• ベストアンサー

東北地方の分国名

大宝律令によって地方行政区分された後、東北は「出羽」と「陸奥」の2国の状態です。「陸奥」「羽後」「羽前」「陸中」「陸前」「磐城」「岩代」の7国に分割されたのは明治になってから(ウィキ)とのことですがそれまでずっと2国の状態が続いたのでしょうか。あまりにも大雑把な感じがします。 中央から遠い存在だった飛鳥~鎌倉時代なら分かるのですが、江戸時代に入っても2国制だったのでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数10

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

統治者の意識の違いが大きい。 武士の統治というか支配の基本は「生産単位の統治」の積み上げという発想です。 ○○荘園の現地支配者という発生によって運命づけられたものです。 なので、□□の国の支配という発想は弱かった。鎌倉・室町期の守護も、□□の国の支配と言うよりは、□□の国に在住している御家人の軍事指揮権というのがメイン。室町期の半済も、統治がメインではなく、戦費の現地調達の合理化であります。 統治のスタンスとして、現地支配の積み上げによる、地方分権主義で、大きな地方支配の単位(能登・加賀・越前三国の前田家とか)があろうと、郡単位、村単位、バラバラ(譜代で多かった)であろうと、まったく構いはしない。 古代の奈良時代・平安時代の統治の原理は、中央集権で役人が中央政権の代理として地方に出向するというもの。合理的に支配するには、支配に適当な単位にする必要があった。現在の福井から、現在の山形・秋田くらいまで、日本海側をひとまとめに支配するのが便利なら、ひとまとめで 越 であり、だんだんと 支配しやすいように 越前 越中 越後 さらに再分割としていきました。 明治政権が、古代政権の復古であり、中央集権を目指すものでしたから、出羽 陸奥では あまりに でかすぎるというので分割した。ということになります。

hirarno36
質問者

お礼

>現在の山形・秋田くらいまで、日本海側をひとまとめに支配するのが便利なら、ひとまとめで 越 であり・・・ 昨今話に出ている県同士を統括し、州のような自治にしようとの動きがありますが、似ていると感じました。 再度疑問ですが明治期に急に分割されるまでの中間期(中規模分割)は存在しなかったのでしょうか。なぜ越のように細区分されるまでに至らなかったのでしょうか。(中央から見て)僻地だからと考えて差し支えないのでしょうか? 回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

昨今話に出ている県同士を統括し、州のような自治にしようとの動きがありますが、似ていると感じました。 → 道州制とはちょっと違います。古代における「道」は、中央からの指令を伝えるための「命令・支配」の為のまとまりです。古代イラン・アケメネス朝ペルシャの王の道に概念的には似ています。 再度疑問ですが明治期に急に分割されるまでの中間期(中規模分割)は存在しなかったのでしょうか。なぜ越のように細区分されるまでに至らなかったのでしょうか。(中央から見て)僻地だからと考えて差し支えないのでしょうか? → 越が分割されたのは古代です。中世は基本的に下から積み上げ、横の連絡型の支配体系だったので、中央政府が統治しやすいように分割するというのはありませんでしたので、国が大きかろうと小さかろうと「デモ そんなのかんけーねー(小島風)」です。国よりも小さな郡レベルである荘園が統治の基本単位なので。 長講堂領42ヵ国89ヵ所 や 八条院領あるいは平氏没官領など、荘園の集積として扱われています。 → 行基図を見ていたのですが、奥羽が僻地というよりは、意識の上で大きくないというのもあったのかもしれません。 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/022.html こういう日本地理認識だったら、「おーう でかすぎ 分割するっきゃないよね」BY 藤原貴族。なんてことは 起きそうもない。

hirarno36
質問者

お礼

荘園の集積ですか。もっと小さい単位なのですね。 思うに地図が出来て、日本や世界という地理の観念が出来たころに初めて「お~う、でかい」なのでしょう。行基も伊能忠敬も歩いてその足で確かめた地理なので、今の衛星写真と違って出羽や陸奥のでかさも実感できたのではと思っています。古代イランの王のことは知りませんでしたが、勉強します。 それにしても行基図は金箔ですかね。見た目ゴウジャスです。黄金の国ジパングです。 出羽お礼を。回答ありがとうございました。

