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イエスキリストのエピソードの出典が知りたいのですが・・・

教えてください。イエスキリストのエピソードなんですが、出典といいますか、どこに書かれているんでしょうか? 「イエスキリストが弟子たちと歩いていたとき、犬の腐った死体があった。弟子たちはみな、死体をみて目をそむけたのですが、イエスキリストが言いました。『みよ、なんと美しい歯であろうか』。」 というものです。ただし、昔に何かでチラッとよんだだけなので、出典や本当にイエスキリストのエピソードなのかも、わかりません。外典とか偽書とかだったらどうしよう?素人なので誰か詳しい方がいらしたら、ぜひご解説ください

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  • ベストアンサー
  • Big-Baby
  • ベストアンサー率58% (277/475)
回答No.4

面白そうなので検索してみました。イエスのイスラム圏での伝承ですね。よく知られているようにイエスはキリスト教徒だけに知られているのではなく、イスラム教徒にも知られています。ISA(イーサー)という名前で。もちろん、コーランにもちゃんと出てきます。次のサイトにこのストーリーの英訳が載っています。アラム語で書かれていたイエスの言行録(本当の新約聖書?)がImam Muhammad al-Ghazaliという人によってアラビア語に訳されたと書いてあります。ここにあるのはその英訳です。ページの真ん中当たり、Isa ibn Mariyam (AS), was walking with his companions以下を読んでください。 http://tracelesswarrior.blogspot.com/2005/04/isa-ibn-maryam-ruh-allah-al-masha.html 検索すると他にもこのストーリーに言及しているサイトはたくさんあるようです。次のサイトなんかもわかりやすいですね。 http://infinitebeloved.blogspot.com/2006/02/isa-jesus-and-dead-dog.html  なお「イスラム教におけるイエス」についてのあらましはWikiの「イエス・キリスト」の項目のところに載っているので参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

u-kun
質問者

お礼

おぉ!!ありがとうございます。 このエピソードを読んだときに、印象としてどうも「キリスト教」らしくないな。とずーっと気になっていました。おそらく偽書なんだろうと漠然とは、考えていました。  でも、とてもリアルな空気と、そしてイエス(ISA)の美しさへのまなざしを感じました。  僕の中では、イエスの言葉であってほしいな。と思っていました。 イスラム圏の伝承だったんですね。!! ずっと気になっていたので、すっきりしました。 いわゆる「新約聖書」よりもイエスの実像に迫っているような気が、個人的にはします。 しばらくそのあたりの本を探して調べてみます。 なるほどねー。 うれしい回答ですねー ありがとうございます。 ちなみに僕はキリスト教徒でもなんでもないです。

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その他の回答 (3)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

それとそっくりの内容は、私の保有する情報の中にはありません。 が、ラザロの一件を、別な言い方で本で書いたかなにかかな?って思いました。 なぜかというと、犬死にというのは犬が死んでいるのではなく、無駄な死に方という意味で日本人は使いますよね? で、貧乏人のラザロというのが金持ちに家の前にいて、ある日死んだんですね。 で、金持ちも死んで、みるとラザロが・・・アブラハムだったか忘れましたが、その人と一緒にいた。 それをみて、金持ちはしまったと思って、家族に知らせさせてくれって言ったんです。 すると神様だったか誰だったか忘れましたが、既に「モーセと律法を派遣している。」と答えた。 というストーリーの改造版かなぁ って思いました。 ただ、貧乏人のラザロ というのがもしかして翻訳ミスかもしれない。 クムラン宗団は自分達の事を「貧しいもの」と呼んでいた。 貧乏って意味じゃなく、神への信仰心に満ちている みたいな意味。 で、信仰心に満ちたラザロは、死後アブラハムのいるところに行き、金持ちはハデスだっけ? 他のところに行ったという逸話で、イエスは神への信仰心が高かった者は、アブラハムと同じ場所に住むことになると解いたわけですが、、、、 私の推測だと、イエスが行った場所と同じところかも。 クムラン宗団には、ガブリエルとかモーセとかダビデとかアブラハムという肩書きを持つ人がいた という説があるんですね。 それでイエスは後にその集団に戻ったとされ、だからその集団が天国。 ラザロの蘇りの一節がありますが、ラザロは全てを失って、神の前にたつことになり、信仰により彼はクムラン宗団の幹部として迎え入れられたのかもしれない。 そうすればアブラハムと一緒のところを、金持ちが「あれー」と見ることにもなる。 美しい歯 という表現がヘブライ語にあるのだろうか?と疑問におもいますが、もしかして正しい歯って意味かなぁ?って思いました。 ヘブライ語だとシンって語彙だったと思います。 宗教的にシンって意味は、、、、 両方ある。 宇宙の力を取り入れた力ある者 みたいな意味と、シンという文字が安定感が無いので、その力を過信し傲慢になると倒れるから気をつけなければならない という意味もある。 そういう意味がヘブライ語の歯を意味するシンの宗教的概念。 ラザロ うーーん マグスと同一人物かなぁ。 新約聖書だとマグスは悪人みたいに書かれていますけどね。 一説によると、マグスは改革をしようとした人みたいです。 犬死にしたとされたマグスをイエスが誉めた? うーーーん マグスとイエスの接点。 同じ派閥だったかもしれないですね。 で、結局 マグス いや ラザロが失墜したのをイエスが助けて ラザロの復活となったが、これによってイエスはラザロ派を支持すると表明したことになり、これが後に宗教裁判につながり、破門処分になったのかもしれない。 ちなみにクムラン宗団の波紋の儀式は、破門する人に死に装束を着せ、死者として扱い、洞窟に3日間ほど拘留したあと、追放し、その追放したものとは、その後一切金銭面でも交わることはなかったらしいです。 犯した律法違反の程度により1週間の謹慎から、最悪追放処分まであったらしいです。

