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ほにゃらか形而左右学 檻と機械

1)檻の中で生まれた猿にとって、檻とは、自然でしょうか。 そもそも、猿には言語がありませんので、よい言葉が見つかりません、 表現は悪いのですが、檻の外と檻の中を意味的に区別できるでしょうか。 2)ほにゃらか島に、仮定の機械が有ります。大昔に、太陽光線や潮位の変動を動力として、半永久的に動いているとします、その動きの過程は単純な入力と出力のくり返しではなく、入力に対する分岐や出力までの過程が、膨大なパターン別れていて、何が入力で、どれが出力かも外見ではさっぱりわかりません。ただし、海水を真水にして、滾々と流れ出てきます。ほにゃらか島は、いつしか無人島になりましたが、其処へ、丸太舟で漂流してきた、弥生人がいたとします。弥生人にとって、この機械は、機械と理解するでしょうか、自然の恵だと思うでしょうか。 今回の質問も、解り難くなってしまいましたが、ゴーギャンの三つ質問の前に、 われわれは、何を知ることができ、何を知ることができないのか、かの三つの質問は、答えることが出来るかどうか、せめて其れ位は知りたいですね。 1)と2)の例を検討しながら、何を知ることが出来るのか、宜しくお願いします。 われわれはどこから来たのか われわれは何であるのか われわれはどこへ行くのか 以下余白

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noname#80116
noname#80116
回答No.29

お邪魔しすぎですが 議論の経過からいけば必然的ですので・・・。 一点のみです。貨幣にかんするお話しが 前回(No.28)では欠けていましたので 補います。ただし わたし自身のではありません。今村仁司が 簡略にまとめているところを紹介します。    物と物との《交換》は直接的には不可能である。だからこそ    貨幣という特別の第三者を迂回しなくてはならない。 と切り出して この《特別の第三者》として    (1) 個人の独語を超えた《聖なる言葉》   (2) 社会秩序(政治)の場面でも・・・人と人との敵対状態を      解消するために 《聖なる権力》   (2‐a )一人の人間を《排除された第三項》として立てる場合の      《聖なる存在》   (3) そして商品交換関係の条件としての《聖なる貨幣》 これらを想定しています。(1)の問題を――言語の場合をも その言語の場面では 《第三の言葉》が《予見できる》というかたちで ごく簡単に触れた部分を含めて―― 整理しているところを 引用しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   直接的交通関係の原理的不可能性は 人と人との関係を暴力的にする。ホッブズの《万人に対する万人の闘い》《人間は互いに狼である》という指摘は理論的には直接的関係の原理的不可能性を言い当てたものである。   近代の社会哲学はホッブズからヘーゲルまでこの《不可能性》を克服する思想的企てであった。また言語的交通の面でも 例えばワルター・ベンヤミンの《純粋言語》は暴力的人間関係を克服しうる第三項としての《聖なる言葉》を言い当てようとした。   いっさいの宗教現象の根源には 教義的信仰体系の差異を超えて 人と人との連帯を可能にする条件の模索がある。かつて人びとはそれを《神》とよんだ。《神》観念の成立メカニズムと貨幣の成立メカニズムとは深いところで通底している。真実の意味で深く貨幣を理解することは 《神》観念を中心とする《宗教的なもの》を理解することに通ずる(逆も真なり)。   言語でも 構造言語学上のラング / パロールでは処理できない《第三の言葉》の問題がここで予見できる。   貨幣とはまことに深い思想を包みこんでいるのである。   (今村仁司:貨幣――今村編著『現代思想を読む事典』1988) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・一点と言いましたが 添付事項があります。 ちなみにですが 帰納法( induction )と演繹法( deduction )のほかに 仮説法( abduction )もあって はじめから結論を掲げて述べていく場合も 経験科学に属するものですよ。アプリオリの問題あるいは信仰内容を直(ぢか)に述べる文章とは 少し違います。 ・《交換の起源に信頼をおくのは、腑に落ちません》とのこと。 ――まづ 信頼あるいは信用という関係 これが 互いの対立を含む人間の関係の中で ともかくも 篩にかけられて 歴史的に落ち着くところとしてのように 残ったのだと見ています。そしてその結果を すでにはじめに 確かに 結論として持って来ているということです。その論法のことは 上の註解に触れました。 ・《交換の結果が満足のいくものでありそのくり返しが信頼を生むとも言えます》――という段階の前のことを 言おうとしていました。 交換行為の始まる前に たとえば戦争の結果としてなりあるいは冒険としてなり 異族と接触する機会を得ていくと 身内と同じように 互いに信頼関係が築けると感じた場合があるだろうという推測です。つまり そういう場合が淘汰されて残り やがて 商品交換関係の基軸となっていったろうという見方です。 ・ちなみに 《絶対者の存在証明》などしたことないですし するつもりもないですし それが出来るとも思っていません。(精確には 出来るか出来ないか分かるものではないと思っています)。絶対者はこれを《想定する》ものです。ひとつの概念装置です。あくまで 経験科学の話しですから そこのところ――これまで 何にも反論せずに来ましたが―― 個人の信条とは別にして扱ってもらえるなら幸いです。 ・このたび すこし 話しがかみあうようになりました。これまでは そうでなかったので 細かいところは すべて 捨てるか保留して来ました。何も触れずに来ています。 ・論争するのも いただけないことなので どうなるか分かりませんが 今回 焦点は 日を見るよりはっきりしています。類(全体)と個との関係です。

