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《われはブッダなり》と宣言する人は

 どのくらいいらっしゃるでしょうか。  人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために 余は巧妙な手段を語る。 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく この世に教えを弘めるのだ。 その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五   〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

noname#80116
noname#80116

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.7

あー、少し分かった気がします。 ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 それは正しいし必然だと感じます。 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。

noname#80116
質問者

お礼

 如来寿量品の一節が 評判が悪いようですが その前後をも掲げておきます。(20080310記) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・ そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。 多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・ 〔《さとり》の境地を示し・・・の一節が入る。〕 かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。 余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。 この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。 そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。 《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。 あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》 他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。 ・・・(中略)・・・ 余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く 無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。 賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。 余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。 ・・・ 余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。 愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り 入滅しないで入滅したと見せるのだ。 それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は 信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。 しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り 《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。(岩本裕訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#80116
質問者

補足

 はづかしながら shift-2007さんは わたしにとって ソクラテスの産婆さんのようなのですね。こんなに多くのことばを費やして翻訳しないと 伝わらなかったとは 残念であり 恥づかしいです。  そうです。ふつうの生活態度の問題として ふつうの思いやりのいとなみであると言えばよかった。つまり ★ ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 ☆ ただ ★ それは正しいし必然だと感じます。 / 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ と書いてくださったということは かなり道が開けましたね。そして もしそうなら もっと《われはブッダなり》の問題を指摘して 広く明らかにしていきたいと思うのですが shift-2007さんにも その方向でお願いしたいと存じます。(なにか おかしな運動になってしまったようですが なお質問のかたちで 広く対話を求めていくのがよいと思います)。  あれっ。それはそうと まだ 《補足要求》なのですか? どうしてでしょう? ★ 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ この問題は 一方で 個人個人がその考え方や生活態度の模索の上で突き当たるものであるでしょう。そして 他方では ブッディスムが 思想にとってあるいは理論としての構成の上で その性格や特徴が どのようになっているかにかかわっていると考えます。つまり わたしたちにとっては これら両面において 広く対話をすすめていくという務めがあるように思います。  後者としては ブッディスムは あくまで実践思想であり そう言うほどに やはりあくまで 人為としての領域にとどまる理論であるということだと考えます。ということは 前者の生活態度の現場においても じっさいのところ なにかあの世のことであるとか 超能力のことであるとか そういう方面のことがらは まったく関係のないことだと言わなければならないはづです。  このような将来を見越した(あるいは もともと仏教はそうだったかも知れないところの)問題について その具体的なあり方は こうなのだといった視点などをも回答してくださると ありがたいです。また とうぜん 反対という立ち場の方もいられることでしょうから そのご見解を寄せていただいて 回答を深めていただければと思います。どうぞよろしくお願い致したいと存じます。

その他の回答 (32)

noname#58770
noname#58770
回答No.33

どうも。 退会したんですが 名無しで、あたかもタヌキにだまされるように 騙られるのもなんなので 戻ってきました。 私が疑問だったのはなんだって、 法華経を引用したのかってことです。 法華経は扱うには人間が面倒です。 というか大乗仏典の場合はみんなそうですが…。 仏教徒はきちんと仏典の内容知っていますか? 知った上で仏教徒やってるんですよね。 あの上座仏教徒なら 教典の内容で批判しあえたから有意義だったですがね…。 理性は必要ですねぇ。 でも、批判不可能と言うのが、まさに宗教なんですけどね。

noname#80116
質問者

お礼

 そうですね。  別の目的にあてはめるなら ラクダを針の穴に通そうとしているようなものですかね。  直前のお礼欄に書いたように さらに 考えが進みました。深まったと思っています。と言っても けっきょく 思想や信仰についての 枠組みを 明らかにする作業におさまるようなことですが。(それは そうです。良心・信教は自由ですから)。  法華経を引き出してきたのは 案外 信仰の要素もあるということ その確認です。つまり いい意味でも わるい意味でも 経験思想を超えるところもあるようです。  つまり いい意味でというのは ふつうの信仰一般に通じると言えるようですから。  わるい意味というのは 人や物など経験事物をも貴いものとし これを崇めるようにならないとも限らない。信仰ではなく 単なる思い込みなのですが。つまりたとえば ブッダの遺骨あるいは経文におけるその文字観念 これを あたかも 超経験の力のあるものとして頭に頂くあり方です。(まぁ 人びとは 霊験あらたかなら 崇め そうでなければ どうでもよいものと思っているでしょうが)。  思考あるいは志向の方向性やその構造的な枠組み これを 明らかにして 共通の認識としておくこと。これを目指しています。

