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ほにゃらか形而左右学 矛盾つづき

前回の質問が、諸般の事情(ぉぃ)により、中途で締め切ってしまいました。 前回の質問は要約すると以下の通りです。 悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 前回の進展 自然の中に矛盾を見つけるのは、どうやら難しそう。 蓋然的にせよ、自然の中に矛盾は無いと言う仮設が成立し その結果、矛盾の可能性は人為の中から始まることになります。 そこで、人為のなかに矛盾の根っ子を探しに行くと、 「道具」と言う厄介なものにぶつかります。 自然と人為の明確な線引きがそもそも出来ないのではないか。 そこで、今回、改めて道具は人為なのか?から始めて、 飛行機が空を飛ぶのは、自然だろうか人為だろうか。 飛行機が空を飛ぶのも、墜落するのも、自然の法則に乗っているだけで、 そこに、人為は無い、人為は鉄の塊を飛ばす意図にある。 自然と人間の意図・意思・観念の辺りに、自然と人為の線引きを試みると 知覚・感情・記憶・思考・・・この階梯のの何処かに原因が隠れていそうです。 例えば、感情や感覚、同じ20度と言う外気が、季節により、涼しくもあり暖かくもなる。 知覚に関しては、眼という器官が、あるはずの盲点に、無いはずのクオリア補正する。 このような例が矛盾に当たるのでしょうか? さらに、逆の方向、量子力学の問題。 量子の両義性、存在と非存在・波動と粒子、これは矛盾なのか? フッサールの助言に従って、知らん振りするか? ちなみに、矛盾の本質的原因は言語の不条理によるものだょ~ といった、明快な回答が可能なら、是非教えてください。 以下CM、前回の質問は一枚下にあります。是非見てね。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

相変わらずがんばっていますね。 「矛盾の本質的原因は言語の不条理によるものだょ~」は一理ありますが「矛盾の本質的原因は認識力の狭さからくるもの」といったほうがより一般的だと思います。 ギリシャ的二元論を引き合いに出すと、2つにひとつぐらいしか人間は判断できないという本質をついてますね。その程度の認識力が一般的なのでしょう。聖徳太子のように10人のあらゆる質問に同時に答えられるような御仁に矛盾などは存在しないんでしょうね。 量子力学の問題も出てますが、例えば、水というものは温度が下がれば氷と呼ばれる固体、通常は流体で、温度が上がれば、目に見えない気体ですね。全体を認識すれば矛盾などないんですが、流体(水)と氷(固体)、氷(固体)と水蒸気(気体)のようにしか認識できないと認識矛盾が発生しますよね。量子力学の存在と非存在・波動と粒子もこれと同じようなはなしですね。つまり、見えるか見えないか程度の二元法的認識力では認識矛盾がでてくるわけですね。どのような論理であっても領域を限定すれば必然的に認識矛盾が発生するというのが本質かなと思いますね。西田先生のおしゃってた絶対矛盾の同一性にいたる認識では認識矛盾などはないということでしょうね。つまり、領域を限定するのは自身の認識力でしかないといいたいわけです。

fishbowl66
質問者

補足

お礼が遅れて、申し訳ありません。 いろいろ、考えたのですが、 認識力の狭さ、二つの意味で狭さが在る事は解るのですが 「認識矛盾」がよく判りません。 そのせいで、最後の西田さんの言葉も理解できないのです。 どうも、「矛盾」と「嘘」「間違い」の混同、 さらには、認識自体が、「時間」「運動」の捨象なのでしょうか。 少々混乱気味、スルーして頂いて結構です。 お礼が書けませんでしたので、此処で失礼します。

その他の回答 (10)

