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無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

 この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

noname#80116
noname#80116

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回答No.7

お早うございます。またまた顔を突き出します。 (1)★☆ 無意識は 人の思考や行動の《台本》となるのかどうか。  (2)★☆ 《台本》であるとした場合 遺伝子が 人それぞれに異なっているのとちょうど同じように 無意識もしくはアーラヤ識が 人それぞれに 《個性》を帯びさせ 異なった思考と行動をおこさせるのかどうか。 はい。そのように捉えております。 体験された記憶がどの位の速度で無意識野に落ちてゆくのかは分かりませんが、DNAが変化する速度より速いかな?と言う感じでしょうか・・プシケ(精神作用)を突き動かしているのがエロス(無意識野)であり、それが未だ解読できない芝居の台本であると考えます。何十億年前の星の屑から生まれ(と詠ったこの詩人の感性には頭が下がりますが、)その頃から次第にDNAが環境により、体験、経験、記憶により変化し、且つ変化し続けているものと理解しています。今なお変化し続けているものでしょう。 ★その主体としての存在・その存在の全体・その特に内面的な行為能力は 同じであると捉えます。 ☆字面の上で異議を唱えます。内面的な行為能力は同じものは無いと。それは卑近な例では、杉花粉症がありますね。杉は古代からありました。中には花粉症になる人がいたでしょうが、現代のように多数の人が悩まされているのは、その人の持っている敵を認識する機構が杉花粉に対してDNAレベルで出来上がったと考えます。老人になってからでも起こりうると言うのはDNAが変化し続けていると言う事ではないでしょうか?そして、それは個人の人としての特性であり、他者との相違になると思いますが、如何でしょうか? ですから、「此処で笑う。」、「此処では泣く。」という体験はその人のプロットであり、他者のものではないと思います。 従って、brageloneさんの仰るように、「私が」である事は間違いないです。言葉足らずで申し訳ありませんでした。 ただ、私としてはこの個人の持つDNAが変化し続けると考える以上は、その人の芝居の筋書き、台本を「運命」、とか「宿命」と言う言葉で言い表すのには抵抗があります。 と言う事になりますとbrageloneさんの仰る事と何か齟齬が発生しますでしょうか?余り変わらないようにも思いますが、コメントで叩いていただければ無い智慧を絞ってみますが・・逆さまにしてももう鼻血も出ないのかなとも思いますが・・・ またまた難しい“意思”などを持ち出されましたが、これには反応しない事にします。ちょっと私の限界を超えているようにも思いますので・・

noname#80116
質問者

補足

 1000827313さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    にわかに あわただしくなってまいりました。  そうしますと――自由意志の問題は まだ単なる空想ですから 必要に応じて 提出するとしまして―― 片や 個性のちがいを推し出すか 片や それにもかかわらず 共通の社会性(もしくは関係性としての人間存在)が基礎にあるということを強調するか この違いになるでしょうか。  ひとつ舌足らずがあったことに先に触れさせてください。  ☆☆ その主体としての存在・その存在の全体・その特に内面的な行為能力は 同じであると捉えます。  ☆ というとき 《内面的な行為能力》では その行為能力の枠組みといったようなものが人びと相互に共通であるということを言おうとしていました。もしくは 行為能力の基軸が 記憶や知解や意志として はっきりと共通であるという自然本性のことを言おうとしていました。舌足らずでした。お赦しあれ。  さて 《台本》というとき まづ ひとつには 運命や業や輪廻などの決定論ではないと確認していただきましたし もう一つには 思考し行為するのは 必ずしも《無意識が》ではなく そうではなく あくまでおのおの《わたしが》であるとも確認していただきました。かくなる上で 互いの見解を《擦り合わせる》としますと  ★ プシケ(精神作用)を突き動かしているのがエロス(無意識野)であり、  ☆ というこの箇所を さらに明らかにしていただきたいという思いが残るというかたちです。これは 出発の時点でも 趣旨説明にも  ☆☆ 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  ☆ というとおり 呼んでもいいだろうが その内実において 《無意識→意識→思考および行動→果ては人格のありよう》というような順序と推進の関係として はたらくと言うのならば 行きすぎではないかという意味でもありました。そして いまは   (1) 《無意識かつ意識》としての記憶行為のほかに 意志の能力と行為を 同等に推し出したいと言おうとしていますし(ただし これは いま 保留です)  (2) 無意識の内容が 《エロス》であるという規定 これに 何とも反応のしようがないような感覚を覚えているというのが 実情です。    かつて 小此木啓吾の『エロス的人間論――フロイトを超えるもの』(1970年刊です!)を読んだとき たしかに エロスを取り上げつつ 人格の全体を問題にしていると思ったものですが いまの焦点は こうです。  ○ エロスの衝動や欲求は 記憶野にあって 動いている。それと同時に この欲動をどう扱うかは 意志の管轄に属する。なるほど 後者の意志が前者の意識ないし無意識の欲動に 屈服するときは やがて人にやって来る。しかも エロスの欲求を実現させようとするときにも どのように実行するかは やはり 意志行為に属する。  ○ 言いかえると この意志行為が 一人の人ともう一人の人との間で 互いに 合意を見るということ。もっと基本的に言えば 一人の人間としてのわたしが そもそも初めに 世界と和解しているということ。ここに 《エロス的人間》の自由とその社会生活があると思われること。  ☆ わたしの側に水を引いて述べていますが そういう課題を前にしていると考えます。エロスとしての記憶行為の要求と意志とで どちらが強いかと言えば 前者です。しかも 後者は 無力の有効性を確保している。こう考えます。そうして 人格は 両者を合わせた全体の動態であると考えます。  まとめ得ず 提出します。いかがでしょうか。

その他の回答 (9)

回答No.10

コメント有難うございます。 ☆ ここに 焦点が移りました。ただ 再びただ という物言いですが それですと もう《無意識》の問題は 後退して行きませんか?  無意識の領野から発しているとしても すでに 人格関係として 何らかの意識を得ている情況に じゅうぶん あるということですし そこでは その意識のほかに やはり その意識内容をどう表現するか・どう実行に移すかを決める意志行為のほうにこそ 焦点が移動しています。記憶行為の問題は 後退して行っています。(むろん 寄与しているのですが)。 ★またまたお言葉を返すようですが、「意思」と言うものがどのように発動するものなのかは、此処では少しくずれる問題かなと思いますが如何でしょうか?私にとっては「意思の発動性」も無意識野の手の中にあると思っています。ただ、無意識野を見ることも、感じる事も、走査する事も、手を加える事も出来ないので何とも情けない話になってしまいますが・・ 桃太郎の話は日本人(旧い日本人?)なら皆、カチカチ山、金太郎さん、竹取物語など子供の頃から聞いて知っているお話です。西洋でエロスとプシケのお話を子供の頃から知っている連中にとって(今でもラテン語、ギリシャ語でやるそうです。)フロイドの考えを不思議にも思わないのは当然かなと思いました。最初は全く何の話か分からなく、解説されても困るだけでしたが、彼らはギリシャ神話に通暁している事に気がついてからやっと理解できた次第です。ですから「私にとって」西洋は遠いと言う感慨を持っていました。まさかbrageloneさんまで仰るとは思っていませんでした!