noname#52783
noname#52783
回答No.32

似たか寄ったかが 言いあっとる 同質でしょ

noname#80116
質問者

お礼

 法然の登場によって 《例外無く皆が 称名念仏によって またその自力を超えた他力によってこそ 平等に 救われる》という革命が――しかも それは まったく 思想にとって ふつうのことであるというべきなのだが―― 起こったあと ブッディスムの変容が決まった。  その結果 二つの姿が――論理的な仮想としてでも―― 見られる。  ひとつは 日常普通の生活態度におさまる。  ひとつは ふつうの信仰一般という姿勢に行きつく。  前者は 江戸時代の鈴木正三の変革をとおったもの。山本七平が言い出したことだが きわめて簡単に拡げて言えば 人生かつ生活の全般が 仏道修行であるというもの。つまり ブッディスムは 生活態度や日常茶飯事の振る舞いへと 発展的に解消していった。  後者は 親鸞の革新をとおったもの。わたしは 以前は 親鸞ですでに 絶対他力のもとに 信仰一般の立ち場が表わされたと思っていたが かれにおいても まだ 自力が残っているとの説も聞いた。いづれにしても これを推し進めれば 経験思想を超えるところの信仰一般である。  まとめると ブッディスムは その説くところが 性格内容として あいまいである。経験思想として ふつうの生活態度に還元される行き方が ひとつ。はっきりと言っていないけれど 究極ではあくまで 信仰が そもそもの基礎であるという立ち場。それ以外には ありえないように思われる。いかがでしょうか。

回答No.31

もう一度言いますね,仏法はあくまで実証主義(勝つか負けるかの勝負)ですから貴方がいくら屁理屈な種々設問されてもそんなものは枝葉の問題で取るに足らないものであるということです。以前私がお答えしましたように日蓮大聖人御書全集に貴方が問われていることがらについては全て解答され,破釈されておりますので,勉強してください。勉強されてから問いをされてくださいね。時間の無駄ですから,無知な人には仏法の本質は到底理解はできませんから。末法の御本仏は日蓮大聖人のみであり,これは歴史が証明している事柄です勉強してください。人本尊開顕の書である「開目抄」の最も大切な請願の部分を参考に記載しておきますね。貴方には到底理解はできないでしょうけれども貴方を救済する意味で書かせていただきます。「詮ずるところは天も捨てたまえ諸難にも会え身命を期とせん,身子が六十功の菩薩の行を退せし・乞眼の婆羅門の責めに耐えざるゆえ,久遠大通の者の三五の塵をふる・悪知識に会えるゆえなり,善につけ悪につけ法華経(南無妙法蓮華経)を捨つるは地獄の業なるべし,大願を立てん日本国の位を譲らむ,法華経を捨てて勧行等について後生を期せよ,父母の頸を刎ねん念仏申さずば,なんどの種々の大難出来すとも智者に我義破られずば用いじとなり,その他の大難風の前の塵なるべし,我日本の柱とならむ・我日本の眼目とならむ・我日本の大船とならむ(主師親の三徳)等と誓いし願い破るべからず」,貴方が可哀想ですから再度言いますね,理論の遊びをしていないで,実践をしてください。今のままでは貴方は無限地獄に堕ちますよ。

noname#80116
質問者

お礼

 あなたとのあいだに 《自他の隔意を立て》ないで 善悪を飲み込んで 対話をしようと思ったわたしが あさはかでした。  わたしは 可哀そうだとは思わないので もう何も言いません。