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.11

#6です。 >「A」と「非A」は「A」が存在すれば「非A」は存在しないはずです。 存在しないからこそ「矛盾」と言います。「矛盾律」は「矛盾」が存在すると言っているのではなく、「矛盾」は存在できないと言っています。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B7%BD%E2%CE%A7 >「創造」の源泉と言ってしまっては、背中律からも、あるいは、存在しないものの影響と言う論理的な困難が出て来ないでしょうか。 「創造」は正に「存在しないもの」を「存在せしめる行為」を言います。既に有るものを有らしめるのは「保守」と言います。 >「言語化」することにより、対象の運動を固定し「時間の空間化」として、考えています。 運動を固定化すると、飛んでいる「矢」が地点Aを通過している瞬間は、地点「A」に「矢」が存在することになります。それだと、初めから地点「A」に静止している「矢」と同じことになり、運動が成り立たなくなると思います。飛んでいる「矢」はどこにも存在しないのではないでしょうか。 >林檎が最初から赤いわけではないですね。最後まで青い林檎も有るようです。 林檎がいつも赤いとは限らないという意味ではなく、そもそも林檎には色が付いていないという意味です。この「赤」と言う文字には「赤い色」が付いていないのと同じです。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 「ハイチュウリツ」の字が間違っていましたね、お恥ずかしい次第です。 御礼の仕方が拙く、誤解をされてしまったかもしれませんし、 問題点が拡大されそうになりますので、一旦この質問を締め切って 改めて整理しますので、また宜しくお願いします。 質問は矛盾についてに、出来るだけ集中できるように変えてみます。

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.10

>そもそも、二分方自体問題があるわけですが、自然とか絶対認識に矛盾が無いとすれば、何処かで矛盾の起きる可能性が「生成」或いは「創造」・「創発」されたのではないのか。  そりゃ、意味が2通りあるときとかに、矛盾が生じるんでしょうね。  言っている意味を明確にするために、言葉をさらに限定すれば、矛盾はなくなるのではないかと思います。

fishbowl66
質問者

お礼

再度のご回答、有難うございます。 お礼は、Q&Aが長くなったため、現在の問題点を少し整理したのですが、 かえって、ご迷惑をお掛けしたようで、失礼しました。 言葉の問題は確かにあるのですが、 それだけで解決できるかどうか、難しいところですね。 お蔭様で、一つヒントを頂き、問題を別の視点から整理できそうです。 有難うございました。

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.9

>飛行機が空を飛ぶのは、自然だろうか人為だろうか。 飛行機が空を飛ぶのも、墜落するのも、自然の法則に乗っているだけで、 そこに、人為は無い、人為は鉄の塊を飛ばす意図にある。  人為というのは人の行動によってなされていることだから、飛行機が空を飛ぶのは人為なのではないでしょうか?  自然が人の作ったものと対立しているものと捉える人もいれば、人為を自然の一部と捉える人もいるということでしょうね。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 飛行機のお話は、自然と人為の二分方を正確に線引きできるか、と言う問題点を考えるために、例えとして出したのですが、結局、人為の中には自然が含まれていて、自然と無関係なものは、そもそも無かったのではないだろうか、と、考えを改めているところです。つまり、人為も自然の一部で、物質と精神と言った二分方で、矛盾の起きる可能性を探るほうが理にかなっているのかもしれません。 そもそも、二分方自体問題があるわけですが、自然とか絶対認識に矛盾が無いとすれば、何処かで矛盾の起きる可能性が「生成」或いは「創造」・「創発」されたのではないのか。 この辺りを、認識の段階を詳しく調べてみたいのですが。

noname#50219
noname#50219
回答No.8

あぁ、送信するつもりがなかったのに、。行ってしまった。 No.7の回答はスルーしてくださって結構です。 すみません。削除or編集キーなんかあれば便利なんだけど。。

fishbowl66
質問者

お礼

>すみません。削除or編集キーなんかあれば便利なんだけど。。 本当に同感です、私もつい口が滑ったりして。 有ると良いですね、削除or編集キー。 有難うございました。

noname#50219
noname#50219
回答No.7

 無敵の矛と盾を持った戦士に、戦う相手が存在するならば、矛盾の成立することがありません。敵がいるならば、矛もしくは盾のどちらかが敵に渡らないとも言い切れないからです。矛と盾を持つのは「一人」の戦士なのです。もしこのような戦士がいるならば、その時、矛盾は成立します。矛も盾も、使用されて役に立つと言う事はないかもしれませんが、戦いは超克されているでしょう。  地下水脈(自然)と井戸(文明)の関係は、もう一つ例えるなら、地上に生えた樹と、その葉で例えれるかもしれません。土地が地球で、根と幹と枝が生態系とするなら、葉が文明と例えれます。 これはとても現実的なたとえだと思います。 水や栄養素が、地球や樹の各部位(根、幹、枝、葉)を巡って、あらゆるところにくまなく還元する様子が思い浮かべられるからです。  もし人が、「こんなことをしたい、と思っているようで、実の本当のところでは、そのようにしたいなどと思ってはいない」という状況にあるならば、これは矛盾と言うよりも虚構です。 虚構を築いているために、彼は本当にしたいことができないのです。

