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ブッダとキリスト

互いにどう違うでしょう?   人間  = 絶対(絶対者)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト 説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないでしょうか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。  わたし自身は 上のように 骨格は同じだと思っています。そして 人は   人間 ≒ ブッダまたはキリスト であると思っています。無神論の人の場合には   人間  ≒ 無神 というかたちだと捉えます。無神が 絶対者つまりその人の神というかたちです。 つぎの質疑応答を参照していただけると幸いです。 《〈我れ〉はある?ない? どちらですか》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html (この中にも 参照の質疑応答が出ています) 《〈絶対〉の概念を日本人は理解していないのでしょうか》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

noname#80116
noname#80116

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  • 21s-a
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回答No.1

キリストは実際に治したとされています。 例えば盲目の方に手を翳すとと目が見えるようになったなど・・・。 ブッタは実際に治すというよりも気づかせます。 例えば子どもを亡くした母親がブッタに生き返らせるよう頼みます。 するとブッタは「誰も死んだことの無い家からケシの実を譲ってもらい持ってくれば生き返らせる」といいます。 女性はケシの実を捜すのですがどの家柄も御先祖様が必ず死んでいるコトに次第に気づき「皆、悲しみを乗り越えて生きている。私も我慢しないと子どもが成仏できない」と考え初め、死んだ人は帰って来ないコトを気づかせます。 キリストは死後、弟子のパウロ等の夢に登場しキリスト教の普及に努めなさいと言ったとされているくらいですし・・・ キリストは神の子でしょう。

noname#80116
質問者

補足

21s-aさん ご回答をありがとうございます。 ★一方は 医者で もう一方は 覚りとしての医者であると。  逆もあるように つまりは 両者とも 身体の病いをも人格の病いをも治し癒すというように 思ったのですが いま少し判然としません。記憶が薄れたところと そもそも勉強していなかったところとです。どなたか 助けていただけませんでしょうか。 ★ブッダについて出された事例では なるほど現実的な対処の仕方といいましょうか No.2の方が《きわめてリアルなもの》と書かれているように 安易な飛躍がないように見受けられます。  ただ この特徴にしても 飛躍する場合もあるのではないかと思われますし 逆に イエスの事例について見ても 盲目の快癒など ある程度の治癒の事例としては その過程の話しを端折っただけで 癒えたことに対する科学的な説明は 出来るかとも思われます。気力と薬草等々の問題であるとも解されないですか。(たぶん ご存じの方がいらっしゃるはづです)。 ★キリストは死後 復活して 弟子たちの前に現われたということ。  これも 復活ではないですが ブッダについては 《不死の境地・不滅の境位》ということが説かれます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教を考える上で釈尊の説かれた「不死の境地」とは極めて重要な意義を持つ言葉である。それは現象世界を貫いている縁起の法を釈尊が悟られ、その永遠の理法と自らの生命が一如と成った時、「不死の境地」に達したわけですので、同じ縁起の世界に生きている私たちも、今は悲しいかな無明に覆われそれを覚知することができませんが、同じ境地に到達することも、人間であるゆえ不可能なものではないはずです。 「それと同様に、大王よ。如来であることを知らしめている如来のすがた(色)は、捨てられ根を絶たれ、根のない棕櫚の樹のごとくになされ、絶無となされ、未来に生じないものとなされます。大王よ。修行完成者はすがたの数量から解放せられ、あたかも大海のごとくに深遠であり、無量であり、測りがたいからであります。修行完成者が死後に存在するということは適合せず、修行完成者が死後に存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在しかつ存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在するのでもなく存在しないのでもないということも、適合しないのであります。」(『サンユッタニカーヤ』) (bonbonnierさんのご投稿より:《Q:〈我れ〉はある?・・・》ANo.37) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして ゴータマ・ブッダは 法身なる絶対が 人間として(もしくは ゴータマなる人間の中に)現われた応身仏だと見られます。 不案内のところがありますが あしからずご了承ください。(つまり そのこころは ずるいですが ご存じの方にお願いいたしますというところにあります)。

その他の回答 (6)