回答No.30

多くの菩薩・仏師等の言はその時々の衆生の機根に併せ説いていますので,現代には通じなくその功力も当然あるわけはありません。凡夫はそれに惑わされ理論ばかりに振り回され,自分が唯一のブッダなんという輩も出てきます。全てが自分の命のなかにある元品の無命(第六天の魔王)のなせる力なのです。これについては一念三千の生命論に詳しく説明されていますので読まれたらいいと思います。釈迦の出世の本懐については,崇峻天皇御書に「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり,不軽菩薩(釈迦の過去世の姿)の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ,穴賢・穴賢,賢きを人と云いはかなきを畜という。」さらに,付け加えておきますね,御義口伝・常不軽品三十箇の大事第二十三無明礼拝住処の事「御義口伝に云く自他の隔意を立て上慢の四衆・我は不軽と云う,不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり,此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。」

noname#80116
質問者

補足

★ 多くの菩薩・仏師等の言はその時々の衆生の機根に併せ説いていますので,現代には通じなくその功力も当然あるわけはありません。 ☆ だとすると 現在 あなた自身のブッディスムを説いているあなたは 《菩薩・仏師等》に入らないのですか。入るなら その《言》も 対機説法で また 時代情況に合わせたものでしょうか。 ★ 凡夫はそれに惑わされ理論ばかりに振り回され,自分が唯一のブッダなんという輩も出てきます。 ☆ 《自分が唯一のブッダである》と言う輩が 二人以上出てくるとおもしろいですね。 ★ 全てが自分の命のなかにある元品の無命〔* 無明?〕(第六天の魔王)のなせる力なのです。これについては一念三千の生命論に詳しく説明されていますので読まれたらいいと思います。 ☆ 《元品の》という修飾語と《第六天の魔王》という言い替え説明がついていますが ブッディスムなら 《無明》が 根本の原因だということは 前提にしてご回答を寄せてください。 ★ 釈迦の出世の本懐については,崇峻天皇御書に「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり,不軽菩薩(釈迦の過去世の姿)の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ,穴賢・穴賢,賢きを人と云いはかなきを畜という。」 ☆ 《欺かれても 〈われ 汝を軽んぜず。むしろ敬いましょう〉と言って生きることが 〈出世の本懐〉である》ということでしょうか。 ★ さらに,付け加えておきますね,御義口伝・常不軽品三十箇の大事第二十三無明礼拝住処の事「御義口伝に云く自他の隔意を立て上慢の四衆・我は不軽と云う,不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり,此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。」 ☆ 直前の《ブッダの出世の本懐》を揚げて棄てたかっこうでしょうか。つまり 《不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり》というからにはです。つまり 《此に立って礼拝の行を成す時 善悪不二・邪正一如》の境地が開けるということでしょうか。  ただいま新しい質問として《Q:何が正しくて何が悪いか》が出されていて そこでは 《殺生とて 絶対悪だとは思えない。これは まちがいでしょうか》と問うています。そういう疑問の行き着く先といった意味での《善悪不二・邪正一如》ではないでしょう。とすると まだこの説明だけでは 誤解が生じると思うのですが いかがでしょうか。  《自他の隔意を立て》ないなら たとえば殺生は どういうふうに捉えられるのか 是非知りたいところです。《本有無作の三身》なら どう振る舞うのかです。

noname#52670
noname#52670
回答No.29

注意。 今回のこの質問での私の回答は 過去、いろいろな仏教徒及びそれ以外の宗教及び 無宗教者、無神論者に受けた非難を そのまま仏教に当てはめて 回答しています。 いろいろ申し訳ありません。

noname#80116
質問者

お礼

 さらにこういうことを考えました。思い浮かんで来たことがらです。  つまり もし大きな池の傍らの田を作る人が 組織を挙げて わたしたちに     わたしたちは最大限の努力をもって 生まれ変わる。    どうぞ見守ってください。     そして 日本のため・世界のため また 一人ひとりのために 共に   力を合わせて 社会をよくしていきましょう。 と声をかけて来たばあい どうするかです。その問いかけの場面が わたしの頭に 前からの続きとしてのように 浮かんだのです。すぐに答えを要求している様子ではなく その一場面だけが浮かんだのです。  拒む姿勢は取り難い。・・・!?

