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宗教を信じる人の心理は?

高校一年です。 最近「人」と言うのに嫌気をさしてきました。 人間は皆違う価値観を持ちそれを他人にどう受け入れてもらおうか探り探り生きていると思うんです。・・・自分はそう生きています。 でも世の中理解できない人ばかり・・・。例えば世の中には「神」と言う存在を本気で信じてる人がいる。なぜそんな物を頼りに生きるのか・・。もし本当に「神」と言われる存在があったとしても、それは何も救いはしないし助けはくれない。本当にそんな万能な存在がいるのなら皆幸福になってると思いません? 宗教なんて人が作った幻想でしかない。そんなくだらないものをなぜ本気で信じようとするのか・・。宗教は「意見の違い」を表面化してるだけ。だから戦争が起きる原因になってしまう事だってある。 「宗教」と言う安易のものを信じたせいでどれだけの血が流れどれだけの不幸がおきたか・・・。根拠の無いものを信じる事はとても危険で、一歩間違えば脅威でしかなくなる。宗教と言う呪縛が無くなるだけで、今起きてる混乱がどれだけ消えるだろう・・・。 人は他人を本当の意味で理解するのはたぶん無理だと思う。でも他人を理解しようとするのをやめればそれこそ「対立」が表面化しそれが大きくなるとどんでもない事になる。 宗教に限らず相手の考えを拒絶し続ければいつか災いが起きる。この文を見てどう思ったか聞かせてください。出来れば「ここは違うだろ」と言う意見が聞きたいです。自分は「皆が満足できる世の中」が正しいと思っています。それを実現する第一歩が宗教をなくす事だと・・。 あなたはどんな世界が正しいと思いますか?

  • hisms
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • anjakusei
  • ベストアンサー率36% (7/19)
回答No.18

私は基本的に「宗教」というテーマで人々と論じると神学論争そのままになりますので好まないのですが、質問者様の文面をみて「キリスト教徒の論理vs無神論(マルクス主義)」の事を説明した上で、質問者様を勝手ながら「無宗教信者」とさせて頂き、拡張解釈はせずに文面内のことについて回答させて頂きます。  まず初めに、日本には「私は無神論者です」という方が結構いらっしゃいますが、多くは「本当の意味」での無神論者ではありません。例えば、「私は無欲なので、欲を持っている人が理解できません」と言っている事と大差がありません。なぜならば、何れにしても「欲があるか、欲が少ないか」という比較で見ているに過ぎないからです。よって、無神論者と言っている時点で宗教の影響を受けていることになります。「神はいるかいないか」と言っているのですから。失礼ではありますが、こういった考えの持ち主は多分に明治以降のエセ合理主義教育の悪影響を被っていると言わざるを得ません。その理由といいますのも、「宗教(的)のものはみな迷信である、科学的に考えなさい」という考えそのものをご丁寧にご主張していらっしゃるからです。  これでは、単なる日本の「無神論者」批判で終わってしまいますので、核心について説明致します。質問者様は「民主主義」や「(基本的)人権」という物はすばらしいモノとお考えでしょうか? 本当の「無神論者」ならば、これらをすばらしいものとは考えません(否定します)。なぜならば、自由も平等も「神」が基本となっているからです。ですので、通常「無神論」というものは「共産主義(マルキシズム)」とセットになっています(自分と違う考え方を認めないということです。別の言い方でいいますと「唯物論」)  「神」と「平等・人権」とがどうして関係があるのかということですが、「神が絶対的に存在するから人間間の不平等が無くなり、ここで初めて平等な人間は何をしてもよいという本来の自由という考え方が産まれる」のです。大雑把に言えば、こんな感じです。 日本では、「人権・平等」などの言葉だけが一人歩きをしていますので、「神」は認めないが「自由」は欲しい等といったことが存在し得るのです。  宗教というものは、元来「人間はどう生きるべきか」ということを基本としています。ですので、キリスト教・イスラム教などでは、「道徳」というものを宗教経由で教わるのが基本です。  「私は無神論者です」と平気で言えるのは、少なくとも日本国内・日本人同士だけであるという前提で、おっしゃって下さいますように。  