noname#80116
質問者

お礼

 補注です。  ☆☆ 意識内容をどう表現するか・どう実行に移すかを決める意志行為  ☆ という事態をめぐって得られる表面的な議論を それでも つけくわえます。  旧い話ですが 例のチェルノブイリ原発事故の際に そこの職員は 命を賭して 事故現場の処理にあたったわけです。そのとき 《無意識野の手の内にある》行動は 結果として現われる限りで どんな内容だったと思われますか?  自分の命を危険にさらさない と 曝しても人びと一般の命を守る この二つの選択肢を 意識に揚げたと思われます。これを意志がえらぶわけですが その判断ないし選択行為も 無意識野の手の内にあるとすれば では なぜ 選択肢がふたつあるのか。人ごとに どちらを選ぶか やはり決定しているということなのでしょうか?  あるいは 一瞬のこととしてでも 選択肢のあいだで悩むという場合 そのことも 無意識野が命じている内容だとなるでしょうか?   意志の能力行為は 人格全体としては 記憶と一体ですが 人の思考や行動には その一体性を全うするのには 時間的な懸隔がありますから 時には 意志が 記憶を引っ張り導き そのような経験の堆積によって 記憶も 遺伝子じたいからして 変わっていくという側面も 出てくるということは ないでしょうか。  この補注も 中途半端であることをまぬかれていないようですが。・・・  

noname#80116
質問者

補足

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  《意志と記憶(そこで無意識野を特定)》の問題 あるいは 端的に 《自由意志》の問題になって来ました。  wikipedia の《自由意志》= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97#.E8.87.AA.E7.94.B1.E6.84.8F.E5.BF.97.E3.81.AE.E7.A5.9E.E5.AD.A6の事項を読むと 中でたとえば 物理学の項目では  ▲ 量子力学の解釈(観測問題)では、この世界は現実には非決定的であるとする解釈が標準的である(コペンハーゲン解釈)。これにより、量子力学に自由意志を見いだす考えもあるが、否定する見解もある。  ☆ と分かったような分からないことが書いてあります。生物学の項目では  ▲ 氏と育ち( nature amd nurture, 本性と教育 )の両方によって人は形成されているのであり,さまざまな行為のそれぞれについて遺伝の影響と環境の影響が複雑に絡み合っているのである。  ☆ とも言います。《環境》の影響といえば 環境と人との相互作用が考えられると思うのですが そのとき これも 相互の行為関係ということであるのか どうなのでしょうか。  つまり このとき 環境に対して人の側からおこなう《意志》行為も 自然本性が広く人体自然と環境自然(さらに歴史の既成事実としての社会自然)を含むとすれば すべて この所与のものごととしての自然本性にもとづく《記憶》から 上げられて来る情報や意図によって決められると考えることになるでしょうか。  ★ 私にとっては「意思の発動性」も無意識野の手の中にあると思っています。ただ、無意識野を見ることも、感じる事も、走査する事も、手を加える事も出来ないので何とも情けない話になってしまいますが・・  ☆ ということで けっきょく この触れておられる《但し書き》の内容に 焦点があてられるのではないでしょうか。  かえって 素人として発言したいと思いますが 遺伝子は 変化をこうむらないのですか? 変化するとなれば どのような原因によって起こるのでしょうか?   と言いますのも 素人の特権で突飛なことをつづけますが 人の意志行為の結果が蓄積されて その記憶が 後天的にあたかも新たな自然本性のごときものを作り出し みづからを一変させるということは 起こりませんか?    あるいは こうも考えられます。もし自由意志が否定されるとすれば つまり言いかえると 《意識し得ず説明し得ないけれども 無意識野による決定説》が迎えられるとしますと 人の思考や行動には 意味がないことになりませんか? こうやって 主題を設定し議論を積み重ねるといういとなみが やってもよいし やらなくてもよい。どちらでもよい。という趣味の問題に すべてが なってしまいませんか?  これ(この決定論)は 避けていますねぇ わたしは。それも 趣味の問題だと言われれば どうなりますか。・・・?  だとすれば 問題は こうなるでしょうか。無意識野による決定説を 人は 人体や環境自然を基体とするかぎりで やはり基体とするけれども その無意識野に あらたな情報を送り蓄積させる意志の行為の役割 これは あるか・ないか。  そうして この 意志行為の役割があるか・ないかをめぐって あたかも どちらも通用するかのように 人間の世界は 成り立っているのではないか? いや 違うか? ここに焦点がさらに絞られてくるのではないでしょうか?    きわめて 安易な足して二で割る式の解き方ですが 決定説も非決定説も 一方的に 決定的なものではない。こういう仮説は いかがですか?   わたしの側としましては それで この質問の目的は 半ば達成したという考えです。  ううん 今回は このように中途半端でのお応えになりそうですね。  * 昔話で思い出しましたが その昔話や神話を出して来て――それは ユングの系統なので ふつうのことなのでしょうが―― 例の河合隼雄が説く無意識論は なんとも 応答に苦労しています。もっともらしく説きますからね。  情況証拠主義でしょうか。無意識論一般も 情況証拠に根拠を求めているでしょうか。じゃあ 大幅に勇み足になりますが この先 何百年かして もし《記憶行為に対する意志行為の影響可能性》理論が或る程度 迎え入れられていたときには その理論に有利な情況証拠を出せば そこでやっと認めるということなのでしょうか。  つまり いまは 決定説も非決定説も 信仰や神話であると言わないとすれば そうではなくても 或る種の賭けとして 唱えられているということではないか。こう言おうとしてのことでした。  歯切れもわるく ここまでのようです。新理論が出るといいですね。

回答No.9

コメント有難うございます。 気になりますのはbrageloneさんの「エロス」の言葉遣いです。まるで性欲、情欲のように聞こえますのは、「エロスの衝動、欲求」と言われるからなのかな~と思ってしまいますが。 フロイドがエロスとプシケの恋物語を持ち出した時にヨーロッパの人は「そうだろうな。」とすぐに納得できたのは彼らにとっては余りにも有名な物語で、子どもの時から慣れ親しんでいる物語だったからと思います。 日本では女性の裸踊りの広告に「エロスの祭典!」等と言うのがあり、日本人にとってエロスとはオリンポスの神々の子の一人と言う概念ではないように思えます。 フロイドの言っているのは、エロスへの愛のために辛い試練を耐えるプシケを記載しているのであり、エロスの方はヴィーナスに頭が上がらずユピテルに泣きつく体たらくでしたね。brageloneさんが前に書かれたプシケの物語の繰り返しになってしまっていますが・・・ では、日本人としては、桃太郎の昔話に置き換えてみていただけると良いのかなと思います。おじいさん、おばあさんに対する感謝の気持ちが鬼退治に結びつくのだと。桃太郎(プシケ)、おじいさん・おばあさん(エロス)とすれば分かりやすいでしょうか・・・ まあ、西洋は遠い!!と言うのが実感です。