noname#80116
質問者

補足

 末木文美士著『日本宗教史』をめくっていて 思いついたことです。  あくまで 思いつきです。  《我れはブッダなり》と宣言したあと これを止揚した独立主観として 《第一の道》が現われるだろうと考えていましたが これに至る道筋を ふと 思いつきました。  まづ《第一の道》としては    ・ ブッダからおそわったのだけれど もうブッダのそのおしえを揚げて  棄てている。実質的に保っているが そのありようは すでに別の思想と  して わたしの中に 生きている。ふつうの経験思想 あるいはまた ふ  つうの生活態度の問題となっている。 (1) つまりこれに至るブッディスムの中における変革の兆しとして まづ 末法の到来がからんでいるのでしょうか 《本覚思想》という考えが出ます。    もともと本覚は内在的な原理 または目標としての悟りであり 現実   をそのまま肯定するものではなかった。ところが その本覚がすでに実   現していると考えられるとき 現実がそのまま究極的な真理の実現とみ   なされることになる。   (末木文美士:『日本宗教史』p.71) (2) 私度僧というのでしょうか 聖(ひじり)としての仏教者も出たあと 法然の根源的な変革が現われました。    口称による称名念仏こどが阿弥陀仏の本願によって選択されたもので   あると説いて 仏を観想する観念念仏や念仏以外の諸行による往生は困   難とした。・・・   また 富貴・貧賤 智慧・愚癡 多門・少聞 持戒・破戒を問わず 阿   弥陀仏は平等に救済するという説は 多くの人々の共感を呼び 聖たち   をはじめとして多くの信者が集まった。・・・(p.74) (3) 行き過ぎとして 《どのような悪もなし放題という造悪無礙といわれる主張をなすものも現われた》(p.74)というところまでくれば 貴重な中核をなす思想は 保ちつつ あとは ブッディスムの看板を不要とするひとり立ちの別様の思想が現われても おかしくないというようにです。  ちょっと乱暴だったでしょうか。

noname#52670
noname#52670
回答No.28

「人を崇めるのであるならば」 いやそれは無駄なんです。 仏・法・僧これを独立させて考えると 仏教徒の都合のいいようにやられます。 ほんとうに。 法が存在するから構わないや、 教団が存在するからなどやられます。 なぜ、誰も言わないのでしょう。 神も人間が作ったというのなら 法を作ったのも人間だと言うことに。 仏法など、人間が作り出したものに過ぎないことを。 どうして誰も言わないのでしょう。 勝手に仏教というファンタジーの世界で ブッダ・凡夫とやっているだけです。 夢から「覚める」なら 何もなかったことに気づくでしょう。 裸の王様だったことに気づくでしょう。

noname#80116
質問者

お礼

 わたしの内で変化したことがらを 記します。  (1) 《第三の道》と言いましたが どうも厳密な概念規定ではなかったようです。  それは やはり いづれにしても 《親離れ》し《ひとり立ち》する姿でしかないと考えました。つまり そのまま ブッディスムを揚げて棄てる・つまり棄てて揚げて保った別個の思想としての第一の道に吸収されるか。それとも たしかに別様に 一定の信仰の立ち場として立つかです。  (2) ブッダ宣言うんぬんという問題を ブッディスム全体の中からそのブッダという人間のことだけ取り出して 論じても 始まらない。つまり ★ 仏・法・僧これを独立させて考えると  仏教徒の都合のいいようにやられます。 ☆ ということのようです。  もっとも わたしが教わったところでは サンガは 専門の出家した僧侶のそれだけではなく 一般の人びとの集まりとしての《四方サンガ》もあると言います。つまり 社会一般のことです。  そうすると けっきょく 法も 社会の人びと一般・人類の歴史一般として とうぜん 拡がっているはづです。つまり けっきょくは どうしても《ブッダ》と言いたいのであれば 《目覚める》人――あるいは たしかパウロのことばだったですか 《目からうろこが落ちる》という体験をする人―― これは 実際のことなのですから すべての人について 《人はブッダである》と言えばいいんですよ。と思います。  サンガ(僧・集まり)も社会一般としてあり 法(ダルマ)も とうぜん 世界普遍としてあり ブッダも 人間一般としてある こうであれば 確かに ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なぜ、誰も言わないのでしょう。 神も人間が作ったというのなら 法を〔*少数の悟れる人々に限るかたちで*〕作ったのも人間だと言うこと〔を〕。 仏法など、人間が作り出したものに過ぎないことを。 どうして誰も言わないのでしょう。 勝手に仏教というファンタジーの世界で ブッダ・凡夫とやっているだけです。 夢から「覚める」なら 何もなかったことに気づくでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということこそ むべなるかな です。こころの《開け》の問題でもあるようです。

