位の特異点は否定できませんが・・) この場合、悟りとはスイープ幅のその次元軸方向への拡大となります。 また、ブッダ悟りのさらに高次の悟りがあるという重厚さが発生してしまいますが・・・ もしそうあっても、人間の潜在意識はこれを垣間見てはいます。目指す方向に変わりはありませんけどね。 あくまでメルヘンです。失礼しました。

noname#80116
質問者

補足

 ふうむ。bananasandさん ご回答をありがとうございます。  後半の《ふうむ》は たのしく 前半のそれは 何だか よく分からないという感覚を含んだものです。  前半から行きます。おそらく そのとおりだと思うのですが なぜ いまそういう定義のことを言い出しておられるのか。それは あれですか。ブッディストの方とのやり取りが 滞っているのを心配して 助言を与えてくださったのですか。たぶん 今回(No.32)で 決着はつくと思います。わたしも いさかいの渦に巻き込まれていますが。  絶対の定義と言いますか その属性として 《不可変性》は そうですね いままで 抜けていましたね。《善・至高善》は わざと 省きましたが。  ただし 経験科学による《不可変性》の定義としては では どのように測定するのかという問題も 生じてくるでしょうね。(来ませんか?) ですから 単純に《移ろい行かないもの・朽ちることのないもの》というふうにも表現すると思います。  後半です。わたしに分かる範囲でですが 《特異点》は どうなのですか 経験科学において 規定されていて 経験現象ないし合理性による想像力の成果であるのみなのか。それとも 抽象的に絶対を表わそうとするものなのか。  wikipediaの《特異点定理》を読むと  ▲ 相対論と量子論を融合する理論は量子重力理論と呼ばれており、この理論が特異点を解消、あるいは説明するものと考えられている。量子重力理論は現在多くの理論物理学者が構築中である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9%E5%AE%9A%E7%90%86  ☆ と記しています。どうなのでしょう 経験的に移ろい行くもの 可変性を持つもの なのでしょうか。絶対は まったく この可変性を超えたところに想定するものと考えます。   とは言うものの   ★ 一点に集中した無限大のエネルギーという特異点から発生したと考える森羅万象は、 / 実は、未だに特異点そのものを包含している、あるいは、特異点などそもそも無いという物語  ☆ これは わたしには むしろ文学的に解釈してしまう材料になってしまうのですが おもしろいと思いました。  ★ 森羅万象が いまだに 包含している特異点  ☆ というのは 人間にとって この有限の世界が 閉じられておらず 《開け》ないし《窓》をもっているというその窓のことかと空想します。《いまだに 現在においても》というところが おもしろいのではないでしょうか。  あるいは   ★ 特異点から発生したと考える森羅万象は、 実は、〔そうは言っても〕特異点などそもそも無い  ☆ というとき それは たしかに あの《窓》は 経験現象ではないと やはり 言うべきだからだと考えられるからです。  ★ ・・・時間軸は無く、結局森羅万象に厚・み・はないのです。これこそが人間知性から見て特異点であり / 絶対だからです。(さらに上位の特異点は否定できませんが・・)  ☆ このように 《絶対》の説明をしつつ 但し書きとして 《(さらに上位の特異点は否定できませんが・・)》とするところに それこそ議論の特異性があるように感じ取れます。  ううん。でも どうでしょうか。特異点は やはり 経験現象に属しますね。特異点の奥のほう(?)もしくはそれ以前のことを 絶対というのかも知れません。  ★ ・・・潜在意識がその超広大な変化のない絶対の海を泳ぐから変化を体感するということです。  ☆ 潜在意識でさえ 厳密に言えば 触れ得ない(触れたかどうか いっさい 分からない)ゆえに 《絶対》という領域を設定するのだと考えるからです。そして 《不可変性》としての絶対は 可変性の世界を 包むと言わなければならないかも知れません。  つまり 神の国と地上の国とが この地上で 互いに入り組み 互いの国境さえ分からないように 交じり合いさえしているのではないか こう想定されてくるという問題です。  逆にいえば 経験的に一定の《特異点》において そうであるかも知れず またさらには 特異点などはない つまり言いかえると 到るところが 特異点であるという情況を残しているかも知れず どちらにしても そのような情況は 神の国が地上の国を包むという状態を表わし得るのかも知れないと思いました。  おとぎ話としては もっと簡単に 神の霊が われわれの身体=精神に宿るという言い方をしますが。  * 話は尽きないようですね。

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  • magga
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回答No.30