その他の回答 (20)

  • DC400
  • ベストアンサー率41% (15/36)
回答No.21

ごめん!これで本当に最後だ(と思う)。 >自分は「皆が満足できる世の中」が正しいと思っています。それを実現する第一歩が宗教をなくす事だと・・。 という部分については、そうではないと思います。  きついことを言います。あなたは、ついこの間までの私と同様、宗教のせいにしているだけです。または宗教に振り回されているのです。  あなたが変わること。もっというと、振り回されない確固たる自分をこれから作り上げることです。だからと言って頑固になるのではなく、寛容性も併せ持つと大変よいのではないかと思います。  そこまで真剣に考えられているのであれば、他はどうでもいいのです。  自分の人としての行き方、死に方というものをいろいろな方から学び考え失敗し、その都度改善しながら徐々に進んでいってしいかがでしょう。もっと気楽に行かれた方がまずはいいと思います。私は。  後は、自分で決めてください。また壁に当たってもしっかり自分で考えて、前に進んでください。  私はそうしました。はい。今も大変です。  世の中はそんなに急に変わらないし、良くも悪くも急激に変わることは、いろいろな支障が生まれます。  公務員のタクシー問題。個人タクシーの方は青ざめているよ。きっと。自分の生活が成り立たなくなるかも知れないのですから。霞ヶ関の公務員は人によるかも知れませんが、どのような状態なのか。また、誰がそのようにしたのかも含めて正当・平等にジャッジする必要があると思います。  話はずれてすみません。  私の結論は以上と、「宗教をなくす事が第一歩」というのは私は無宗教ですが(実は、母に生まれた頃にある宗教に自分の意思に合わないのに強制的に入れられて苦しんでいる)、「お互い許しあうこと」が一歩と確信しています。  つい先日まで宗教について否定はしていないものの、疑問を感じていました。  母とは完全に険悪状態です。私の場合、父が事情があり一緒に住めなかったので、母一人で、お金に相当苦しめられました。  自分の考えが持てるようになり、宗教に疑問を感じたのも「お金」でした。半ば強要という場面も見てきたので、人の道にはずれていると許せなかったのです。  だけど、許さなければならないのです。許すのはとても悔しいですよ。誰にも、こんな苦しさはわからないですよ!  若者!!頼むぞ!!貴方は素晴らしいと思う。  少しでも社会のために貢献できる人間を目指してください。  「憲法」も含めて法律等の勉強をして、今の世の中と比較してみてはどうですか。必ず最初に「目的」が書いてあります。その目的を達成できているか。時代に合っているか。  あなたが、そんなに平和を望むなら、学校で言う「校則」、都道府県民だったら「条例」、国民だったら「法律」…という簡単にいうとルール・きまりについて、どうしたらよい方向になるか真剣に勉強してはどうですか。そして、司法試験を受けてみるとか、国家公務員の上級職を受けて、大変な壁にぶち当たっていってみてはどうですか?そんなにガッツがあるのであれば、怒るパワーがあるのであれば、自分に怒って、その怒りを振り払っていけばいいじゃないですか?  生きるって大変だよ。頑張れ。応援しているよ!!