回答No.27

法と社会 http://www.path.ne.jp/~millnm/idoltry.html ↑ ここを見てきました。 ******************************************************************************* どのような形であっても、親切心や愛情を御言葉よりも優先させることは偶像崇拝なのです。人を裁き非難する傾向の強い人もいれば、何でも許してしまう人もいます。しかし、どちらも信仰の人と言うことはできません。どちらも神の御言葉よりも人間的気質に支配されているからです。偶像崇拝はこのような気質から生まれるのです。第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています。偶像崇拝を文字通りの偶像脆拝行為に限定してしまう人は、聖書を誤解しています。私たちは、パウロが貪欲を第一の偶像崇拝と定義したことを忘れてはならないのです(ガラテヤ3:5)。 ******************************************************************************** お返事いただいてから、ここを読んでみたのですが、?????ハテナが飛びます。 親切心や愛情を/御言葉よりも/優先させることは/偶像崇拝なのです。 言葉(法律)を原則とおくと、原則に従うことは偶像崇拝(絶対)であるともとれなくないですか? 法律の下におかれた人においては。 で、裁量として情状酌量という計らいがあるのは、親切心や愛情やらを こととものにおいて鑑みられるからなのですよね? んでも、上記の文の中では 親切心や愛情を御言葉よりも優先させることは偶像崇拝なのです。とある。 人を裁き非難する傾向の強い人もいれば、何でも許してしまう人もいます。 しかし、どちらも信仰の人と言うことはできません。 ↑ 信仰の人と言うことはできません。ということは、信仰の人と言うのは親切心や愛情(感情)を優先させる者であって、親切心や愛情(感情)の希薄若しくは二の次にする者は偶像崇拝者とは認められないとも言っているようにもとれませんか。先の文言、御言葉を法に当てはめた場合、偶像崇拝者は御言葉(法)を優先させた者となってくる。?????と、頭がこんがりそうになる。後に続く文を読めば読むほどに、第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています。とある。 「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される、 意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」 頭がこんがらかってくるので、ここで一旦あげます。

noname#80116
質問者

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 littlekissさん まだ試運転ですよ。  いちばんの問題は こうです。神の貌(かお)を わたしたちは この生身のからだで生きるかぎりでは 見ていません。それが 社会や歴史という鏡にうっすらと映ったかたちで 見ているだけです。  というよりも もっと精確に言えば しかもなお それを謎において見ています。――ということは その鏡に映った像も じつは 神の貌そのものではありません。《謎》とは不明瞭な寓喩だそうです。明らかな形でないだけではなく なお譬えなんだそうです。その謎において われらが神を見ようとしています。《たとえ》だというのなら そのことば通りに取ってはいけないということになります。《不明瞭》だというのなら しかしながら 明らかに見るというのぞみも あるということです。  ということは 全体として 社会のなかで人の為すこと考えることのいろんな姿としての鏡の像をとおして――あくまで その像を譬えとして その文字通りの像を超えたところに―― 神の声を聞くという寸法だそうです。  鏡の像を神そのものだと見なすことは たしかに偶像崇拝なのです。  《親切心や愛情》は そのものとして 鏡に映った像です。この世のわたしたち人間がおこなったり考えたり思ったりするその姿であるにほかなりません。  敵をも愛するどれだけ深い愛情であっても 人間の為すおこないとしては 仮りの像であって 神の貌ではありません。(この神の貌のことを 《御言葉》と言っています)。と同時に その鏡の像の向こうに わたしたちが こんなにも熱き心でその奥底から喘ぎつつ呻きつつ いつか見られると俟ちのぞむ我れらがふるさとが いま非在のかたちで その非在ゆえにこそ現在すると これまでの信仰の教師たちは 説いて来ました。その《いまが めぐみの時 いまが すくいの日》(コリント後書6:2) だという法螺さえ吹いています。わたしも 吹くのですが どうでしょうか。 ★ 第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています ☆ これは モーセの十戒のはじめの二つを言っているようです。  宣教のようになってしまいました。つまり このようにキリスト信仰の場合には 仮りに《われはキリストなり》と宣言したとしても あくまで 仮りの像だということが 分かります。しかも はじめに《神は 人間を 自分の姿にかたどって 造った》というのですから 謎において むしろ偶像のごとくあるということかも知れません。  それに対して ブッダの場合は――その人間としてのブッダのほかに その法則であるとか あるいは その求道者らの集まりであるとかを含めて―― その像(とくに おしえとしての概念・理念・観念など)がきわめて あいまいな形の位置づけになっていると考えられます。(この点は すでに 次のご回答の内容を わたしが勝手に 採り入れて 述べています)。つまり 神か 神の貌か その偶像か 単なる鏡の像かなどです。