<<これなら もう 類型は あるいは 骨格は 共通の基礎ができたのではないですか?>> そう感じるのですね。 <<絶対に対して閉じていないその《開け》の姿勢 ここに と言いますか むしろ その窓の向こう側に 何を見たと想定するかです。>> 理性を重んずる仏教徒は、観たと想定(妄想思考)はしませんよ。論理的に理性的に実際的に考えた場合、ありうるかも、と思ったことは「ありえるかもしれない」とします。 <<見たかどうかの問題ではなく>> ここまではギリ解りますが。 <<何を見たと想定するか です。想定することじたいも 妄想です。>> ここは…。 妄想のなかでも観た経験の無いことを、自己の経験において観たとするなら、嘘であり邪見であり、それこそなんでもアリです。道徳もひったくれもありません。 結構怖い妄想の部類と私個人は感じます。 <<絶対あるいは無限 これを想定すること自体は ふつうの想像行為です。相対や有限を超えたところという設定ですから。>> 論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる「妄想」ですね。 なんでもアリですね。 <<言いかえると やはり 《経験合理性》の有効性いかんという問題にもなります。試行錯誤の過程をまぬかれるものではないわけです。>> 当然ですね。 「ハイ。次の一瞬で阿羅漢になる」と決めてなれるような「怠け」の思考にもとずくものではないですからね。 「勉強もせずに100点取ります」 「次の一秒で筋肉ムキムキになります」 「1秒で会社で一番に知識と能力を身に付けます」 と言うような因果関係を無視したものではないです。 完璧な自分など存在しないのですから。 ちょっとづつ、順序良く、失敗もしながら、修正しながら、因果法則にのっとって行動するしかない、精進の道です。 一発で成功しようと「とる」思考は間違いだと思ってます。 徐々に「なる」しかないと思っています。 <<そのとき 絶対をめぐって その中身をさらに想定してみようという虚構の世界が 生じて来ます。>> 想定の想定。妄想の内容の妄想。 しかも、「見たと想定」から解るように。決め付けるわけですね。 「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」とすることはせず、「絶対にそうだ!!!!!」と。 しかもその自分勝手に決め付けたものに、また自分勝手に「その絶対にそうなものは、絶対こうなんだ!!!他はないんだよ!!」と想定・決め付けをするのですね。 <<絶対は 限界を持ち相対的であるところの有無(有ったり無かったりするその可変性)を超えているからには 《有り》と想定するか《無し》と想定するか 二つに一つです。>> 論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる「妄想」を「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」とすることはせず、「絶対にそうだ!!!!!」自分勝手に決め付けたものに、また自分勝手に「その絶対にそうなものは、絶対こういうものなんだ!!!他はないんだよ!!」と想定・決め付けをするのですね。 それをしない人は「なしとする」人なのですね。 <<早く言えば 有神論と無神論とです。>> 貴方は、そのような論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付けをなさない人は「無神論」にあたるというのですね。 <<後者は この想定をしておいたら もう 絶対のことは 自由に正当にも ほったらかしにするわけです。つまりは おっしゃるように 《経験合理性によるどこまでも続く試行錯誤の道》をよしとするわけです。>> 確かに理性を重んずる仏教徒においては「論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付け論」に対してはほって置くことをするでしょうね。 貴方が試行錯誤の結果を知っているかのように「どこまでも続く」と語っていますが、我々理性を重んずる仏教徒はこの道によって善に至り、生まれる性質を絶つために精進しているのだとおもいます。 <<前者の有神論は そのようないわば経験行為としての自力のわざを おそらく 無神論の人と同じように・また同じ程度と言えるほどに 行なうのですが>> 「論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付け論」は我々の逆の思考です。同じ程度に出来る人はかなりまれな「決め付け」をなされた方でしょう。 その人が何を「決め付けるか」によって八正道は実践できなくなると思います。し、「我こそ正しい」と言う姿勢では成長することが困難になるだろうと思います。自己に対する執着・自己の概念に対する執着は離れるべきものとして捉えていますので。。。 <<信は 絶対のほうに置いていることになります。>> 自己の見解を絶対としているのですから、そうでしょうね。 <<つねに そのような省察をおこなっているということになります。つまり 虚構において なぞにおいて 《窓の開け》とのかかわりにおいて 省察することになる。>> 実際の現象とは関係なく、自己の見解に照らし合わせて、その見解に沿っているか省察するのですね。自己の見解「論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付け論」に対してきちんと「決め付け」出来ているとなるのでしょうかね… <<これに対して 無神論者=経験主義者(経験科学信頼派)は ほんとうは 有神論者と同じはづなのです。絶対と直面したというその原点は 同じはづなのです。>> 原点は同じでしょうか? 「自己の見解を決め付け、これが事実だと決め付ける」と「自己の見解なんかどうでも良いから事実を、ありのままを観たい」と探求する人々は同じ原点にいるでしょうか。   <<有神論者は その分からないという事態を 無根拠ゆえに 絶対であると捉えており その窓を顧みることは 道につながるような観想が得られるのではないかと思っているわけです。>> 無根拠のものは世に無限にあります。無限にです。そこからランダムに選んで決め付けて行くのですね。 皆がやってますが… 道につながっているのですかね。私には善にいたるような道を歩んでいるようには感じませんし、非道徳だと言える類も無根拠な物でしょう。 <<《有あるいは無のいづれにも限定し得ない》窓のことを信じるのですよ。>> 結局は「あるかどうかわからない」と言う…。 <<《有》と想定すると どのような観想や理論が得られるか そして 《無》と想定すると どのように観想を必要とせず 経験思想や科学が得られるか この問題になりますが なるのですが じつは ここで見ようとしていることは どちらも 互いに同等であるのではないか。こういう仮説なのです。>> 「論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付け論」を「絶対に有」とするならすべての思考の正当化と非正当化が全て出てきますね。しかも一つ一つが他の見解を受け付けませんから。摩擦と怒り欲と争いとを生み出していくことでしょうね。 それをやめずに続ければ感情が煩悩が増えれば増えるほどに物事を理解する理性は無くなり、物事を観る能力はなくなりって限りなく煩悩にあぶられるようになるでしょう。と言う見解を持ってます。 「論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付け論」を持たず、試行錯誤しながら「前に途中に後に、論理理性道徳実際を鑑みて行われる、自己の見解を絶対せず、柔軟に事実を探求し、自分にも他人にも役に立つように創意工夫していく道・八正道論」を保つ人にとっては、摩擦が無くなり、慈悲と共存共栄を生み出していくでしょうね。 それをやめずに続ければ慈悲喜・捨(智慧)が増えれば増えるほどに物事を理解する理性は増し、物事を観る能力がついて、幸福を享受しながら振り撒き、ありのままを見て悟りを得て涅槃に至る。と言う見解を持ってます。 <<★ 「生まれる性質を滅したもの」が僕にはしっくり来ます。 / 貴方のそれとは違うかもしれませんが。☆ このどちらかで優劣を競うのではなく――ただし 経験行為としては 別に何かの禁忌があるわけではないですから 競っても 問題ないのですが>> 自他の心が悩み苦しむより悩み苦しまない方が優とします。 自他の生命が物事何も観えないより見えるほうが優とします。 執着することより執着しないことを優とします。 その逆は劣とていいと思います。 これらをま逆にしたらどうでしょう。 識者によって、賞賛されるものでしょうか。 自他で争う必要は無いでしょう。自分の中に有る「優」「劣」を発見し、「劣」をなくし、「優」を増やしていけば良いことでしょう。 自分にも役に立ち他人にも役に立つ道を歩むほうが、自他共に賞賛に値することだと思うのです。 <<そうではなく いまは―― 絶対の窓については 有神論と無神論との両様の信仰原点のあり方が 想定されるし>> 上記のとおり私は同様と想定しません。 <<優劣を競う前に 互いに同等・対等であるという共通の認識を持ち得れば ただそれだけで そうとう 対話が 世界史的に はずむのではないですか?>> 仏教では全生命に対して「慈悲喜捨の念を持つ」ことを勧めています。むしろその念を持たねば平等を実践したことにならないとしています。 それを完全に行うだけでも悟りを得ることが出来るといわれています。 自他に迷惑をかけるのが「劣」かけないのが「優」。 「慈」「悲」「喜」「捨」において行われる身口意の三業による行為は「優」。「瞋恚」「貪欲」「無知」において行われる身口意の三業による行為は「劣」。 他者の「瞋恚」「貪欲」「無知」において行われる身口意の三業による行為に対して「瞋恚」「貪欲」「無知」において行われる身口意の三業による行為をなせば「劣」となります。 慈悲喜捨において自己を悩み苦しみの境地から慈悲喜→捨へ、ついで他者を慈悲喜捨において悩み苦しみの境地から慈悲喜→捨へ誘う。 それが仏道と思います。 上記したとうり、「論理理性道徳実際とは関係の無いところで行われる自己の見解における絶対的な事実・他は間違いと言う決め付け論」を「絶対に有」とするならすべての思考の正当化と非正当化する執着する概念が全て出てきて。しかも一つ一つが他の見解を受け付けませんから。摩擦と怒り欲と争いとを生み出していくことでしょうね。 よって<<互いに同等・対等であるという共通の認識を持ち得れば>>ということが出来なくなると思います。 慈~生きとし生けるものが幸せでありますように~ 悲~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~ 喜~生きとし生けるもの願い事が叶えられますように~ 捨~生きとし生けるもに智慧があらわれますように~