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.5

石城・石背はそれぞれ「いわき」「いわしろ」だと思います. 「山城」ももともとは「山背」でした. もっというと, 「城」に「しろ」という音がなかったはず (「山背」→「山城」の改名によって「しろ」という音ができたとか) です. で, 「羽後国」とか「陸前国」がなかった以上, 「羽後守」とか「陸前守」とかは存在するはずもありません.

hirarno36
質問者

お礼

「いわき」と「いわしろ」でしたか。山城は山背だったのですか。勉強になります。 羽後、陸前がないので官名が無いのは道理ですね。 「三日月の丸くなるまで南部領」 東北の広大な領地を読んだ詩だそうですが、2国制ならではです。 回答ありがとうございました。

  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.4

まず、奈良時代に数年間ですが、陸奥国から石城国、石背国が分国した時期がありました。その時期は短かったようですので、何らかの理由で失敗したのではないでしょうか。 なお、この頃信濃から諏訪なども分国しています。多くは元に戻ったようですが、美作、丹後などそのまま分国したところもあったようです。 分国が進められていた時期は8世紀から8世紀の初めですので、やはり#2の人がおっしゃるように統治者の統治に必要があるかないかで分国するのかきまるのでしょう。 江戸時代に決まっていると、国は公家や大名などの地位として名乗るためだけにあるようなものですので、特に陸奥と出羽を分ける必要性はなかったでしょう。実際に統治するために必要な単位は村であり、そのまとまりとしての領地です。 なお、江戸時代の大名は4回(慶長、正保、元禄、天保)、国絵図という地図と郷帳を作成し幕府に納めていますが。また、寛永年間にも巡検使を派遣し、国絵図を集めています。 これは各大名等から絵図元という各国の責任者に絵図等が届けられ、最終的には老中に提出されるという仕組みです。 絵図元は各国1人のところもありますが、複数人で相持のところもありました。陸奥、出羽などは分割して作成されたようです。(正保年間では陸奥5分割、出羽3分割)

hirarno36
質問者

お礼

奈良時代の区分のお話、とても興味深いです。石城(いわしろと読んで良いのでしょうか?)石背(いわせ?)は石見が「石(岩)ばかりで何も無いところ」と言う呼び方をされて言わば蔑視されていたのと同じ理由なのではと、名前から勝手に想像してしまいました。 また諏訪は独立性が高そうですね。美作、丹後は独立成功組なのでしょうか。 多少脱線しますが官位に「出羽守」「陸奥守」はありますが、「羽後守 」「陸前守」はいませんね。 やはり回答者の皆様のおっしゃるように >実際に統治するために必要な単位は村であり、そのまとまりとしての領地 なのでしょう。 国絵図は台帳のような役割もあったのでしょうか。さすがに陸奥、出羽は広大なので分割されていたのですね。 陸奥5分割、出羽3分割(計8分割)と質問の7カ国は関連性はなかったのでしょうか(8と7なので全く同じではないにしても無関係な割り方だったのでしょうか?) そのところも出来れば再回答お願いできないでしょうか? 回答ありがとうございました。

noname#138477
noname#138477
回答No.3

明治時代に分割されるまでは2国の状態が続いていました。  理由は判然とはしませんが、時代が下る程朝廷が直接支配できる状況ではなかったこと(奥州藤原氏の支配以降は、建武の親政期以外では完全な支配はなかったと思われる)が大きいと思います。役所を置ける状況にないのに、官職だけ増やす意味はありませんから。

hirarno36
質問者

お礼

そこなのです。徳川幕府は支配体制を強化しています。外様、譜代、親藩を分けています。なのに東北に限ってこの雑さ。 日本海側と太平洋側だけの大雑把さ。 役所を置ける状態にないとのことですが、戦国期ならいざ知らず、江戸幕府なら可能なような・・・ >時代が下る程朝廷が直接支配できる状況ではなかったこと 大名まかせ(朝廷が武家に丸投げ)、ととらえて良いのでしょうか? 回答ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

