• 締切済み

宗教を作ったのは人間の失敗か?

最近、「宗教を作ったのは、人間最大の失敗だ」と言う意見を聞きました。 そう言えば戦争を分析すると、宗教が絡んでいることが、ままある様です。 又、世の中不穏になって来ると、宗教に頼りたくなると言うか、 神頼みになって来る面もある様です。 それぞれ一理はある様ですが、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。 何か、ヒントにしたいと思います。よろしくお願い致します。

  • gange
  • お礼率57% (77/133)

みんなの回答

回答No.17

失敗、成功の結果はまだ出ていないと思います。 現時点ではどうかというと、まぁ、戦後日本をみれば成功。世界では概ね失敗。じゃないでしょうか。 日本は、 神棚に手あわせ、仏壇で般若心経を唱え、クリスマスを祝う。 イスラムもユダヤ教も否定しはしない。比較的にすごいことです。 世界は、善か悪か、天使か悪魔か、どっちが真の神かという排他的価値観が支配していてどちらも間違っているとはいえない対立が起こっている訳です。 宗教は結果的に人間が作ったことになるのですけど、 プラモデルでも作るように意識して作った訳ではなくて、 自然にできあがったものを宗教と呼んでいるくらいの感覚で、 いずれ世界も成功することにしておかないとダメなんですね。 そうでないという原理が排他的価値観と言うやつです。

gange
質問者

お礼

まず、「宗教を作ったのは人間の失敗だ」と言われた方達は、覚者かそのような人と見受けます。 お二人とも宗教団体では無しに、サークル的な物を運営されてる様です。 人間は、親の因果だけでは無しに、そこに神(大宇宙又は生きとし生けるものを作られた)の存在、 意思があって生まれて来たとした時、我々は神の子であり、神の意思にそぐわない行いは、 つつしまなければならないとの事。 気に入らないヤツを憎むとか、自分達の幸せの為だけに祈る、すがる、摩訶不思議な力を求めるのは、 悪いエネルギーを撒き散らし、神の意思にそぐわない又、自分を憎むのもそうだとの事。 神は一国家、一民族の為だけにあるのではない。信仰している者達だけの物でもない、 すべての生命の親であるとの事。 と言う事で、各宗教いまいち狭い範囲にあるのでしょうか。 ある日本の覚者は、各宗教の上に上部団体の様な物を作る、模索をされている様です。 回答者様の中には覚者の様な方も、おられるような気もします。それぞれの方にそれぞれの教訓を感じます 。今後の人生の参考にしたいと思います。ありがとう御座いました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.16

本当に、人の概念に対する執着は恐ろしいものですね。 どのようなことでもさせてしまう可能性を秘めています。 人を欲するままに管理したいと言う欲望は恐ろしいものですね。我がためと思い、自己のためにも他のためにもならぬ、苦しみを多く産む道に進ませる可能性を多くはらんでいる。他者を人間にある基本的な集中力をうまく悪用して理性を奪い… 苦しみを多く産む道に導く。己のために。偽善をはらみながら。 概念・見解に執着することの危険性を見出す人に、正しい見解が現れると感じています。あるがままの法を観るのですから。 生命各々の理性を最大限に生かすことを賞賛し、自他の自由を尊重し、人を欲するままに管理することをせづ、柔軟な理性的な道徳的な対話をし、概念・見解に対する執着の危険性と、自他共の苦しみの原因と苦しみの滅する性質について正しい方法によって説かれた法を説かれる方はまれなことです。 そのような意味で私はブッダと仏法(パーリ語の三蔵)と伝え指導してくださるサンガのお坊様の三宝に信(理性を元とした自信)をもって日々実践確認を行っています。 仏教と言われるものにも多種多様なものがありますし、お坊様によってもいろいろなことを言われる方々がいますね。 その中でも上記にあるような性質を持つお坊様に信を置いています。 人間・我々は往々にして見解概念による根拠のない感動に引きずり込まれやすい性質がありますね。 ここに自他共に争いなどが発生する大きな根となっているのではと、考察いたします。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように、安穏安楽の境地に自己を確立できますように~

