• ベストアンサー

クリスチャン又宗教に詳しい方

noname#100196の回答

  • ベストアンサー
noname#100196
noname#100196
回答No.1

私も聞きかじりの知識ばかりで申し訳ないのですが、もしも参考になれば、とてもうれしいです。 (3)キリスト教と戦争はかかわりがあるのですか? 「アメリカ」=「キリスト教」、「アメリカ」=「戦争」、よって「キリスト教」=「戦争」ではありません。 ただし、アメリカは政教分離の国(人気さえあればどのような宗教の団体が政権を握ってもよい、イギリスのように国教会がないということ)です。そのため、結果的にはアメリカが戦争をする限り、キリスト教徒の多いアメリカにおける決定は「キリスト教」=「戦争」のイメージができてしまうのは仕方がありません。 今回のイラク戦争も、開戦前夜に大統領はビリー・グラハム牧師をホワイトハウスへと招待しました。アメリカにおいては、宗教的な事柄を政治家が公に大切にすること(教)は取り締まられるべき(政)問題ではないのです(分離)。政教分離の不徹底な日本で首相が神主を首相官邸に呼んだら即刻解散総選挙です。 (4)クリスチャンは他宗教に対してどの様でしょうか?(寛大か?) 他宗教については、以下のとおりです。 「宗教、あるいは創造主に対する礼拝及びその様式は、武力や暴力によってではなく、ただ理性と信念によってのみ支持されえるものである。それ故、すべて人は良心の命ずるところに従って、自由に宗教を信仰する平等の権利を有する。お互いに、ほかに対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲を果たすことは全ての人の義務である。」 (ヴァジニアの権利章典 1776年) キリスト者がさまざまな隣人と関わりあい対話をする際の出発点であり土台であるものは、イエスが第一のいましめと呼ばれた次の言葉です。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」つまり、私たちが神を愛するということは、隣人を愛することに他ならないのです。 ICU名誉評議員 ハラム C. ショーラック氏 創立50周年記念聖日礼拝にて http://subsite.icu.ac.jp/prc/bird/bird-song/63.html 「全能の神は、人の心を、自由なものとして創りたもうた。」(ヴァジニア信教自由法 1786年)が故に我々には信仰の自由があるのです。そのほかのすべての人権も神がそのように創ったから、という前提のもとに存在します。ですので、寛大なのです。逆を言ってしまうと、そういった大前提であるキリスト教の神を攻撃する人々は人権という範疇からある意味で逸脱していることにもなります。 世界人権宣言 「事務局作成の章典概要、英国の提出した章典案、米国の提出した章典条項案、フランスの提出した宣言条項案を基礎に審議」 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1a_001.html 本文(和文) http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html 「人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴える」ことを世界人権宣言は認めています。法を攻撃する「専制と圧迫」は人権の敵なのです。なので、圧政を敷いている国に対しての攻撃は回避すべきですけれども、一応、可です。人権のために戦争していいんですね。本来人権とはキリスト教との巧妙に隠された取引の上に成り立つものなのであって、それを受け入れない限りは人権を本当に理解したことにはならないのではないでしょうか。その上でキリスト者になるかどうかは「自由」ですけど。この神の上に成り立つ「自由」こそがキリスト教の寛大ということなのではないでしょうか。 未熟な私に答えられるのはこのくらいです。 ひろさちや氏の「なぜ人間には宗教が必要なのか」という本が質問者様の問いに有用であるように思われるので、併せて紹介させていただきます。

keukegen
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます。 私はクリスチャンではありませんが (4)に対する回答に何かほっとしました。 ひろさちや氏の「なぜ人間には宗教が必要なのか」 目次を見ると私の疑問に対する答えが多く書いてある様 です。今度読んでみたいと思います。

関連するQ&A

  • 人前式にクリスチャンの友達を呼ぶことは?