fishbowl66
質問者

お礼

「自分の身体は、人間の現実存在(生存)にとってはじめから自分のものとして前提されている。身体は「自己」に帰属するかぎりで、「我」は身体に対してわがものとして関係し、そのように関係することで身体を「わが身体」として所有する。「我」は身体を所有しつつ現実存在する。身体において「我」は存在し、身体の所有と「我」の存在は不可分で一体である。同様に、生産条件は「延長されたわが身体」であるからだ、生産条件への関係は自分の身体への関係と同じである。所有とは二つの身体への関係である。自分の有機的身体と自分の外にありながら自分の身体の延長である非有機的身体への二重の関係、それが生きることであり、生産することであり、所有しつつ存在することである。」 今村仁司『交易する人間』より この辺り、よく理解できるのですが、 「素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は廃棄不可能である。なぜならそれは、人間関係に内在する暴力の制度的回避の装置であるからだ。しかしわれわれは、貨幣や商品の優越的支配が別の災厄をもたらすことも知っている。この両面を承知しつつ、同時にこの隘路をどうきりぬけるのか。これが貨幣と精神との格闘の長い歴史が教えることである。出来合いの回答は存在しない。」 今村仁司『貨幣とはなんだろう』より 今村さんの貨幣論は、正直、難しいですね。私見では上記の「貨幣は廃棄不可能」と言う結論に異を唱えたいと。特に、フロイトやポストモダン的な雰囲気もあって、死の恐怖を貨幣と結び付けているようです。経済学では、貨幣商品説と貨幣名目説という対立が有りますが、今村さんの場合、雰囲気は後者ですが、もう一つ良く解らない部分もありますね。経済学と社会学の相違と言えばそれまでかもしれませんが、同じ対象を研究する場合は、両サイドからの一致が理論的にも要請されますから。 あらあら、益々質問と外れてしまいました。 >今回 焦点は 日を見るよりはっきりしています。類(全体)と個との関係です。 有難うございます。「内と外」の問題に戻れましたね、 先のお礼の冒頭に書きましたように、まだまだ、検討が必要なようです。 ただし、質問自体は、認識論的な究明でしたが、まぁ細かいことは気にしません。 詳しいアドバイス、有難うございました。

