• ベストアンサー

関所は本当に有効だった?

時代劇などで、通行手形を持っていないため関所を通れずに難儀するといった場面がよくあります。 が、関所という施設が地域の境界すべてを取り締まれていたとは思えないのですが、実際どうなのでしょうか? つまり、関所が近くにないところ(山の中とか)を通ってしまえばいいのでは、と思うのですが・・・

  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数3

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • outerlimit
  • ベストアンサー率26% (993/3718)
回答No.6

室町中期~織田信長の直前は 本来の関所有名無実化し ほとんど全てが、有力社寺が通行料を取るのを目的とした私設の関所した 近江から大阪までに数十の関所で通行料を徴収された記録があります 江戸時代の関所が本来の関所であったのは、天草の乱の頃までです それ以降は 単なる建前の存在です 江戸の木戸は 夜は閉めて 通さないようことをまことしやかにのたまう人がいますが、実際は 木戸が閉められるようなことは無かったようです 特に 中期以降は 木戸番はいても 閉めることのできるような木戸などは無かったことが 浮世絵を見れば確認できます 特に 明治以降 江戸時代を悪く言う必要性を感じる人が多く、有ること無いこと、苦しい不自由な時代だったとキャンペーンを張っています 国民の大部分がそれに乗せられ、偏見で見ているのが現状です 質問者の想像している通りです 取締りの要員などほとんどいません 百万の人口を擁した江戸でも 現在の都庁・警視庁の職員に相当する役人は 300人程度です ほとんど全てが 庶民の自治にゆだねられていました 参考になる書籍が多数発行されていますから、お読みになるとよろしいでしょう

その他の回答 (5)

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

日本民俗学者の宮本常一の「塩の道」(講談社学術文庫)を読むことをお勧め致します。人間のみならず動物は塩無しでは生きてゆけません。日本中の山の中に縦横に巡らされていた塩の道を通って、関所を通らずに日本中どこにでも旅をすることが出来たそうです。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.4

関所は戦国時代以前にも存在し、その主要な任務は前進陣地や軍隊の駐屯地を意味しました。 戦国期には主として徴税の為に置かれ、通行税を徴収しその代わりに安全を保証するようになり瀬戸内海の海上関所も地方の水軍が設けていました。 江戸時代の関所の実体は他のご回答のとうりです。

  • hukuponlog
  • ベストアンサー率52% (791/1499)
回答No.3

箱根の関所資料館などで記録を見ると、うろ覚えですが、江戸時代全体を通して関所を通らず、正式に「関所破り」として捕まった人は200人程度(つまり年間一人程度)だったと記憶しています。その中で実際に死刑になったのは一人か二人だったように思います。記録を読んで意外に感じた記憶があります。 では、実際に抜ける人がそんなに少なかったのか、というとそういうわけでもないそうです。一つは、裏道を通っているところを巡視の役人が見つけても「道に迷った」という名目にして、その場で街道に戻してしまうことが多かったとか。実際問題として、悪意を持って関所を通らない人よりも、時刻が過ぎてしまったとか、時間が無いなど、実務的な理由で関所を通らない人の方が圧倒的で、それをいちいち大罪扱いしたのでは、役人の方も面倒で仕方ない、ということらしいです。これが年間で数十人だそうです(これは役所の方に記録が残る)。まぁ、軽微な交通違反を警察官が、お説教で済ますみたいなものなのでしょう。 逆に言えば、捕まった人がそのくらいいて、その程度の処置で済むのですから、見つからずに抜ける人も相当数いたのではないでしょうか。残念ながら、こちらは非合法ですから記録が残っていないので確認のしようがないのですが。

  • Kon1701
  • ベストアンサー率24% (1445/5856)
回答No.2

関所、すぐ近くに抜け道が作られている場合もありますね。 これは関所の近くに住む人が、関所が閉まったあとに通ったりするためのものです。 さて、関所の有効性です。現在では幹線道路を通らなくてもいろんな道があり、通ってもだれも不審に思わないでしょう。 ですが、江戸時代は人の行き来が非常に限られていました。裏道に相当するような道、近くに住む人など、特定の人ばかりが使う道見たいな感じのところが少なくなかったようです。そんな道を通るとすると、近所の人に不審に思われてしまうでしょう。少なくとも、近くに住む人に見られたなら、記憶に残りやすいでしょう。 また、裏道も街道として整備されているわけではないですから、通るのも楽とは言いがたいと思います。宿や食料調達も 裏道を抜けること、特に関所を通りたくない理由の有る人にとっては、現在の感覚で考えるほど楽ではなかったようですね。