  • eienn
  • ベストアンサー率16% (77/462)
回答No.7

そうですね。と、本題に戻りましょう。 仏陀とキリストの根本的な相違ですよね。 それを、仏教とキリスト教の相違だと置きかえると、 仏教は消滅を、キリスト教は永遠を求める宗教、ということでは? 仏教は、執着を断ち、来世への因果を消し去り、魂を無へと帰すことで、完全な涅槃。般涅槃と至ることを、付加的に説きます。 キリスト教は、信じることで永遠の命と楽園への恒常、でしたか? を説いていますよね。 そんなものだと思いますけど。 あと申し訳ないですが、これで書き込みを終わります。 ありがとうございました。

noname#80116
質問者

お礼

eiennさん ご回答をありがとうございます。お付き合いいただきありがとうございました。 ★《仏教は消滅を――〔つまりは〕 執着を断ち、来世への因果を消し去り、魂を無へと帰すことで、完全な涅槃。般涅槃と至ることを――、キリスト教は永遠を――〔つまりは〕 信じることで永遠の命と楽園への恒常を――求める宗教、ということでは?》 ――そうですね。そして たぶんその究極の状態は けっきょく 互いに同じようであると思われます。 ☆次の文章の中の《一切の法(真理)は悉く皆真なる》ということは その次の文章の中の《神(真理)がすべてにおいて すべてとなる》に呼応すると思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最後には、あらゆる言葉の止滅した戯論(けろん=世俗のことわり――引用者)寂滅の境地に立つわけです。    「この真如の体は遣るべきものあること無し、一切の法は悉く皆真な   るを似ての故なり。亦 立すべきものも無し、一切の法は皆同じく如   (真如)なるを似ての故なり。」(『大乗起信論』25) (bonbonnierさんのおご投稿より=《Q:〈我れ〉はある?ない?》​ANo.43 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    最後の敵として、死が滅ぼされます。・・・   すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてをご自分に服従させ   てくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられ   るためです。     (パウロ:『コリント前書』15:26-28 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また お会いしましょう。

noname#80116
質問者

補足

この欄をお借りします。(20071219記) 《Q:〈我れ〉はある?ない?・・・》に書いたことですが・・・(No.47補足欄)。 ブッダとキリストとの根本的な相違が 一つ 分かりました。前者は 歴史的な人間存在(応身)として ゴータマ一人っきりではないということです。  したがって そこから さらにどうなるかですが たとえば《覚りの境地》をめぐって 違いが現われます。  キリスト者としてのわたしのほうでは 《最終的に死が滅ぼされる》と聞いているのは 一般に 生身の者にとっては 《将来すべきこととして臨むのが正しい》。とは言うものの この世において 達成しなくとも 構わないのです。信仰がすべてです。つまりは 神の恩恵によって 実現するものです。  つまりは わたしたちも《将来すべきこと》を欲しますし これに向けて 人間の努力として 走りますが その彼岸に到達するのは 神の恩恵によります。さらにつまりは まったく分からないということです。分からなくても いい。いま すでに 永遠の現在なのです。  これに対して 仏教では 覚りの境地に 人間が 一人ひとり 実際に 到達するという前提が置かれているようです。ゴータマ・ブッダ一人に限られず 誰でも このブッダに成れるし 成るのだと。生身においてですよ。  一つの生涯で叶わなければ どれだけの生を経てでも その実現を見るのだということのようです。  これは つまりおそらく ブッダが 歴史上に何人も現われたし 何人でも現われうるということにかかわっているというようなのです。 整理するなら こうなります。仏教では    ゴータマ(人間)=ブッダ(絶対縁起)という存在の類型 が 決して 一人の秀でた者に限られるのではなく 万人が 実現しうる境地だというものです。  キリスト信仰では なるほど キリスト・イエスがなぜ あれを為し これを考えるかについて わたしたちも 理解するようになると言われるし また かれキリスト・イエスよりもさらに大きなわざを行なえるようになるとも聞くのですが     イエス(人間)=キリスト(絶対神)という存在 は かれ一人に限られたものであり〔また それすらも 虚構であると言ったほうが 現実的である(つまり 人間の言語表現というものに即している)とさえ思われ〕 わたしたちは それに類似した存在形式になるのみだというものだからです。わたしたちは 一人ひとりが 不類似の類似としての小型のキリストであるというわけです。 これは 大きなことがらです。これから 取り組んでまいります。