u-kun
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですね。このエピソード自体が何かの暗喩になってる可能性も有りますね。そうなるとなかなか探すのは難しそうですね・・ どうもありがとうございました。

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  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.2

>外典とか偽書とかだったらどうしよう? 危惧は当たり。福音書、使徒行伝、パウロの書簡集、 ヨハネの黙示録などいわゆる新約聖書にその話はあ りません。 外典や偽書にそのエピソードがあるとしても、その ことばをイエスのものとして受け入れる信憑性はま ずありません。パウロの書簡の中にもニセモノの書 簡とされているものがありますが、それをパウロの ことばとして引用するには問題があるのと同じです。

u-kun
質問者

お礼

新約聖書で、このエピソードを読んだことがなかったので、ないだろうとは思ってました。 やはり、外典か偽書のほうですね・・・ それでもかまわないので出典がわかればと思ったのですが。 外典か偽書だと翻訳されてない可能性も高いですね。 地道に探してみます。 ありがとうございます。

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回答No.1

全然関係ないのですが、イエスはそんなことを言っておられません。イエスに興味があるのなら、聖書を読んだらどうでしょう。世界ではベストセラーの本ですし、詳しく書かれていますよ。

u-kun
質問者

お礼

ありがとうございます。 新約聖書には載ってないだろうなとは思っています。 おそらく、外典か偽書だろうと それでもかまわないので出典がわかればと考えていまして・・

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  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • キリスト教の最後の審判後の復活について

    キリスト教で最後の審判とか、復活とか言われますが、最後の審判で復活した場合、普通の人間として復活するのでしょうか?あるいは、全く違う形で復活するのでしょうか? キリストが復活したのは、弟子たちが死体を見に行ったら無くなっていて、イエスに会ったというので、人間の肉体として復活したのだと思います。そしてそのあと天に昇って行ったと記憶しています。すると、肉体の人間が空を飛んで行ったことになります。 しかし、先日牧師さんの話を聞いていたら、死んでも魂は天国で生きている、とのことでした。 すると、死んだ魂は天国に行って安らかに楽しい日々を過ごしているのに、最後の審判の日に地獄の火に焼かれる魂も出て来るのでしょうか?そして、天国に行った魂が、なぜわざわざ復活しなければならないのでしょうか?それがもし、人間の肉体の形で復活するのであれば、天国にそのままいた方が幸せではないか?と思います。 最後の審判後の復活は、人間の肉体を持っているのか、あるいは全く違う生命体の形で復活するのでしょうか?そして、それらと天国にいる魂とはどう違うのでしょう? ご存知の方、よろしくお願いします。