    私は結婚式は宗教色がない洋式の「人前式」で行うのですが、 私の親友や知り合いにクリスチャンがいてるのです。仲が良いので是非とも式に呼びたいのですが、 彼らからすれば、「何で洋式でやるのに、わざわざ十字架を隠すとかしてキリスト(神?)を無いがしろにするような事をするのだ、とても不愉快だ」みたいに思わないでしょうか? 彼らがどういう考え方をするのか、とても不安です。 また私はどうすればいいでしょうか? 参考になる意見をお聞かせくださいませ。

  • クリスチャンと無宗教の間の子供

    クリスチャンの彼(本人は、あまりどこの教会にも属しているわけではないと言っていますが聖書を重んじています。主にプロテスタントの教会に行っています)と真剣に付き合っています。彼は私との結婚願望がとても強いです。また、日本に住んでいて彼も日本から離れる気はないそうです。また、彼はクリスチャンながら日本の文化が大好きなため、お寺や神社デートなどにも行きます。ただ、お参りはしません。また、婚前交渉もできないといった、敬虔なクリスチャンだと思います。しかし私に信仰を持って欲しいと言ったことはなく、というより多分私はクリスチャンにはならないだろうということを知っているせいか、自分がクリスチャンであることを理解して欲しいということ以外に求められたことはありません。 彼の信仰が私にとって少し窮屈に感じたりすることはあっても、大好きな彼の人格を創り上げてきた宗教なので多少のことなら受け入れられる覚悟はありますが、私にはどうしても譲れないことがあります。 それは、子供には典型的な普通の日本人のように、というか私が育ってきた環境のように無宗教でいさせたいということです。 子供が、母親よりも神とともに生きるだなんて無宗教の私には耐え難いからです。また、私は彼を見てきて、宗教によって制限されている生活の数々を、可哀想だ、なんて目で見ていました。もちろん彼は同情なんてされたくないでしょうし失礼なことかもしれませんが、縛りのない本当に自由な環境で育ってきた私にとってはどうしてもそう思えてしまいます。 彼は救済をもたらしてくれるものと思っているので同情されるなんて不本意極まりないことなのでしょうけど。。 つまり、私は子供には私のように、また他の大多数日本人と同じように自由に生きて欲しいし、聖書に左右されてほしくないのです。例えば普通の人がしていることを、聖書で禁じられているという理由でそのことができない、というようなことになってほしくない、という意味です。 また、彼はいい事が起きるとすぐにまず神様に感謝します。 私は神からのプレゼントだ、私といると神を近くに感じる、いい家族いい学校いい仕事、全て神のおかげだ、病気が治ったのも神がいたからだ、などです。 しかし私は、まず周りの人々に感謝したり、そこまで頑張ってきた自分の努力を褒めて欲しいと思ってしまいます。 少なくとも子供には、神様よりもまずは家族に、友達に、自分を支えてくれる周りの人々がいたから、そして自分が頑張ってきたから今こんなに幸せなんだ、と思って欲しいです。 神様第一の彼にはもう慣れましたし、受け入れることはできます。 しかし子供は違います。 クリスチャンは子供にも信仰を持たせたいと思っているのでしょうか? 例えずっと日本に暮らすつもりでもクリスチャンになってほしいものなのでしょうか? 子供を教会に通わせたい、と思うものでしょうか? もし彼が、子供をクリスチャンにしたい、となれば、残念ですが私は彼と結婚に踏み切れないと思います。 いつか話し合わなければならないことだと思いますが、話し合う前に皆さんの考えをお聞きしたく投稿させて頂きました。 クリスチャンと無宗教のカップルは大勢いらっしゃるようですが、子供はどうしてるのか、体験談などもありましたら教えてくださるととても助かります。 宜しくお願いします。 (キリスト教についての知識が乏しいため、知らず知らず失礼な言い方をしていたら申し訳ありません。)

  • どうしてその宗教を信じているのですか?(他の宗教は勉強しましたか?)