江戸時代もそのままでした。 ただ、実際にはそれぞれの大名などの領地として分割されて統治されていますから国を細分化する必要もなかったのでしょう。

hirarno36
質問者

お礼

公家から武士の時代全般を通して2国制だったのですか。 例えば羽後や羽前は秋田(安東)氏や最上氏などが「出羽」の中で「自領」として自己統治していた結果、塊りとなっていただけということでしょうか。明確な線引き国境がなかったのでしょうか。 それにしては随分長い間だと疑問に思っております。さらに明治時代が訪れるまで放置?されていたのが政治的に雑に感じます。 回答ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 五畿七道74国の国号指定年

    1868年(明治元年)に、陸奥(みちのく)は、 陸奥(むつ)を、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥に分け、 出羽を、羽前、羽後に分けましたよね? これと同じように、越国が、越前、越中、越後に分かれ、 そのうち、越前が、越前、加賀、能登に分かれたり、 毛野国が、上野、下野に分かれたり、 総国が、上総、下総に分かれ、後に阿波からやってきた人により、上総から安房が分離したり、 伊勢から志摩が分離したり、 吉備が、備前、備中、備後に分かれたり、 筑紫が、筑前、筑後に分かれたり、 豊国が、豊前、豊後に分かれたり、 肥国が、肥前、肥後に分かれたり、 分裂して、旧国境が誕生した年代を教えてください。 大和政権が誕生する前後だと思うのですが。 詳しい人、お願いします。

  • 飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、

    ① 飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代等の何時代の名前は一体いつ頃どこで誰何のためにつけたのですか? ② 明治・大正・昭和・平成・令和の日々は、将来「何時代」に区分されると思いますか?

  • 時代区分での平安時代

    日本建国の背景・経緯を知りたい、をきっかけに歴史に興味を持ち勉強し始め約1年になります。 色んな人物、色んな出来事等膨大な情報を勉強するのは大変でもあり、発見も大いにありました。 そんな中で、疑問がひとつあります。 時代区分です。 飛鳥時代=飛鳥に宮があった。 奈良時代=文字どおり奈良に宮があった。 平安時代= ? 鎌倉時代=鎌倉に幕府。 室町時代=京都室町に幕府。 安土桃山時代=安土城・伏見城(桃山) 江戸時代=江戸幕府 どの時代区分も宮(都)または幕府があった地名などを時代名称にしていますが、「平安時代」はどういった経緯でこの時代名称にしたのでしょうか。 同じく、奈良時代は「平城時代」でもいいようですが。 よろしくお願いします。

  • 岩手○○という駅名

    JRの駅名には、同一駅名を避けるために頭に旧国名を付けた駅名がたくさんあります(もちろん私鉄や第三セクターにもありますが)。 一部原則から外れたものとしては、「こうずけ」と「うえの」を区別するために「上野○○」は使わず「群馬○○」、三河三谷と区別するために「三河御津」は使わず「愛知御津」などいくつかあるものの、基本的には国鉄時代に全国統一の方針として旧国名が使われてきたのかなと思います。 そこで岩手県なのですが、多少異なるものの概ね「陸中○○」に該当すると思います。しかしながら「岩手○○」という駅もかなり存在します。古い駅から戦後できた比較的新しい駅(「岩手飯岡」など)まで(「いわて沼宮内」はあまりに新しいのでこの際考えないでください)。これらはなぜ、国鉄時代の厳密と思われる方針から外れ、「陸中○○」としなかったのでしょうか。 「岩手○○」の分布範囲をみても、いわゆる岩手郡の範囲だけではないのでおそらく県名として「岩手」を使ったのだと思います。北上以南は「陸中○○」で統一されているようにみえますが、それ以北は内陸から沿岸にいたるまで、幅広く「陸中○○」と「岩手○○」が入り乱れているようにみえます。 改称済の駅名にしても、ゆだ錦秋湖(陸中大石)、ほっとゆだ(陸中川尻)、ゆだ高原(岩手湯田)のように入り乱れています。なぜ「陸中湯田」ではいけなかったのでしょうか。 近隣の県をみても、「陸前○○」「陸奥○○」「羽前○○」などもっぱら旧国名を使っていて、これほど県名を多用している例はないのではないかと思います。なぜ岩手県だけが、「陸中○○」と「岩手○○」の両立になっているのでしょうか。

  • 麻薬が法律で禁止されるようになったのはいつからでしょうか?