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

noname#82569
noname#82569
回答No.15

私は、あれかこれか。でいくと、失敗派。 頼って心の拠り所にするにしても、宗教よりは、 もっとマシなものがあるだろう。という考え方。 とはいえ、カントの要請だったかな。 神もいないよりは、いることで、ものごとが上手くいくなら、 いることにしよう。という考え方は。 しかし、誰が言ったか忘れましたが 余計なものはいらない。という考えもあり。 さてどうしよう。 宗教の問題についてあれこれ話をすると 虚しい争いの末に結局、みんなそれぞれ。という結論になる。 ところが現実には教団や宗派が存在し、どれが正しい? ということになる。 それに宗教はおそらく、ただ一個人の宗教ではなく 集団化をともって宗教と呼ばれていると思います。 宗教はなぜ集団化するのか?不思議です。 教祖や信者はなぜ、ただ一人で信じることで終わらず 信者獲得に乗り出すのか。 それで考えてみたんですが、結局、絶対に正しいものがそれぞれ 各個人に宗教として複数存在することは、価値が全て等しくなって しまって相対的に意味がなくなるからではないでしょうか。 そこで、全ての価値が質的に平等になってしまった以上、 量的拡大を目指して自分の正しさを証明するように なるのではないでしょうか。 こうすれば、信者数によって、自分の宗教の正しさが わかります。数値化できます。比較できます。 相手を改宗させれば、絶対=不変でしょうから、 あなたは、今まで本当の宗教ではないものを信じていた なんてことが言えてしまうでしょうし。 そうして、量的なものが正しさを決めるようになっていくと、 教団の規模で争いが行われていきますね。少数派と多数派の誕生です。 少数派の宗教と多数派の宗教では、多数派の宗教のほうが それだけ、多くの人に支持されている、普遍的であるから 価値がある。宗教として勝っている。と言いはじめる人が でてきます。 少数派は独善的で駄目だなんていい始めるのです。 だから少数派が正しさという観点から勝つためには 質的な問題に着目し、戒律を持つなどしてより厳格になるなど 価値転換をはかる必要が出てきます。 うまく成功すれば、一気に形勢逆転。 こうして戦いが始まるのでしょう。たぶん。 ちなみに、殉教という 信じたことによって憎悪され、苦しみ攻撃され死ぬことが勝利という 行き着くところまで行ってしまった宗教観があります。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

回答No.14

 失敗がなければ、創造はないし、継続はしないのではないですか。  そういうものがたくさんあるから、私もあなた様もおられるのだとは存じませんか。  どの宗教も二面があり、失敗の面と崇高な面と。  それがなければ、宗教も存在しません。  宗教にしろ、他のものにしろ、誰が創始下かは別にして、単なる人間を単なる主格としてだけでは表層的ですね。  失敗のない、完全(だれの何のための完全かは別にして)という時期は来るでしょう。それはより大きな不完全と失敗で消滅します。  そして本当の完全、失敗なしの時も来るでしょう。  そのときは失敗作の人間も創造界も、完全の中に溶けてなくなっています。その完全だけが唯一ある、というときです。  そのときの循環を計算している、スワミ・スリユクテスワという方がおられます。聖なる科学。Self-Realization Fellowship で検索するとその発行元がでてきます。どうぞご参考に。  日本語版もありますから、日本語の、聖なる科学でも検索されたらいかがでしょうか。  薄い本ですから、問題は何を信じるか、どう生きるかを真剣に考えた、方々の結論的に読む本だとは存じますが。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