  • anjakusei
  • ベストアンサー率36% (7/19)
回答No.20

 No.18の者ですが、書き忘れた事とNo.19の方への返事を誠に勝手ながらさせて頂きます。    DC400様   無学の若輩者が誤解を招きかねない表現で書いたにもかかわらずお礼のお言葉を下さりありがとうございました。   まだ、ご納得できませんか? 上記の文面から、「宗教は、戦争が起こる原因になることだってある」とおっしゃっていますので、まずはその事について説明致します。昔と現代の戦争の違いは、昔は「教徒同士」の戦いで、現代は「人種の争い」に宗教の違いというものを加えている、という違いがあります。また、中世欧州などでは「政治」と「宗教」とが一体となっておりましたので、政治に宗教が利用されていました。また、宗教を批判する場合には「政治の歴史的背景」というものも含めて考える必要があります。それとは反対に現代の争いは、「人種間の対立の上に宗教の違いが被さって複雑な問題」になっています。よって、「宗教が戦争の原因であるというのは中世まで」のことです。たとえば、「イラク対イラン」をみますと同じイスラム教国ですが、イランはペルシャ人(白人)でイラク人はセム族(ヘブライ人やアラビア人など)の人種間紛争です。先年起こった「アメリカ対アフガニスタン」の戦争は「キリスト教対イスラム教」の戦争にも見えますが、これも宗教戦争ではなく複雑な問題の中に宗教間の相違が現れているだけです。    質問者様は、質問文の中で「人は他人を・・・・・・とんでもないことになる。宗教に限らず相手の考えを拒絶し続ければいつか災いが起こる」とお書きになっていらっしゃいますが、「世界平和」「他民族との理解しあえる世界」というものを考える為には、「人々の宗教」への理解というものがどうしても必要になります。   最後に、「人間とはなにか」という命題を10代半ばでご理解なされたら、それは化け物です。考えるということはとても大切ではありますが、その為には「歴史」「宗教」「人類学」などが複雑に関係している問題を全体的に考える必要があります。 また、日本人の「道徳」「慣習」等を理解するためには、少なくとも「儒教」の素養が必要だったりします。

  • DC400
  • ベストアンサー率41% (15/36)
回答No.19

おはようございます。しつこくごめんなさい。 hisms様大変申し訳ございません。NO.18の方にお礼させてください。 勝手で申し訳ないです。  anjakusei様  勉強不足の中で回答している部分がありました。非常に奥深いものを感じました。また改めて学校での勉強のことを思い出しました(大変成績の悪い劣等性でした…)。  実は職業柄か、私自身大変人間不信に陥ったことがあり、また既存宗教についても様々な方とコミュニケーションをとる機会がありました。  その上で、自分も人間ですから完璧なものはいないという結論に達し、信じるものは「自分の中で信じるもの=それが神」と思いました。  また、人間誰でもよい部分はあり、その部分を真似したい、昔アニメで「罪を憎んで人を憎まず」というフレーズが必ず最後にながれるものがあり、大変難しいことですが、心がけしています。  甘やかすのではなく「許す」ということで、自分も相手も楽しくなる、コミュニケーションがまし、誤解が少しずつとけるという経験も最近しました。人間関係も少しずつ回復している状態です。  「自分の中に信じるものをもつ」それに向かって突き進むことが今の自分には重要です。また「寛容性」も心がけています。  しかし、anjakusei様の言われるようなことは、しっかり勉強が必要と思いました。何せ、本を読むことが大嫌いで、脳もそうとうやられているので、どこまでできるか。退職後に死を迎えるに当たったときに、いろいろ見てみたいと思います。ありがとうございました。  質問者の方、勝手に申し訳ございませんでした。ありがとうございました。  hisms様 anjakusei様大変ご迷惑おかけいたしました。  大変良い勉強をさせていただきました。母の宗教問題で苦しんでおり、助かりました。逆に失礼な不快な回答がありましたら、どうかお許しください。それでは。

  • DC400
  • ベストアンサー率41% (15/36)
回答No.17

こんばんは。  2度もすみません。気になっていました。 宗教活動をしている母がおりまして、私は無宗教無党派なので、何かお役に立てばと思いました。余計なお節介すみません。  まだ悩まれていますか。苦しまれていますか。やっぱり人も自分も許せませんか。  相当にお怒りのように拝見しました。間違っていたら失礼お許しください。  私は40歳になるまで、宗教に限らず、仕事でも生活でも、人を許せず、自分も許せませんでした。  ものすごーく苦しい40年間でした。後悔はしていませんよ。  ただ気力体力の限界というのがあり「寛容性」がとても大切と思い、40歳にかる今年から私の人生に新たに取り入れました。  そうしないと本当にいつも対立です。つらいです。経験者です。  しかし、急にはできませんよね。私も徐々にです。  すごく楽しくなりました。楽になりました。今まで何だったんだろうと思いました。私の場合ですが。  人間一人の力には限界があることを最近気づきました。また、当然ですが、自分は一人と思っても見えない誰かの支えがあり、生きていると思います。  「このオヤジ、馬鹿じゃないの」と思うでしょう。  馬鹿です。だけど、もしかしたら、そのような日があなたにもいつか来るようん気がして、再び老婆心ながら回答させていただきました。    人間としてのプライドも何もない馬鹿人間です。  馬鹿と言われると普通怒りますが、馬鹿になることも必要と思いました。というのは、そういった方に楽しませていただいたからです。  貴方は芸能人は嫌いかも知れませんが、自分を捨てて体を張って馬鹿をやって、みんなを楽しませています。それだけのサラリーをもらう権利があると思いました。  お笑いなんか大嫌いだった自分が、先日生の演技を見て感じたことです。    生きているのですから、納得できる人生、楽しい人生「ゲッツ」(特に感動したダンディ坂野さん)してみたらいかがでしょう。  しつこくごめんなさい。ますます人間不信になりますね。最後にします。  