回答No.26

こんばんは、brageloneさん。 先に理をひとつ、宗教のことよう知らんのです。 よう知らんもんの回答としてお読みいたたければと。 あっ!知らんかったら回答するな!との突っ込みは勘弁 m(_ _)m 《われはブッダなり》と宣言する人は 今回の質問の《        》が付いているのは何でかな?と、 《        》の中の言葉を置き換えてもよいのかなー? ぼへーと質問文を眺めつつ、どっかから借りてきた新約聖書の本をめくり中をぱらぱら。 読み慣れないお話だけに何が何やらサッパリ。しばらく、読み込みに聖書と格闘。読み込み中、 ん?と留ったのが マタイによる福音書 第26章 第26章の中で、 ……大祭司は言った「あなたは神の子キリストなのかどうか、 生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。 と、問うている、で、その問いに対して問われた者は答えている 「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。 あなたがたは、間もなく、人の子が力のある者の右に座し、 天の雲に乗って来るのを見るであろう」。 すると、大司祭はその衣を引き裂いて言った、 「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。 あなたがたは今この汚し言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。 すると、彼らは答えて言った、 「彼は死に当たるものだ」。 それから、彼らは、イエスの顔につばをはきかけて、 こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。 ↑ ここのくだりを読んでいたら、 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 ↑ この言葉と何やら符合しやしませんか? 人が人を裁いているのは、目に見えるがそこに神はいない 神の名を冠された人はいるのだが… 人間(ブッダ)っていうのは、人の感情をさしてやしませんか? ここでいうところの、ブッディスム批判っていうのは、 原則はあっても人は感情の生きもの時に感情に流される。 キリスト教徒は戒律を重んじると聞き及ぶ、そこからすれば 人間(ブッダ)は生ぬるいってことなのでしょうか? 見方を変えれば、幅があるとはおもえませんか?

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。  大きく見て 直前の方のご回答と同じ趣旨を捉えてその方向を見ようとしておられるように思います。話題は違っていますが 志向されているところは 同じであるように思います。  つまり 《ブッダ宣言》にしろ《キリスト(神)宣言》にしろ 前者は 日本人の間では 慎みの無さを表わすでしょうし 後者は ユダヤ人の間では 神への冒涜だということのようです。後者は それでも――慎みをもって―― 真実については 真実を曲げないイエスがいるでしょうし 前者は けっきょく《ふつうの知恵をもったふつうの人間であると宣言する》ことであると思われるのにもかかわらず 《崇拝の対象》と見なされたり 《特別の修行や学習ないし経験を要して少数の者が成れる特別の人間の境地》だと思い込まれたりするようです。  つまり 前者は 信仰にかかわるのか あるいは ふつうの経験的な生活態度の問題であるのか これが 千年・二千年と経っていても あいまいなままになっていると思います。これを はっきりさせて欲しいし させたいと思います。 ★ キリスト教徒は戒律を重んじると聞き及ぶ ☆ 教団を作って そこで どういう規則を持っているのか 残念ながらわたしは 知らないのですが わたしの知っているキリスト者は 戒律は ありません。(神を愛せ。人を自分と同じように愛せ。これは 忘れるわけにはいきませんが)。  というように受け取りました。いかがでしょうか。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.25