  • キリスト教に関してだけどね。

    キリスト教に関してだけどね。 処刑台のかけられたイエスに、王と神が一元だった時代に神への反逆を連想させるのは、特に教義として説き伏せる必要もなく明白であっつただろう。 ユダヤの伝道師イエスとはローマに対する呪いの小道具だよ。 キリスト教にとっては、実際はイエスなる愚か者は、神とするならば悪神なんだという見解から思考をアプローチするのも手だ。 ユダヤの生んだローマにとっての死せる神の象徴であり、ローマが殺した神の象徴でもある。 その恐怖に屈服してしまうとキリスト教の伝道師が、あなたは神に膝まずきました、その恐怖の結果こそが信仰心なのですと、屈服こそ信仰心という刷り込みを行い、疫病として蔓延していった。 これカルト教団の現在の手法と一致項がある。 キリスト教は、カルトの本家家元でもあるんだ。 なら邪教の一つと判断するのは妥当性がある。 ひとつ解決のための光明を提示すると。 イエスなる去った者はユダヤの人。 キリスト教のシンボルのキリストとはローマの神につけられた仮称だ。 この両者は切り分けて考えるといい。 キリストは、いきさつを解説している通りに、聖霊として成立していないか、極めて不完全なんだよ。 したがってキリストなる聖霊の成立で邪教から信じる人々も復活するんだ。 闇の仏陀「黒き明星」闇黒の救世主「最速の臆病者」共通するカッコイイきめ台詞。 やがて来る者は、 やがて去るものと、つかの間すれ違う。 (両者はその刹那にいかなる言葉を交わすのか) ところで、宗教批判や宗教への警戒は、キングオブカルトのキリスト教では風物詩で、唯一の神とか言いながら内部分裂や抗争が他の宗教よりも際立って激しいんだろうなあ。 誰にでも何らかの信仰心があるんで、その不可侵のはずの信仰心を自由に語ることを阻害する統率の仕方だ。 日本の風土では、漫画が好きな人が手塚治虫がわたしの神だといっても、だれも何ら違和感を感じない。 スーパーサイヤ人がわたしの神だとまで言っても、ポンポンと肩をたたいて慰めてくれる。 究極は、見知らぬ者同士が「私は神を信じる」こういったとたんにだ、「私もだ」こう答えて、いかなる神かを問わずに兄弟として接するのが理想だろう。 ところが、それでいて、信仰にはしきたりもあれば合言葉もあるんだ。 それ自体は特に仲良くする者同士の部族宗派で別に弊害はない模様だ。 どちらかというと、生活習慣のすり合わせで、倫理とか道徳と関連するんだよ。 閉鎖的になると弊害は起きるようだね。 今回は論説として自分自身で研究した内容を学問カテゴリーに投稿しています。 哲学というのは、既存の命題の解を求めるほかに、自分自身で命題を作成するという手法があります。 おおむね、そうした前提で質問していまして、何か研究を先に進めるヒントの募集です。 素人っぽい感想文、特定の専門家の自分の専門に立脚した意見、ふざけた突っ込み、ブチ切れて俺はキリスト教徒だ、おめ~は教義に反しているという殴り込み、予期せぬ奇襲攻撃、なんでもいいですよ。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • キリストとヤハヴェの間にある矛盾

    まず最初にこの質問に目を通して頂きありがとうございます。 この度の趣旨はキリスト教における「三位一体」についての疑問です。 私は幼稚園~中学はカトリック系、高校・大学はプロテスタント系の大学へ通っています。 こんな環境だったせいか昔から漠然とキリスト教(ひいてはユダヤ教)に興味をもっており、 気がむけば度々インターネットや聖書(新共同約)を調べたりしていました。(なお信者ではありません) 牧師や神学の教授にも度々この手の話を伺ったことがありますが、 どうも聞く度にはぐらかされてるような印象を拭えないのです。 キリストとヤハヴェが同一神ならば、イエスが「神に遣わされてきた」とか、「人間の変わりに罰せられた」といったストーリーがあるのでしょう? 同一の存在でありながら罪深い人間達の代わりに「罰せられる」ということは、 なにかイエスより上の「存在(ヤハヴェ)」が居たからに他ならないのではないでしょうか? 『自分で自分を罰する』とはおかしな話です。 この件についてきくと、毎回帰ってくる答えが異なり、 一番最近神学の教授からきいた話では「君や我々は人間だからピンとこないかもしれないが、神は最初にご自分で決めた法を忠実に守る忠義なお方だからだ」みたいなことを言っていました。 はあぁ・・・まったく府に落ちませんよ。 どうもこの話題に触れることがタブーにされてるような気さえします。 2ちゃんねるの02年ごろのログでも、わたしと似たようなことを質問してる人がいましたが、中身のない煽りやAAを貼ることで終始していました。 どなたか納得いく説明お願いします。 なおここのURLなどは目を通しています http://www.carmical.net/Japanese/articles/christianity.shtml

  • 他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?

    クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。 特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。 しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。 ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロがイエスの隣にいた弟子に、裏切り者が誰なのかを質問するように促し、イエスが「私がパンを浸して与えるものだ」と言い、実際にユダに与えます。 ここまでやったら、誰の目にもユダが裏切り者であることがわかるはずです。 何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか? それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません(イエスが捕まったときに皆逃げた、というのを「他の弟子だって裏切ったのだ」と見なす人もいますが、私はむしろ「何が起こっているのかを実際に見るまで分からなかったから、パニックになったのだ(あらかじめ分かっていればそこまであわてない)」という意味で、無罪の証拠ととらえています)。 何人かのクリスチャンに訊いてみても分からず困ってます。ある牧師さんは笑いながら「人生の縮図ですから」と答えましたが、これではわかりません(というか、ショックでした。ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面が笑い事なのでしょうか?) 百歩譲って、この場面は一種の興奮状態で気づかなかった、としても、その後、オリーブ山に行ったときは、財布を預かっていたらしいユダはいなかったわけです。誰か「ユダはどこに行った?」「お使いから帰ってこないのか?」などと言い出しそうなものなのに、ユダがいないことを問題にする弟子はいなかったのは何故なのでしょう? また、この言葉はユダにだけ聞こえるように言ったのだ、という人もいますが、イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか? ヨハネの福音書の作成にユダはかかわっていないはずです。 (イエスキリスト自身は、最初から全部何が起こるかわかっていたので問題はないし、この質問の答えも知っているはずなのですが、本人に訊くわけにもいかないので困ってます。)