  • funnylife
  • ベストアンサー率7% (11/140)
回答No.13

そもそも何を持って、失敗とか成功というのかわかりませんが、人生のどん底に陥った時に、心のよりどころとしてそういうものを頼るのは別にいいかな、って思います。人生短いですから、神頼みの1つくらいあってもいいと思うんです。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.12

●"宗教を人類が編出しても人間は死から逃れられぬ点が依然として不変たる点に着目する"なら、さして、プラスとは言えない。 ●一方、宗教を一種の産業と見做す切口からは(カトリックなら神父、プロテスタントなら牧師等々の)関係者に生業をもたらしているが故に、プラスと解して差支えない、と私は感じます

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

  • ojisan7
  • ベストアンサー率47% (489/1029)
回答No.11

教団という組織としての宗教は失敗です。このことは宗教教団に限らず、政党、学派、等々さまざまな人間の組織に共通にいえることです。そこでは、一部の権力を握った人々以外は、自由にものを言うことができません。一般の人は、洗脳されるか、強者に媚びへつらうしかありません。そこには自由意志はないのです。反対すれば、組織から抹殺されるのです。 「宗教は阿片」と唱える人たちが集って組織をつくれば、その組織自体が「阿片」となるのです。 しかし、組織をつくらなければ他者に対して、力を持つことはできませんね。一人の人間は弱い存在なのです。残念ながら、これは人間の悲しい宿命です。 人間を進歩させたのは、他者の押しつけによる「宗教」ではなく、個人の自由な「信仰、思想、発想」です。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

noname#117439
noname#117439
回答No.10

失敗も何も発明品や捏造品じゃなくて自然発生する特徴のある事柄だからそのような評価は(そのように考えるのも仕方ないけども)棚上げしっぱなしにしたほうががいいと思います。 信仰に取り組む方にはまえむきでいてもらいたいですものです。 自慢めいていますが、 私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれる特技があります。 瞑想が得意でいろんな面で常人と違いますが、こんな私は何者にもすがらずにこの境地までたどり着いたいわば無神論者として究極の成功例です。 ところがこんなわたしだからこそ、実は信仰心を心のもっとも深い部分にひたかくしにして内包していたこと自覚しています。 この信仰心は名前でも言葉でも言い表せないものです。 平均的な日本人の宗教嫌いもここにあります。 信仰を表ざたにする人の中には裏切り者やまがい物扱いされて致し方ない方もおられるので、普通の人、これは哲学カテの表現で「貪る人」とも言えますが、要するに一般の人は宗教狂いに変な顔をします。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