  • eienn
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回答No.6

ん?どうやら論点に食い違いがありましたね。すいません。 「絶対」なのは、「法」だけです。 少なくとも、論理ではそう断定するのが自然です。 いわば仏教は、法を神とし、法を信仰とするものです。 無論ここで言う「法」とは、人が定めたものではなく、自然界、意識の法則です。 キリストについては私は詳しくありませんが、生き返ったとか、治癒だのと、虚構の嫌疑が拭えませんね。病気で無くなられた釈尊の方が、リアルです。 釈尊は絶対ではなく、釈尊が見出した「法」が絶対なのです。 無論、ここで言う「絶対」とは、人間の理解、論理の上での絶対です。 神がいるかは知りませんが、論理上はありえません。 存在そのものが神格化しているキリストとは、釈尊は相違している思いますが。 人間は絶対ではない。 仏陀は絶対ではない。 キリストは絶対ではない。 法は絶対である。

noname#80116
質問者

お礼

eiennさん ご回答をありがとうございます。 絶対は もともと 仮想の概念装置ですよ。 ★人間は絶対ではない。 ――人間は 時間的存在であって 相対性の世界に生きており こころが変わりますし からだも朽ちていきますが この相体性を超えた世界を想定するという能力(あるいは幻想?)も持っています。そこで ☆絶対という言葉で表現し この絶対の世界として さらに 法(ダルマ)という言葉で代理して表現する。 ということが起こります。その概念内容で認識しようともします。その想定に立って ★法は絶対である。 ――つまりこのとき この法を体得した人間が現われたということになりました。ゴータマ・ブッダとよばれるわけですが このブッダの知恵が 法と同じであれば  ☆ブッダは 絶対である。 という表現も 現われると考えてよいのでしょう。ただし  ★〔ゴータマという人間としての・その朽ちるべき身体としての〕仏陀は絶対ではない。 ということです。もともと そうですから。 ★キリストは絶対ではない。 ――まづ 人間イエスは 人間ゴータマと同じように 絶対ではありません。ここでは 《法》の代わりに 《キリスト》というのが 絶対を代理する表現です。ですから  ☆キリストは 想定上 絶対である。 となります。実際は  ☆キリストは 絶対であるかどうか 分からない。それが 人間に分かるか分からないかが 分からない。 ということであるでしょう。 いかがでしょうか。まだ 質問の趣旨内容は持ちこたえていると思いますが。 ☆《絶対》の代理表現として:   ・法(無為法)・真理(真如)・仏性・空(縁起)・慈悲   ・神・真理(愛)・キリスト・ヤハウェー・アッラー   ・無神 * 善・全知全能・永遠・日の老いたる者・無量寿・無量光・大日如来などなど 多少とも概念説明となっているばあいは その神などの属性・性格を示すとも言われています。

  • eienn
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回答No.5

なぜあなたが「わたし」にこだわるかは疑問ですが・・・ 連続、という考えはできませんか? 「真理」を認識する「わたし」が、絶え間なく生滅を繰り返している。 方丈記の一節、「行く川の流れは絶えずして・・・」とあるように、そこにある水(わたし)は、もう過ぎているのだけれど、でもそこにはまだ水が流れている。それが諸行に当てはまる。 私は縁起によっておこるのなら、私は「流れる水」であり同時に「流れる風」でもある。水は風を、風は水を認識する。 縁起が、全ての繋がりなら、私は個におさまりはしないのです。 全体。私は「全て」なのです。 それを悟ったときに得るのは、虚無ではなく安息です。 それが涅槃。救いです。 全体は「不死」、「絶対」。絶対は、「相対」「変化」を内包する。 仏教は、「生命」を過大評価しない。 それに価値があるものだとも説いてはいない。 教義の目的は救済。 あえて矛盾する表現を使ったのは、そこに言語表現の限界と「答え」を見出すから。 論理を超えた論理。それが仏教。 おや、どこかで聞いた言葉ですね。