noname#80116
質問者

お礼

 訂正です。  第三段落のはじめで  誤: 小説のいう虚構  正: 小説という虚構 です。おわびします。

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん わたしの説明に 分かりにくいところはありますが――その前に ご回答をありがとうございます―― maggaさんが曲解している部分もあるようですよ。それも いちばん 肝心なところでです。  ★ 理性を重んずる仏教徒は、〔《窓の開け》というところに 何かを〕観たと想定(妄想思考)はしませんよ。  ☆ (1) 《想定する》とは 《〈虚構〉として設定する》という意味です。 (2)《見たと想定する》というのは 結局 基本としては あとに出てくるように 《〈絶対〉が ある または ない》といういづれか一つの虚構を設定することです。《何かを見たと言い張る》ことではないのです。  ★ 「決め付け」  ☆ ではありません。    小説のいう虚構を読んで・あるいは著わして それは 虚構だと分かっているのですから 読んだり書いたりしたことを 《妄想思考》したとは言わないでしょう? それと同じように 心の志向性として 涅槃を 神として 設定するのです。涅槃を 無や無神としてではなく 有神として 想定するのです。  ということは 無ないし空(無自性)と設定するのと 類型として 同じです。  しかも この無ないし有 もしくは 無神ないし有神 どちらも 《絶対》あるいは《涅槃》のことを表現したものと想定しており 互いに 同等で対等であるという認識を持ちます。どちらか一方が 絶対である / 絶対に正しいと言っているのではありません。まして 決めつけているのではないわけです。  もし 仮りに決めつけをしようと思うなら すでに述べているように  ☆☆ 《絶対がある》とする有神論と《絶対がない》という無神論との二つに一つを 人は 例外なく その信仰原点として 持ったという経験のもとにある。  ☆ と決めつけるのです。しかも 繰り返すならば  ☆☆ 有神論と無神論とは 原点の信仰の態度として どちらも互いに 同等であり対等である。  ☆ とも決めつけます。これら二つの立ち場の人たちが 経験現象としては 互いにその思想の優劣を競ってもいいのですが 原点は それこそ絶対に平等であるという決めつけなのです。(むろん それは 想定であり 虚構であると言いますが)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教では全生命に対して「慈悲喜捨の念を持つ」ことを勧めています。むしろその念を持たねば平等を実践したことにならないとしています。 それを完全に行うだけでも悟りを得ることが出来るといわれています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この仏道が 絶対であるというお立ち場なのですね。経験思考による試行錯誤の道に就くなら いづれは   ★ 物事を観る能力がついて、幸福を享受しながら振り撒き、ありのままを見て悟りを得て涅槃に至る。と言う見解を持ってます。  ☆ ということなのですね? ここで magga さんも 《絶対》を想定しておられませんか? 《無》だということだから 想定してはいないとおっしゃるのでしょうか? それとも 《涅槃》は 絶対ではないということでしょうか? 無余涅槃と言ったところで 絶対ではないということなのでしょうか? 限りなく絶対にちかづくということでしょうか? そうであっても そこでも 《絶対》は 想定されていますね!!  ☆ 〔余分です。〕ですから たとえば絶対としての無根拠ということの内容としては  ▲ 知恵と知識の宝はすべて、〔十字架上の〕キリストの内に隠れています。 (伝パウロ著:コロサイ 人への手紙 2:3)  ☆ とまで 空想が広げられています。信じるという心の傾き・志向性 それだけを言っています。ここで信じるとは 《キリストという名を受け容れる》ことでしょうね。そのほかには 要りません。それが 正しいというふうに 経験合理性で 正当化する必要はないし してはいけないのです。することが出来ない領域なのです。  人は そこから知恵が生まれ 知識を得ていくというものです。もっとも その著者は すぐあとに  ▲ わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。 (同 2:4)  ☆ というように目的を限定してもいますが。  余分な文章でした。

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回答No.29

人間=絶対(私に限れば合ってます) ゴーダマ=ブッダ これは、ブッダは嫌じゃないでしょうかね? 「悩んで悩んで悩み抜いて、やっと悟りました。皆様にも色々お悩みや苦悩がございましょうから、私が悟るに至までの様々な考え方を参考にしてみてください。それで皆様のお悩みや苦悩が救われるならば私も幸いです。」 こんな感じの心境じゃないかと推測してしまうのは、手塚治虫のブッダの影響? イエス=キリストについては、誕生日くらいしか知らないけど、私的には、長い時間が経過しているし、たくさんの信者がいるから正当な宗教のようになっているけれど、その時かの地にいたなら、結構怪しい新興宗教じゃない?と思えてしまうのです。 「ワインが血ですってぇ?それに、聖戦の名を語ってエルサレムと関係のない地まで遠征し、侵略と虐殺の限りをつくしてお宝がっぽりはなに。そのお宝は、十字軍で命がけで戦った信者達の手に公平に渡ったのぅ?遠征費用を出した人が、がっぽり儲けたんじゃない?そもそもキリストの話はその人から聞いたんじゃないのぅ~」と。 まぁそれは、無視するとして、イエス=キリストの信者は、人間=絶対 になれないのではないでしょうか。 イエス=キリスト=絶対 で完結しちゃうから、どうしても排他的になり、考え方が広がらないのではないでしょうか。 題に引かれて紛れ込んでしまった私には場違いなカテで、皆様の回答や、それに答える質問者様のお礼を読むのはとても楽しかったです。 認知症の母がショートスティから戻るので、カボチャの馬車にもどります。 次に見に来る頃には締め切られているでしょうが、ラストが楽しみです。 母の介護のストレス負けにお世話になるのは八百万の神様で、お礼お礼・・・と考えて、母が元気に散歩(普通は徘徊と呼ぶ)に行ける元気をありがとうございます。」とお礼をこねくりだしていると、「まぁ、そのお陰でトイレは自分で行けてるし、ましなほうか。」と本気で思えてくるのです。

noname#80116
質問者

お礼

 訂正です。  ブッダの言葉の中で  誤: 〔尊師いわく〕     ――真理を知りぬいて いないので・・・  正: 〔尊師いわく〕     ――真理を知りぬいて いて・・・ でした。お詫びいたします。