  • DC400
  • ベストアンサー率41% (15/36)
回答No.16

こんばんは。  まず、人生を真剣に考えられているお姿に感動し、正しいかわかりませんが回答させてください。よろしくお願いいたします。正しい答えは私はないと思います。私の考えです。  私は「神」は存在すると思います。しかし、私は、宗教云々ではなく「神=自身の信じるもの」として生きています。    宗教活動されている方は、何かのご事情でその考え方に共感を持つ方だと思いますよ。実際に救われている人もいますから、私は肯定も否定もしません。  「共感=宗教の教え」ではない確立が高いので「あれ?」という信者の行動が目に映ると思います。私はあなたの年代の頃より若いときにそう思いました。  私の親はある宗教を崇拝していますが、私は興味も何もありません。「ゴーイング・マイウェイ」です。  ただ、「自分が信じる何か」であろうが、「宗教を信じる」であろうが、人間はみんな完璧なものではないと思っています。当然私もです。  なので…  本当の教えを誤解して解釈したり、三者三様で人の信じるものは親子でも違います。そのわずかでも違いというものが、狭いエリアでは家庭や友人の喧嘩、広いエリアでは国家の争いになっている気がします。  ただ、世界大戦級の戦争となると宗教とは大きく異なった原因で起こると思います。  長々でしたが、生きている人間は私も含めて不完全です。みんな自分の信じるものに向かって生きていると思います。えっ?と思う人でも。  自分も含め、人間は不完全だから争いが起こると思っています。  この世に実在しない神は、争いはしないと思いますよ。お互い認め合い、助け合い、分け合い、あの世にいらっしゃると思います。  自分が人生を全うして、行いを正しく人間世界を卒業できたものだけしか本当の神の姿は見えないでしょう。  嫌気をさすことがあると思います。当然、争いもあれば平和もあります。私もそうです。  あなた様のように確固とした生き方を持ち、併せて、相手を認める、許せるという懐の深い人間になれば、もっとも「神=自身の信じるもの」に近づくと思いますよ。  将来が楽しみです。黙って人間をいろいろウォッチングして、良い物は真似て、悪いものは真似ない、そういう考えもあるんだなと割り切って生きていってはどうでしょう。何かお役に立てれば幸いです。  貴方のように素晴らしい人間がいることに、私は元気と勇気をいただきました。ありがとうございました。ちなみに私は無党派・無宗教の40歳のおじさんです。専攻は工業系、公営企業職員です。今、職務に必要なコミュニケーションの勉強をさせていただいてます。ですが、失敗ばかりです。人って難しいねぇ。河原でジュースでも飲みながら、あなたとお話をしてみたいです。  自分をしっかり持ちながら、よき友人・恩人、将来はよきパートナーを見つけ、着実に一歩一歩歩んでください。  人生山あり谷ありです。深い浅いいろいろあります。生きることは大変です。何が大切か。社会に少しでも役立つ人間を目指して頑張ってください。応援しています。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.15

