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坊主と和尚

yuhkohの回答

  • yuhkoh
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回答No.2

「坊主」はもともと字のごとく「坊の主」。坊(房)とは寺院の中にある子院、つまり大寺院を形成する個々の小さな寺のことです。そのような「坊の主」という意味から転じて、住職や僧侶の異名となりました。 また僧侶でなくても頭を丸めた者や、大名などに仕えて茶を給仕や雑役をする者(茶坊主・数寄屋坊主・御坊主衆など)、また子供を意味するようにもなりました。 坊主に侮蔑的な響きがあるのには、僧侶への批判もあるでしょうが、また茶坊主、数寄屋坊主は自身の身分こそ低いが、直接高位の者と接することができる立場から賄賂などで裕福だったことや、江戸時代の座頭などの盲人が(これも丸刈りです)公認で高利貸しをしていたことなども一員かもしれません。 和尚は宗派によって呼び方が異なり、真言宗では「わじょう」、天台宗では「かしょう」、禅宗・浄土宗では「おしょう」ですが、元はサンスクリット語でupaadhyaayaの音訳で、「戒を授ける師」という意味です。 そこから転じて、師僧や高徳の僧侶への敬称へとなり、現在では広く僧侶への敬称となりました。

ADATARA
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とても専門的な方とお見受けいたしました。 内容は理解できました。お蔭様で,だいたい分かりました。 とても奥の深い回答を頂戴して,誠にありがとうございました。

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