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その他の回答 (29)

noname#80116
noname#80116
回答No.9

fishbowl66さん ひとこと 補わせてください。 類と個とは別です。《祖先から子孫へ類としての人つまり拡げて人類 この人類としてのDNAをつうじての永続》と そして《個人が始めと終わりのある線分としての時間を生きる存在だということ》とは 別です。 個人の時間的存在であることに 誕生以前と死後との時間を加えて あたかも永続性を持たせても 人類の生命としての存続とは 基本的に別です。 違いは いくつかあります。二点挙げます。 個人の〔想定としての〕永続性と人類のそれとを同一だとすれば 個々の人格の尊厳が薄まります。個々の人は 人類の永続性のもとに 互いにかけ替えのできる存在と見なされかねません。類が存続するから わたしは死んでもだいじょうぶと言いかねません。(そういう思想があるという場合には 常識による検討が必要でしょう)。 類の存続も 個のいわゆる霊魂としての永続性も 経験世界での出来事です。自然科学による検証の対象であるかたちで前者が そうであり 後者は 現在のわたしの信念といったかたちの現実としてです。 不死なる永遠は これらと別でしょう。しかも かかわりを持つという思想が 出て来ているという人類の情況です。なぞの問題です。 

fishbowl66
質問者

お礼

brageloneさん、驚かせてしまったでしょうか。 前回のご回答の、宗教的な表現を、私の科学的?な表現方法でお礼を書いてみました、大変硬い岩盤に当たった、トンネル工事ですね。 私のような無学の人間は、本を読んでも何かしらの色眼鏡が外せなくて、解らない部分を無視して、自分の考えに都合の良い所ばかりをせっせとメモしています。 身体を基礎づける各細胞は、タンパク質やカルシュウムを要求しますが有機体の集合としての生命は、食べられる木の実や捕食物を要求し、人間は、ある意味「記号」を食べています。 違うとも言えますし、同じとも言える、本当に謎ですね。 これについては奇妙な事がある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のために土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまで幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、自らの素質を完全に発達させる域まで到達させる事ができるのである。 (『世界市民という視点からみた普遍史の理念』カント 中山元訳) 色眼鏡で見ると、ベルクソンは元より、ヘーゲルにも同様な考えが見られます。 今回の質問の根本に「内外」の問題が有ったかも知れませんが、今、書きながら気が付きました。 長文のお礼で、大丈夫かな、失礼しました。

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noname#80116
noname#80116
回答No.8

たとえば 不死と言います。不死である生物はいないのにです。 死を悟ったという意味だと思われます。自分は みんなと同じように 生まれて来たものだと分かる。みづからが時間的な存在だと知るわけです。これは 生物一般がではなく おそらく人間が そして人間のみが知ることでしょう。 これだけで ひょっとすると――というのは そもそも初めからご質問の趣旨が捉えられなかったのですが 今もよく分かりませんで ただ ひょっとするとと思って投稿するのですが ひょっとすると―― 答えになるかとも考えたものです。 われわれは この世界にあって その時空間におけるものごと また時空間そのもののことは知るようになります。 《主はサタンに言われた。 ――お前はどこから来た。 ――地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました。 とサタンは答えた。》 (『ヨブ記』 1:7) われわれは 残念ながら 不死については 説得力をもって説明することができないようです。不死なる存在そのものは いつか一定の時点に生が始まって存在しているというものではなく またそのあと もう死なないというかたちで 不死であるのではないでしょうし。 《 イエスは答えて言われた。 ――たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。》(『ヨハネによる福音』8:14) 推量するところでは この時空間よりも高い次元のことを 科学は どう認識するか もしくは どのようなかたちにおいて その認識に限界があるのか こういったご質問なのかとの臆測がはたらいた ただそれだけでした。 わたしのあてずっぽでは 不死なる次元から見て われわれの存在は 檻に入ったものでもなく 機械であるのでもないと考えます。もっと べらぼうな話としては われわれの存在には 不死の要素が 初めから与えられているというものです。部分的にです。掬われ(たもで掬われるように掬われ)包まれているというふうにです。指でそっと触れられているというようにです。 ――ただ これは ご承知のように 単なる言葉による表現にしか過ぎません。イエスの言葉にしても そうです。 逆に言うと なぞを残しています。つまりは なぞを残すというかたちで かろうじて 知ることがらです。なぞとは 不明瞭な寓喩だそうです。明瞭でないだけではなく 仮りの表現・仮りのたとえとして 精神の胃袋に飲みこんでわかったという気分になるという程度です。 ほにゃらか談議でした。fishbowl66さんの神聖な質疑の場を穢してしまったとしたなら これにて慎みます。再見。

