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ほにゃらか形而左右学 檻と機械

1)檻の中で生まれた猿にとって、檻とは、自然でしょうか。 そもそも、猿には言語がありませんので、よい言葉が見つかりません、 表現は悪いのですが、檻の外と檻の中を意味的に区別できるでしょうか。 2)ほにゃらか島に、仮定の機械が有ります。大昔に、太陽光線や潮位の変動を動力として、半永久的に動いているとします、その動きの過程は単純な入力と出力のくり返しではなく、入力に対する分岐や出力までの過程が、膨大なパターン別れていて、何が入力で、どれが出力かも外見ではさっぱりわかりません。ただし、海水を真水にして、滾々と流れ出てきます。ほにゃらか島は、いつしか無人島になりましたが、其処へ、丸太舟で漂流してきた、弥生人がいたとします。弥生人にとって、この機械は、機械と理解するでしょうか、自然の恵だと思うでしょうか。 今回の質問も、解り難くなってしまいましたが、ゴーギャンの三つ質問の前に、 われわれは、何を知ることができ、何を知ることができないのか、かの三つの質問は、答えることが出来るかどうか、せめて其れ位は知りたいですね。 1)と2)の例を検討しながら、何を知ることが出来るのか、宜しくお願いします。 われわれはどこから来たのか われわれは何であるのか われわれはどこへ行くのか 以下余白

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noname#80116
noname#80116
回答No.29

お邪魔しすぎですが 議論の経過からいけば必然的ですので・・・。 一点のみです。貨幣にかんするお話しが 前回(No.28)では欠けていましたので 補います。ただし わたし自身のではありません。今村仁司が 簡略にまとめているところを紹介します。    物と物との《交換》は直接的には不可能である。だからこそ    貨幣という特別の第三者を迂回しなくてはならない。 と切り出して この《特別の第三者》として    (1) 個人の独語を超えた《聖なる言葉》   (2) 社会秩序(政治)の場面でも・・・人と人との敵対状態を      解消するために 《聖なる権力》   (2‐a )一人の人間を《排除された第三項》として立てる場合の      《聖なる存在》   (3) そして商品交換関係の条件としての《聖なる貨幣》 これらを想定しています。(1)の問題を――言語の場合をも その言語の場面では 《第三の言葉》が《予見できる》というかたちで ごく簡単に触れた部分を含めて―― 整理しているところを 引用しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   直接的交通関係の原理的不可能性は 人と人との関係を暴力的にする。ホッブズの《万人に対する万人の闘い》《人間は互いに狼である》という指摘は理論的には直接的関係の原理的不可能性を言い当てたものである。   近代の社会哲学はホッブズからヘーゲルまでこの《不可能性》を克服する思想的企てであった。また言語的交通の面でも 例えばワルター・ベンヤミンの《純粋言語》は暴力的人間関係を克服しうる第三項としての《聖なる言葉》を言い当てようとした。   いっさいの宗教現象の根源には 教義的信仰体系の差異を超えて 人と人との連帯を可能にする条件の模索がある。かつて人びとはそれを《神》とよんだ。《神》観念の成立メカニズムと貨幣の成立メカニズムとは深いところで通底している。真実の意味で深く貨幣を理解することは 《神》観念を中心とする《宗教的なもの》を理解することに通ずる(逆も真なり)。   言語でも 構造言語学上のラング / パロールでは処理できない《第三の言葉》の問題がここで予見できる。   貨幣とはまことに深い思想を包みこんでいるのである。   (今村仁司:貨幣――今村編著『現代思想を読む事典』1988) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・一点と言いましたが 添付事項があります。 ちなみにですが 帰納法( induction )と演繹法( deduction )のほかに 仮説法( abduction )もあって はじめから結論を掲げて述べていく場合も 経験科学に属するものですよ。アプリオリの問題あるいは信仰内容を直(ぢか)に述べる文章とは 少し違います。 ・《交換の起源に信頼をおくのは、腑に落ちません》とのこと。 ――まづ 信頼あるいは信用という関係 これが 互いの対立を含む人間の関係の中で ともかくも 篩にかけられて 歴史的に落ち着くところとしてのように 残ったのだと見ています。そしてその結果を すでにはじめに 確かに 結論として持って来ているということです。その論法のことは 上の註解に触れました。 ・《交換の結果が満足のいくものでありそのくり返しが信頼を生むとも言えます》――という段階の前のことを 言おうとしていました。 交換行為の始まる前に たとえば戦争の結果としてなりあるいは冒険としてなり 異族と接触する機会を得ていくと 身内と同じように 互いに信頼関係が築けると感じた場合があるだろうという推測です。つまり そういう場合が淘汰されて残り やがて 商品交換関係の基軸となっていったろうという見方です。 ・ちなみに 《絶対者の存在証明》などしたことないですし するつもりもないですし それが出来るとも思っていません。(精確には 出来るか出来ないか分かるものではないと思っています)。絶対者はこれを《想定する》ものです。ひとつの概念装置です。あくまで 経験科学の話しですから そこのところ――これまで 何にも反論せずに来ましたが―― 個人の信条とは別にして扱ってもらえるなら幸いです。 ・このたび すこし 話しがかみあうようになりました。これまでは そうでなかったので 細かいところは すべて 捨てるか保留して来ました。何も触れずに来ています。 ・論争するのも いただけないことなので どうなるか分かりませんが 今回 焦点は 日を見るよりはっきりしています。類(全体)と個との関係です。