    ある特定の宗教(キリスト教、仏教etc)を信仰されている方にお聞きします。 あなたはその宗教を信じようと決心された時、他の宗教の教典を読んだりして比較検討はしましたか?しなかった場合、それはなぜですか? 質問の意図を明確にするため私自身の事を説明しますと、私は特定の宗教は持っていない、そこらへんによくいる日本人です。が、最近クリスチャンの知り合いに少しずつ聖書やキリスト教について教えてもらい始めまして、神について考える事が多くなってきている状態です。私は、神様(私のイメージではこの宇宙や人類を作り、全てを知っている絶対的な存在)はいてもおかしくないとは思いますが、それがキリストだとかアッラーだとか言われると、果たして何を根拠にしてそう言えるのだろうと考え込んでしまいます。例えばもしもこの先、聖書を熟読したり教会に通ったりした結果キリストが創造主であり救い主であると思えたならクリスチャンになってもいいとは思いますが、その場合でも、他の宗教についても相当勉強して、やはり他の宗教の主張は誤っている、キリスト教が正しいと確信できてからでないと洗礼は受けないと思います(真面目にやろうと思ったら一生かかっても無理っぽいけど)。 私が最近行っている教会には敬虔なクリスチャンが沢山いらっしゃいますが、仏教やイスラム教なども一通り勉強された方はあまり(全然?)いないようです。信仰を持つという事は一生を(その人にとっての)神に捧げる、神と共に生きるという事ですよね。そんな一大事を決めるのに、たまたま身近にあった宗教が良さそうだからと入信してしまえるのはどうしてなのだろうと思うのです。理屈ではなく、神の声を聞いた、神を感じたとかいう体験をしたとしたらそれが強い入信動機になるかとは思いますが、それにしたって、それが気のせいや脳がもたらした作用の結果(脳科学の分野になりますかね)でないとどうして言い切れるだろうとも思ってしまいます。(大変失礼な物言いですが) 長くなってしまいましたが、他の宗教と比較検討しなかった方を批判したいのではなく、ご自分の持っている宗教を信じるに至った理由や心理、お気持ちなどを本当に純粋に知りたいのです。気長にお待ちしてますのでご親切な方からのご回答心からお待ちしています!

  • クリスチャンの方へ質問。神は全てを用意した?

    僕も彼女はクリスチャンではありませんが、彼女はキリスト教系の学校の出身です。 キリスト教、聖書の世界に少しばかり興味を持っているそうです。 僕からお恥ずかしながら「愛しています」というと 「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」 とあしらわれます。 付き合っていていろんな問題が起こった時に 「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」 と言います。 クリスチャンの友人もたくさんいますし、礼拝に参加したこともあります。 百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。 彼女の話を聞いても神が用意したから私はただ受け入れるだけで、それで「合わなければ別れるのも運命」と言います。 自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。 彼女にしても友人を見ても偏っているなぁと感じることが多いです。 「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか? 自分で困難を切り開こうとしないのですか?

  • クリスチャンの祈りについて

    こんにちは。キリスト教を勉強し始めたばかりのものです。 昨夜悪夢にうなされて夜中に目を覚まし,思わず神に祈ってしまいました。 「神様,私を試みに会わせないでください。この悪夢が正夢にならないようにしてください。」 みたいな感じで(こんな感じでいいですか?)。 しかし,朝起きて冷静に考えると,クリスチャンは神のなすことはすべて善だと考えるのですよね? だとすると,何のために祈るのかよくわからなくなってきました。悪夢を見たことも神に感謝すべきなのでしょうか?悪夢が正夢になるかどうかもすべて神にゆだねるべきで,祈るべきではないのでしょうか? あるいは,神が全知全能であるならば,祈るまでもなく私の願いは届いているはずだと思うのですが,だとすれば人は何のために神に祈るのでしょうか? アドバイスをよろしくお願いします。

  • イエスが なぜキリストか。&宗教の解体について。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • クリスチャン、キリスト教徒を辞めた方に質問です。