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  もしおっしゃっているとおりであるならば わたしにとって 不覚にも  ★ 西洋は遠い!!  ☆ ということになります。ただ 全体を読みなおして思ったことは  ★ エロスとプシケの恋物語  ☆ であるならば つまり《恋物語》であるのならば 《性欲や情欲》として捉えるのでなくても 両性のあいだの《引力》のことを指して言っていることには間違いないのではないでしょうか。それと 挙げていただいた例示としての  ★ 桃太郎(プシケ)、おじいさん・おばあさん(エロス)  ☆ という解釈内容とは 遠いように思うのです。それに わたしは すでに  ☆☆ 《エロスとしての記憶行為の要求》と《意志》とで どちらが強いかと言えば 前者です。しかも 後者は 無力の有効性を確保している。こう考えます。そうして 人格は 両者を合わせた全体の動態であると考えます。(No.7 bragelone )  ☆ と述べていたとおり 桃太郎と老夫婦とのあいだにおける《人格どうしの関係》についても 視野には入れていました。  そうしますと 第一段階での相違は 《個性どうしの その違い》に着目するか それとも 《個性を超えて 自然本性としての人間の共通性》のほうに注目するかにあると捉えたのでしたが この第二段階としては  ○ 《エロース》を その意味内容として 感覚的なものや感性一般にとどめるか それとも 人格全体の能力行為にまで広げたかたちで捉えるか  ☆ ここに 焦点が移りました。ただ 再びただ という物言いですが それですと もう《無意識》の問題は 後退して行きませんか?  無意識の領野から発しているとしても すでに 人格関係として 何らかの意識を得ている情況に じゅうぶん あるということですし そこでは その意識のほかに やはり その意識内容をどう表現するか・どう実行に移すかを決める意志行為のほうにこそ 焦点が移動しています。記憶行為の問題は 後退して行っています。(むろん 寄与しているのですが)。    ともかく 《エロース》の概念を明らかにして規定しなおさなければならないようですね。

noname#117439
noname#117439
回答No.8

primeapeです。 日本人が死んでいるからであり 日本人は いまでは 幽霊としてのみ存在しているからである やはり無意識との関係であるならば意識のほうが無ですね。 そしてこの心の本質が何らかの理由で抑圧され現実においてはまるで廃人か病人のようにいきてます。 信仰に限らずそのような側面があると思います。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  日本人の悪口をまた言ってしまって ちょっと言い過ぎかと思っていたのですが 簡単に そうだと言っていただいて 拍子抜けしています。  primeapeさんにも ひどい情況に映りますか。  昔は 高度成長の時代は ともかく 目標や課題がありましたから そのぶん 人びとは まだまだ貧しくても どこか輝いていたし 生きようとしていたと感じます。アリとキリギリスとに分ければ 明らかに アリとして 勤勉であったと思います。それが けっきょく 何も身につかなかったかのようであり 成果の貯えも 底をつきつつあるかに見えます。  この哲学カテゴリなら そこを さまざまに議論しているかも知れないと思っていたのですが もうひとつであるように思われます。いま一つであるように思われます。まじめであるように受け取っているのですが 世間の魂のあり方について きちんと しっかりとは 見ていないのではないかという疑いも出て来ます。  まぁ 少しづつ また改めて 歩んでまいりましょう。別の質問をも始めました。

回答No.6

brageloneさん まだ死んではおりませんので口答えをさせていただきます。ピンと外れなら無視していただいて一向に構いません。 ★ 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。 ☆ これに反応してしまいました。無意識野から阿頼耶識に引きずり込み、更に遺伝子からゲノムまでになるのは気が引けますが、ご容赦の程を。 記憶の所でもそれが個人そのものの存在であり、人間の数だけ存在するものと申し上げたと思います。その根底には遺伝子が人間の数だけあり、一人一人の遺伝子はその人そのものであると言うことを含んでいた心算でした。現在の生命科学で遺伝子の解読は、単語が少し分かるくらいで、文章になるともっと少ないレベルであり、筋書きを持った作品としては全く読めていないと言うのが現状だろうと思います。僅か数十ミクロンの中に父親と母親から受け継いだ遺伝子が約二メートル折り畳まれているとの事ですが、私個人的には、これがその人の寿命までの芝居の台本だと思っています。「此処で笑う。」、「此処では泣く。」という体験、経験、記憶からインプットされ、何度も訂正、変化を受けてきた結果の台本。 書かれてはいますが“まだ”読めません!! これは存在しないものと考えるのでしょうか? 私は存在するものだと思っています。ただ、科学者の力量不足で翻訳できないために、我々が読むことが出来ないだけの台本だと考えるのです。 柔和!であり且つ短気な!男が折角神から授かった“真実の”言葉で書かれている石板を叩き割らなかったら読めたのでしょうか?等と言ったら叱られそうですね。 ★ 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。 ☆ 仰る通りと思います。「ただそれだけのこと」なのですが、その反応様式は他のいかなる人でもなく、brageloneさんその人のものではないのですか?brageloneさんの台本に書かれているとはお考えになりませんか?しつこいようですが“読むことの出来ない台本は存在しない”と何故言えるのでしょうか? 即物的人間が高尚な哲学の場に似つかわしくない口答えをしているようで気が引けます。何卒ご容赦の程を。

noname#80116
質問者

補足

 1000827313さん いやはや 《死んではいない》も何も 《口答え》も何も ありません。《ピント外れ》などと卑下なさらないでください。ご回答をお待ちしていました。ありがとうございます。  たぶん わたしの鼻息が荒くて 血の気も多く 御し難いし 一般の人びとには 度し難いとでも 思われているのでしょうか。まぁ それは 単なる愚痴としまして。・・・  遺伝子のはたらきには 明るくないので 一たん別とさせていただきますが そもそも  ○ 人が意識せざる記憶行為が 言語能力とそのはたらきとして 存在する。  ☆ こう言っておりますよ。《意識していない》という意味で 《潜在意識ないし無意識の領域》であると表現しても 何も問題はないと思っております。あとは 課題としては  (1)★☆ 無意識は 人の思考や行動の《台本》となるのかどうか。  (2)★☆ 《台本》であるとした場合 遺伝子が 人それぞれに異なっているのとちょうど同じように 無意識もしくはアーラヤ識が 人それぞれに 《個性》を帯びさせ 異なった思考と行動をおこさせるのかどうか。  ☆ であると要約していいでしょうか。  (1)(2)の全体について わたし自身は こう考えます。  すなわち――いくらか すでに過去の質疑応答で触れさせてもらったと思うのですが―― もし運命ですとか予定説としての定めですとか そういうふうに あらかじめ決まっているという意味合いを出来るだけ取り除いていただいたなら あとは 《台本》は 意識野をも含めた記憶行為にあり しかも この記憶行為は ほかの精神の行為能力としての知解や意志とともに はたらく。したがって 台本は おのおの《わたし》であるとなります。そう考えます。つまりは 人格の全体が ものごとを考え これを 広く表現としておこなうというものです。  したがって (2)の問いについても 人それぞれに違った言動が持たれるというとき その主体としての存在・その存在の全体・その特に内面的な行為能力は 同じであると捉えます。ゆえに 意志疎通ないし精神的・社会的な交通が行なえます。  ★ 柔和!であり且つ短気な!男が折角神から授かった“真実の”言葉で書かれている石板を叩き割らなかったら読めたのでしょうか?等と言ったら叱られそうですね。  ☆ 禁忌というものは一切 ありません。完全な表現の自由に立つと思ってください。  そして モーセは あくまで 信仰のアブラハムを いわば民族全体の行動として 実行に移したのだと考えます。規範は すでに 石の板にではなく 胸の板に書かれているという想定です。つまり アブラハムの信仰第一の実践(生活)に復帰しています。  ゲノムも やがて読めるようになるでしょう。ただし   ★ 「此処で笑う。」、「此処では泣く。」という体験  ☆ を導く起動力としての台本であるという捉え方に対しては わたしには 違和感があります。《わたしが泣く》のであり 《わたしが笑う》のです。違いをはっきりさせるために 突飛なことを言いますと そのように《〈わたし〉が考え 意志し おこないを行なう》のですから ひょっとすると その《わたしの意志行為》が 記憶行為の中身を規定し 遺伝子をも作り直すようになるかも知れません。意志が 記憶や知解よりも 中心に来るし ひょっとして 他の二つの能力を 能力としては 凌駕するかも知れないと思っています。  (絶対他力のもとにでありながら そこまで 自由意志が なにものかによって 建てられて行くのではないかと夢想しています)。  いかがでしょうか。  どうか今後とも ご見識を寄せてくださるようお願い致します。互いに自由な批判を自由にすすめてまいりましょう。  * 例によって 字数がお礼欄の制限を超えるときは 補足欄にて 書きこんでいますので 了解されたく思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.5