fishbowl66
質問者

お礼

brageloneさん、おはようございます。 死ぬ事を知る、成る程と、お礼の為にログインすると、 此処では、オカシナアニメのページが、一瞬で真っ白に。 どんなお礼をしようとしたのか、危うく忘れそう。 死ぬ事を知るでしたね、噂では、自分が死ぬことは経験できない、にも拘らず、自分が死ぬことを知っている、昔の人は自分が生き返ることを信じていたようなふしもある。人間だけが自分の死を知っているとすると不思議ですね。 逆に、生命科学は、RNAからDNAに至って、死なないものを示唆しているのかも、死を知るということは、不死の部分を忘れたのか、なにやら、頭の中が、ぷよぷよ、とても神聖な雰囲気は出てきません、ぼろを出さない内に、失礼しましょう、有難うございました。

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noname#40699
noname#40699
回答No.7

人間はただ物理的宇宙に住むのでは無い、 感受系と反応系の間に象徴系が介在するぐらいの意味です。 また金魚の知覚といえるものはベルクソンの言う可能的行動のデッサンぐらいの意味しか持たず、、 人間の知覚としての知性とは大いに隔たりがあるようにも思います。 現に、>水温の変化や流れ、とは人間の思考(概念)ではないでしょうか。 それより何より現実に金魚に与えられた感覚をfishbowl66様は推論できるでしょうか?

fishbowl66
質問者

お礼

>それより何より現実に金魚に与えられた感覚をfishbowl66様は推論できるでしょうか? これは、正直きついですね。 感覚・クオリアは、人間同士も共有できませんが、シンボルと行為の整合性から、シンボルに対する信頼が反復により確かめられるのかも。 ただ、金魚が水面近くで、口をパクパク、まるで私のように。 金魚がそのように行動する、そこに、酸素とか空気とか、何かが有ることはは知っている。 成るほど、知ること自体が、象徴化かもしれません。 ご回答、有難うございました。ひとまず、お礼を書いてみました。

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noname#40699
noname#40699
回答No.6

お猿さんや金魚君は物理的宇宙に住んでいる、 がしかし人間はシンボルの宇宙に住んでいる。 そうお思いになられませんか?

fishbowl66
質問者

お礼

1)お猿さんや金魚君は物理的宇宙に住んでいる、 2)しかし人間はシンボルの宇宙に住んでいる。 最近、流行の解釈としては、其の通りでしょうね。 3)お猿さんや金魚君、人間も物理的宇宙に住んでいる。 これは、否定できませんよね。2)から進むと、1)3)に裏切られます。 ラカンも「記号・象徴・シンボル」は、食べられないと知っていたのかも。 生命の飛躍(ベルクソン)ともすれば、神秘主義的理解に流れそうで、 まだ「語り得ぬもの」とさせてもらいました。 ご回答有難うございました。 PS,補足欄を拝借いたします。

fishbowl66
質問者

補足

共通補足 皆様申し訳ありません、質問が大変下手でした。 2)の文章で機械と自然の対立が強調されすぎてしまいました。 3)魚は水を知ることが出来るのでしょうか。 3)を追加して、環境の認知と言うのでしょうか、 つまり、魚は、水温の変化や流れを知るが、水そのものは知らない、とか 大胆に言えば、「差異」以前の知ることの限界についての質問がしたかったのです。 質問文章の問題点を含め、考察の参考になるご意見を、お知らせ下さい。