    両親が熱心なクリスチャンで幼い頃から日曜学校、そして日曜礼拝に参加してきました。エホバ、統一教会ではなく、割と大きい日本のプロテスタント教派です。 妻は仏教の家庭で育ち、妻のおかげで我が家の異常性に気が付きました。子供の頃からサタンの存在や神への畏れを教え込まれ、家庭で起きたトラブルは最後はいつも「祈ろう」で終わらせてきました。統一教会ほど露骨でなくとも、10分の1献金があり、両親は家一軒建つほどの金額を教会に納めていると思います。全てが最後は神に帰着するので、自分も両親も他者への思いやりの心が無く、プライドが高く、傲慢な人間だったと感じます。布教「救いを届ける」が最も崇高な使命だと考え、他者に押し付け、非クリスチャンを救われない人々として扱います。良い事があれば神に感謝し、悪い事があれば神にすがります。「人」に感謝し、「人」に謝ることをしません。食事でも食べる動植物や産業に携わる人への感謝ではなく、「神」です。結局のところ、イエスキリストの愛し合いなさいという言葉は全く実行されていないと思います。同じクリスチャンでも家庭による違いはあるかも知れません。キリスト「教」では本当に人を愛することはできないと気付きました。しかし、ときどき夢に両親や教会が出てきて、うなされることがあります。こういった苦しみから完全に逃れたいです。同じような環境でクリスチャンを辞めた方がいらっしゃればご意見をいただきたいです。

  • キリスト教の方の他宗教についての考え方

    キリスト教の方は、他宗教は一切信用しないのですか?聖書の中には、キリスト教は永遠に唯一絶対の存在である、偶像崇拝はいけない、というような内容が記されている箇所がありますが、キリスト教の方には、キリスト教以外の宗教を受け入れる、認めるということは難しいのでしょうか? 私の彼はアメリカ人でクリスチャンです。私のほうはもともと我が家が別の宗教をしており、小さい頃からその中で育ってきました。しかし、「神様はひとつ。全ての宗教の源はひとつ」という教えがあるので、私はキリスト教も仏教も全ては天地創造の唯一神からのものであると信じています。しかし、クリスチャンの彼には私のような考えが納得いかないようで、ちょっときついことを言われてしまいヘコんでしまいました。今はほとんどメールでのやりとりなのですが、その中で「クリスチャンにならないのなら一緒に歩いてはいけない」と。すごくショックでした。私は別の宗教をしているけれども、他の宗教から学ぶべきものもいっぱいあると思っています。そしてイエス様も信じているし、聖書だって読むし、教会にだって何度か行ったことがあります。しかし、彼は私が別のことをやっているというのに納得がいかないようです。仏教など他にもほんとの教えがいろいろあるだなんて信用ならないようです。私は私の教わっていること、思っていることを一生懸命に伝えましたが、まだ彼からの返事を待っている状態で、いったいどんな反応が返ってくるのかと、不安な気持ちでいっぱいです。クリスチャンの方から見れば、わたしみたいな考えかたは納得いかないもんなのですかね?