primeapeです。 >単純に言って わたしが主張していますのは  信仰心を表ざたにする場合の気構えとして適切であろうかと思います。 他に必要な心構えはないように見受けられます。 >相対的な世界においては 経験科学と経験思想が 主役である。 これが特にいいですね。「自らの神」と言う自己主張がいらなくなる気構えです。 brageloneさんは信仰心を表ざたにする場合の成功例、又はかなりの到達点です。 私は自分の信仰心がどのようなものであるかよく判りません。 人間主義とのご指摘で人間信仰がかつての通過点であったかもしれないと思い至りました。 自分の個性と言うよりは人間らしさというのは、何もかも信じて当たり前なのかもしれません。

noname#80116
質問者

お礼

 つまり 経験思想であれば すべてが 相対性の世界にありますから 階段をどこまで登って高みに行っても やはり その高みが 最高だとは言えないという大前提があります。  低いところと比べれば 最高かも知れませんが 絶対的に最高だとは言えないというのが 経験思想のあり方です。高低・優劣・浅深などなど比較はあっても すべては 互いに同等の関係にあるというのが この世の経験領域です。  果たして ブッダの智慧は・慈悲は どうなのでしょう? 信仰として 絶対の最高を想定しているのか それとも どんぐりの背比べとしてその中の最高の境地を目指しているのみと言うのか?  重ねて述べます。経文の中では ブッダは 何億年という時間や 天の上から地獄の底までの空間を 自由自在に飛び越えています。むろん たとえであり 表現の問題だという立ち場はあるのですが 他方で 仏性の遍在ということ・ブッダの智慧の普遍性・慈悲の絶対性をもし言うのであれば これが 経験科学を超えた信仰なのか そうではなく あくまで経験合理性に基づく思想であるのか この区別を明らかにしなければならないと考えます。そうでなければ 自分の説いている内容が どういう性格のものであるのか自覚していないというきわめて幼稚な理論であることになります。  すっぽんの如く へびの如く 食らいついたら離れません。この問いに答えないのは 《日本人が死んでいるからであり 日本人は いまでは 幽霊としてのみ存在しているからである》と捉えております。人間であるかないかの分かれ目だという意味です。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。    ★ 信仰心を表ざたにする場合  ☆ かつて加藤周一は こう書きました。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《余は如何にして基督信徒となりしか》は 内村鑑三個人の問題であった。《余は如何にして基督信徒とならざりしか》は 日本の国民と文化の問題である。  一人の日本人が キリスト教徒となった場合には 自他に対してその理由を説明する必要があるだろう。キリスト信徒とならなかった場合には その理由を強いて説明する必要がない。これほど日本人にとってあたりまえのことはないからである。・・・  (加藤周一:《余は如何にして基督信徒とならざりしか》1960) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もう半世紀近く前の発言です。どうなんでしょう? 神道家だと言えば 少しめづらしく そして少し警戒心を持って 見られるでしょうか。昨今では たまに ろくにその実態も知らずに(あるいは 知っての上か) クルアーン(コーラン)の適当な二三節をかかげて イスラームをほめそやしている文章にも出会います。(中沢新一はひどい)。まだまだめづらしくて あまり奇異にも思われないのでしょうか。  けれども 仏教のばあいは どうなのでしょう? 熱心に入れ込んでいると言うと 人は少し垣根をつくるでしょうか。インド哲学全般から仏教を研究していると言えば 何の違和感もないと受け取られるでしょうか。  少なくとも いちど常識をうたがってみても いいのではないでしょうか。  人間の精神の内に 記憶があり その中に 意識せざる領域があり これを 潜在意識という言い方でよぶ。このことまでは まったく価値観の違いを超えて ふつうの認識だろうと思います。この潜在意識を 《意識していない》という意味内容のもとに 《無意識》と言っても 何の問題もないでしょう。あとは それが 人の行動の一切の原動力であるという仮説になると 問題が生じるのではないでしょうか。これまでは たぶんそうなのだろうとして受け止められていたと思いますが。  その無意識が または アーラヤ識が 仏性を宿すといえば これまた 日本人は たぶんそうなのだろうと受け取ると思います。では その仏性は 普遍性を持つと思われているが 絶対なのですか?と訊くと 答え〔られ〕ません。雰囲気でよいと考えているのかも知れません。  哲学がこの点を明らかにしないということは 考えられません。世界宗教とよばれていながら その仏教界の内部から しっかりとした回答を寄せないというのも それこそ 人とのコミュニケ―ションを図らないという意味で 人間以前であると言われても それは 穏当な判断であることになります。  ★ A2の御礼にあったアラーヤ識の問題点に関しては「人間」の「心」がわかる点のみを読み解けばいいのではないかと思います。そして少づつ階段を登っていけばいいかと思います。(ANo.4)  ☆ その方法と そして 並行して 別の方法もありますし 必要です。後者は 信仰という方法もしくは 信仰を容れた経験思想という方法です。これは 終わり(結論)から始めるというやり方です。直観にもよっています。アーラヤ識説や仏教が 信仰とは一切かかわらないというのであれば 前者の方法に立って 堂々と科学であると 今からでも 自己紹介をし直せばいいのです。  クリスチアニスムは基督教 マルクシスムはマルクス主義〔そして 時に マルクス教〕と呼ばれ ちなみに ヒューマニスムは 人道主義・人間主義です。ジャポニスムは 日本趣味で フェミニスムは なんと訳すのでしょう? 《おんな教》とは言わないようです。  ブッディスムは どうなんでしょう? ブッダの思想・仏説という言い方は ふつうでいいでしょう。そもそも宗教なのかどうか。あるいは 集団としての宗教は別としても 個人にとって 信仰なのかどうか。ここは どうしても 出発点において解明すべき課題であると言わざるを得ません。  ★ アラーヤ識の問題点に関しては「人間」の「心」がわかる点のみを読み解けばいいのではないかと思います。  ☆ これが 経験思想としての行き方であり それとして ふつうのまともなあり方です。ただし  ★ そして少づつ階段を登っていけばいいかと思います。  ☆ に関しては 《少しづつ探究を深めていけばいい》と言うのでしたら 同じく ふつうのまともな行き方です。ですが 《少しづつ階段を登る》と言えば それは あたかも信仰を深めるという言い方に即した表現になっており それだと やはりあいまいのままになるのではないでしょうか? 