うーん。 宗教自体は成功とか失敗の属性はもっていないと思うんですね。 核が失敗とか成功の属性をもっていないのと同様に。 それを使用する人が、どういう使用の仕方をするか  だと思うんです。 例えば、ある宗教は、本の一節を持ち出して、それを「自分が正しいとするため」に使用している。 使用の仕方、あきらかに間違えていますよね。 プラトンは、イデアというものを考えた。 師匠のソクラテスが善を知らないということに、哲学を発したわけですが、ソクラテスは知らないと言ったが、弟子のプラトンは、それはイデア界にあり、人間は魂の部分がイデアに存在しており、肉体を持ったとき、そこから離れた としたんです。 だから、そこに つまり究極の善に近づかなければならない とした。 で、政治では法律ってものがあって、一部の支配者が法律を制定しているが、政治家同士が釣るんでしまえば、自分達に都合のいい悪法を作り、それによって善人が損をして悪人が徳をすることになる とした。 で、ソクラテスは法の番人とか いわゆる知識人に問答をふっかけて、何も善について知らないじゃないか と悟らせようとした。 で、結局 若者は支配者が作った法を遵守していたのに、ソクラテスが、その番人が善を知らないということを暴いたため、支配者に疑惑を持つようになり、従わなくなった。 法の番人たちは秩序が乱れたとして、ソクラテスに社会不穏を起こして、集団の秩序を乱したものとして、罪だとして処刑したんです。 しかも、自分達の崇拝する神を信じていないふとどきもの として、それは死に値する とした。 で、ソクラテスはモリモリそれについて抗議したが、彼らを納得させることができず、処刑されたんです。 弟子のプラトンは善人が悪人によって殺される みたいな気持ちになり、イデアから遠ざかったからだとして、法の番人じゃなくて、イデア界がなんたるかを認識しようとする哲学者の見解に従うべきだとした。 で、これも一種の宗教です。 でも、ただ、頭が摩り替わっただけ。 そのあとのアリストテレスは、イデアをやはり想像したが、それは普遍的なものじゃない としたんです。 例えば、50キロの体重。 160センチだと、ちょうどいいが、180センチだとやせすぎだし、140センチだと太りすぎ。 だから50キロは普遍的に善いことじゃないことと同じように、イデアは時とか場所とか何かの状態とか、それらによって 善いか悪いか違ってくるので、何が善いかと考えたとき、中庸がよい としたんです。 例えば怒りっぽい人は、自制することで温和になれる。 でも ここぞってときに怒らないってことはいくじなし。 怒るべきときは自分が損をすることを覚悟で、勇気をもって怒る。 つまり いくじなしの中庸は勇気(だったかな?) いつも温和だったり なんでもかんでも許す寛容な人が善人のように思えますが、そればかりだと、いつか息子は父親を馬鹿にするようになり、秩序無い人間になってしまう。 で、どういうときに温和になり、どういうときに怒るか を見極めることができることが人にとっての徳である としたんだったような・・・・。 で、確かに宗教が原因で戦争が起こっていますが、それをよく診ると、宗教を利用して「自分は正しいものだ」とするため、相手を打ち負かすために宗教を盾にした場合、これは人の徳にならない。 他人にとっても善いことでなければ、特にならない。 で、戦争で勝てば自分は正しかったことになるとなり、懸命に殺して勝というとするわけです。 買ったら自分が善だという証明になる とした。 同じ宗教でも殺し合いをしますが、自分の理解の方がただし つまり 自分は正しとする補強として、宗教を使ってねじ伏せようとする。 こういう使用の仕方をしている限り、宗教戦争は無くならない。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

  • umemomi
  • ベストアンサー率23% (190/805)
回答No.8

失敗と言えばそれまでですな。 マイナスな面も明らかにあるが、プラスになっている事も確実にある。 そもそも、人間という存在そのものが「一番無駄な物」でありまた、「一番尊い物」だからです。 この二面性こそに「人間の本質」があるのだと私は考えています。

gange
質問者

お礼

有難う御座いました。

関連するQ&A

  • 宗教を信じている人っているの?

    世界にはさまざまな宗教がありますが、どれ位の人が 本気で神がいると信じているのでしょうか? 発展途上国はともかくとして、先進国は科学や知識が進んでますし 地球がどのように誕生して、人間がどのように進化してきたか 知っているハズです。それなのに神が人間を作ったなどは完全にツジツマが合いませんし僕から言わせれば愚かです。 数万年後の教科書には「数万年前は宗教というマジナイがあった。」と掲載されていて、なんて滑稽なと小学生に笑われてると思います。 そもそも先進国での宗教は日本と同じように慣習的なものでないでしょうか?僕も初詣に行って手をあわせて賽銭を投げたりしますが、慣習的なもので本気で神頼みなんてしてません。 おそらく日本人の宗教観はその程度だと思いますし。外国も実はそうでは?と思うのです。「神がいるかいないかの証明は不可能だから、万が一いた時のために、とりあえず祈っとくか…」程度ではないでしょうか?少しまえオーラの泉という明らかに嘘臭い番組が流行りましたが宗教もあの延長にあるように思えます。たいした物じゃないです。人間に神がいると信じさせたことは人類史上最大のトリックという言葉がありますが、その通りと思います。 みなさんの意見も聞かせてください。 ちなみに何教かも添えてください。僕は無宗教です。

  • 人間は失敗作?

