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全国的な為政者を破った真の革命は鎌倉末期だけでしょうか?

1639saの回答

  • 1639sa
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回答No.5

質問者さん的な「革命」の解釈に従えば、 ①「全国支配=現在の日本の領土全域に対する支配」とする場合(地理的な解釈) ②「全国支配=(現在の日本の領域で)政権が存在しないを除外」した場合(つまりアイヌ等を除外) のどちらかによって意味合いが異なると思います。 ①の考えでいけば、建武期の支配領域は北海道や沖縄に到達していないので、鎌倉末期も不適切なうえに、現在の「小笠原」を正式に領有したのは明治以降なので、一度も存在しなかったことになります ②の考えでいけば、「鎌倉末期」の他に「江戸初期の豊臣家滅亡」が該当すると思います。(「平安末期=朝廷勢力は残存」「承久の乱=それでも朝廷勢力は残存」「明治維新=徳川家は華族化」なので、この解釈に従えば不適切) ですが、質問者様の「革命」解釈そのものはかなりの少数意見(解釈は人それぞれなので間違いだとは言いませんが、少なくとも一般的な解釈ではないと思われますし、ぼくも違和感を覚えます)だと思われますので、あんまり「真の革命」とか大袈裟なことは言わない方が…

garcon2000
質問者

お礼

そうですね。私の感覚で「主権者を殺害する」という過程が含まれないとそうでないという感じなので、はなはだ一般性にかけるかもしれません。分類わけして考察していただいてよくわかりました。

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