noname#117439
noname#117439
回答No.4

primeapeです。 今回のbrageloneさんはとばしていると言うか冴えていると言うかついていくのがやっとです。 >《無意識》という言葉を 一般に どう使っているかだと思います。何か最後の切り札であるかのように 用いるとすれば やはり信仰(絶対他力)と科学(自力)との間の関係を 取り間違えるおそれがあるのではないか こう思っています。 体現しうる中でわかっている(あるいは一例は)たとえば「無意識的にしちゃった」などの物言いは無意識自身が原因がそこにしかないとの自己申告です。記憶の検索をしているうちに原因が無意識にしかない事柄を表ざたにした主に失敗の釈明です。無意識なる言葉は一般的に常用されてしかるべき言葉でマナ識、アラーヤ識は現在では無意識としてその存在を自覚していて、そのほうが違和感がないからです。これはインドの古典的哲学が「無」について磨きぬいた成果で現代に生を受けた人間(霊長であれば生命すべてかもしれない)は生得的に「無」を体感しうるからです。 話は変わりますが私の言う「仏の現代語訳は人間」てのも同じようにそのほうが違和感がないと思います。 心理学と唯識の関係についてですが、信仰を集めた仏像がそれとわかる光を発するのと同じで信仰された観念ゆえ神聖な輝きがあります。そのような古典として現代心理学とは区別して使い分けたほうがいいでしょう。同じ事をいっているのではないかと言うすり合わせは後回しでも言いかと思います。心のありように関する研究そのものなら心理学のほうが多岐にわたって掘り下げていて神秘の領域にも果敢に挑戦しています。何よりも真実以外は受け入れない姿勢の徹底した科学です。無意識ではなく心の深層と言う意味ならよほど発達しています。 それから無意識が無意識で居るためには形のないものとしての心の本質を信じるゆえに信仰心が必要です。信仰される側ではなく信仰する側です。ここで信じるものを「人間」としてきたのが私の生涯です。最近はbrageloneさんのご様子を見て信じるもの「神」として、そして人間と同一である。と言った感じでもいいなと思っています。むしろそれこそが正しいことの証明が出来るなら協力したい心境です。科学については私の場合無意識が自立して科学的な心の所在の徹底究明(神の存在の証明でもある)を試みています。私が無心の間、脳内は忙しいです。神の話をすると神が居なくなる、というようなことを教えてくれましたよね、どのような不都合かメカニズムは判りませんが、だからこそ信仰の確かな無意識のみの分離した状態でそれに挑んできたようですが、最近はこのように哲学できるまで表ざたに出来るようになりました。何のことはない一般的日本人の信仰心を(無意識的に)ひたかくしにする習慣そのものです。 この辺は十分無神論の解説でもありえますね。 A2の御礼にあったアラーヤ識の問題点に関しては「人間」の「心」がわかる点のみを読み解けばいいのではないかと思います。そして少づつ階段を登っていけばいいかと思います。 それから煩悩の源泉を無意識とするならば(それを含めて)全てを解き放ちたいとする衝動が空であり無であるのかもしれませ。こだわりたくない心(自由)です。それならば無意識と自覚することを含めて全てを空っぽにしたいのがわかります。無意識として自らを自覚するのではなく心の本質の自覚です。繰り返しますが心の本質とは(無意識にとって)形のないものです。 信仰のよりどころとしての「神」と絶対の「神」の違いを思い浮かべました。あくまでも同一の存在です。神様がその信じるものにあわせて気さくなお姿で現れるのはキリスト教徒さんたちから聞いた証言です。 私の場合お姿を現してくれた神様はアマテラスさんでした。散歩の途中で神社によると出迎えてくれます。独身でさびしい私を気遣って一緒にデートしてくれたこともあります。 信仰又は帰依していた自覚はないんですよ。最初は迎えに来てくれた感じにも思えましたが、なんと言うか心の中に生まれたときからいらしたようです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  初めてのご質問について 祝福のことばをかけそびれてしまいました。いろんな角度から いろんな体験をなさっていかれるとよいと思います。  今回は No.2&3へのわたしの応答は なかなか 端折ったかたちで 思いに任せてつづっているので 受け止めづらいかも知れません。    ★ 心の本質とは(無意識にとって)形のないものです。 / 信仰のよりどころとしての「神」と絶対の「神」の違いを思い浮かべました。あくまでも同一の存在です。  ☆ 単純に言って わたしが主張していますのは   1. 信仰とは 絶対(絶対者)とわたしとの関係である。  2. 相対的な世界においては 経験科学と経験思想が 主役である。  3. 言いかえると 科学や思想の背後に(または根底に) 信仰がある。  4. ところで 信仰の対象(というより かたちのないものだから ほんとうは非対象)としての《絶対》は 神と呼ばれるが この有神論は 無神論と けっきょく 同じことである。  5. 無神というのも 信仰であるなら 神である。有神論のなかでは ヤハウェーと言おうが アッラーと言おうが 名前の違いにかかわらず 同じ神である。  聞きなれない説だと思いますが 追い追い 吟味をしていただきつつ 触れてまいります。  このとき――このときにです このとき―― 精神分析における《無意識》説とそして あたかも同じかたちにおさまるようにして ブッディスムの《アーラヤ識》説とは 一体 信仰を言おうとしているのか そうではないのか 非常にあいまいだと思うという物言いです。無神論も 信仰であるという見方を受け容れるならば 無意識の分野は あくまで 経験の領域に属しているということを 明確に打ち出してくるのではないでしょうか。つまり 無神〔という神〕と 無意識〔という人間の記憶行為〕と これら二つを はっきりと 区別するようになると思うのです。   そういえば primeapeさんの思想にかんして 無神論でいらっしゃるからうんぬんと言っていたことがありましたね。要するに わたしの言葉で 《人間主義》ということですね。(つまり 《仏の現代語訳は人間》というその視点のことです)。  (わたしは 人間主義は アマテラスというよりも スサノヲ主義というふうに 言っています。とは言っても アマテラスは 光の子でもありますから 市民スサノヲが みづからの内面に この能力としてのアマテラスを宿すという言い方をします。うんぬん)。舌足らずですが。