fishbowl66
質問者

お礼

「自分の身体は、人間の現実存在(生存)にとってはじめから自分のものとして前提されている。身体は「自己」に帰属するかぎりで、「我」は身体に対してわがものとして関係し、そのように関係することで身体を「わが身体」として所有する。「我」は身体を所有しつつ現実存在する。身体において「我」は存在し、身体の所有と「我」の存在は不可分で一体である。同様に、生産条件は「延長されたわが身体」であるからだ、生産条件への関係は自分の身体への関係と同じである。所有とは二つの身体への関係である。自分の有機的身体と自分の外にありながら自分の身体の延長である非有機的身体への二重の関係、それが生きることであり、生産することであり、所有しつつ存在することである。」 今村仁司『交易する人間』より この辺り、よく理解できるのですが、 「素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は廃棄不可能である。なぜならそれは、人間関係に内在する暴力の制度的回避の装置であるからだ。しかしわれわれは、貨幣や商品の優越的支配が別の災厄をもたらすことも知っている。この両面を承知しつつ、同時にこの隘路をどうきりぬけるのか。これが貨幣と精神との格闘の長い歴史が教えることである。出来合いの回答は存在しない。」 今村仁司『貨幣とはなんだろう』より 今村さんの貨幣論は、正直、難しいですね。私見では上記の「貨幣は廃棄不可能」と言う結論に異を唱えたいと。特に、フロイトやポストモダン的な雰囲気もあって、死の恐怖を貨幣と結び付けているようです。経済学では、貨幣商品説と貨幣名目説という対立が有りますが、今村さんの場合、雰囲気は後者ですが、もう一つ良く解らない部分もありますね。経済学と社会学の相違と言えばそれまでかもしれませんが、同じ対象を研究する場合は、両サイドからの一致が理論的にも要請されますから。 あらあら、益々質問と外れてしまいました。 >今回 焦点は 日を見るよりはっきりしています。類(全体)と個との関係です。 有難うございます。「内と外」の問題に戻れましたね、 先のお礼の冒頭に書きましたように、まだまだ、検討が必要なようです。 ただし、質問自体は、認識論的な究明でしたが、まぁ細かいことは気にしません。 詳しいアドバイス、有難うございました。

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その他の回答 (29)

noname#41925
noname#41925
回答No.19

的外れのようでしたら飛ばしてください。 百害あって一利無し(健康に良くないです)。 ところで猿の音声に他の猿が反応したりしますが、その音声を広義の言語として、それらを結合させてなんらかの意味を作り出すなんてことはありそうにもないですね。 また内外を意味するような音声も持ち合わせていないような。 もしそういった音声を持っているとしたら意味論的普遍性が開けたんだと理解しますが。

fishbowl66
質問者

お礼

お礼が遅くなり、大変失礼しました。 あれですね、 状況出版系の漢字・カタカナ語だらけの、晦渋な文章に胃もたれしているところへ、ラカン派的象徴論を無理やりぶち込んだ所、強烈な副作用に見舞われてしまい、後遺症がまだ残って、折角の秋晴れに、外出する意欲も、湧いて来ません。メルロ=ポンティもなかなか、消化しきれず、ここは一つ、気分を切り替えたい所ですね。 猿のコミュニケーションも複雑ですね、毛繕いにやり方があって、群れの中でも、相手によってランクがあるとか?逆に母猿は自分の子供の死を理解できないと言う説も、猿の気持ちは解りません。 ただ、動物は一般的に、縄張りを作りますから、その辺り、言語による意味生成なしに知ることも可能なのか、謎が深まりますね。 有難うございました。