妄信は理性に蓋をしますからね。人間の育てるべきものは理性なのに。 妄信する人は論理的に道徳的に実証的に検証的な立場に立てませんよね。妄信なのですから。 現実とそぐわないものがあったら、その妄信からどうにか解釈をこじつけて妄信を守ろうとするかその現実を壊そうとする。すなわち争いが起こる…。 そんなところでしょうか。 自己の理性により見解の精度が上がるのですから、自己の理性を磨くことは重要項目になってきますね。 理性がなければ見解に対する執着により争いの元となる危険すらはらみなすからねw 理性を磨くとは、言葉・行為・考えにおいて理性的となり、他者を害するものとならず、欲に溺れるものとならず、自他の苦しみを減らすために使えるようになること。生きていく方法を社会の役立つものえと思索をめぐらし、正しい集中力と現状を冷静に観る能力を持って、冷静に物事の分析を出来ること。これらに対して精進努力を惜しまないこと。 その実践と平行して、自分の見解に執着固執せづに、「柔軟に語り合える人と」語り合うことで、少しづつでも、真に支えあい共に苦しみを滅する道とは何なのかと言う正しい見解・正見に近づき、その苦しみを滅する道とは何なのかと言う正しい見解の実践に各々が導きあい、理想的な世界を造るべく怠ることなく精進努力すること。 この実践が理性的な人間になるために、自他ともに理解を深めるために必要となるでしょうね。 これは賞賛すべきことです。パーリ語の三蔵に記されている、八正道の実践と沿うものです。柔軟に進んで実践し確かめるべきことです。 ブッダの道(パーリ語の方のw)で目指すべき、慈悲喜捨の念を持ち理性的な生命を目指す人の抱く見解だと感じます。 「直接宗教をなくす」「宗教に攻撃」と言う見解は実現困難かつ争いを呼びます。他の道を広げ自然にがよいと思います。 それより理性とは何なのかを自分でまづある程度理解しそれに共感する人々をおおく広め、邪見におちいている人々の理性に働きかけ、理性の人を多くすることを目指すのはいかがでしょう。 反論が成り立たないように気をつけながら… 理性のある人々は目が開くでしょう。理性ある人々が多くなれば教育において理性を教えるでしょう。理性を教わった人は理性以外のものに強烈な違和感を覚え、根拠を求めるものとなるでしょう。根拠を求めたものに根拠がなく、論理的道徳的実証的に間違いがあればそれを捨てるでしょう。自他の苦しみを滅する道・理性的道徳的論理的実証的の考察に移るでしょう。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#62235
noname#62235
回答No.14

「神が見ている」から、悪いことをしてはいけないということになります。 あなたの言うとおり「神はみていない」なら、悪いことし放題です。 神が見ているから、悪いことをしてはいけないのです。 なぜ人を殺してはいけないか、わかりますか? 神がそれを禁止しているからです。 そうじゃなければ殺していけない理由がない。悪いことをしても神は見てないし地獄にも落ちないのだから、人を殺したり騙したり盗んだりして儲けてあなたの言うように「今生を楽しく」生きればよいということになる。 神はないのだし悪いことという概念はないのだから、罪悪感を感じる必要などない。 神がいるかいないか、地獄が本当にあるかないか、そんなことは関係なく「神が見ている」から「地獄に落ちたくない」から、悪いことはしない。神という概念があるから善悪という概念が成立するのです。 もしそれを疑うなら「神がいない」前提で善悪の概念を説明してみてください。 最近多い残虐な殺人事件は、無宗教の人の手によってなされたものに違いありません。神を信じている人ならそんなことをするはずがないからです。 まあいずれにしろ質問者はこういう哲学的なテーマを考えるには未熟すぎると思います。もっと本を、特に宗教本を読んでください。