noname#80116
質問者

補足

 oobankobanさん ご回答をありがとうございます。  大詰めですよね。わたしも このあとどうなるのか 楽しみです。    今回は 一面的な見方になることを恐れずに ブッダとキリストとの対照を試みます。  イエスは言ったそうです。    疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。    休ませてあげよう。    わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、    わたしに学びなさい。そうすれば、    あなたがたは安らぎを得られる。    わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。      ( マタイ福音11:28-30)  《負いやすい軛(くびき)を負いなさい》というところが 味噌だと思います。ブッダは 自覚を――つまり これも 覚りなのでしょうか――説きます。    傍らに立って かの〔疑いの精神とも言うべきそういう意味での〕   神は 尊師(ブッダ)のもとで この詩句をとなえた。     ――真理を知りぬいていないので 異教に誘い込まれる人々は      眠っていて めざめていない。今こそかれらを覚醒させるべ      き時である。    〔尊師いわく〕     ――真理を知りぬいていないので 異教に誘い込まれることの      ない人々こそ 正しくさとり 正しく知り 平らかでない難      路を平らかに歩む。    (《ブッダ 神々との対話――サンユッタ・ニカーヤ 1――》     中村元訳 1・1・7)  《異教に誘い込まれる》かどうか ここが けっこう 重い要素ではないかと考えます。この質疑応答でもすでに触れていますが ただ仏教の内と外とを分けるだけの区別ではない《外道》という扱いの部分です。  と言っても 日本人にとっては たぶん この要素は 見逃すと言いますか どうでもよいものとして扱うのではないでしょうか。それで よいというのが ここでの有神論・無神論の対等という仮説なのですが――そして それは 日本人の感覚や生活態度に そのまま 現われているであろうと見るわけですが―― おしえとしてのブッディスムにとっては それほど 簡単なことでもないかも知れません。簡単なことではないとすれば 大きな問題であるのではないでしょうか。  ブッダという人間自身が 絶対でないとしても 絶対をめぐる普遍的なおしえであると説くのならば 集団としてのキリスト信仰すなわち宗教としてのキリスト教とその社会が 過去に行なってきた異教や異教徒の虐待・差別・排除・抹殺そして戦争へと誘い込むようなその《異教・外道》という規定は 要らないのではないでしょうか。  《わたしの負いやすい軛を負いなさい》と声をかけられたとき 《いやだ。負いたくない。負わない》と答える人には 好きなようにさせるということが どちらも 組織や社会集団にとって その宗教としては 欠けていたのではないでしょうか。この過去を どれだけ清算したかが このわたしたちの質問の主題とともに 見守るべき課題であるように考えます。  * 出血した箇所のその後のX線写真を医師から見せられて 神経細胞が あらたに 繁るように 出来ていたのを確認してから 一たん退院し 今度は デイ・ケアセンタに通うようになり ほどなく 家族の手が足りず――その配偶者も入院と相成り―― 老人保健施設に預け 一年二年を過ごしたわが親のことを思い出しました。両方が逝って 介護の時のほうが よかったと思うときがあるみたいです。余計なことをしゃべりました。

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回答No.28

こんばんは、brageloneさん。 【国民皆年金制度】 1961年 昭和36年 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%B9%B4%E9%87%91%E6%B3%95 http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/kokumik.htm   すべてのことは、わたしに許されている。   しかし、すべてのことが益になるわけではない。   すべてのことは、わたしに許されている。   しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。    ( コリント前書 6:12 ) とも 同時に 聞かなければならないのですが。  《“責任者出て来ーい!”》という声を 心に聞きましたか?  去って行く自由もありますよ。わたしが追ったためしはありません。 ↑ ●わたしが追ったためしはありません。 ↑ な、な、何ですと?追試はしない…ゲッ、そりゃまじやばい んじゃ、集中勉強はじめます。   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト を、題材に国民年金を考えてみます。 ゴータマさんとイエスさん ゴータマさん妻あり イエスさん妻なし 毎日新聞2008年(平成20年)7月27日(日)4面,5面より 4面【年金改革案各紙の主張】 5面【年金改革案(上)所得比例制度に一元化】 と、見出しがあがってた。 紙面を読んでいてひっかかりを覚える。 保険料比率を年収の19%(労使折半)で固定し、 年金の給付乗率を1%として設計する。 給付乗率とは、1年働いて保険料を払うと、 その年の所得の何%分の年金が増えるのかを 示す数字だ。分かりやすく言うと、例えば年金に 40年加入した人は、生涯の平均所得(課税前の賃金)の40%、 30年だと30%が年金額となる。平均年収が600万円で 40年加入だと、240万円が年金額となる。 「3号」問題は解消 老後の所得が不十分な人には最低保障年金で対応する。 年金加入が40年だと7万円(夫婦の場合14万円弱)の 最低保障年金を支給する。このための財源は全額税でまかなう。 ↑ 現実的じゃない。リストラの嵐が巻き起こったこと 忘れてんじゃないの?生涯の平均年収600万円って? それも、40年加入した場合と、夢物語のような設定。 どうして、加入最低ラインの25年加入で生涯の平均年収300万円の 数字で例を出してこないかな? 「年収300万円時代を生き抜く経済学」 http://www.book-navi.com/book/syoseki/300man.html こんなタイトルの本が何故出る?出るには出るでわけがあるんやろ。 どんなわけ? 現実に、年収300万円に満たない者がたんと出てくることを見越してちゃうか? 平均年収600万円いうのは、個人の収入やなしに、 ひと家族の収入を合算した金額ちゃうの? 仮にそうだとしたら年金受け取りの時点になると、 個人の生涯の平均年収に納めた年数が%として年額とされると、 おのずと平均年収は少なくなるから受け取る金額も予想よりも下回る。 まして、女性の社会進出が一昔前に比べ伸びたといえども、 生涯の平均年収600万円を稼ぐ人がどれだけいることか。 見出しにあるように年金が所得比例制度に一元化しようとするなら、 生涯の平均年収というものを個々人の働きひとつとするのではなく 家族の収入を合算した数字で平均年収としたらな。 制度は一元、対象となる収入は家族の収入を含めたものではなく 個別の個人の収入に対して。1:1のようにみえて1:1じゃない。 この1:1は、ラージ1:スモール1。 合算年収入に対して平均を出しだしたうえで、 家族内で個別に割り振るならいざしらず。 年金として支払われるときは所得は個人の収入を基礎におくけれど、 税として納めるときは家族(扶養家族)の収入も合算して税が算出されている。

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。  いづれ 懸案のほうにも回答があるだろうということで お応えしてまいります。  ただし この回答でしたら 自然法の質問のほうに投稿していただくとよかったですよね。  こちらの質問の趣旨を頭に入れて 反応するのは たしかに むつかしいですね。  世界史的に資本主義が ひととおり めぐっていって 一応 普遍的に行なわれるようになったとき 所得の格差と言いますか 最低所得の保証が 世界史的に 考えられてくるようになると思います。  それまでの時間のへだたりがあるからには そんなことを言っても 現実的ではないかも知れませんが いまから そういう捉え方で 少しづつ対処していくとよいと考えます。そして それには 人びとの考え方として――基礎としての生活態度として また ここでは クリスチアニスムやブッディスムまた ユダヤやイスラームについて―― 互いに ちがいを許容しつつ その土台としては 類型的に共通の原理にもとづいているということの認識を 共有するということ これが 欠かせないと思ったりします。この質問の持つそういう方向性です。   金曜日からつづく夜中の朝まで生テレビで アメリカは イラクで負けた。武力闘争では 決着がつけられないと悟った。アジアでは 血を流すことはしないと決めている。等々と言っていました。  つまり 世界史の局面が変わって来ました。日本も 変わるでしょう。変えていきましょう。とは言うものの これまでのご回答にあるように 根底の基層においては 人びとのしっかりとした生活の歴史があると確認しています。万葉のルネサンスなどとも となえています。  というような方向を捉えてまいりましょう。