元々、ブッダというのは、サンスクリット語で、その意味するところは『目覚めた者』ということで、では、何に目覚めたかと言えば、この宇宙はある法則によって、すべては律せられていて、それに順ずれば常楽の境涯になり、それに反すれば苦悩に沈む境涯に陥る、というもので、その法則を『妙法』といい、それを最初に覚知(悟る)した者が、釈尊であって、それを説き明かしたものが『法華経』なのですが、それで仏法 ともいうのですが、今なら法則という概念は一般的で、法華経をいきなり説いても分かってもらえるでしょうが、釈尊当時の人々には、なかなか理解してもらえず、それで仕方なく妙法の持つ力をいろいろと分けて、また、その法力を人々に受け入れ易くするために擬人化して、~如来、~菩薩という形にして、目に見える、あるいは思い描き易いようにしたのです。確かに法則というものは、それを表現しようとしても、色も形もないので、擬人化するというのは、すばらしい手立て(巧妙な手段)かと思われます。それで、法華経以外に膨大な経典が存在しているのですが、それらは法華経のための一時的な手立て、つまり、仮に説いた教え(方便)でしかないので、それらをいくら拠り所にしても、決して法に順ずることもなく、まったく意味をなさないのです。  前置きが長くなりましたが、それで妙法という法則の存在を確かなものとして把握すれば、その人は『目覚めた者=ブッダ=仏陀=仏』となるのです。本来は、仏とは上記のような意味なのに、いつの間にか仏教を金儲けの道具にしたり、坊主の食いぶちでしかない葬式仏教に堕して、仏という言葉を悪用、誤用するようになったのです。  ともかく、法を悟った者を仏としても、別に崇めたり、拝んだりする必要もなく、その法自体にこそ畏敬の念を持つべきで、釈尊自身も「依法不依人(えほうふえにん)=法に依って、人に依らざれ)」とはっきり説いているのです。  ですから、自ら仏だと言うのであれば「妙法についてどれほど知悉しているか」「妙法に順じて、どれほどすばらしい確証を得たか」等を自問自答してみたり、あるいは仏だ、ブッダだという者がいたら、「妙法とは何だ」「法華経の真髄を聞かせてくれ」「釈尊の真意はどこにある」など、いろいろと質問されては、どうでしょうか。  いずれにしろ、妙法こそ最第一で、それを悟った者は仏とはいえ、その伝達者に過ぎないのです。

noname#80116
質問者

補足

 abc2008さん ご回答をありがとうございます。  はじめましてですよね。brageloneと申します。よろしくお願いいたします。  わかります。じゅうぶん分かります。一つひとつ おっしゃっていることは分かるのです。そして この質問の少しひねくれた趣旨とは 微妙に異なる・・・このようにまづ 総じて感じています。  少し重箱の隅をつっつきますが どうなのでしょう。無明とその順転としての明知について わたしが 《Q:〈我れ〉はある?ない?》などで教わったところでは たとえば無知という状態があるとします。そのとき その状態のままで その状態つまり無知という自己のありさまが分かる / そしてそれによって ただちに知識を得るということでなくても ソクラテスではありませんが 無知の知を得たその境地が 目覚めだと言うと思うのです。ですから ★ ・・・宇宙はある法則によって、すべては律せられていて、それに順ずれば常楽の境涯になり、それに反すれば苦悩に沈む境涯に陥る、・・・ ☆ というとき――ここから詭弁を弄しますが―― 目覚めへの回転が さとりであって わづかに そこに このような順境への転換があるとすれば たしかに《妙法》と呼ぶと思うのですが そこに何ものか 法則としての存在や力があるということではない 仏教はこう言っていませんか。  というのも 無知の状態という《苦》も 無知を知っている状態になったからといって 必ずしも無くなるわけではないし 《楽》になると決まっているものでもない。むしろ《苦》のまま 回転している。わづかに 目覚めが そこに 起きている。通貨の裏表のごとく 苦と楽とが 空(無我)の法として 推移しているし 営まれている。  以上は 理屈魔のからみでした。  さて問題は ほんとうに微妙なのですが ともかく 何はともあれ はじめに《われはブッダなり》という宣言があったということから この質問は姿を現わしています。そうして 自分はこの宣言をするか否か / あるいはその宣言について どう思うか / する・しないにかかわらず その宣言の内容は どうなっているか などを問います。  ですから たとえば目覚めの内容が 《依法不依人》ということであるとすれば そのとき あなたは 《われはブッダなり》と宣言しますかと問うています。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですから、自ら仏だと言うのであれば「妙法についてどれほど知悉しているか」「妙法に順じて、どれほどすばらしい確証を得たか」等を自問自答してみたり、あるいは仏だ、ブッダだという者がいたら、「妙法とは何だ」「法華経の真髄を聞かせてくれ」「釈尊の真意はどこにある」など、いろいろと質問されては、どうでしょうか。  いずれにしろ、妙法こそ最第一で、それを悟った者は仏とはいえ、その伝達者に過ぎないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この最後のあたりなど 最高に胸に迫るものを持っていますが たぶん 質問の趣旨とは 方向が逆のようだと感じます。つまり 一たん《ブッダ宣言》をするか否かを明らかにしてからでないと――そのあとに さとりの内容を吟味するという順序と方向でないと―― どこまでも 相対的な悪い無限(切りのない議論)に陥るように思うのです。  こちらも《ブッダ宣言》をするというのは たしかにお見通しのように 方便です。目的は 一つに 経験思想かあるいはそれを超えた信仰の問題か これを明らかにすることです。  というような魂胆を この質問は持っています。いかがでしょうか。  つまり――まだ 単なるいいがかりをつけただけですよね―― ブッダを宣言するしないは問題ではなく ブッダだと自認するならそのさとりとしての妙法が問題なのだから そのことを大事にしていけばよろしいと おっしゃっていると思います。(これまでここで言って来た《第三の道》を志向しておられると考えます)。このとき この妙法が たとえば たしかに人間ではなく(従って ブッダ崇拝にはならないのだけれど) 仮りに《仏性》というふうに言いかえたとするなら どうなるかではないでしょうか。  つまり こうです。もし信仰だとするなら この仏性は 宇宙の根源的な法則とも言えるように けっきょく《絶対》のことです。もしそのように超自然や超経験のことは扱わないとするなら 仏性も法則も空も無我も すべては 日常生活の中のふつうの人間の知恵のようなものだとなります。どちらなのだ?という問いになっているのですが いかがでしょうか。 