  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.13

宗教が対立や戦争を生んでいるという主張は一理あるかと思います。しかし、宗教が人間にとって様々な点において秩序を作り出している面も多くあると思います。大きく分けると、内面との戦いと他者との戦いの二つかなと言ってみましょう。 まず、内面との戦いですが、これは要するに「死となにんか」「生きるとななにか」といったたぐいのものです。人間が生きる上でどのような生き方をするのがのぞましいのか?自分にとって幸せな生き方をすることはどのような生き方なのか、ということの基盤になっています。たとえば、生物学的にいってしまえば人間が生きること=子孫を残すことになってしまいますよね。それなら、より長く生きること。を優先さえて生きるかといえばそうでもないですよね。また、「ただ自分が満足すればよい生き方」と言ってもすべての人が貪欲に本能に従って生きたいとおもうわけでもないですし、そのような世の中にはなってほしくないです。たとえば、「苦しさ」などに耐え忍ぶことがある意味「美徳」とされる世の中なのは、根底にそうした禁欲や努力への漠然とした良心があるからです。そういう良心というのは合理的な考えだけでは生まれず、多かれ少なかれ宗教などの教えからしか生まれないのではないかと思います。 もうひとつの「他者とのかかわり」はもっとわかりやすいです。人間が世の中に生きるとき、他人を思いやったりする感情が生れます。いわゆる自己犠牲の精神というのはなぜ生じるのでしょうか?すべての人が自分勝手に意見を主張し合っていては、「隣人を愛する」といった考えがなぜ美徳となるのか。仮によくわからないけど「神様の教え」としてそういうものが生じるならあるべきだと思います。親が子供に「他人のために良いことをして生きなさい」というとします。子供が「なんで他人のために自分を犠牲にせにゃならんのか?」と自分勝手に生きたとします。彼ら二人の主張はどちらが良いといえるのでしょうか?もちろんどちらも悪くありません。ですが、良心的には親のいうような道に進むことが素晴らしい人だとおもいませんか?世の中には「宗教」という超越的な何かによって支えられている倫理的価値があるからこそこの親のいう道に進むことが美徳とされるのではないかと思います。 「神」だとかよくわからない人がいて一方的に言われるのは胡散臭い。というのはもっともな意見ですし、信じる信じないは自由です。ですが、良く分からないけどこの世の中には「人間が良い人として生きるべき道」のようなものがいわゆる「道徳」などとして存在するのです。この道徳というものは、合理的に考えたからと言って説明できるものではなく、ただそうあるべきだからそうなのです。それを超越的な存在として納得させるために宗教はあるのかと思います。世の中には、「法律」が存在しますが、これもその良心がなくては作れません。なぜなら、法律とは、あくまでその世の中に反映してできた規則にすぎないので、その世の中が変わってしまえば、法律が変わってしまうからです。常に変わらない、絶対的な道徳的価値として存在するために、人は宗教を必要としているのでしょう。 、、、というわけで、宗教はあるべきだと思います。もちろん、宗教があるからと言って特定の宗教を強制するべきではないですし、どの程度信じるかあるいは信じないかは自由であるべきだと思います。宗教的対立により戦争が起きるのは、過激な対立によるものです。とりあえず、正しい世の中?が何かはわかりませんが、私は宗教はそこにある必要があると思いますよ。

hisms
質問者

お礼

>とりあえず、正しい世の中?が何かはわかりませんが、私は宗教はそこにある必要があると思いますよ。 「正しい世の中」と言うのは人それぞれ違うものなのでなんともいえません。 自分が思う「正しい世の中」は人と人が争い傷つきあう事の無い世の中だと思っています。・・・ただこれを実現するのは「個」を否定する事になりかねないので永久に無理でしょう。 まぁ~他人がいるかぎり正しいものなんてないんじゃないですか? 人と人の間には壁がありますしね。 ただ今の世の中には問題が多すぎると思うんです。それをどれだけ少なくしていけるかを考えるのが自分にとっての課題です。

回答No.12

No3です。どうも。 この世に生きていて、意味のないのならどうして、学校なんていくんでしょうか?どうして苦しい思いをしなければならないんでしょうか? 死ねばいいということではありません。 死んでも死ななくても同じだということです。 死んでも死ななくても意味はないのですから。 生きなくても別にいい、勉強しなくても別にいい、働かなくても別にいい、死んでも別にいいのです。それをすることに意味はないのですから。意味がないことをしても無駄です。 意味の無いこの世に生きていてなにか楽しいことが起こりうると思いますか?楽しいか楽しくないかは価値を判断しています。それは意味があるかないか、判断したうえでの楽しいか楽しくないかです。この世すべてに、意味がないのですから、楽しいという思いもありえません。楽しみをみつけようとしても無駄です。そんなこと意味がありません。