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noname#91067
noname#91067
回答No.5

われわれは、何を知ることができ 何を知ることができないのか (それを)答えることが出来るかどうか? 人間以外(以上のものでも以下の動物でもない)は知る必要を求めない。 ちょうど人間ぐらいの臨界の生物が本能や経験からでない「今以外」を考えたり語ったりしますね。 肉体的には連鎖した今から動けないものの、想像力を糧に意識は移動出来るので、肉体の次元と意識の次元は違っているもののようです。 想像力で相対性理論も新メニューも発案して利用します。 「知る」の次元の構築要素は解りませんが、キリストやブッダや思想家は想像力が高いので精神的に高次元な存在だったのでしょうね。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答、有難うございます。 「今以外」もなかなか示唆に富んだ表現ですね。 物質と生命の違いの一つに、作用反作用と言う相対的な瞬間から、持続又は過去の保持を可能にした点でしょうか、過去を今に生かして、未来に備える、この辺りが、一般的に考えることにつながるのかも。 尤も、今、反省するのは、知る事と利用すること、この違いが曖昧のままですね、植物が光の方へ生長したり、植物と昆虫の相互の共存関係は、複雑かつ精密なシステム(システムとは機械のことか、と言った突っ込みはなし)、まぁ、植物も知っている、と言うことも可能ですが。 われわれの身体も、地球人ですと、気圧のない真空の宇宙空間では、身体を保持することさえ不可能では、人間は知る前に気圧を利用していたと言う、やや矛盾した表現ができますね。不思議ですね。 宗教的なところに反応できなくて、ゴメンナサイ。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

まず先の参考にいくつかの変換誤字がありました、あやまっておきます。 3)魚は水を知ることが出来るのでしょうか。 ・・・・・・・魚の知能程度を疑ってますね。・・・・・・・・・ 仏教では悟りたるものは三明を得るといいます。つまり霊能力のことだそうですが、そういうお方は魚同士が話してる内容もわかるそうです。魚にせよ鳥にせよそれぞれの本能に縛られてるとはいえ互いに話し合って危険から逃れているそうです。普通の人間には理解不能ですけどね。これが本当だとすれば、魚は水を知ってるといえるでしょう。逆に魚が水を知らなければ池の外に出るのもいておかしくないですけど、出ないものね。平地に住む人間も空気があるから生きているというのは殆どの人が後天的に学ぶことですね。しかし山岳地帯の人は空気の濃度の違いを小さいうちから経験的に学びますね。魚は生まれてすぐ水と空気の境に接するわけですから池の外に出るのが50%いてもおかしくないですよね。でもそうしないということは母親が教えているのでしょうね。人間の赤子も水には入れないものね。たしかに人間のように分析的にH2Oなどは考えないでしょうが知ってるんですよ。それがほんとなんでしょうね。「山川草木(=あらゆる生き物という意味)悉有仏性」これをあなどってはいけないですね。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 誤字も色々、読んで誤字と気づかない方が恥ずかしいですね。 >魚の知能程度を疑ってますね。 いやいや、私たちにしたところで、身近にある万有引力、これを知る為に (知らずに活用したとしても)長い歳月が掛かったのではないでしょうか。 おまけ 久々の自転車散歩、平坦な自転車道でのんびりリハビリ、 それでも、中学生ぐらいの二人連れの自転車に追いつく、 さらにのんびり、少女のお尻を眺めていると、 木陰に覆われた大きな建物が、「シャオチェ~」 いい加減な外国語で呼びかけても、通じちゃう、 振り返った二人に、「この建物は、なぁ~に」と尋ねると。 「よくわからない~、リサイクルセンターかな」と 自転車道から外れて、建物の正面に回る 「葬祭場」昔の「火葬場」 中学生少女の直観、恐るべし。 仏罰仏罰・・・つまらぬお礼で失礼しました。