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回答No.27

brageloneさんのお礼欄は、私をメルヘン行きの電車に乗せようとします。 つい乗ってしまいたくなります。ぐっとこらえて・・ ANo11で「その驚異的結末に呆然としている」と書きましたけど、 これは、これまでの表現を使うと、人間はこの森羅万象と一体として生きているのに、、 その強烈なアンチテーゼとして、「その主体」は、森羅万象の住人では無かったのだと言うことです。 そして、「その主体」を駆り立てているのは、選択と希望という「その主体」特有の性質です。  選択は、選択したがるというか、選択することが機能です。これは単純です。  その方が森羅万象に合っていたのです。選ばないより選んだ方が餌が獲得できたのです。  選ばないと他の餌になっていたのです。  そして、希望は、その状態がそうであるからそれを選択するということではなくて  その状態がそうであるにもかかわらずそれを選択するという驚異的ベクトルです。 森羅万象から、これらを任されているのが「その主体」であって、悟るための主体ではなかったのです。 「その主体」が苦しいのは当たり前です。バランスとしてその位置はギリギリなのです。 なにせ、そのロープが切れると絶滅という非情な結末を迎え、それを免れたものは 切れるか切れないかのギリギリをず~っと模索し続けているのですから・・・。 そういう意味で「その主体」はそれには自信を持っていいのです。救いも慰めも必要ではないのです。 なにせ、生きているのですから。逆にそうでないと生存できません。「その主体」の機能であり、仕事であり、 責任とでもいいましょうか、娑婆臭くいうなら、胸くその悪いテメーの為に踏ん張るしかねぇ。明日は俺のものだ。 というのが「その主体」です。 でもその範囲内では、それ以上でもそれ以下でもないことは明確です。やらせておきましょう。 >《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 これが本来の姿であって、両者肯定に近いですね。選びたがり屋の「その主体」の位置をどこに据えるのかとして捉えてしまいます。 いわゆる涅槃の世界は「その主体」の完全消失であって、まぁそれでいいのですが、「その主体」のみならず、その他の、 「ノイズ」発生部分以前、人間そのもの、すなわち森羅万象を否定し、楽園を破壊してしまうおそれがあるんですね。 ANo.22で書いた 自分を彼という三人称でも・呼んでしまう地点、これはループに陥って表現不能となるのですが、 「その主体」の発生過程をそのままの状態にしておくが如き地点ですね。 >顔を向けているのは この娑婆世界に対してなのです。  あ、これは同じことを言っているように思います。同じ方向を向いてます。  何というか娑婆世界の表裏というか、「その主体」と人間の関係に似ています。  娑婆世界は<絶対>からの贈り物であって、既に神の側に属しています。  もし、娑婆世界を「その主体」と同化することがあるとするなら、それをしているのは「その主体」ではないでしょうか。    これまで使ってきた言葉を使って、結論じみたことを書いてしまうと、  <絶対>から導かれる森羅万象と一体であるところの人間は、人間 = 絶対(絶対者=神)である。  森羅万象の要素を消費して導かれた人間の「その主体」は、人間 = 絶対(絶対者=神)でない。 という両者肯定になります。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  そうとう煮詰まってまいりました。ありがとう。  ちょうど いま ほかのところで    ○ この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいる。  ☆ と書いたところです。  ★ 娑婆世界は<絶対>からの贈り物であって、既に神の側に属しています。  ○ 互いにその国境が 必ずしも定かではなく むしろ互いに錯綜さえしつつ しかも この境界を 裁くという意味で 見究めるのは わたしたち人間には無理だ。分かっても そうする必要がないだろうし 実際そういう能力は われわれ人間にはないようである。    ☆ ただ それゆえに むしろ それゆえに わたしたちは 互いに自由に 批判を為し得るのではないか。こうも思います。人間の知恵は 高が知れています。  今回は 少なめです。  思うのですが 回答者の方々のあいだでも 互いに 回答として 見解を交わすというのは 哲学カテゴリのふつうのすがたであるように思うのですが まだ 叶わないのかも知れません。

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回答No.26

【★人間=創造界=神という観念で人間は神であるとういう結論ではあります。  ★そういう中で、ゴータマ・シッダッタとイエス・キリストは神にもっとも近い、創造界の人間と神を繋げる輪環であると存じます。  ☆ゴータマとイエスは 使者であり かつ 高徳の修行者であるという理解になりましょうか。】  ○唯一にして、唯一実在の最高意識から任命された使者であり、且つ、修行を課されていない、高徳の行者(私たちの間では行者とは最高叡智と通力に達し、それを以って尽くす方です。)お方ですね。  ゴータマ・シッダッタはカルマ(行為を主体とする)教えの到達者であり、イエス・キリストはラージャ(カルマと信仰、そして行)の到達者として、私たちの尊崇している方です。 【☆こうして 有神論〔という呼び方も変ですが〕の生きた実例を みづからが 提出しておられる。こうなるでしょうか。  そういう意味での わたしの質問趣旨への添削を頂戴したということなのでしょうね。】  ○ご理解くださったことのおことばで、私も自分の中で言葉化していなかったことを、理解できました。つもりその通りでありますということです。でも添削などは、そんな意志も考えも意識してはいなかったのですが。僭越になりまして申し訳ありません。  【(最後のところ)】  ○はいそうです。日本人って母系家族で始まっていますよね(少なくとも平安等の貴族や武士のつながりはそうではないでしょうか。天照さまは母ではないでしょうか)、その母なんですが、絶対超越の神の奥さん、神が最初に創造した意識、存在なのだなと、思っています。意識にそのままリアリティ性を賦与できるところが神の意識なんですけれども。  私たちは、先祖から今まで、生まれてから今日まで、この神という絶対にして超越の存在は意識も何もないのではないでしょうか。でも母なる神は常にある。肉体も生活も呼吸も母なる神の一部であり、自然も宇宙も全てが母なる神の胎の中である。という意識と存在の仕方がどうも私(たち)なのではないでしょうか。  八百万の不可視のbeingもみなその中の尊敬する、お世話になっているお方、子であり、お互い子同士なんです、私には。  ともにそしてその中で暮らしている母、聖なる母、のところに訪問してこられている、ゆるがせにできない、あるもの。それへの尊崇は古代から私の記憶にあります。妻問の父でしょうか。  母も私たちもその当為意識の反射光としての性格と立場だと存じております。これは私の記憶でありまして、古代の私の記憶にさかのぼって、基流であります。正に個人の思い、ではありますが。  私の属する庶民は母までの意識はいつもあると存じます。  父のことは、とてもまれに思うのではないでしょうか。  面談は叶いません。私も私の美学があり、多分とても同座することは赦されないでしょう。  私は異文化には慣れないのです。そして逆波には感情的にさえなるわがままなんです。太陽は偉大ですが、近寄るべきではないと戒めています。月は遠く見るので美しいと存じて、人にはあまり直截のお付き合いや、お話はしないようにしております。日常的なお付き合いだけにしております。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答と親切なお話をいただきありがとうございます。  こういう  ★ 私の記憶でありまして、古代の私の記憶にさかのぼって、基流であります。正に個人の思い、ではありますが。  ☆ を もっともっと引き出すように わたしたちは 取りかからなくてはいけないと感じました。  失礼ながら 理論立てたお話ではないのですが 何と呼ぶのがいいでしょうか 人びとの歴史と伝統の香りでしょうか 脈々と築きあげ受け継いできた熾(お)きのような けっきょくは生活態度ですね これを もっともっともっと 広く深く ほかの方々をも含めて万葉としても 伝え継いでいかねばいけないでしょうね。  万葉集のルネサンス という標語は いかがでしょう。  このQ&Aのサイトも もちろん その一環として 恰好の場なんでしょうね。    ご面談を要求するところまでは 考えていなかったのですが これからも その文学談義ともども 上の生活態度――つまり 思想でもあります――の歴史を 現在に生かす方向で 伺ってまいります。  * もう一点。この伝統は 世界へ発信しなければいけないと考えます。むろん 同じ基礎ないし基流が どの民族にもあると思いますが 一般に ひとつの側面の特徴として 野蛮です。野蛮は 差別です。合理的な理由があるならば 区別してもよいと考えがちです。うんぬんです。(逆に 日本人は 素朴すぎます)。