noname#117439
noname#117439
回答No.3

primeapeです。 またしても証言のほうです。 私は涅槃に触れられる。 と、真顔で言うと大げさすぎるのですが、霊能者的直感で証言すると仏教の唯識はまだ不完全です。 何もかもで「無」を語りながらその「無」自体が了解されていません。 私はこの「無」をわかりやすくするきっかけを知っています。 ただしこれだけは秘密で(ネチケットの意味でなく)本名を知られるのと同じ拘束がきます。 語呂は簡単なんですが字に書いても忠実に伝える自身がない。口伝すらもはや出来ません。 >情欲... のほうで少し書きましたが自己催眠による無意識との人格交代劇で一度この秘密を明かしたことがあります。 このときの「つげだし」は、テープに録音され人の手に渡りました。 その結果自らを覚者とすら呼ぶ信教に頼らない超能力者みたいな人たちを大量生産しましたが、名前の拘束と同じく反動が来ました。 私の無意識に偏った考え方は未だこのときの束縛を受けるゆえです。 信教に頼らない超能力者さんなので新興宗教じみたことは一切しません。 今のところ私をそっとしておいてくれています。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん primeapeさんも いろんな冒険や体験をしてこられたのですね。  わたしたちは そこから 少しづつを垣間見るという情況です。  いつもブッディスムの悪口を言っていますので よいところを書きます。もともとは 親鸞をつうじて 仏教によって わたしも 自己形成を志した者です。その後は端折って 最近でしたら 昨年の秋に 《QNo.3454478 〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教) =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》の質問をしています。そこで多くを学びました。最後のところで 仏教の弱点にも気づいています。  学んだ中で いちばんの収穫は 次です。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは   存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも   のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。     (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩) という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。      (中村元『龍樹』2002 pp.225-226) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 《空》観であるようです。(《龍樹》は ナーガールジュナ――ナーガ(龍)アルジュナ(樹)――という僧侶です)。  この《空》なる見方に立てば 生死即涅槃 娑婆即浄土 煩悩即菩提 あるいは 即身成仏であると言います。つまり 《空》ないし《無》なる何かものがあるのではなく 《慈悲》なり《仏の智慧》なりが それとしてあるのでもなく 世界をどう見るか その転換だけで決まるということのようです。  目覚めた・覚ったそのあとも 同じ世界を見ています。世界は ブッダにとっても凡夫にとっても 同じ《生死》の苦楽ある人生であり 生き難くもある《娑婆》であり なかんづく しがらみのようにくっついて来る《煩悩》であるということのようです。でも ただ 息吹きがちがうというわけです。  わたしは アウグスティヌスを通じて キリスト・イエスの息吹きに触れました。親鸞もよかったのですが このブッディストであったころは 肩が凝ってしかたありませんでした。そういう違いです。  * 《意識あるいは無意識》の物語にすると よいのではないでしょうか。《意識あるいは無意識》が 主人公となって 試練に遭い これを向かえ 自己形成していくというストーリです。  * これも補足欄ですが お礼欄では字数が超えるためです。そういう使い分けをしています。

noname#117439
noname#117439
回答No.2

primeapeです。 A1の補足はよく理解できました。 内容については一側面といった限定的な意味でもなくその通りだと思います。 私は考えたと言うよりは証言したに過ぎないことに気が付きました。 そしてそれが「無意識」として心を扱う場合の精一杯です。 主観が自分自身への観察者になるんですが、一種自己の同一性に亀裂の入った状態でもありましてそこで出る答えには何らかの検証が必要だろうと思います。 おおっぴらに自己の同一性に亀裂を入れた鬼神の声がむしろはきはきしていますが私はそれをバラストにしていました。 QとA1はそのような予行練習として、今回のご質問をもう少し要約できないでしょうか。 前回よりは自然な受け答えが出来そうな気がします。 不明な点の蒸し返しになってもいいですし、今回に主題をもう少し直球で返してもいいです。

noname#80116
質問者

お礼

 一般的に言って ブッディストのあいだでは あくまで無神論に立つと表明し 信心という言葉は使いますが 信仰ではないと主張します。しかも 仏性・智慧・慈悲またアーラヤ識は 普遍的であり絶対的なものだと思っているし 確言するようです。(信心というのは ブッダや先達に感化されたその初めは 理論も分からず ついていくのであるから 或る種の《信じる》という要素がある。それのことだと言うと思います。絶対神に対する信仰では ゼッタイにないと言います)。  思いに随って 書いてしまいました。まとめ得ずのままですが。これに対しても さらにどんどん 突っこんでいただくと ありがたいです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。またしても 寝坊してしまいました。このあいだも 缶チューハイというのを飲んで寝たら 八時過ぎまで ぐっすり寝ていました。  ご投稿ありがとうございます。  フロイトとユングは 臨床の実践もおこなわれていますが 理論としては 旧いと言っていいように思います。新しい継承・発展のほうで 問題があるように思います。(しかも これは たとえば J.クリステワ゛の著作を読むと けっきょく 《表象しえぬもの(神)を表象するよう追究する》という恰好です。わけが分かりません)。  あとは 《無意識》という言葉を 一般に どう使っているかだと思います。何か最後の切り札であるかのように 用いるとすれば やはり信仰(絶対他力)と科学(自力)との間の関係を 取り間違えるおそれがあるのではないか こう思っています。  人は 物心がついて 世間のことが分かって来てからは だいたい皆  ★ 一種自己の同一性に亀裂の入った状態  ☆ に気づき その出発点に立つのだと思います。そのとき  ▲ 我れあやまつなら 我れあり。(Augustinus)  ☆ と言って 自同律(わたしはわたしである)に還るのではないでしょうか。あやまちに気づいたなら 《われ考える》という事態になります。  ブッディスムの《アーラヤ識》は けっこう問題です。  ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  種子(しゅうじ)[Sanskrit: biija]  ・唯識説では 多く《しゅうじ》 密教では《しゅじ》と読む。唯識説では 深層心理の立場から想定された阿頼耶識の中に存在する特別の力 すなわち物であれ心であれ ありとあらゆる存在を生ずる力を 植物の種子にたとえてこういう。・・・  ・先天的にそなわっている種子を《本有(ほんぬ)種子》という。仏になる能力 すなわち仏の種子は この類に属する。これに対して後天的に植えつけられた種子が《新薫(しんくん)種子》である。(岩波仏教辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ところが 《縁起》説によれば 一切はものごとや行為の相互作用や依存関係として成り立っていると言います。つまり何ごとにも実体はないのだという《空》観に同じです。  というので 《アーラヤ識》も 実体があってはいけないというので さらに第九識として《アマラ(菴摩羅・阿摩羅=無垢)識》を立てる説も出ます。  ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔九識の項目〕・・・この《アマラ識》は別名《真如》とも言われ ありとあらゆる現象を生み出す根源であると考えられる。これを《真如縁起》とよぶ。  これに対して 法相宗は アマラ識はアーラヤ識から垢れがなくなったものであると考え 第九識を立てず 一切はアーラヤ識から生ずるという阿頼耶識縁起を主張する。(前掲書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうなると 何が根源かで――鶏が先か卵が先かではありませんが――延々と議論がつづきます。  わたしの見るところ これは 要は 《仏性》をどう見るかの問題です。仏性は絶対なのか つまり ブッディスムは無神論ですから 無神という神なのか。それとも あくまで 経験科学ないし経験思想にとどまって 有限の移ろい行くものだが あたかも根源のごとくはたらく《仏性 /アーラヤ識 / あるいは 仏の智慧また慈悲》という主張であるのか。  もっと言えば・早い話が ゴータマ・ブッダは――イエス・キリストと同じように―― 人であり同時に神であるのかです。(想定の問題ですから 非科学ですが 信仰として成り立ちます)。   仏の慈悲は いつどこにでもあるつまり遍在であると言えば その普遍性は 絶対のことです。それなら ブッディスムは あくまで・どこまでも 科学を超えた信仰です。絶対なる慈悲を 《考える》のではなく――つまり《慈悲》という人間の言葉で 絶対のはたらきを代理表現していますので 〔つまり別の言葉で言いかえるなら 象(かたち)に表わし得ないもの つまり 表象しえぬものを 代理の言葉=概念で 仮りに表象したという前提に立っていますので〕 その限りで 人間の思惟・思考・思索は自由ですが その前の大前提としては そのような《考える》ではなく―― 《〈考える〉以外の心の志向性》として受け容れるものだと思われます。  つまり 日本語では――漢語を借りて――《信じる》と言います。《まこと(真事・誠)に思う》といえば 経験的なものごとについても 《思う》というので 紛らわしいようです。