    変なことをお尋ねします。 「人間は失敗作ですか?」 というのは今人間がしていることって人間以外の動物から見れば迷惑以外の何物でもない気がするのです。文明の発展だって所詮人間の生活を豊かにしようとしているだけで他の動物にとっては住むところを破壊され環境を悪くし不都合としか思えない気がするのです。 極端な話、本当に地球の生物や環境のことを考えるのであれば人間がいなくなることが一番いいのではないかとさえ思えます。 最近この考えが頭に取り付いて離れません。この意見への同調、反論、どんな意見でも構いませんので意見をお願い致します。 よろしくお願いいたします。

  • 宗教を信じる人の心理は?

    高校一年です。 最近「人」と言うのに嫌気をさしてきました。 人間は皆違う価値観を持ちそれを他人にどう受け入れてもらおうか探り探り生きていると思うんです。・・・自分はそう生きています。 でも世の中理解できない人ばかり・・・。例えば世の中には「神」と言う存在を本気で信じてる人がいる。なぜそんな物を頼りに生きるのか・・。もし本当に「神」と言われる存在があったとしても、それは何も救いはしないし助けはくれない。本当にそんな万能な存在がいるのなら皆幸福になってると思いません? 宗教なんて人が作った幻想でしかない。そんなくだらないものをなぜ本気で信じようとするのか・・。宗教は「意見の違い」を表面化してるだけ。だから戦争が起きる原因になってしまう事だってある。 「宗教」と言う安易のものを信じたせいでどれだけの血が流れどれだけの不幸がおきたか・・・。根拠の無いものを信じる事はとても危険で、一歩間違えば脅威でしかなくなる。宗教と言う呪縛が無くなるだけで、今起きてる混乱がどれだけ消えるだろう・・・。 人は他人を本当の意味で理解するのはたぶん無理だと思う。でも他人を理解しようとするのをやめればそれこそ「対立」が表面化しそれが大きくなるとどんでもない事になる。 宗教に限らず相手の考えを拒絶し続ければいつか災いが起きる。この文を見てどう思ったか聞かせてください。出来れば「ここは違うだろ」と言う意見が聞きたいです。自分は「皆が満足できる世の中」が正しいと思っています。それを実現する第一歩が宗教をなくす事だと・・。 あなたはどんな世界が正しいと思いますか?

  • 人間は愚かか?

    人間は愚かにも このまま様々な問題を抱えて衰退していくのでしょうか? それとも様々な問題をクリアして繁栄して行くのでしょうか? 私の様な凡人にはそのどちらかさえ分かりません。 問題は人口爆発、地球温暖化、戦争、経済危機、資源・エネルギー枯渇、宗教問題等々 色々在るかと思いますが。 因果律としてどうなるのかはもう決まってるとは思うのですが 人間としては可能性を追求したいと思うのです。 みなさんのお考えはどうですか 人間は愚かにも衰退して行くと思いますか? それとも繁栄して行くと思いますか? お考えを頂戴したく存じます。よろしくお願いします。

  • 宗教について

    インターネット上でしか宗教については触れたことがありませんが 私は宗教にはまる人は途中で自分で考える事をやめた人にしか見えません。 自分自身はそういう人間は好きではないです。 ですが入っている方について否定はしません、個人の自由だと思うので。 皆さんは宗教の存在についてどうお考えですか? 宗教にはまる人の心理についてどう思いますか? 社会に出ていない子供(17歳高校生)の意見ですので、 もし不適切な表現などが有りましたら申し訳ないですm(__)m 指摘されたら削除します