noname#52670
noname#52670
回答No.24

お互い様々な価値観を認めていけばいいんでしょうけどね…。 なんだかいつも私は 仏教徒に虐げられている気がします。 必ず論理を振りかざしてきて。 様々なものを奪っていく。永遠や我までも。 お陰でこんなことをだらだらと 書き連ねたわけです。 なにがこの人をそうさせたのだろうと思うのであれば そんなところです。 仏教は素晴らしいですよ。 駄目なのは人間ですかね。

noname#80116
質問者

お礼

 yukiyama20さん 少しくどいですが 夢談議を補足します。  じつは 大・池・田・作さんからのことばは さらにもう一件ありました。  組織の解体を訴えるのはやめてくれというものです。信仰の理論的な規定や 宗教のあり方の議論はいいけれども 宗教教団の解体を主張するのは いま少し控えてくれないかというものです。  いや わたしは キリスト教団については 信仰を基礎にしているので 基準が明確であるから 自己解体を勧めているけれども 仏教については 別ですと まづ答えました。この点を さらに説明し始め はっきりしたやり取りが進まず 夢は切れてしまいました。  この点 整理して 添えさせていただきます。 (1) 信仰を基盤にしているなら 絶対論にもとづき 生命および存在を善とするゆえ この大前提を破った場合には その組織は解体すべきである。 (2) 信仰を基盤にしていない場合。組織の善し悪しについての判断は むつかしい。それは むしろ ふつうの社会的な評価や人びとの評判によって 決められるのではないか。 (3) 別様に 問題があるようだ。信仰を基盤にしていないのに 《信じる / 信心 / 神またその意味での仏》などと説く場合が見られる。これについては 看板を明確にすべし。宗教法人ではなく 生活共同組合であるとか 学習研究集団であるとかと書き替えるべし。  こんなところです。くどかったですね。

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     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • テメエで何とかしろ

    WEBを散策していて拾った文章だよ。 > ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆安心立命の境地を得ようとする 「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」  第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁) 無の悟りとは、無い物はないと明白に理解することで、その無を明かしてもやはり無である。 すなわちお前の神を明らかにして見せよ。 こういう問いかけに、無を悟らしめた。 教義が無いのではない。 無である事が教義なのだ。 それだけのことだ。 あんたらは本当に仏教となのか? 無ならそれでいいじゃないか。 不満を感じてはいかんよ。 さて研究論文として書いてみました。 無である。 これを。 語る言葉はない。 コレに直せば全く疑念の迫らない論理じゃないか。 釈迦様が語る言葉を持たないだけでなく、君達も自らの信仰心に対して語る言葉が無いはずだ。 だからこそ聖人に尋ねるのだ。 ところがそうして他者の信仰心を盗んだり、土下座して他者からの信仰心を星占いしてもらったとしても、その理解は所詮浅い物で、自らの信仰心そのものにはならない。 自らを理解しなければ何にもならないのだ。 おおむねそのようなたたき台からサル踊りを期待します。

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。  1. すべてを 終わり=目的から 始める。  2. では 終わりは どこにおくか。  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。