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回答No.25

>いわば現実に実践をしているわけです。その主体です。そして このとき 意識に対応する意味での記憶という行為能力であるよりは >実践(要するに 生活)の主体としては 意志という能力行為のほうを取り立ててもいいのではないか こう考えました。 >それは したがって 潜在意識の命じるところに 時には 逆らってでも 自己表現をおこなっていく場合がある。 >つまり 意志行為のことですが この意志行為の軌跡として 潜在意識に蓄えた歴史は 時として  >その記憶行為を変革するほどの影響を持ち得るかも知れない。  説明の下手くそさにさじを投げられたこととは思いますが、ここは、まさに私が言いたかったことです。  そしてその結果として、「その主体」が自動化するとか、潜在意識に取り込まれるとかして消失する地点ですね。 >○ 絶対と直面する人は ただちにそのすぐあと あたかも何ものかに弾かれてしまうかのように   その感覚は消し去られてしまうのだけれど その〔感覚の〕一瞬において 悟っている。  この感覚のメルヘンにもかなりそそられますが、やめときます。  それより、「その主体」と〔感覚の〕の主について、くどいようですがダメ押しさせて下さい。  「その主体」は、「その主体」にとっては神から浮遊しているってことですね。  なぜかというと、その主体は、  たとえば「我思うが故に我が存在する」と思考している過程において、  森羅万象の基本要素である変化に起因するところのい・わ・ゆ・る・時間の次元を消費してしまっていて  その結果として得られた「我」は、森羅万象から既に乖離しているということです。言い換えると、この「我」は顕在意識プログラムの産物ということになります。  したがって、「その主体」が悟ることは絶望的です。楽園への帰還は「その主体」の消失ポイントですね。    前に人間と神との境界はないと記載しましたが、森羅万象からの視点で「その主体」の思考過程を含めて  境界がないということで 「その主体」からみて森羅万象から乖離した「その主体」は完全に神から遊離して接点はみあたりません。  あと、メルヘンとして付け加えるとすると、  森羅万象の中に<絶対>は存在しないが、<絶対>の存在なくして森羅万象の起源はない  ということでは  あるのですが、さらに<絶対>を構成する次元の中に人間知性の知覚していない次元が存在するなら  森羅万象へ直接干渉しうる<絶対>の存在を否定できないとは思うんですね。  たとえば、2時間の映画をはじめから時間をかけて見るのではなくて、全てのコマを一気に把握してしまう  ようなさらに上位の視点というか次元というような感じですね。  仮にそうであるなら、「その主体」こそが神に至る道であるという可能性が出てきます。そうであったとしても「その主体」がどうあれ、<記憶行為を変革するほどの影響を持ち得る>意識の創造という方向性には変わりはありまんけどね。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その主体は、  たとえば「我思うが故に我が存在する」と思考している過程において、  森羅万象の基本要素である変化に起因するところのい・わ・ゆ・る・時間の次元を消費してしまっていて  その結果として得られた「我」は、森羅万象から既に乖離しているということです。言い換えると、この「我」は顕在意識プログラムの産物ということになります。  したがって、「その主体」が悟ることは絶望的です。楽園への帰還は「その主体」の消失ポイントですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ と言う如く 《経験思考》には限界があり それに頼ることには望みが薄い。ゆえに 《「その主体」の消失ポイント》を捉えて――これが 言うまでもなく ブッディスムでは 《涅槃》のことでしょうが―― 《楽園への帰還》を描きこれを提出しようとされる。  このとき わたしの場合 同じ巡礼の旅路を歩むその過程で いわば後ろ向きに進んでいるという恰好なのだと考えます。  あぁ また書いてしまいました。煩悩多き・心無き bragelone の現状です。(こう言って 消さないところが あるのですね)。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  最初は わかりませんでしたねぇ。ご見解のことですが。そして わたしたちは ここまで来ましたか という感慨がありますね。  ちなみに この質問に対する《役に立った》の票が いやに多いので 初めは 何かのいたづらかと思うほどでしたが また増えています。なかなか ありがたいことですよね。ご回答者のみなさんとともに どうでしょう ここまでたどりついて あとは 念入りに仕上げをおこなうというところでしょうか。  たぶん と言いますか もちろん 探究には終わりがありませんが この主題としては 最後の点検をおこなって ひとまづ 締めるという段取りとしたいと思います。(そう言えば 一たん 締めようかと思っていましたね)。  ★ たとえば、2時間の映画をはじめから時間をかけて見るのではなくて、全てのコマを一気に把握してしまうようなさらに上位の視点というか次元というような感じですね。  ☆ たぶん わたしは 実際にこういう試みはしませんが こういう説明はわかりやすいようですね。続けて  ★  仮にそうであるなら、「その主体」こそが神に至る道であるという可能性が出てきます。そうであったとしても「その主体」がどうあれ、<記憶行為を変革するほどの影響を持ち得る>意識の創造という方向性には変わりはありませんけどね。  ☆ たぶん(この言葉ばかり言っていますが) bananasandさんとわたしとは 同じ像を見ていて ほんの少し 顔を向けている方向がちがっているのかも知れません。むろんいろんな方向を向くわけですが 主として どちらに こだわりがあるか・ないか それによって 表現がちがって来ているようにも感じました。  bananasandさんは いわば神の方に顔を向けて しっかりと見ようとなさっている。わたしは この世へのこだわりを むしろ 捨てずに 逆方向を向いている。  それは 今回 たどり着いたところの  ★ 「その主体」と〔感覚の〕の主について  ☆ の問題です。おそらく 互いに同じ像(もちろん 仮りの像ですが)を見ている。そのとき bananasandさんは  ★ 「その主体」が自動化するとか、潜在意識に取り込まれるとかして消失する地点  ☆ これを捉えておられる。わたしの場合 たとえ《我欲や感情》の《主体》であっても その《わたし》を まだまだ積極的に 推(お)し出そうとするところがあります。釈迦に説法で 恐縮なのですが ちょうどこの質疑応答で 次のような思想を 引用しています。それを参照していただきたいと思います。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》:大乗仏教では 《無住処涅槃》ということが言われる。・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にも悟りの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。   〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。(同上) (No.14補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ きわめて 傲慢な物言いとはなりますが それゆえ 顔を向けているのは この娑婆世界に対してなのです。  むろん bananasandさんは 悟りの境地を 堂々と 表現しようとなさる。これは したがって 趣味の違いであるのかも知れません。どちらも重要であり大切なのではないでしょうか。しかも とは言うものの  ★ そうであったとしても「その主体」がどうあれ、<記憶行為を変革するほどの影響を持ち得る>意識の創造という方向性には変わりはありませんけどね。  ☆ と はっきり 《この世に対して 顔を向ける》そのことつまり《革命》のことをも 主張されているということですがね。(革命とは 突然変異のようなことですが)。つまり これへのこだわりが わたしには 強い。bananasandさんは 《メルヘン》の中に さらっと 触れておられる。そういう違いであるように思います。  くどいように 重ねて触れますと