  • 宗教が戦争を生むのか

    閲覧ありがとうございます。 私が現在、26年間生きてきて、物心ついてからいままで、世界で戦争が止んだことがありませんでした。 小さなころ、ベルリンの壁のニュースを聞き、戦争を不思議に思ったものです。 でも高校などで世界史を勉強して、あらゆる時代・場所で人間の争いがありました。26年なんてものじゃない。 そして、私が出した答えが題のとおりです。 人が争いを止められないのは、その中に変えがたいお互いの真理が根ざしている、つまりは思想信条が関係していると思います。 日本には八百万の神々への信仰、先祖信仰など昔から信仰があり、例えば元日は初詣に行き、葬式は僧侶に来てもらうなど、よく考えればちぐはぐなことですが「普通」と捉えられます。 しかしキリスト教や仏教(日本で広まっている主な宗教と考えあげています)のように、「宗教」に対しての偏見が強いです。 なぜ善い部分は認め合い、取り入れて生きられないのか。 こんな狭い日本でさえ。 悲しくなります…。 政治家が堂々と犯罪を犯す。 それに目を向けている人は何割か。 マスメディアは世の中を、流行を、思考を「洗脳」していることを、気付いているのか。 どう生きたいか。 何をもって、善か悪かを判断するのか。それが信仰によるのではないか。 こんなこと、話題にするのは「重い」と煙たがられる世の中。 哲学を嫌煙するのが今の世の中…というか私たち若い世代です。 ストライキだらけだったろうが、昭和の日本はまだ人間が「生きていた」のでしょう。 宗教とは何なのか。 今、日本人に必要なものは何なのか。 私は、差違を認め、関係を育む、大きな意味での「包み込む愛」ではないかと思うのです。

  • 宗教曲(バッハの曲)を歌う時の宗教観

    ここのカテゴリーでよいのか、心配ですが・・ 合唱団で、おもに宗教曲を歌っています。(趣味です) 夫とバッハの話になり、「もとは宗教が原因で、テロや戦争が起こるのに、 信者でもない者が、無自覚にキリストを賛美するような歌を歌うのは、間違っているのではないか?」と言われました。 私は、「バッハの曲の素晴らしさに魅力を感じているのであって、音楽作品としてみている」と反論しました。 彼は、「曲がよければ、歌われている内容について考えないのか? キリスト教(ルター以後)の普及に、バッハが一役買っている。 ドイツの知人も、バッハ=教会 であって、音楽としてはあまり評価しない。日本人がどうしてバッハを歌うのか と言っている 」と言います。 確かに、一理あるような気もしますが、理屈っぽい彼に反論できるような考えを、持ち合わせていません。 どのような、反論ができるでしょうか? もちろん、歌うのはやめません・・・  

  • 宗教による、母子関係で精神疾患を感じています。

    精神疾患・・・というより情動の歪みを自覚しており、このたび精神科に通院することを考えております。 自己分析では、幼少期の母子関係(特に宗教によるもの)と自認しています。 私の母は、自身が幼少の頃から、家で信じている宗教を持っていました。(ここではその宗教の是非を問いたいわけではないので、誤解を防ぐためにも宗教名は明記致しません。) 熱心な信心ではなかったようですが、私という腹を痛めた子どもの出産により、その子ども(私)の幸せを思う気持ちから、半ば忘れかけていた信心が強くなったようでした。 私は幼稚園のころには、その宗教を教えられたと記憶しています。 私も熱心なわけではありませんでしたが、中学・高校・大学受験など、子ども時代の大きなライフイベントがあるごとに熱心な強信者に変わっていたように思います。 その宗教の教えそのものは崇高なものと感じていたのですが、組織の人間が嫌で退けるようになりました。 また一方で、一時が万事神頼み的な発想しか出来ない母の存在も疎ましいと感じていました。愛情がない訳ではありませんが、そのような母を愚かな人間だと思っています。 今付き合っている彼氏と結婚を考えるようになり、ふたりの子どもがほしいと思うようになりました。 その一方で、私も子どもが生まれたことで、薄い信心が強信に変わり、まるで私の母のように、その子どもにも同じ宗教を持たせてしまうようで恐れを感じています。 人の一生で、自分の努力や立ち居振る舞いいかんでどうにもならないことってありますよね。(偶発的な社会犯罪の被害に遭ってしまうとか) 守る存在が出来た時、人とは違うその上の”崇高なもの””絶対的なもの””強いもの”に守ってもらいたいと願いますよね。それはまるで、親戚や知人には弁護士・政治家・医者がいてほしい。(いてくれれば安心だ)といった心理と近しいもののように感じます。 その一方で、母が私に教え、私が今苦しんでいるその宗教連鎖が今後も続くのかと思うとぞっとします。 私の考え、軸のようなものが定まれば良いのでしょうが(宗教を抱えて生きる、手放して覚悟を決めるのいずれか)指針がブレてどうして良いのか判断がつきません。 宗教ではなく、人の意見を聞きたいと思い質問しました。 宗教的な考えだけでなく、精神疾患という観点からも、ご意見をいただければ、非常にうれしいです。 似たようなご経験のあるある方でも、そうでない方でも、何かお考えをご教授いただければと思います。 よろしくお願い致します。