fishbowl66
質問者

お礼

なるほど、 ご要望にお答えしてスルーします。 失敗、有難うございました。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.6

「矛盾」とは....「AなのにAでないこと」。 「どんな盾も突き通す矛」なのに「どんな盾も突き通す矛」ではないこと。 「好きなのに嫌い」「愛しているのに殺したい」....「矛盾」した心理。 人間は「自然なのに自然でない」。人為は「自然なのに自然でない」。これが最大の「矛盾」。 何故か? 「自然」は「進化」するものだから。「進化」とは「A」であるものが「A」でなくなること。 「矛盾」とは、「Aであるものが、同時に、Aでないこと」。「Aであるものが、一定時間後に、Aでないこと」は「矛盾」とは言わない。「かって好きだったけど、今、嫌い」は「矛盾」ではない。従って、「矛盾」とは「時間」の親類。 「進化」は、「矛盾」から生じる。「物質」が「物質」であるかぎり「矛盾」ではないが、「物質」が「物質」であると同時に「生命」であるとき「矛盾」が生じ、「進化」が生れる。猿が「猿」である限り、矛盾ではないが、猿が「猿」であると同時に「人間」であるとき、「矛盾」であり、「進化」が生じる。自己が「自己」であるかぎり「矛盾」ではないが、自己が「自己」であると同時に「自己」でないとき、「矛盾」であり、「自己変容」が生じる。思考上の「素粒子」が「粒子である同時に波である」ことは矛盾であり、その結果、思考の進化が生じ、「ひも理論」が生まれる。 従って、「矛盾」とは、「進化」の源泉であり、「創造」の源泉だと思います。

fishbowl66
質問者

お礼

お忙しい中、お付き合い頂き、有難うございます。 あちらは、大変な事になっていますね(笑。 実はこの質問も「物質」が無くなってしまうと、大変困るので、参考にさせて頂いております。 いい加減なお礼ばかり書いていた反動で、 少し揚げ足取りのような表現になってしまうかもしれませんが、問題を深く考えるためにお許し下さい。 >従って、「矛盾」とは、「進化」の源泉であり、「創造」の源泉だと思います。 「矛盾」の定義は前回の質問に書きましたが、 「A」と「非A」は「A」が存在すれば「非A」は存在しないはずです。 「創造」の源泉と言ってしまっては、背中律からも、 あるいは、存在しないものの影響と言う論理的な困難が出て来ないでしょうか。 進化や運動・時間のご指摘は、全く同感なのですが、「言語化」することにより、対象の運動を固定し「時間の空間化」として、考えています。「林檎は赤い」常識的には間違っていないのですが、林檎が最初から赤いわけではないですね。最後まで青い林檎も有るようです。 ただ、ご回答の一部に、自然にも矛盾がある、と理解できそうな部分が有るのですが、 生命が物質から出来ている事を、「矛盾」しているとお考えなのでしょうか? この辺りは、ご回答者様のご質問が解決しないと、なんともし難い所ですが(笑。

noname#31063
noname#31063
回答No.5

早く来たかったのですが、思考停止状態です。 損な中、矛盾といえば思いついたのが「不倫」です。 軽く経験しました。 自然界に不倫はないように思います。 婚姻という契約があるから不倫も存在してしまいますね。 伴侶に愛想が尽きた、不満があるから不貞という逃げ道を作るのですが 愛想を尽かした方が先に不満や被害者意識があるのに 愛想を尽かされた方が被害者という扱いで 論理、正義によって保護されるというのは矛盾してません? してません?? 不倫を推奨賛美するものではないですよ! 愛想を尽かされた方(裏切られた方)がその後 不倫によって相手に負けじと復讐というか 愛想を尽かすのならせめて同罪と思います。 慰謝料の請求に当たっては加害者意識を持ってもいいではないか? とするのですが、 あくまで不倫するにも憎悪の盾や剣で相手を刺すのではなく 伴侶や相手の幸せを願って 愛情の示し方をするべきだと思うのです。 フッサールと関係するかどうかですが、その点は私には無関係です。 おじゃましました。