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.1

仰るとおり、裏の間道を通ってしまえば分からないです。 一応、関所破りは重罪で、死刑です。 が、ほとんど死文化していますね。この罪で裁かれた人は、国定忠治位じゃないでしょうか? 実際、これらの関所が意味を持っていたのは、江戸に鉄砲を大量に持ち込むことを防ぐこと、江戸から大名の妻子が逃げるのを防ぐこと(逃げる人も居ませんでしたが)、および税金の徴収の意味位でしょう。

関連するQ&A

  • 江戸時代の関所って関所を通らなくてもよかったのでは

    江戸時代の関所ですが、別にそこの関所を通らなくても迂回することは可能ですよね?例えば箱根の関所ですが、やる気になれば街道から一歩山の中へ分け入り、そこから関所を越すという感じでやれば関所を通らなくてもOKのような気がします。もちろん道なき道をわけいるのは面倒で勇気のいることだとは思いますけど、やってやれないことはないと思います。 入り鉄砲・出女と言われますが、鉄砲商人だったら死ぬ気でやれば見つからずにできたと思います。今みたいに山の中へ入ったら装置が作動して電気が付くなんていう事もできなかったと思いますし。あと時代劇とかで出女が関所を通るときに身分を偽って顔を隠すみたいな事をしていますが、これも関所を通らずに別のルートで出て行けたような気がします。 そこで質問ですが、関所はそれなりに機能はしていたと思いますが、本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

  • 渡世人の旅がらすと関所

    歯牙ない渡世人の旅がらすは関所はどうやって通ってたのですか?関所のあるところは行かなかったのですか、通行手形をそう用意してるとは思えないのですが実際はどうなんでしょう。

  • 江戸時代の関所には関銭はありましたか?

    室町時代の関所には関銭を徴収するという習慣がありましたが、それは信長・秀吉の時代に廃止されたというのは歴史の本などにありました。 江戸時代の関所は「入り鉄砲」「出女」の取り締まりのための関所で通行手形がある人が通れたというようなことかと思いますが、そこでは「関銭」「VISA発行料」のようなものがあったのでしょうか?

  • 江戸時代の藩の権限と通行手形について

    江戸時代の時代劇の中で藩と幕府は現在で言えばどんな体制なのでしょうか、たとえばアメリカの連邦制や日本の現在の都道府県と政府の関係なのでしょうか。また、藩と藩をまたぐのに手形を見せろという場面があり手形とは何でしょうか、またなぜ通行手形が必要なのでしょうか、 また手形はどこで売っているのでしょうか。時代劇をみて歴史の勉強をしたいと思いますのでよろしくお願いします。

  • 箱根の関所の位置はあそこですか?

    先日箱根旅行に行って関所の再現場所に行きました。 リアリティーを求めてこだわったとのこと。 で、位置なんですが、 以前の自分の想像は箱根の山の中と思っていました。 実際いまの再現場所は湖畔です。あれが、以前のほぼ関所の位置なんでしょうか? よろしくおねがいします。