noname#117439
noname#117439
回答No.1

primeapeです。 今回の回答はあくまでも個人的見解であり、とりあえずは第一印象でもあります。 >なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。 ごもっともです。私自身悪い癖だと思っています。これ自体が無意識に対する抑圧の一種です。空想世界と現実の区別が付くようにしているのです。私の場合これをしないと気が狂います。 >(1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。 読解力と言う言葉がありますよね。単語のパターンを認識する思考を覚えがなくても無意識だけの思考で編み出しているからです。 意識上に現れるいわゆる「考え」よりも高度な思考を無意識のみで行っています。 (2)に反論はありません。抑圧はしないで済めばそれに越したことはないと思いますが。 (3)ユングの理論は反証可能性を持たずについて。 宗教的悟りと同種の事柄に説明をしたのではないでしょうか。 その内容について知識不足なので憶測ですが。 唯識については自己中心的欲望の弊害について語ることになるでしょう。 wikiにも自己に執着する心が出ています。 たとえば、 >遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在 描いたのは精神世界に限定されます。 無意識が自己中心的でニートだと、現実と夢想の区別がなくなって幻覚を見ることになります。 幻覚はそれを見た本人にとって現実の一部そのものであり、お医者さんが説得してもなかなか聞き入れないようです。 遍計所執性とはそのような事例のふるい説明で宗教ではなく心の研究の古典です。 >《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように 心象を反映する鏡。現実を写し取る鏡。私はそのように捉えています。 脳の視覚化する能力がそれが世界であるとの幻想を抱かせるのでしょう。 「そこにあるのが世界である」これは平等性知的には言いえますが、自己中心的欲望には理解不能で遍計所執性の弊害です。 私の経験ではこの自己中心的欲望は主観的に認識できないレベルでもアラーヤ式の中に雲隠れしたりします。 哲学では真理に至る道筋を真理そのものでなくても研究しますが、心理学や唯識も本質ではなく病理の研究の段階です。どちらもまだ完成されていません。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん さっそくのご回答 ありがとうございます。  ★ 哲学では真理に至る道筋を真理そのものでなくても研究しますが、心理学や唯識も本質ではなく病理の研究の段階です。どちらもまだ完成されていません。  ☆ こう結ばれていますが そして 全体としておっしゃっていることは ご自身の思考と経験にもとづいて 伝えておられるので そのこと自体に 違和感はないのですが 学説や《おしえ》となると その扱いでは もうひとつ はっきりしないところがあるように思われます。  《心理学》は たぶん 経験科学の道を歩んでいるのでしょう。  《唯識》は おそらく 《本質》を研究し 知り尽くしたと言っていると思います。科学的研究をやらないわけではなく またなお未知の領域のあることを 謙虚に 述べるとも思いますが 《おしえ》となると――つまり その看板をかかげているのですから―― なんとも 受け取り難く それとの交流に困るという側面も出てきているのではないでしょうか。  そして《精神分析》は じっさいに 臨床の実践までおこなわれています。その経験を基にしてだと思いますが なかなか大胆なこととして 世界はこうだという理論も出して来ているように受け取ります。  中で 精神分析と唯識論とは そこでの《無意識》の位置づけや扱い方について まだまだよく分かりません。特別の領域として《無意識》を立てずとも そうではなく 《精神の中の記憶行為において まだ意識していない領域ないし事柄》という素朴な定義でいいのではないか / それを超えて 人の思想や行動を決めるというまでに位置づけるのであれば それは 行きすぎではないか こういう疑問です。  ★ 空想世界と現実の区別が付くようにしているのです。  ☆ これは なにも《無意識》と呼ぶ必要もないように考えます。もし《現実》は おおきく世界の全体だと仮りにしますと 《現象・行為事実》と《空想・虚構》とを含み この区別は 意識する場合もあれば 意識しないで区別している場合もあるのだと思うのですが。  ★ 〔言語能力にかんして〕意識上に現れるいわゆる「考え」よりも高度な思考を無意識のみで行っています。  ☆ これも《記憶能力によるすでに意識し記憶した事項の整序》とすればよいように思います。その秩序行為を 意識せずに 人はおこなっているという見方です。(もちろん 無意識という言葉は用いてもいいのですが その定義の立て方は おおげさだと思います)。  この秩序行為以上のことを たとえば意志がおこなうと言うつもりはないのですが その記憶行為と同じ内容のことを 知解行為もおこなうでしょうし その内容を 意志行為は 選択し よしと判断し 実行に移します。つまり 記憶行為の中で 一切の思いや行動のみなもとであるかのような《無意識》を 取り分け持ち出してくる理論は その意図がよく分かりません。  ★ (3)ユングの理論は反証可能性を持たずについて。 / 宗教的悟りと同種の事柄に説明をしたのではないでしょうか。  ☆ おっしゃるとおりだと思います。それですから 人の記憶をあたかも超えたところへの意志(こころ)の志向性として 《信仰》といえばよいのではないでしょうか。それを拒むようにして ユングは 無意識を立てます。それでは 非科学としての信仰であるのか 経験科学としての深層心理学であるのか 分からなくなります。  ★ 唯識について  ☆ おっしゃっていることは分かるのですが おそらく 焦点がちがっていると思います。《遍計所執性》として世界を見させ そのまま行動に移らせるのは 《アーラヤ識》のはたらきであると説いているはづです。そういう無意識のはたらきなのだと。その場合は 無明(煩悩)としての種子のはたらきですが そうではなく いわゆる仏性なる明知としての種子も アーラヤ識にあって それによれば(それに目覚めれば) 人生の縁起が その智慧から 順境として めぐるようになると説くのだと思います。  もしこのようなあたかも人の生の原動力のようなアーラヤ識であっても それは《実体》ではないとするのならば(そう言っていますから) 《根本の心》だとは 言えないだろうし 起動力であると言うのも 言いすぎではないでしょうか。  (遍計所執性を克服した《円成実性》というのは 仏性と同じで 絶対としての実体であると想定している場合があるかも知れません。先のユングと同じかたちで 経験科学か信仰か どちらつかずのように見えます)。  ★ 心象を反映する鏡。現実を写し取る鏡。私はそのように捉えています。  ☆ これは ごくふつうの知覚や認識の行為であり その意識またその意識事項の記憶であるでしょうから ここでは 焦点が異なると思うのです。  駆け足でしたが。・・・

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     この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

  • ユングやフロイトの理論の真偽ってどうやって確かめてるの?