  • 無宗教の追悼施設を作ることは可能?

    「靖国神社の首相参拝に賛成か反対か」という質問の回答の中で、「無宗教の追悼施設を作るべき」と私が書いたところ、「哀悼している時点で無宗教ではありえない」という考えを述べた人がいました。 小林よしのり氏も「戦争論」で「無宗教の追悼施設を作るのは不可能」と書いていましたが、私はこの考え方が理解できません。 亡くなった人を悼み、その気持ちを何らかの行動で表すのは人間の自然の気持ちだと思うのです。その人の暮らしている環境によって、ある宗教の様式が追悼行動に意識的あるいは無意識のうちに入り込んでくることは否定しませんが、人を悼む自然の行動をいきなり「宗教」と言われても困惑します。 辞書を引いても、宗教が人を悼む行為であるとは書いてありませんでした。 よって、私は、特定の宗教によらずとも人を悼むことはできると思うし、そのための施設を作ることも可能と思うのですが、私の考えは間違っていますか? 「人を悼むことはそれだけで既に宗教である」という方は、その根拠をお示し願えれば、大変勉強になります。それが私の納得できるものであれば、以後考えを改めます。

  • 成功・失敗と人間性について

    成功・失敗と人間性の関係について、素朴な疑問です。 成功する人、失敗する人にはそれぞれ傾向があるような気がします。 ■成功する人 ・前向きで、困難に立ち向かう、逆境でもあきらめない。 ・誠実であり、性格に歪みがない、要領がよく立ち回りがうまい ・頭の回転が速く、機転が利く、機知に富み、それでいていやらしさを感じさせない ■失敗する人 ・ネガティブで、諦めが早い、やる前に無理だと判断する ・陰険で嫌味、皮肉屋で不満を撒き散らす ・頭の回転は速くても、気は利かない、利己的で、頭がいいことを鼻にかける ・・・などなど 文字にすると正論でもっともな話にも聞こえますが あくまで「傾向」であり、現実はなかなか複雑なもの、一概には言い切れません。 単純に結果論からの評価や、見方・言い方次第な面もありますよね。 また逆に、境遇が性格に影響を与えるような例もたくさんあります。 苦難のなかにある人間は、やはりどうしても性格が歪みがちですし 何不自由なくうまく行っている人間は、次第に丸くなると言うか、性格も恵まれていく気がします。 さて本題です。 上記のような人間性である、またそう努力するからこそ「成功する」んでしょうか? それとも「成功している」からよい人間性を獲得する、またそういられるのでしょうか? もちろん一概には言えませんが、あなたの意見をお聞かせください。 「現実は厳しく、人間性に関わらず、実力のある人は成功する」 「成功するやつは、冷酷で腹黒く政治力のあるタヌキだ。人間性など関係ない」 などその他の意見も歓迎です。