fishbowl66
質問者

お礼

磨きこまれた板張りの床の向こう 吉野の借景、人々のざわめきが消え去る。 何万回と繰り返される人びとの愚かな行為 稀、故に、記憶に残る、善意。 数々の記憶の中に、行為図式としての標準を探し その中に安住の居を定め、背筋を伸ばした瞑想。 「パ~ン」 乾いた空気を切った、「警策」一撃。 原因と結果の無限の背進が始まる。 しかし 人は、無限の背進には耐えられない、なぜ、動物だから。 幽霊が出るなら、見てみたい。 啓蒙とは「知る勇気をもて」倫理はその後です。 もっとも、ご心配するようなことは有りませんよ(笑。 現実は、テレビドラマの様な訳には行きません。 ご心配、有難うございます。

回答No.4

こんにちは、fishbowl66さん。 呼ばれもしないのに飛び出てジャジャジャジャーン~♪行方不明ではなく意味不明のlittlekissでよかったかな?ほーい、ご機嫌いかが? うん、うん、 いたって怪調? ちょっち気分はロプロス~♪ ('-^*)/ 飛びます! 雲をつかむようなお話をちょい考えていました。そなのよねぇー、ここの下の方に「物質は存在するのでしょうか?」って質問を併せて眺めてたらね、ふと、「雲」が頭にふぉわふぉわふぉわと浮かんできたの。ヨシ!これでいってみよう~♪と、ここのお題を考えてみました。お空に浮かぶ雲、近づいて手をのばし掴もうとしても何も掴めない。なんでじゃ?!肌はしっとり。いるんです、何かが…むむむむ…。自然です。人為、雲だ!と見ているのは人です。人が雲と認識しているものはちっちゃな水の集まり。雲はちっちゃなみずの集まりの総体。雲とちっちゃな水集まりは同じなんだよといったとて、人はちっちゃなみずの集まりがひとつだとなんじゃこりゃ?となり同じなわけないじゃんとなるのでしょう。けれど、ちっちゃな水がたぁーくさん集まりその姿をあらわすとこれが雲なんだと新たな認識がそこでひとつ生まれます。共通認識。 で、雲は自然です、このなかに矛盾はすっぽりおさまっています。 ー雲を掴むような話ー http://www.pref.toyama.jp/sections/1001/kids/kitokito_kids_3/genkids2.html http://www.nagare.or.jp/mm/98/nakajima/index_ja.htm

fishbowl66
質問者

お礼

御礼が遅くなりました。 雲をつかむ様なご回答、参考URLとご回答を比較して、沈黙。 富山の子供達は可愛いですが、あの数式には参りました。 >で、雲は自然です、このなかに矛盾はすっぽりおさまっています。 自然の中にも矛盾があると仰せでしょうか、 とすると、大いに反論しなければなりませんが、大人げ無いことは、 何処かへ、放り投げておいて、ポイ。 水と言えば、面白い性質があって、普通「物質」(強調)は、 気体・液体・固体と変化するに従って、比重を増すのですが、 水は不思議な事に、個体が液体に浮くんですね。 もし、氷が水に浮かなかったら、生命が氷河期を乗り越えたのか 生命の歴史が変わったかもしれません。 楽しいご回答、有難うございました。 なんとかチョコの日のご多幸を祈願して(笑。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