    フロイトの無意識や、イド、自我、超自我、ユングの原型理論などは、 どのような方法で実証、もしくは反証されているのでしょうか。 いやしくも心理学が科学なら、当然、科学的検証に耐えうるものでなければならないと思うのですが。 あ、当方、アンチユングやフロイトではありません。 むしろ、その考え方にはなんとなく共鳴できるので、彼らの説がきちんと科学的精査を受けているのか、知りたいのです。 具体的であればあるほどありがたいです。 よろしくお願いいたします。

  • ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの

    ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、

  • 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

     (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。    ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~  § 広義の無意識と潜在意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。  意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。  なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。  これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。  すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。  すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。  (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか?   二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。  無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。  (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。  欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。  (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。  自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。  (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?  《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。  《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

  • 意識(顕在意識)と無意識(潜在意識)の境界はどうなっているか?

      意識と無意識の関係を表した図を、見かける事があります。 それは、頂点が上の正三角形の上部1/3ぐらいの三角形が、意識であるとし、 残りの下の部分が無意識である。とした図です。 または、次の様な図も見かけます。 氷山の、水の表面に飛び出した部分が意識で、水の中に隠れている部分が無意識という図です。 しかし、自己の意識(無意識)を観察し、本を読んだり、考察した結果とてもそうとは思えません。 まず、 意識と無意識の境界ははっきりした物なのか? ぼやけてはいないか? 境界は、一定の位置ではなく、揺れ動いてはいないか? という疑問です。 さらに、意識と無意識の位置関係です。 本当に三角形の様な形で示されるのか? 無意識に底はあるのか? その関係は、卵の白身と黄身の関係の様に、意識が、無意識に包まれている関係ではないか? と言う疑問です。 問いが唐突なので、自分が疑問に思った点を、考える素材として提示したいと思います。 一つには、修行僧の瞑想の体験談の話です。 体験談によると、徐々に、心の深い所に降りている様な印象を受けます。 本当に、意識と無意識の境界をはっきりした物としていいのでしょうか? 一つには、サブミリナル効果です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C これを考えると、無意識は、意識以上に現実を、認識している様に感じます。 無意識が意識の下にあるという認識は正しいのでしょうか? 一つには、意識を失うほど酔っぱらった場合の行動です。 酒場から、自分の家までどう帰ってきたか分からないのに、財布にはタクシーの領収書が入っていたりします。 無意識は、意識が眠っている場合に、自動的に前面に出るのでしょうか? 一つには、意識の発生起源です。 意識より、無意識の方が先に発生したと考えられます。 意識は、何のために発生したのでしょうか? 等々・・・ 自由に、意見、感想等、お書き下さい。  

  • 宗教は無意識において成り立つか。そうならば、無意識での意識とは何か。

    質問の概要はタイトルの通りです 複雑ですので質問の文脈をできる限り整理しておきます。 宗教的認識について。 宗教的認識とは生活の世界、つまり経験の蓄積によって我々が意味を与え、成立する世界におけるものなのか。 それとも、生活の世界の意識を対象化し、そこに架かる「認識のための梯子」を外すことで、より高次の直覚的認識の世界に至ろうとするものなのか。 私としては、これについては後者の解釈がより正確だと思われます。そこで以下の問いが浮かびます。 後者に至る認識的上昇は、「外界は存在する」「5+7=12」というような、自然的態度ないしは我々の生活における態度(これも曖昧で物議を醸しそうですが)の完全な放棄を意味するのか。これが質問の一つです。 仮にそうだとすれば、認識的上昇は無意識への到達と同じことになると思われます。 ここで、例えば「宇宙の本源」や「神」との意識の共有が行われることになる。 そう言うことは理解できますし、なかなか魅力があるとも思います。 ただ、ここで「無意識における意識」という一見したところの矛盾があるのは明らかです。あえて哲学の文脈で言えば「絶対矛盾的自己同一」の問題だと思われます。これを解消するのはどのようにしてか、というのが質問の二つ目です。 ピンと来られた方、ぜひ回答よろしくお願いします。

  • 人の想像力・精神・意識・無意識は何次元だと仮定できるのでしょうか?

    人は、3次元の事象を理解したり、想像したりすることができます。 また、それよりも高次元のことを理解できると思います。 しかし、余剰次元のことだと理論(文章や数式の形)として しか理解していないかもしれませんが。 そういうことを考えているうちに、ふと思いつきました。 あくまでも仮定にならざるを得ないと思いますが、 人の想像力・精神・意識・無意識は何次元の世界で あると思いますか?(以下、まとめて精神と呼びましょう) 私は、3.5次元であると考えます。 なぜなら、まず3次元の事象を精神が含むことは容易に 想像できるから。(人が、空間としての3次元の中で2次元や1次元 の対象を仮定したり、現実に扱えるように それ以下の次元のことももちろん含みます) そして、なぜ、0.5が足されているかというと 人が余剰次元のことをイメージし、また、 稀に、次元の4つ目の軸としての時間を超越しそうに、 なることがあるように感じるからです。 それは、未来を想像することができるからです。 この精神の機能により、人は科学的な発明の着想を 得ることが出来ると思うのです。 また、科学的に実証されることがあるかは分かりませんが、 預言者や、透視能力をもつ人がいるということも 何か関係があるのかもしれません。 現に、透視の能力で生活をしている人も いるようですし。 精神に次元を仮定するということ自体、 哲学の範囲を出ない考え方かもしれませんが、 その理由も含めて、 何か科学的または心理学的な視点で 語ることができる方からの回答を宜しくお願いします。

  • 意識と霊界

    神秘的な疑問なのですが、科学的に検証・実証されているのかが知りたい疑問です。 (1)意識のない状態と脳死とはどう違うのですか? (2)脳は損傷がなくて心停止しただけなら(おそらく数分間)感覚があったり、夢を見ることも出来ますか? (3)夢の世界と霊界は同じ脳の領域に限定されている気がするのですが(天文学的に天国の場所を証明出来ていないですよね)、脳意外の組織でも、ホルモンなどが独自に勝手にイメージを作ることがあるでしょうか? (4)霊魂・幽霊が存在するとして、それは「生命体」なのでしょうか? 質問自体が変でしたら、勘違いしているようでしたら御指南下さい。 私に霊感は全くなく、無神論者です。 もし霊感があったら幽霊さんに直接聞いてみたかったことなんですが…。

  • 認識は 存在に先行しない

     【Q:存在と存在理由・・・】の姉妹質問です。ついでに問います。  1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成るのか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っているのではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もがはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は・そしてその認識の能力は では どのように存在するようになったのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。