noname#80116
質問者

お礼

eiennさん ご回答をありがとうございます。 たぶん 内容が同じで その内容は とうぜんのごとく 動態であって(つまり 生きるということであって) ただ eiennさんとわたしとは 向いている方向がちがっているのではないかと思います。 《全体は「不死」、「絶対」。絶対は、「相対」「変化」を内包する。》――これにたいして わたしの場合は 変化する相体の世界にあって その娑婆・生死・煩悩の中に 不死・絶対を見ようというものです。包むのというよりは 小さな点から広がるかたちです。 あるいは 別様に言えば 独立主観としての心に基軸を置くというよりは 関係性の場に 目的を置き そこで生き動き存在するという永遠の現在であるからです。 ですから 主観が 全世界であって 水になり風になりというふうにして ニルヴァーナであるというよりは 主観を取り巻く関係がどうあるか これがどう動くか ここに目を向けていますので 人びとが 互いにわたしと自称しあって 語り合うことが問題になっています。   そのわたしが 変化しつつあっても いいわけですが。そのかたちで 連続はしていると思います。 いかがでしょうか。もし こういう見方もできるということでしたら ブッダとキリストとは 骨格において 同じであると思いますが。

  • eienn
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回答No.4

はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。 これは、絶対者の否定ではなく、「神」などもまた我々との関係の上にのみ存在することを意味している。 仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。 ((Wikipedia)「諸法無我」より抜粋) 変化する主体があると考えるのは間違いであり、全てのものは「変化そのもの」であるとするのが、諸法無我。 矛盾するかもしれないが、「相対的に絶対が生まれる」ということか。

noname#80116
質問者

お礼

eiennさん ご回答をありがとうございます。 《変化する主体があると考えるのは間違いであ》ると考えるのは 《わたし》だと思います。  生まれる前も死んだ後のことも わたしは 知りませんが この一つの生涯において 人間の言葉を用いて 《わたしは こう考え こう生きた》と表現する歴史はあると思われます。その存在・その生命を尊ぶのが 仏教ではないですか。そのわたしなる存在があればこそ 諸法無我という知恵を体得することが勧められ またそれに応えて努力しつつ生きるのではないでしょうか。 それとも 《全てのものは「変化そのもの」であるとするのが、諸法無我》という知恵にたどり着いたときには わたしなる存在も 消えているのでしょうか。だとしても わたしが消えていると認識するのは わたしだと思うのですが。 《「相対的に絶対が生まれる」》とき それは わたしではないのですか。わたしでないわたしが 存在しているということではないでしょうか。  《絶対》は 不死と言いますか 不生不滅でしょうから 《生まれる》というのは 表現としておかしいのですが おそらく それは 相体的な存在であるわたしが 時間的に成る(もしくは 同じわたしの存在のまま 絶対に触れるようにして ブッダの智慧を感得している)ということだと思います。 時間的・可変的・偶有的な存在であるわたしを想定したとしても 諸法無我に抵触しないと思います。これが 縁起の世界にあって ちいさな存在としてでも それなりに 縁起するものと思います。  《その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている》とは まだ 考えられません。  《無為法》というのは その想定じたいが すでに 絶対を言っているものと思うのですが。

回答No.3

先日はありがとうございました。 個人における信仰の心掛けとしては 言われる骨格について同じで良いと思われます。 無神論を主張する人も時々で何かに縋り、 誰かを慕って謙虚な気持ちになります。 けれども、頼れるものが細く弱いので折れやすく、 安定を求める為に揺るがないものに心を委ねたい。 それが今日の宗教を支えています。 相違については以前に 《〈我れ〉はある?ない? どちらですか》でお伝えした通り、 求めるものではなく、また求めて得られるに値するものではないでしょう。 補足として、仏教は経典関係の文献が正邪含めて多いので、 その辺りを日本人はどれをとっても心の糧とできるように、 育ってきた文化だと考えられます。 いい加減であること。 それはある程度認めざるを得ないとして、 元々のお釈迦様は他の方が説明されているとおり、 「法身」という形を伴ったものを求めてはいけないとしています。 人を教化させるには、相手を間違っているとしないことが、 仏教を普及させる上で大きく作用した事柄だと考えております。 正しく生きて正しく生活する心掛けが大切なのです。 人はそれほど厳密に生きられるものではないから、 その中で、正しく生き方を身に付け社会に貢献できれば、 もっと争いも減り世の中は争いも少しだけ減るだろうとするのです。 お釈迦様自体は、当時のヒンドゥーの土着やバラモン信仰に偏って 命を軽んじることを厳しく諭した人だったのですから。