どうも哲学的思考が苦手な割には好き、という困った性格で度々ご迷惑おかけしております。 今回スルーしようと思ったのですが、怪しい香りにひきつけられてついボタンをクリックしてしまいました。 端的に言うと、おっしゃっていることが良くわからないので逆に教えていただきたい、という「質問の回答」と捉えていただくとありがたいです。もしかして、これも削除か。(^^;) 前置きが長くなり恐縮です。 まず、「>蓋然的にせよ」という注釈つきですから「>自然の中に矛盾は無いと言う仮設」は渋々了承するとして(何という傲慢な物言い。無知ほど強いものはない? )、 「>今回、改めて道具は人為なのか?から始めて」とのこと。 飛行機は空を飛ぶものではなく、飛ばすものだと思うのですが、これは明らかに人為ではないかと思います。 人為で加速をつけた後は、エネルギー不滅の法則によって飛行が可能になるというにすぎないのではないでしょうか。 人為だから墜落する隙があるわけで、バッタは普通は墜落しません。 バッタの場合は対比的表現を使えば神為と言えると思います。 ところで、なぜバッタは飛ぶのかというと、エサを探すためであったり、適温を求めてだったり、(結婚のための)ナンパであったりするのでしょう。 なぜ、そのような行動をするのかと言えば生きるためですが、なぜ生きるのかと言えば人間のように複雑なことは考えませんから、単に子孫を残すためでしょう。 ところが、なぜ子孫を残すのか、という点については彼ら(あるいは彼女ら)は無論、我々人類にも恐らくわからないのではないでしょうか。 つまり、バッタはわからないものを創造するために必死で飛び続け(休憩もするでしょうが)、そして死んでいくわけです。 そして、新たに生まれてきたバッタはまた同じ事を繰り返し、折角生まれてきたのに、また何かわからないものを生み出すためだけに生きて死んでいくことになります。 まさしく矛盾と言えるでしょう。 しかし、その矛盾によってバッタという生態系の一部が成立していることも事実ですし、そのような矛盾の拮抗の集積が自然ではないかと思います。 しつこい! と怒られるのを覚悟で脱線してみました。 要点を逸れてもうしわけありません。 軌道に戻ります。(戻ったつもりで、路線違いかもしれませんが) 人為的矛盾に関しては、 これは「不合理な思い込み」に殆んどの端を発するのではないかと思います。 「>知覚・感情・記憶・思考」の処理過程における思い込みです。 進化の途上で、根本を察知する、あるいは想像する力が未だ備わっていないということではないでしょうか。 また、色々勉強させていただきます。 この回答は面倒くさければスルーしていただいて無論結構です。 覚悟いたしておりますので、適当にあしらってください。(^^;)  

fishbowl66
質問者

お礼

前略(この部分は、ご回答者様の自由なご想像にお任せします。) さて今回も、悪しき二元法にお付き合い頂き、飛行機ですね。 今回も若干の違いをご指摘頂き、大変参考になります。 実は、知覚・感覚・記憶・思考等々の各段階で、自然から人為への移り変わりの特異点の様な事を考えていたのですが、ご指摘に従って、いろいろ考えてみると、どうももっと複雑と言うか、混沌としているような気がしてきました。 例えば、鳥が空を飛ぶのを見て、鶏、犬、猿、さん達は何を感じるのか。 そして人間が空を飛びたいと考えることは、自然なことだ。 この時、自然を本来の意味での自然ではなく、道理が通っていると言った意味で使っているのですが、この自然が、今、問題となっている、人為と対立する自然と、どのような関連で理解すればよいのかが、良く判らなくなってしまいました。今書いている事も、筋が通っているのだろうか? 要するに、人為と自然の二元論で矛盾の原因に接近しようとした所、例えば人為の最たる「行為」でさえ「自然」が混在しているのではないのかな、と 私たちは話すことができる、しかし、それは空気が振動を伝えられると言う性質に負う所が非常に大きい、この様な見方を全く無視して、言語行為を完全に人為として、矛盾の原因を「言葉の不条理」に着地できそうな期待があったのかもしれません。 良い質問は、質問が出された時点で解決しているらしいです、逆に悪い質問は、解決できないばかりか、新たな問題点ばかりが出てきてしまうようです。 お蔭様で、困っております、ご回答大変有難うございました。 なお、バッタはますます混乱しそうで、割愛しました。