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noname#91067
noname#91067
回答No.3

>単純な入力と出力のくり返しではなく、入力に対する分岐や出力までの過程が、膨大なパターン別れていて、何が入力で、どれが出力かも外見ではさっぱりわかりません これは私も感じることですが、ここでの回答も入力しながら(検索したり本を読んだり)してますし、質問者の立場であっても何か出しつつ。むしろ回答することで私の一部、入力した思考や更新した記憶の細胞を調べる自分の勉強をすることになっているんです。良い質問者に感謝です。 >弥生人にとって、この機械は、機械と理解するでしょうか、自然の恵だと思うでしょうか。 機械を人工物にするというのは人間だけの発想かもしれませんよ!機械であれ草木、岩石、化合物であれ無から作られはしない、自然を利用して加工して造ってます。 無から生み造るインフレ期の宇宙こそ神が生み出した玩具といえると思います。 弥生人でも高度な知能の宇宙人(映画AIに出てきた2千年後の宇宙人)でも無から造れる能力はないので、機械も自然ですね。いつか神が「宇宙も全部機械なんですけど」とバラしたら面白い。神にとって自然の装置も映画も神の一部なので知る必要がないのです。宇宙が誕生してから終わりまでの映画をすべて同時に一瞬でみます。主観も客観も知る必要がないです。 ワレワレハウチュウジンデアル(以下省略、扇風機使用のこと)

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答、有難うございます。 宇宙人同士、機械に関して、共通の理解を得られたことは、大変喜ばしいことではございますが、大変申し訳ない事に、質問したかったことは、そこと関係するものの、自然と機会の区別ではなく、それ以前のことだったと、思うのですが(過去形になってしまったことに注意)、それ以前のことを表現する言葉がなかなか見つかりません。 補足欄をお借りして悪あがきを試みてみます。 皆様に、見捨てられてしまわないように、頑張りますが、 あきれて物も言えない、と、突き放されてもしょうがないかも。 宇宙人のコミュニケーションは、難しい。

fishbowl66
質問者

補足

共通補足 皆様申し訳ありません、質問が大変下手でした。 2)の文章で機械と自然の対立が強調されすぎてしまいました。 3)魚は水を知ることが出来るのでしょうか。 3)を追加して、環境の認知と言うのでしょうか、 つまり、魚は、水温の変化や流れを知るが、水そのものは知らない、とか 大胆に言えば、「差異と反復」以前の知ることの限界についての質問がしたかったのです。 質問文章の問題点を含め、考察の参考になるご意見を、お知らせ下さい。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

1)檻の中で生まれた猿にとって、檻とは、自然でしょうか。 自然ですね。金魚蜂の中の金魚は金魚蜂から出れば死んでしまいますので金魚蜂自体が自然な存在ですね。これと同じと考えられますね。金魚蜂の金魚の1ぴっきが偶然外に飛び出してまたたまたま金魚蜂に戻ったとします、飛び出た瞬間に見た別の世界を他の金魚に話しても信じてもらえないでしょう。これ人間の世界も猿の世界でも同じでしょうね。 2)についても金魚蜂をたとえれば同じでしょう。自然ですね。金魚蜂は人間からみれば作り物ですが金魚から見れば自然な生存世界ですね。蝉、仏から見ればこれ面白い機械なんですね。羽化登仙しますね。地中に醜い姿で7年いてあるとき地上に出て殻を破って飛ぶんですね。蝉は期間から言えば地中が自然な世界ですね。羽化登仙という出来事は死ぬときですね。仏が人間の本来の姿を見せるために作ったおもちゃなんですね、でも皆さんは自然としかみていないでしょう。 これほど認識力というのは狭いものなんですね。だからすべて自然なんですね。本当のことを知りたいという欲求をもつ生物がまれにいます。また、まれに本当のことを知っている生物がいます。でもどちらもまれにしかいません。本当のことを知っている生物にとて 「われわれはどこから来たのか われわれは何であるのか われわれはどこへ行くのか」 なぞは至極簡単なことですが、殆どの人達には話しても意味の無い事なので「無記」といって答えません。たまに本当のことを知りたいという欲求の強い生物が探し当てて請われると話します。それでそれを聞いた生物は随喜の涙を流して喜ぶのです。 答えはいつも用意されているがチャンスは稀有ということですね。それが自然なことなんです。そうでないと生物のあらゆる秩序・世界が保てないからですね。 参考に