    明治時代や江戸時代、室町時代、鎌倉時代、平安時代、飛鳥時代、古墳時代、弥生時代などで、麻薬は社会的にどんな存在だったのでしょうか? 地域によって違うと思いますが、人間が麻薬の効能を発見したのはいつ頃の事なのでしょうか? 海外の国での麻薬の禁止が始まった時代や、麻薬の歴史にまつわる話にも興味があります。 よろしければ何か情報をお願いします。m(__)m

  • 歴史の○○時代というのは誰が決めたのですか??

    歴史の○○時代というのは誰が決めたのですか?? 今は平成で、その前が昭和、大正、明治とありますが これは天皇が決められたのですよね。 ですが、江戸時代とか縄文、弥生、安土桃山、戦国、鎌倉等々 これはどなたが決められたのですか? 江戸や鎌倉は幕府があった場所という事で納得できなくもないですが、 それをきちんとした○○時代として決められたのは 最近というか、明治以降ですよね?学者さんが決められたのでしょうか? それはどなたでしょう? 戦国時代は、戦乱が多かったから戦国時代になったのかなとか思ったりしますが 本当はどうなのかとか知りたいです。 で、江戸時代の中にも年号がありますよね、それ以前は大化から始まり 江戸時代最後の慶應まで こういう細かい年号はやっぱり今みたいに天皇が決めていたのでしょうか? 知ってる方いたら教えてください。

  • 「昭和時代」はおかしくないか

    池上彰さんの朝の番組のクイズで3択の回答に 「江戸時代」「明治時代」「昭和時代」 というのがありました。 明治や昭和は元号であって「鎌倉」とか「江戸」は地名ですね。 それでいうなら近代は「東京時代」になるのでしょうか。 昭和時代という言葉を聞いたことがなくて、でも池上彰さんが言うならそういう言葉もあるのかな、と思ったわけですが、なんか変ではないでしょうか。

  • つまらない質問かも知れませんが???

    日本の歴史を「時代を区分」する手法には、例えば、「古代、中世」とか、「平安、鎌倉」とか、「明治、大正」とか、区分の仕方の根拠によって、「時代名の表現」も、「時代の数」も、「時代が続いた期間」も異なってくると思うのですが、仮に、日本の歴史を、大きく「2つか、3つに区分する」としたら、あなたなら、どこで区分しますか???できれば、その根拠も披露していただければありがたいです。 ただし、「お礼」のポイントは、使い果たして、持っていません。

  • 朝廷という名称について

    単純な興味なのですが、 日本で朝廷という名称はいつ頃から使われるようになり、 今のように天皇の政権を示すという意味になったのでしょう。 日本で使われ始めたのは大宝律令以降なのだろうとは思いますが、 文献として朝廷という文字が初出するものは何なのでしょう。 wikipediaには鎌倉政庁を朝廷と呼んだ事もあるとあり、 驚いて吾妻鏡(原文)を少し見てみたのですが、 鎌倉を朝廷と表現している文は見つけられませんでした。 また、吾妻鏡では、いわゆる朝廷を示す言葉は 京都とか公家(貴族は公卿?)という表現や、 上皇といった表現は見られたものの 朝廷という文字は見つけられませんでした。 そういえば記紀にも朝廷という文字は 出ていなかったかなという気すらしてきました (こちらは原文を読んでいません)。 もしかして、朝廷=天皇の政権という意味が固定したのは 明治になってからだったりするのでしょうか。

  • 日本の歴史における時代区分と戦後の日本について

    日本の歴史のことを、ボーと考えていて、旧石器時代と縄文時代は気が遠くなるほど長いのですが、日本の歴史って、時代区分すると「平安時代までの天皇の時代、鎌倉時代から江戸時代までの武士の時代、明治以降の天皇の時代」という区分の仕方もあるのではないか???という疑問がわいてきました。 質問なのですが、下記の3点です。 1. 上記の「平安時代までの天皇の時代、鎌倉時代から江戸時代までの武士の時代、明治以降の天皇の時代」という区分の仕方もあるのではないか???という疑問についてご意見をお願いいたします。 2. 戦後70年というのは、「天皇の時代」でもないし、「武士の時代」でもない、「新しい時代」と位置付けてよいのでしょうか??? 3. 戦後を「新しい時代」と位置付けるとしたら、「何の時代」と表現したらよいのでしょうか??? なお、蛇足ながら私は天皇制を非難・否定する人間ではありません。