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回答No.24

 brageloneさんおにぎやかですね。  人間=創造界=神という観念で人間は神であるとういう結論ではあります。  そういう中で、ゴータマ・シッダッタとイエス・キリストは神にもっとも近い、創造界の人間と神を繋げる輪環であると存じます。  そういう存在を霊的グルと呼称しております。グルなくしては神にはいたることは人間には赦されて(認められては)おりません。  日本の文学、戦記もの(平家物語)には、一定の信仰はバックにあります。しかしここに創造主と創造の哲学は見受けらないようですね。  日本の仏教(信仰)にも、創造主と創造の哲学は見受けられないかのようですね。  そういう意味では仏教と日本文学は神、創造主の観念はなくして美と情緒と信仰が存在しております。brageloneさんの前の質問での言葉の絶対者と絶対はおりません。  これは日本の心性、文化、信仰、哲学の一つの特徴なのでしょうか。  などと考えております。  私も創造主という神を信仰しておりますが、諸外国の神という観念はありません、そこの文学の神の観念とは異なります。  すぐ隣りのお方、極く自分の身、という観念、親しみしかありません。日本人の、庶民の観念は神は絶対者だけど怖くないのです。  欧米の思想からみれば、これは無神論ですね。神はbragelone三自身でしかないのです。恐ろしい絶対者ではありません。  

noname#80116
質問者

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。お元気なお声が聞けて何よりです。  さて 今回は どういうわけでしょうか 情況が 一変したかのように おっしゃるように にぎやかです。  今回のkrya1998さんのご回答は うーん どうでしょう 中身が煮詰まっていて おいしいけれど その元の食材を味わうということが なかなか むつかしいといった出来上がりに思えます。一つひとつの要素と言いますか その推論の跡と言いますか これが見えにくくなっていますでしょうか。  自分が見えないからと言って その自分を棚に上げての議論ですが つまりあるいは わたしのくせになりましょうか 過程を 何かをほじくり出してでも 探っていきたいということからなのか 戸惑っております。つまり いきなり  ★  人間=創造界=神という観念で人間は神であるとういう結論ではあります。  ☆ と来ます。つづけて  ★ そういう中で、ゴータマ・シッダッタとイエス・キリストは神にもっとも近い、創造界の人間と神を繋げる輪環であると存じます。  ☆ とあれば どうでしょう ゴータマとイエスは 使者であり かつ 高徳の修行者であるという理解になりましょうか。そのあと 具体的な修行のあり方について 必須事項の紹介が来るという寸法です。  ★ そういう存在を霊的グルと呼称しております。グルなくしては神にはいたることは人間には赦されて(認められては)おりません。  ☆ こうして 有神論〔という呼び方も変ですが〕の生きた実例を みづからが 提出しておられる。こうなるでしょうか。  そういう意味での わたしの質問趣旨への添削を頂戴したということなのでしょうね。  krya1998さんに向かい合うとすれば いちど 文学のお話で 突っこんで お伺いするとよいかも知れませんね。あとは 人徳や 生きた人間の姿をもって ご回答とされますので どうお応えしてよいか 楽しくですが 戸惑いますね。正直なところ。・・・  ★ 日本人の、庶民の観念は神は絶対者だけど怖くないのです。 / 欧米の思想からみれば、これは無神論ですね。  ☆ このとき 無神論も 有神論とまったく同じ類型において まったく互いに同等に その生活態度の原点としては 一度は 信仰として立ったのだと見ようとしています。見ようとしているのですが 日本人の庶民の生活態度についても そう見てよろしいでしょうか。  今回は このような焦点を持った主題になります。今後とも よろしくどうぞお願いいたします。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.23