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答、有難うございます。 相変わらず、達観の高峰で揺らぎが見られませんね。 金魚鉢から飛び出した金魚は、また、金魚鉢に戻れれば良いのですが、着地に失敗した、哀れな金魚も、あちこちに、いるようです。 蝉の仙人とは違って、質問の準備不足に、右往左往、修行不足を露呈してしまいました、自然とは何かと問いかけるつもりではなかったのに、質問文を読むと、そのように理解されてしまいますね。 誰でしたか、言葉で発するたびに、私は、言葉にに裏切られる。 今回は、低級かつ素朴なミスですが、悪あがきを続けてみます。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

1) 半年程前に裏庭にとても綺麗な黄色いセキセイインコが迷い込んで来ました。お腹がすいていたようで、簡単に捕まえることが出来ました。早速、鳥かごを買って来て飼い始めたのですが、あわてて買って来てしまったために、籠が幾分小さ過ぎるような気がしてインコが可哀想になりました。そこで、一ヶ月程経ってから家の中で思い切って一日中籠の入り口開け放しにして,餌を籠の外に置いて見ました。インコは食べるためにやむ終えず外に出て来るようになりましたが、食べ終わるとすぐに籠の中に入ってしまいます。ときどき出て来て家の中を飛んだりしますが、1日のほとんどは籠の中に居ます。外に出ている時にちょっとでも脅すと、籠の中にあわてて入ってしまいます。猿はわかりませんが、うちのインコは籠の中と籠の外を意味的に理解しているようで、籠の中を至って自然で安心出来る場所と考えているようです。 2)現在の科学者から見てもさっぱりわからない程の大変複雑な過程を通して、太陽光線と水分と炭酸ガスなどを原料にして炭水化物や脂肪やタンパク質を自然に造ってしまう緑色の装置がありますよね。弥生人ではなくて、現代人はこれを機械だと思うのでしょうか、それとも自然の恵みだと思うのでしょうか。

fishbowl66
質問者

お礼

お早う御座います。 可愛いインコのお話は、大変参考になります。 安心できる場所を自然と捉えられるのは、成る程と納得です。 ただ、そのインコの出自が謎なのが、少し残念ですが。 2)は、お見事ですね、この様な表現も有るかもと思いましたが、実は以前の質問で、自然と人為の違いを、お尋ねしたことが有り、その質問と同じになってしまいそうで、一工夫したつもりが、かえってあだに成ったのかもしれません、今回は、何を知ることが出来るか?こちらの方面から、脱線しないように気をつけてまいりたいと思います。 ご回答有難う御座いました。

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    お騒がせします。 皆様、敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、 どちらか、ご存知でしたら、教えてください。 以下余白

  • ほにゃらか形而左右学 「ちから」2

    「ちから」に関して、哲学的考察が可能か、という質問です。 一般に、「ちから」といえば、物理学です。 重力・磁力といった、「ちから」の分析、慣性の法則の発見、などなど。 それと、生理的な「ちから」も、熱量として、生物学や栄養学、などなど。 ところで、人間は社会的動物と言う事で、必ず集団を作ります。 他の動物も、集団を形成しますが、人間の作る社会の制度は、特別です。 そこで、この社会を必然的に構成する「ちから」これが謎です。 この、社会を構成する「ちから」は、物理学上の力の様に、考察の対象になるでしょうか。 「精神のエネルギー」つまり「思考する力」 あるいは「ちからの総合」も視野に入れて、 今回の考察の、足掛かりについて、なんでも教えてください。 前回の質問 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3305165.html 前回の質問が長くなり、改めて、質問しなおしました。