noname#80116
質問者

補足

ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。先日は こちらこそありがとうございました。さらに尋究をすすめてまいりたいと存じます。 《法身》については この質問をする前に 一つの主題として取り上げ 問い求めておくべきだったかも知れません。  《キリストつまり神》は 《絶対》ですので それと骨格が同じと見なしてよいとすれば 《ブッダ》も《絶対》です。つまり 概念装置として そのように定義するのだと考えます。  《法身》は ゴータマ・ブッダが 生身の人間ですので 《絶対が目に見えるのはおかしい》わけですから 特に《法身》という表現を用いるのだと わたしは理解しています。肉における存在(ゴータマ)が 絶対(ブッダ)と同一であるとすれば 応神仏とも表現するのだと思います。(わたしは 報身仏については つかみかねています)。   ちなみに 《我=アートマン》と《わたし=エゴ(=〈Skrt〉 aham )》とを区別するのもよいかと思いました。《天上天下唯我独尊》というときは 《わたし》のことではないでしょうか。 《いい加減であること》など あと総じて捉えて おっしゃっていることは 二諦というのでしょうか 世俗の真実と勝義(第一義)の真理との区別にかかわっているように思います。かんたんに言って 世間の現象なり問題なりとして見るとき 大目に見たり妥協したりする場合があると考えますが そのときにも 勝義諦の真理が――人間存在においては 《不死の境地》が――厳然としているということだと思います。  (厳然として《ある》と表現しようと思いましたが 《有る・無い》を超えているということだと思われます)。  (《経典関係の文献の正邪があっても いい加減に取捨選択しているうんぬん》についても この世俗諦の問題として捉えられるのではないでしょうか)。

  • eienn
  • ベストアンサー率16% (77/462)
回答No.2

批判するつもりはありませんが、キリスト教は頭悪くても大丈夫なように、簡易化された宗教。ユダヤの弾圧うんぬんから解放されるための、団結のエネルギーを得ることが目的。 基本的に奇麗事。馬鹿が多いから戦争の原因にもなる。 仏教は絶対神を置かない。論理の宗教。 自灯明、法灯明、団結を勧めない。 一切皆苦、など、きわめてリアルなもの。 ただ、教えの中には共通点もある。 「隣人愛」と「慈悲」。 過去を憂うな、未来を憂うな。 とか。 浅い知識で書いたので、不適切やもしれません。 あしからず。

