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クリスチャン又宗教に詳しい方

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.5

信者じゃないですが、、、 2) これバビロニアの人々の罪を背負って死んで蘇るタンムズさんが元ネタですね。 ユダヤ教は動物に罪を肩代わりしてもらうという風習があり、バビロニアもそういう風習があった。 で、キリスト教は動物じゃなく、人間に肩代わりして罪をリセットした。 いわゆる人身御供ってやつです。 こえぇぇぇ~ 3) 直接は関係ないですが、間接的に関係があるんじゃないか と。 例えば、金銀財宝が取れるアフリカを植民地にすれば、自由に採掘できると考えた場合、まず 宣教師を派遣して、敵陣視察。 その後 軍隊を送り込む。 「でかしたぞ」と宣教師はランクアップ。 今では違うそうですが、イエズス会は、昔 バチカンの諜報・戦闘部隊だったようです。 戦闘にも秀でた頭脳明晰なエリート。いわゆる今のCIAみたいなもの。 日本にもやってきましたね。 で、日本は守りきれないとなり、鎖国に入ったという歴史がある。 軍隊で攻め込まれる前にからくも鎖国して、日本の国体を守ったわけです。 無傷じゃなく かなりダメージを与えられましたが。 4) なわけないです。 キリスト教は沢山の悪魔を生み出しましたが、生み出したというより、各地で神として崇拝されているのを、悪魔だと塗り替えて教えていったんです。 だからキリスト教が言う悪魔って、その土地を古代より守ってきた神様が正体。 これのどこが寛大でしょうか? 5)キリストってのは、救世主っていう意味だったと思います。 で、ユダヤ教には救世主って言葉は無い。 メシアをキリストってギリシャ語に翻訳したわけですが、メシアってのは、油を注がれた者って意味で、油を注がれた者ってのは、、、、、 えっとですね、聖別されたって意味ですが、インド方面では、聖別された者は、チンコに油を塗られていたんです。儀式で。 で、女神の地上の体現者と聖婚をする際に、選ばれたその人がチンコに油を塗られていたわけです。 ユダヤ教になると、チンコではなく頭になったんです。 で、これは聖職者限定だったのですが、ダビデは聖職者ではないが、種無しのパンを食べたことで、(この意味よくわかりませんが)メシアとなり、バト・シェバの夫を殺して奪い取って、2人の間に生まれた子供の1人がソロモン。 ダビデは例外的なメシア。 で、ユダヤ教ではイエスがメシアだと認めていません。 儀式をやっていないので、メシアとして聖別されていないし。 いや、マリアがとことこやってきて、あまたに油を塗った事件がある? 確かに。。。。 でもそれ、至聖所でやる儀式であって(恐らく神の婚礼の間で)、神殿でやっていたら祭司達は当然知っていたはずです。 そして祭司たちは、イエスがメシアとなったことを覚えているので、イエスはメシアじゃないと否定しなかったはず。 今もユダヤ教はイエスはメシアだとしていない。 だって事実 そういうことは無かったから神に誓ったものを誓っていないと嘘言うわけにもいかず、イエスはメシアじゃないと言っているのは、イエスが聖別の儀式を受けていないからじゃないか と。 ユダヤの隅々まで知り尽くしていたヨセフスがイエスのことをちらっと触れているとされるが、後世の加筆だそうで、ヨセフスは同時代のヤコブについては記録しているが、何故イエスを知らなかったのか? 謎ですね。 ですが、キリスト教信者になるとき、それら全てを現実に起こったことだと信じることを誓います と宣誓しないとなれないわけです。 信じたい程度なのか、どうかは 嘘発見器にかけないとわかりません。 そして信者である以上「疑っている」など死んでも言えない。 ですが、アメリカの信者の90%は天地創造の部分は作り話だと思っているそうです。 6) プラトンは全くの善をイデアとし、そのイデアを認識できる人に従うのをよしとした。 プラトンは、全くの義人の証明として、その人から一切の善を奪い取り(名誉だとか財産とか)、鞭を打ち磔刑に処し、槍で突いても、その人が最後まで義人であったら、その人は義人だったという義人の証明の理論を打ち立てた。 