noname#50219
noname#50219
回答No.1

トリック的な事を言いますが、。 世の中に貫けぬものはないという矛と、世の中に貫けるものはないという盾が同時に存在するのかという問題は、このいわば最強の矛と盾を、一人の戦士に持たしたならば、二つの共存し得ないかに見える武器は、共存することができます。  経済活動(文明)で生命を維持しているように見える人類ですが、実は自然環境を激変させ、自分の首を絞めかねない状況になっています。 自然と人為が敵対すれば共存しがたいですが、自然と人為を双方ものにすれば、共存できるわけです。 どれだけの地下水脈(自然)があって、どれだけの井戸(文明)を掘ることができるのか。相応のものでなければなりません。

fishbowl66
質問者

お礼

これまた、納得。 解決していますね。う~む百戦錬磨のご回答者様、深い意味があるかも。 たとえばこの戦士は、闘うたびに勝ってしまい、勝利の麻薬に犯され、戦いの連続の中、休む事も、考えることも出来なくなるのか。 或いは、経済風刺。 巷の証券会社では、絶対儲かりますと、方や売り、こなた買い、結局、絶対儲かるのは手数料収入。そんなこと解ってるさ、判っちゃいるけどやめられない。どうせ、正義など構築されたにすぎないんだし、とシニカルに客に嘘を嘘ときずかず、説得する。(業界の皆様、風刺です) この程度の解釈では、井戸の深さに及ばないようだが、掘り過ぎてもいけない。ご回答有難うございました。

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    「『心』とは生物が進化してくる道筋の、どこかある時点で生まれてきたに違いないと思えてくる。それならば、どこで? 生物に「記憶」が誕生したときからというのが、これから話そうとしている仮説である。これははなはだ奇妙に聞こえる。心の起源というからには、もっと堂々としたものが出てきそうなものなのに、何の変哲もない『記憶』とは。」心の起源 木下清一郎 何の変哲もない『記憶』と表現されていますが、記憶はなかなか一筋縄では理解できません。 今回は、「記憶とは何か」と言った大層な質問は致しません。皆さんが持っている、記憶の内容自体に関する事です。 言葉や図形の様に、再現できる記憶と、再現できないが、知覚すれば同じであると同定できる記憶の違いに関する事です。 例えば具体的に説明すると、他人の顔は、以前、逢ったかどうか比較的に正確に記憶しています。しかし、記憶しているからといって、その人の顔を、絵に描いたり出来る為には、長い付き合いが必要です、さらに、その人の顔の映像を思い描いたりして再現する事はほとんど不可能な気がします(なかには出来る方が居るかもしれませんが)。 それに対して、私たちは日本語を記憶している表現は少し変なのですが、詩とか歌とかは通常、概ね再現できます。 再現できる記憶と再現できない記憶を、同じ記憶という言葉で定義しては、そもそも「記憶とは何か」と問う資格も無いのではなかろうかと、考え込んでいる次第です。 この違いは、短期記憶・長期記憶やエピソード記憶・運動記憶といった、記憶の形式的区分と違った存在論的な区分があるような気もするのですが、どうなんでしょう? 記憶の内容に関するこの二つの記憶の違い、という考え方に、思い込みや勘違いが無いか、教えて頂けませんでしょうか。 PS この質問は、ノンビリ一ヶ月ほど受け付けて居ますので、宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 敬語(1)

    「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」 『恋衣』(明治38年1月刊) 与謝野晶子 「美男におわす」と言う表現が、「尼」との対比なのか、斬新な価値基準の表れなのかはさておき、この敬語表現は、古い形式で、昨今なら、「美男でいらっしゃます」とでもいうのでしょうか。敬語表現も相当揺らぎが激しいようですね。尤も、言語表現は揺らぎが激しいものですから、驚くことはないのですが、もし、敬語が(此処では一般的に丁寧語や謙譲語等々をひっくるめて)「絶滅危惧種」に指定されているとしたら、どうでしょうか。 敬語の表現変化は、あくまでも国語の問題ですが、そもそも、無くなったり、他の媒体にその使命を移譲していくとしたら、そこに、哲学・社会学的考察の扉が開かれているのではないでしょうか。 手始めに、敬語はなくなるのかどうか、この辺りから、ご意見をお聞かせ下さい。

  • ほにゃらか形而左右学 応援

    ほにゃらか形而左右学 応援 日本人は、なぜ、日本チームを応援するのでしょうか。