noname#80116
質問者

補足

eiennさん ご回答をありがとうございます。 ★仏教が《きわめてリアルなもの》という特徴については ANo.1へのお応えに触れましたので 申し訳ないですが 参照いただければ幸いです。 ★《頭悪くても》しかも罪悪深重でも《大丈夫なように 簡易化された》キリスト信仰だと わたしも思います。ただし この特徴は 仏教でも 浄土門に 完璧なほどに 見られるとも思います。 ★《ユダヤの弾圧うんぬんから解放されるための、団結のエネルギーを得ることが目的》というのは たとえばイスカリオテのユダの思想ではないかと思います。つまりは 当時のユダヤ人大衆のどれだけかの割合が そういうふうに信じて期待していたということだと思います。 ★《基本的に奇麗事。馬鹿が多いから戦争の原因にもなる》――これは 生活上の実践として 信仰のとおりに行かないというむつかしさを言っていると思われ 戦争好きと言えるほどなのは たしかに特徴ですね。信仰が台無しですね。(ローマ教会もそれに対抗して戦ったプロテスタント諸派も ただちに解散して出直すべきだと考えます)。 ★《過去を憂うな、未来を憂うな》――これは いわゆる《永遠の現在》だと思います。同感です。  このとき同時に ほんの少しですが ★《「慈悲」》は 《自灯明・・・団結を勧めない》と合わせて捉えると 《隣人愛》よりは 引っ込み思案であるように感じられます。 ★《仏教は絶対神を置かない。論理の宗教。》  これは どうでしょうか? 絶対者については わたしも解釈に迷っていたのですが どうも やっぱり ブッダは 《神》とは言いませんし《創造主》でもないようですが 《法身》として明らかに《絶対》であると思います。(その点 さらに 議論が深まるならば 幸いです)。  《きわめてリアル》で《論理》の哲学なのですが 《絶対》が想定されている限りでは 《超論理》もそして《信心》もありえるようです。 ・ちなみに 個人の《信仰》と そして教義・教祖・教団を備えた《宗教》とは わたし個人は 区別しています。 ・なお 質問の趣旨の中で     人間≒ブッダまたはキリスト  というように 近似値記号を使ったのは 適切でなかったかも知れません。相似記号で     人間∽ブッダまたはキリスト  とするのも いま少し微妙な違和感があります。その点あしからず了解ください。

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     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう

    絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。おしえてください。 じつは 一度質問しています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3130694.html 法身は 絶対と捉えていいのでしょうか。生身の人間(つまりゴータマ・シッダルタ)が出現したというからには さらにつまりは応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。 あるいは あくまで 時間過程を伴なった悟りの結果 絶対者としての実現が成ったというのでしょうか。 それでも――つまり この応身としては 無常の存在であるが それでも―― 報身としては この地上の経験世界(つまりわれわれ人間)と現実においてかかわりを持つ永遠の絶対者であるという説明になるのでしょうか。 三位一体については 神の受肉という点で 対照させていただけばよいかと思うのですが。 

  • イスラム教もキリスト教も仏教もヒンドゥー教も人間の

    イスラム教もキリスト教も仏教もヒンドゥー教も人間の真理を悟ることが出来なかったのになぜ今も真理を見つけれなかった未完成の宗教を信仰するのですか? 真理を見つけたなら、その真理を教えたら終わりなのになぜグダグダ回答が出ているものをグダグダ信仰するのかがわからない。 なぜブッダもアッラーもイエス・キリストも1つの答えを出さずに死んだ? 真理は1つではない?という答えなら、それは真理を得たとは言わないのでは? 人間の存在の意味の真理は人それぞれである。答えは1つではない。 これって真理とは言わないですよね? じゃあ、ブッダもアッラーもイエス・キリストも真理に到達せずに死んでる。 真理に到達できなかった山半ばで死んだ人を信仰して何になる?

  • 目覚めた涅槃のあとには何が?

    仏教について 知りたいです。おしえてください。 (1) 目覚める(仮りに 即身成仏と表現します)ためには ブッダの知恵(般若)が推進力であり しかも それ自身が 到達すべき彼岸(つまり涅槃)であると理解してよいでしょうか。 (2) 目覚めた涅槃のあとには 何があるでしょうか。   (つまりは 上の(1)で すでに 人は彼岸に到達しうると前提しました)。   (素人考えでは 衆生済度かと思いますが)。 (3) 衆生済度というとき 成道が 知恵(般若)によって成り立ったのと同じように 人が この知恵によって行なうのでしょうか。それとも この知恵は 誰にも備わっていて そのことを指し示せばよいということでしょうか。 過去に次の質問を問うています。(参考まで)。 ・仏教は《目覚めよ》という以外に何を言っていますか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3423110.html ・ブッダは 絶対ですか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3428914.html

  • 牛乳中の女性ホルモンとバストアップ

    例えば以下のような質疑応答があります…。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3084290.html これを見ると牛乳とバストアップの関係は無いとの事です。 最近話題の牛乳中に含まれる女性ホルモンは、バストアップに影響しないのでしょうか? かなり高濃度で含まれているようですが…。