<<今回は 次の一点を確認していただけるなら 解決すると思います。☆ 《非経験の領域》に対しては 《考える》では らちが開きません。★ そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。☆ とおっしゃるとおりです。>> 思考・妄想(考えることを)することも無意味で、それに対する態度も成り立たないと言うことですね。 <<ただ ほんの一つの思いとして その《どのような態度を採ればよいかと考えても 考えられ得ず 態度じたいが成り立たない》領域に対して ひょっとすると そこへの道がひらいているかも知れないとは 思うことができます。>> ??? 捉えることが不可能な思考・妄想・想定を受け付けないしそれに対する態度も成り立たない「」(カッコ内は無記入にしときます)への道ですか? うーん。 「」が、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦を悟る」もしくは「最終的な涅槃」というところに同じならば、なんとなく解る気もしますが…。 その道がそれを悟るための道である八正道と言うなら…。 しかし、それが無神論って言うのはちょっと… そもそもその「」自体を「神」としているところがよく解らないのです。 そして無神論も有神論もどちらも有から始まっている論理の感じがするので…なんとも。仏陀に言ったら質問が間違っていると言われそうです。 <<少なくとも その道が閉じられていない ということ そういう態度は 採れるようです。>> 「道」と言うことは至れる境地。 「開く」とはその至る道に対して歩む姿勢。 「閉じる」とはその道に否定的もしくは受け付けない姿勢。 という理解で良いのかな。 「この想定までは いいとしますと」 そうかもしれないしそうでないかもしれません。 「その向こう側を《絶対》の領域として想定するならば」 そうかもしれないしそうでないかもしれません。 「あくまで虚構として《絶対との関係》が《わたし》に成り立ちます。」 妄想で成り立つのですね。 <<どういう現実かと言いますと――つまり《態度・姿勢・心の傾き》と言うからには 経験現実でありますから それは どんな現実かと言いますと―― 《あらゆる資料を集めて あらゆる可能性を考え尽して 最良の判断をするというその経験合理性》をも超えているかも知れないという心の志向性であると言えるのではないでしょうか?>> 以前も言ったかも知れませんが、十二縁起の順観を知り(経験合理性にあたるかな)逆観(涅槃に向かう道)でそれを滅し乗り越える。といった理解でよかったらなんとなくは解るきもします。 その方法が八正道で、戒定慧の順に進むと…。 <<妄想であるかも知れません。ですが この妄想は 《経験合理性》が あくまで相対的な判断力であるということを知っています。言いかえると この能力を超えた絶対に立つ判断があるかも知れないというところまでは その《開け》の姿勢において 現実なのです。ないかも知れないというところまでは 現実です。>> うーん。妄想は知っている、とかは善く解りませんが 経験的に思考するのでなく、即座に出る「閃き」の境地と言うなら、仏教でも八正道によって順序良く進む・至るべき境地として考えている人も多いと思いますよ。 <<そうしますと ここからは 具体的な態度が 二つに分かれます。《開け》の姿勢から さらにもう一歩その絶対の領域へと踏み込むか それとも こちらの経験世界に戻って来るかです。>> ちょっとここに概念思考の相違があるようですね。 《経験合理性》によって善に至る道と「悟り」「涅槃」の道は一本道と憶測しているんです。 《経験合理性》によって順序良く善に至ることをせずに「悟り」「涅槃」は無いと憶測しているんです。 踏み込むとは、八正道を歩こと。そのようになると思います。 荒い感情・妄想を無くし、細やかな善の感情や理性を育てる(戒)集中力を身に付ける(定)ありのままを観る(慧)でその悟りの境地に至ろうと。 確かめるだけ。解らないことは保留。さらに確認確認。 生滅の「滅」を悟り涅槃(滅)に至るということで、《経験合理性》を超えた境地(境地と言うとちょっと違う感じですが)・「無・滅」とでも言いましょうか。それに「」を当てはめて妥当と感じるなら、仏教徒の立場がりかいしていただけたかなぁ…。なんて憶測してますw 最初の質問に戻りますね。     ゴータマ=ブッダ=絶対者=神 でなく、ゴータマさんが《経験合理性》によって善に至る道と、根本的な問題である生まれる性質を絶つ方法である「悟り」「涅槃」の道の一本道を発見し、悟った(独覚の阿羅漢となりそのまま滅することなく、他者に説法することで師である敬意をはらって仏陀と呼ばれるようにになった)方法をあらゆる方法で語った。のち数十年後涅槃につき全ての生まれる性質を滅した(涅槃)。 それを今私達は実践している。だけです。 もし、貴方の言う絶対者・神の概念が=阿羅漢の境地・涅槃の境地=生まれる性質を滅したもの。ならばその道であると思われる八正道を歩んでいるのでそこに向かうものとなるともいえるかもしれませんね。 涅槃が「有る」とはなんとなく誤解が生まれそうですね。 滅するが有る… 無いが有る… と。 大体伝わったのではないかと思います。 「」を神とするとなんだか有に限定されるようで混乱しますね。 「生まれる性質を滅したもの」が僕にはしっくり来ます。 貴方のそれとは違うかもしれませんが。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん ご回答をありがとうございます。  これなら もう 類型は あるいは 骨格は 共通の基礎ができたのではないですか?  ですから 今回は 短いお応えで済みそうです。(と言っていて 長くなりました)。  たぶん ただ一つのことに焦点があたり 実際 ほとんどすべての議論が そこに帰着するように思います。  絶対に対して閉じていないその《開け》の姿勢 ここに と言いますか むしろ その窓の向こう側に 何を見たと想定するかです。  何を見たか ではなく そうではなく つまり 見たかどうかの問題ではなく 何を見たと想定するか です。  じつは しかしながら 想定することじたいも 妄想です。と同時に ただし 絶対あるいは無限 これを想定すること自体は ふつうの想像行為です。相対や有限を超えたところという設定ですから。言いかえると やはり 《経験合理性》の有効性いかんという問題にもなります。それは おそらく論証無しに 有限であり 間違い得るというものです。試行錯誤の過程をまぬかれるものではないわけです。  そのとき 絶対をめぐって その中身をさらに想定してみようという虚構の世界が 生じて来ます。  すなわち とりもなおさず 絶対は 限界を持ち相対的であるところの有無(有ったり無かったりするその可変性)を超えているからには 《有り》と想定するか《無し》と想定するか 二つに一つです。早く言えば 有神論と無神論とです。後者は この想定をしておいたら もう 絶対のことは 自由に正当にも ほったらかしにするわけです。つまりは おっしゃるように 《経験合理性によるどこまでも続く試行錯誤の道》をよしとするわけです。  前者の有神論は そのようないわば経験行為としての自力のわざを おそらく 無神論の人と同じように・また同じ程度と言えるほどに 行なうのですが 信は 絶対のほうに置いていることになります。つねに そのような省察をおこなっているということになります。つまり 虚構において なぞにおいて 《窓の開け》とのかかわりにおいて 省察することになる。  これに対して 無神論者=経験主義者(経験科学信頼派)は ほんとうは 有神論者と同じはづなのです。絶対と直面したというその原点は 同じはづなのです。経験行為としての試行錯誤のあたかも ほかに 究極の道を求めているはづなのです。分からないから分からないとしているだけなのです。   有神論者は その分からないという事態を 無根拠ゆえに 絶対であると捉えており その窓を顧みることは 道につながるような観想が得られるのではないかと思っているわけです。  ★ 「」を神とするとなんだか有に限定されるようで混乱しますね。  ☆ 《有あるいは無のいづれにも限定し得ない》窓のことを信じるのですよ。  ですから 《有》と想定すると どのような観想や理論が得られるか そして 《無》と想定すると どのように観想を必要とせず 経験思想や科学が得られるか この問題になりますが なるのですが じつは ここで見ようとしていることは どちらも 互いに同等であるのではないか。こういう仮説なのです。  ★ 「生まれる性質を滅したもの」が僕にはしっくり来ます。 / 貴方のそれとは違うかもしれませんが。  ☆ このどちらかで優劣を競うのではなく――ただし 経験行為としては 別に何かの禁忌があるわけではないですから 競っても 問題ないのですが そうではなく いまは―― 絶対の窓については 有神論と無神論との両様の信仰原点のあり方が 想定されるし 実際にも おこなわれているのではないか。ここが とりあえずの焦点です。これについて もうひとこと コメントをいただければ はっきりとして皆さんのご見解が あつまると思い さいわいに存じます。  優劣を競う前に 互いに同等・対等であるという共通の認識を持ち得れば ただそれだけで そうとう 対話が 世界史的に はずむのではないですか?

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     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?