  • 近世民衆の旅における出国手続き 特に女性について

    (私は、近世民衆の女性の旅について研究しています。) 一般に、近世にはいり、参詣や物見遊山の旅が盛んになったと言われていますが、近世(江戸時代)、町人や商人、村人や農民がそのような旅に出る際(他領へ向う際)の出国手続きなどについて知る人はいませんか。 論文中に、藩に願い出が出されたや、許可なく抜け参りしたとあるのですが、出国手続きについてはっきりとよくわかりません。 今分かっていることは、関所を通過する旅路の場合、関所手形の申請が必要で、その際はその身分や出身地によって、手形を願い出るところや発行権者がきまっていたということ、そのほか、当時身分証明書になり、宿屋や各藩の番所通過に必要であった往来手形を申請しそれを持って旅したということです。 この手形の類は、庶民の場合、庄屋に願出ていて、論文中に見える、藩に願い出たという言葉と頭の中でうまく理解できません。 手形の申請とは別に、藩への願い出の必要があったのでしょうか。 それとも、出国手続きは、手形の申請がすべてだったのでしょうか。 また、ややこしくなってしまうのですが、当時、女性が関所破りをすることも多かったのですが、関所手形は、取りにくいものだったのでしょうか。 論文では、関所での改めをわずらわしく思い、また、関所の取り締まりも時代が下るにつれて緩くなったため、関所破りをしたというような文面が見えるのですが、関所手形自体が取りにくいものだったのかどうかよくわかりません。 (それぞれの藩の女性に対する規制や、女性の他出を好まない風潮によって、取りにくかったりしたのでしょうか。) また、往来手形は必ず持参したのでしょうか。 (旅が盛んになり、見た目にあやしくなければ、宿屋は泊めてくれたのではないか、尼の姿になり巡礼などした人は、往来手形のようなものを必要としたのかな…、関所破りのように、藩の番所もゆるかったり、抜けたりできたのかな…など疑問。) 論文で何かひっかかることを読んだわけではないのですが、関所手形について言及するも、往来手形については論文中に現れず、実際往来手形は持参されていたのか、なんとなく疑問に感じました。 また、話が少し戻るのですが、もし、藩への願い出が手形の申請のみであれば、その場合に往来手形を持参せず、関所を通らない旅路の場合、藩には許可を取ってない形の旅になるなぁと思いまいした。 どうでしょうか…?? また、このほか、かなり、あれこれ憶測で話し、話があちこちするのですが、旅日記を残した女性で長い旅をした女性(たとえば山梨志賀子は、裕福な家庭で家事労働からも解放された年齢で息子とともに西国へ長期旅行にでるも)関所手形を持たず旅しており、ここでもまた、関所手形をなぜ取らなかったのか、それとも取れなかったのか、一般に女性は旅に出にくいイメージの中、かなり自由に長期の旅に出ているから、関所手形をもってないということは、藩の許可は取っていなかったのかなども疑問です。 また、筑前?の小田宅子の伊勢詣の旅も、当初予定していなかった善光寺へ参った際の関所破りは別として、当初は伊勢までの予定であったので、関所手形ははじめから持参していなかったようです。 この場合も、藩の許可とってたのでしょうか… うまく言えないのですが、女性の他出がしにくいイメージと、旅日記を残したような女性の自由な行動が頭の中で結び付かないのです。 そこで、出国手続きや、藩の女性に対する他出の規制やその実際の効力の程度をせいりしたいのですが、あまりに無知で頭の中が混乱し整理しきれず、これといった論文も見つけられず、困惑しています。 あれこれ訳分からなくなっていますが、何か少しでも参考になるようなご意見、知識、サイト、論文などご存知でしたら教えてください。

  • 合羽に三度笠の人物について

    よく時代劇で登場する、合羽に三度笠のアウトロー的な人物についてです。 1.こういう人達はどういう人達なのですか。 2.関所用の手形は入手できたのですか。  3.生活費をどうやって手に入れたのですか。 4.一生の終わりは無縁仏のような扱いを受けることが多かったのですか。 5.その他、知られざる情報を教えてください。 以上宜しくお願いいたします。

  • 江戸の境界線は?

    時代劇を見ていると、役人が罪人に対して「江戸ところ払い」を命じている場面が登場することがありますが、江戸時代の江戸の境界線は、現在の東京都と他県との境界線と同一だったのでしょうか?

  • 時代劇の殺陣のような切り合いが本当にできた?

    時代劇を見ていて、いつも感じるのですが、殺陣のシーンで両者が思い切りお互いの刀をカチーンと刃の部分を合わせて暫くにらみ合うという場面がありますよね。 つまり相手の打ち込みに対する防御の意味で自分の刀の刃の部分を使う形です。 チャンバラといいますが、「チャン」 の部分がこの刀をぶつけ合った時の音からきているように感じています。 考えてみると日本刀は凄まじく切れ味が鋭いと聞きます。 両者ともそんな日本刀だった場合、刃の部分はどうなるのでしょうか?  一度合わせただけで、両方とも刃こぼれし、何回も繰り返すとノコギリのようにガタガタになるんじゃないかと思うのですが ・・・ 実際、本当の切り合いの場面でこんな事をしたのでしょうか? それと、もしやれば刃の部分はどうなるのでしょうか? 参考までに時代劇のように主人公ひとりで何人も倒すというのはあり得ないという事は理解しているつもりです。

  • 六郷の渡し、矢口の渡しについて

    江戸時代、“渡し”は関所の役目も兼ねていたと聞きます。特に六郷の渡しは、川崎から江戸へ入る時、不審者を江戸に入れぬよう厳しかったと聞きます。そこで質問ですが、では江戸方面から六郷の渡しを渡る時、(川崎宿へと下る時)はやはり対岸には関所のようなものがあったのでしょうか?また、手形は必ず必要だったのでしょうか? また、多摩川には“六郷渡し”“矢口渡し”“平間渡し”“丸子渡し”などがあったようですが手形が要らない&怪しい人物・団体でも比較的簡単に渡れた場所はどこでしょうか?また、そういう人たちでも多摩川を渡るときは渡しを利用していたのでしょうか? 私は小説を書いていまして、今六郷川を5人の団体(ちょっと怪しそうな)が川崎宿目指して渡る場面を書いていますが、お忍び道中なんです。品川宿からずっと東海道を藤沢まで下るという設定ですのでどうしても六郷を渡るようにしたいんですが、果たしてこの5人は通ることが可能なのか、こういう団体が引っかかる事はなかったのか知りたいのです。宜しくお願い申し上げます。