  • ほにゃらか形而左右学 影

    毎度、お騒がせいたします、影だけ屋がお邪魔します。 かげ屋~かげだけ~♪ かげ屋~かげだけ~♪・・・ えへん、こんこん、調子が悪いですね。ほにゃらかに行きましょう。 「影を売った男」確か、悪魔に影を売るんでしたね、結局、良い事はなかった。 天使に売っておけば、良いこと有るのかな、とも思いますが、それはさておき。 影というと、表と裏の二元論的な一面ですが 木陰と物陰、守ってくれる陰と、排除する陰。 またまた、二元論に、陥ってしまいますが、さてさて、 われわれの習慣として、この様な分節に親しむ理由もさておき。 影とはなんじゃろうか。 最初は、存在論的に、影は、実在しますか、存在しますか。と問うて見ましょう。 実在 [哲]一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。 特に、プラトンは感官によって知覚される存在を影にすぎず、その背後のイディアを真の実在と考えた。 アリストテレスを承けて種のような普遍を実在とするアベラールのような考えもある。(以下略、広辞苑) 存在 [哲]実体と属性とに分かれ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また実体には、自然的・物的なものと、意識的なもの更に超自然的で非感覚的なものとがある。(以下略、広辞苑) 影と陰の国語の講釈も、良ければお願いします。 お礼は遅れがちになりますが、宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 テレビ

     先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。  まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。  少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。  さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。  質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。

  • ほにゃらか形而左右学 矛盾

    お世話になります、或いは、お騒がせします。 最近、矛盾という言葉を、彼方此方でよく耳にするのですが、 矛盾について考えてみました。嘘がつけるかどうかと同様 矛盾がそもそも可能であるとはどのような状態なのでしょうか。 そこで、悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 さてさて、自然の中に矛盾を探しにいき、見つからなかったのですが 本当に見つからないのでしょうか。 宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 矛盾つづき

    前回の質問が、諸般の事情(ぉぃ)により、中途で締め切ってしまいました。 前回の質問は要約すると以下の通りです。 悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 前回の進展 自然の中に矛盾を見つけるのは、どうやら難しそう。 蓋然的にせよ、自然の中に矛盾は無いと言う仮設が成立し その結果、矛盾の可能性は人為の中から始まることになります。 そこで、人為のなかに矛盾の根っ子を探しに行くと、 「道具」と言う厄介なものにぶつかります。 自然と人為の明確な線引きがそもそも出来ないのではないか。 そこで、今回、改めて道具は人為なのか?から始めて、 飛行機が空を飛ぶのは、自然だろうか人為だろうか。 飛行機が空を飛ぶのも、墜落するのも、自然の法則に乗っているだけで、 そこに、人為は無い、人為は鉄の塊を飛ばす意図にある。 自然と人間の意図・意思・観念の辺りに、自然と人為の線引きを試みると 知覚・感情・記憶・思考・・・この階梯のの何処かに原因が隠れていそうです。 例えば、感情や感覚、同じ20度と言う外気が、季節により、涼しくもあり暖かくもなる。 知覚に関しては、眼という器官が、あるはずの盲点に、無いはずのクオリア補正する。 このような例が矛盾に当たるのでしょうか? さらに、逆の方向、量子力学の問題。 量子の両義性、存在と非存在・波動と粒子、これは矛盾なのか? フッサールの助言に従って、知らん振りするか? ちなみに、矛盾の本質的原因は言語の不条理によるものだょ~ といった、明快な回答が可能なら、是非教えてください。 以下CM、前回の質問は一枚下にあります。是非見てね。