noname#254711
noname#254711
回答No.11

人は誰でも死にます。 死を逃れる事が出来た人は居ません。 人間の最大の恐怖は死です。 死を意識して悩むことから「宗教心」生まれました。 動物は死を意識している訳ではなく、ただ本能的に恐れているだけです。 人の生と死を切り離せない以上、宗教心は無くならないでしょうね。 無心論者が多いという日本人ですが、遺体を弔うぐらいは 誰でも行なうかと思います。それにはわずかでも宗教心が有るからでしょう。 人はそれぞれの価値観が違うと認めているにも関わらず 皆が満足すれば・・・というのは大きく矛盾していませんか? その価値観が違う、皆が満足する事は無いであろう集団が 一つの社会で生活しているからこそ、色々な問題(戦争)が起きるのです。 時には統率力のある少数の人間に従って、まとまっているようにはなっても 時が経てば、また分裂したりしています。 これまでの人間の歴史を見れば理解できるでしょう。 本来ならばバラバラな考えや意識を持ちながら いくつかの集団となって社会生活を営む動物であるのが人間です。 非常に矛盾した動物・・・それが人間なのです。

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       ある人の考え。 無い神は有るとゆー。 無い神も有る神も等しく神であり同じであるとゆー。 無神論は無い神を信じる宗教であり、無宗教も宗教であるとゆー。 多くの日本人は神にも宗教にも関わりたくないとゆーておるのに、無理やり無い神を持ち出してきて神と関わらせよーとする。 まるでカルトの引っ張り行為である。 結局初めに神が存在せねばならず、神なくしてこの世は成り立たず、全てを神によって語ろーとしているのである。 無神論を含めあらゆる人の活動は宗教活動であると見なすのである。 このよーな考えは何から生まれるのか。 何故このよーに考える必要があるのか。   

  • 何故宗教は信仰されるのでしょうか

    今現在、世界には様々な宗教があります。ユダヤ教、イスラム教、ゾロアスター教、仏教、オウム真理教など種類も信仰の対象も様々です。 しかし、私には何故宗教が信仰されるのか今ひとつ理解できません。 世界史的に見ればほとんどの宗教は神権政治や民衆反乱によってできた、つまり人が人を動かすために都合のよいからという理由で生まれてきているということです。そして宗教は基本的に神と呼ばれるものを信仰しますが、今日に至る過程の間に宗教同士が混ざり、神が混ざり、新たな神、信仰が作り出されるといったことが少なからずありました。現在においても同じ宗教でも考え方に相違がある、等ということがあります。 人類はここまで宗教のルーツについて客観的な調査ができています。それなのに何故、人類は人類自らが人民誘導のために作り出した宗教を何の疑いもなく信仰できるのでしょうか? 現在キリスト教には20億人の信者がいると言われています。そしてその起源はユダヤ教にあるとされています。そのユダヤ教もバビロン捕囚によって精神的に追い詰められたイスラエル民族がまとまりを取り戻し再び歩み出す際に生まれた宗教です。実際に誰も神の世界を見たわけではないですし、世界を想像した主が信じるものしか救わない、それも必ず救われるわけでもない。(信じて救われるのなら人は死にません。)そんな確かな存在証明もされていない神を本当に20億人もの人が信じているのでしょうか?(例えば、まだ宗教のルーツが完全に把握できておらず、なおかつ神がいたという古代人による表記が多数見つかっている、とかならまだ神はいないという意見に確証性が足りないので理解できないでもないですが・・・) 私は無宗教ですので宗教を信じる人の気持ちを理解しているわけではありません。しかしこうも条件がそろうと神を信じている人の言うことよりも神が人為的に作られた架空のものであるという考えのほうが辻褄があうのでは、と思います。 宗教の自由についてとやかく言うつもりはありませんが、一体何人の宗教信者が史実を理解し、それでも神はいるという確証性のある持論を持ち信仰をしているのか疑問に思います。 どなたか詳しい方ご教授をお願いします。 また、私は世界史についての学があるわけではないですし、宗教についても見当外れな知識や、差別的な見方を持っている可能性があります。この文を読んで不快感を覚えた方には深くお詫び申し上げます。