  • クリスチャンとの結婚

    こんにちは。 初めて投稿させて頂きます。 私は29歳の女性で、35歳のイギリス人男性とお付き合いしております。 出会って1年、恋人としてお付き合いをして約5ヶ月ほどです。 私はノンクリスチャン(典型的な日本人ですが実家に仏壇があり、仏教の文化を尊重します)、彼は2年ほど前にクリスチャンになったそうです。 彼は5年ほど前に生命に危険があるほどの病気にかかり、奇跡的に救われ、神様に第2の人生を与えてもらったと信じ、日々感謝しながらお祈りしているようです。 私個人的に、キリスト教への偏見はありません。 海外に住んでいた事もあり、西洋の文化、宗教に関して云々いうこともありませんし、何よりその信じ方、考え方を支えとして生きていく生き方をとても尊敬します。 でも特に自分の中で、イエスキリストを信じ、その考えだけを尊重し、生きていこうという思いはありません。自分は今迄何かお祝い事があると、神社やお寺に行って手を合わせてきましたし、身内のお葬式も全て仏式です。クリスチャンの価値観ですと、これが「まだ神様を受け入れていない」ということになるそうですが。 彼と結婚の話が出てきました。 それまで彼は「時期がくれば君にもクリスチャンになってほしい」と言われてきましたが、先日クリスチャンにならなくても、クリスチャンになるという努力をしない人とは結婚できない、と言われました。 同じ価値観、信仰、神様を持つことが彼にとって私という人間を受け入れることよりも大事なようです。 私がクリスチャンになるように前向きに考え、いつの日か、クリスチャンになることが出来れば、それが彼を幸せにするのであれば、そういう努力はしていこうと思っていました。 来年の2月に一緒に住み始めるとうことで話が動いていました。 キリスト教の考えでは、結婚する前に、性行為や同棲は認められないといいます。(ちなみに私たちは性行為はあります。。。。)しかし、彼は一緒に住むということが私を幸せにするのであれば、そこは彼も妥協してくれると言ってくれ、物件探しをしました。 新居も見つかり契約を交わした少し後に、やはりクリスチャンでない君、神様を受け入れていない君とは一緒に住めない、でも結婚はしたい。と言われました。 クリスチャンという考えを前向きに受け入れようとしていた矢先の出来事で、私のその努力は全く評価、認識されていないと思うととても悲しい気持ちになります。 私という人間や中身よりも、彼は私がクリスチャンである、ないということが基準で結婚を判断していると考えてしまいますが、私は間違っていますか? 私が少しでもクリスチャンの考えに対してももっとオープンになる(聖書を読むとか、教会に頻繁に顔を出すとか)まで、私とは一緒になれないと言います。 彼の事をとても愛しています。愛しているからこそ、彼の望むことはしてあげたいと思う。けれど、クリスチャンになる、ならないは、誰他の為ではなく、自分自身の為だと理解しています。 だから明日すぐなれるわけではないし、もしかしたら、5年も10年もかかってしまうかもしれない。 愛する人との結婚が、私が持ち備えていないものの有無で判断されている。自分自信を否定されているような気分さえしてしまいます。 どのような気持ちでこの問題に向かっていったらいいでしょうか。 彼に、私に足りないものはなんでしょうか。 よろしくお願い致します。

  • 自力聖道門と他力易行道とは 次元が違う。

     こうです。   信じる: 他力(絶対他力)   考える: 自力聖道門(時にラッキーな易行道)  その上でまづふたつの文章を見てください。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《如来》を持ち出すのは いわゆる――広く取ってください――有神論です。  道元の言う《万法(森羅万象 またそこに見られるという法則)》のさらにその背後になおアミターバ・ブッダと呼ぶ神を想定しているのが 親鸞であるのではないでしょうか。  つまり道元は いわゆる無神論です。  ところが その《無い神》をけっきょく 親鸞のアミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と同じ位置に立てていると帰結されるかのように 道元も《自然法爾》だと言っています。道元が 言っているのです。  つまり そう言っているも同然です。なぜなら 《自己が修証される》のは 《万法が向こうからすすんでやって来るゆえに》だと言っているからです。《おのづから》であり 《行者のはからひにあらず》と言い切っているからです。    つまり 一般に神とわれとの関係――これが《信仰》のはずですが――については 無神論の道元のほうも 決して《自力》ではなく《絶対他力》なのです。そう言ってよいでしょう。  自己の能力と努力は 経験的なことがらについては大いにまじめにおこなうのですが こと信仰にかんしては あちらからのおとづれを俟って成り立つと言っています。        親鸞・・・・・・・・・・・・道元  _______________________  信じる: 他力(絶対他力)  他力   :《はからひ無き》  考える: 自力         自力   :意志行為である。  こうでしょう。どうでしょうか?