プラトンは宗教を作ろうとしたのではなく、ポリスのあり方、人民の統治の仕方を模索し、『国家』に書いたわけです。 この支配者の支配の仕方の思想がローマ皇帝に受け入れられ、利用されたわけです。 で、人々に「皇帝が」というより「神が」って言った方が効果があると知ったコンスタンティヌス1世は、キリスト教をうまく利用し、治世を図った。 で、キリスト教は、人々が図書館で本を読むことを禁じ、聖書だけ読みなさいと命令したので、人々は、それがイエスがいたとされるより何百年も前の、哲学者の思想だと知ることはできなかった。 現実に起こったことだと思ったわけです。 で、キリスト教はプラトン思想だ というのは前から言われています。 だけど、何故プラトン思想なのかわかりやすく説明する人がいないので、今もって、クリスチャンは、自分達の信じていたものが、架空の物語だとは知らないんです。 例え知ったとしても、もう後戻りできないところまで来ている。 絶対だと言い張り それが架空の物語であると知った時、勇気無きものは、当初通り言い張るしかない。 夢を見続けていたいわけです。 夢から冷めるのが怖いから。 夢の終わりは死じゃない。 現実の始まり。 7) パウロを思い浮かべますが、あれは一過性のもので、結局ナザレ派の思想を乗っ取って、自分の思想をイエスの教えだってしたわけでしょ? 信者の多くは福音書の方を読まずに、パウロの文章を熱心に読む。 パウロの文章を解説書として読むわけです。 8) 確かにキリスト教は、全てを神に託しなさいとしているが、実際問題託しているとは到底思えない。 聖書通りの人生を歩んだ人はいなかったと思いますが、福音書に近い思想をした人はいたんじゃないか と思います。 その人は足がなえた人を歩けるようにした。 この意味は、身体障害者を健常者にしたという意味じゃない。 口だけ達者で口で言うことをちっとも実践しない祭司を批判したのだと思います。 高台に登って偉そうに説教垂れるだけで、自分の足で弱者のもとに訪れ、助けるということをしない人を、足が萎えた人だと言っていたのではないか と。 マザー・テレサは、そういう教会の体制を批判し、教会の外に出るというと、教会は出てもいいが、一切助けないと言った。 つまり教会に自分が救われることばかり考え、立て篭もっている聖職者は足が萎えた人。 そういう人をイエスは批判していたわけです。 神に救いを求める多くの人に「神の意思次第です あなたの信仰心次第です」と言って手を貸さない聖職者。 誰も助けてくれない世界なら、それは自力でやって力尽きて餓死するしかない。 神がやってくれないからその人が餓死したのは神のせいだ とするのもありかもしれない。 でも、ラザロの一件を持ち出しているイエスはどうなるのか。 信仰心があったラザロが というより、助けが必要な人の存在を知りながら、無視した金持ちに対する批判ですよね。 教会に立て篭もる信者に対する批判でもあるわけです。 「神よ 助けてください」と祈っている信者に対する痛烈なイエスの批判でもあるわけです。 パウロ教は自力救済です。 イエス作家の思想は、自分が他人によって助けられる側ではなく、自分は他人を助け起こす側 という思想ですよね。 だから、パウロ教の思想とイエス作家の思想は違うんですね。 その事に気づかない信者は、パウロという偶像にひざまづいて祈る。 それが自らを蝕んでいる癌のようなものだとも知らずに。

keukegen
質問者

お礼

不勉強なので内容が消化出来ないところはお許し下さい。 (3)に対して、イエズス会は諜報・戦闘部隊と言う事は 初めて知りました。(実は有名な事なのかな) だから日本は鎖国したのですか。とすると過去のキリシタン 弾圧に少し同情的だった私の意見が覆る事になりそうです。 (4)はやはりキリスト教は他宗教を邪教扱いと言う事でしょうか。 (7)に対して >パウロ教の思想とイエス作家の思想は違うんですね。 ここは気になりました。パウロが自分の思想に変えたという事で しょうか。 長文の回答ありがとうございます。

keukegen
質問者

補足

皆様詳しいそして真摯な回答ありがとうございます。 キリスト教について自分なりに少し勉強してみよう という気持ちになりました。 本当にありがとうございます。

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