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noname#80116
noname#80116
回答No.18

fishbowl66さん コメントをありがとうございます。 混乱し逃げ回っている人に対して ひどいようにも思いますが たとえば イエスが 飲み食いはするわ 娼婦や罪人たちといつも話していたりするわであったと聞いたら どうですか? (『マタイによる福音』11:19 :《人の子(=イエス)が来て、飲み食いすると、〈見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ〉と言う。》) これは 二重基準であるかも知れませんし そうでないかも知れません。といったところで 今回は 退散することにします。

fishbowl66
質問者

お礼

忙しいのに、いろいろ有難うございました。 まぁ、イエス様も仏様もお会いしたことがなく、 又聞きも、色々有るようで、判りませんね。 ただ、二重基準の「内外」を客観的相から見ていましたが、 自分に甘く、他人に厳しい、と言う考えもありましたね。 自分を見つめなおして、ドキッとしてしまいました。 また宜しく願いします、再見。

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noname#41925
noname#41925
回答No.17

知覚は感覚と追憶とで構成されているのか。 すいません緒論の方が重要だったのですが抜けていました。 http://polylogos.org/mmp20.html

fishbowl66
質問者

お礼

お気使い、頂きましたようで。 また、少し読んでみましたが、 「見ること」と「知ること」の違いを気にしていたのですが、 「図と地」の問題が、 「見ること」と「知ること」の接近に関っていましたね。 難解ですが、嫌いではありません、 特に、「記憶」の「あるもの」「ないもの」の表現は、 今回の質問を超えて、興味深いですね。 もう少し時間を掛けて、読んでみます。 ご回答、有難うございました。

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回答No.16

こんにちは、fishblow66さん。 「ひま薬」なんて悠長なことをおっしゃるもんだから、ウチの冷蔵庫なかなか冷えない。これもfishblow66さんにならいと気長に待ちましょっと、してたらいつまで経っても冷えやしない。そのくせ冷蔵室に内蔵の製氷用の水タンクに水を入れれば時間がくればガラガラゴロッと製氷BOXに氷は出てくる。まだ大丈夫か?いやいや"上があつくて下が冷たい???"これは!?と、思い立ち冷蔵庫の点検修理をお願いしたところ…案の定…ファンではなしに制御基盤が具合わるくなってました。ハンダコテでジューっと手当。入りと出の回路が傷んでたとのこと。修理代と出張費用あわせて¥13,260なり。ふぅー、命拾い。モーターいかれた日にゃ¥13,260じゃすまない。し、お気に入りのパム制御仕様これ好きなんだ。ほんとうに昨日は冷蔵庫の診察を待つ間、修理代を考えているこっちの身が冷や冷や。 顔に斜が (|||_|||) が おりましたよ。 "だしてくれ~"と シャガールを彷彿させる一日でした。 おっと、無駄口はこれくらいにして、まずは用向きをば。 今月いっぱいはこの質問を締め切らないでください。 ひまだというのであれば、国家試験にトライというのは… http://www.c-able.ne.jp/~nagasaka/JKK01.pdf それも気がすすまぬのであれば… ゆるりと美術展をめぐってみてみるとか… 【Architecture of the year 1996】 http://before-and-afterimages.jp/opens/archofyear.html

fishbowl66
質問者

お礼

littlekissさん、お晩です。 珍しく(失礼)ヒットしました、国家試験。 RNAの後、DNAの登場で、RNAの役割は終わったのかと勘違いしていました、mRNAが健闘していたのは、朗報です。 成るほど、細胞レベルのATP、生命体レベルの、糖質・グリコーゲン・酸素、身体内の「貨幣」もどき、大変面白いです。 >今月いっぱいはこの質問を締め切らないでください。 しょうがないな・・・ 最後のは、好きじゃないね、 古い人間は、デザインはデザイン、芸術は芸術、そこわきまえないと。 冷蔵庫も何でも、無駄にしないようにしたいものです。 それでも、のんびりですが、ご回答有難うございました。

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noname#41925
noname#41925
回答No.15

経験論対主知主義のご質問かと思ったのですが。 中山元さんのここら辺が参考にならないでしょうか。 http://polylogos.org/mmp21.html 見当違いであればお許しを。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答、有難うございます。 ご紹介のページと緒論の方も寄ってみました。 興味深いですが、少し時間がかかりそうで、 上のご回答に、まとめて、お礼させていただきます。 「知ること」と「見ること」の違いが気になりますが、 難しい文章を理解するのに時間がかかりそうです。

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noname#80116
noname#80116
回答No.14

fishbowl66さん おはようございます。 絶不調を もし 逃げずにその同じ方向のもとにあって 直していこうというのであれば このわたしの議論におつき合いください。 相対性の支配する世界とこれを超えた絶対の領域 そして両者の関係 これらについて つづったものがあります。ほかのgoo質問欄ですが http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.htmlのNo.6およびNo.5(この順番です)の補足欄の議論を参照してくださいますか。 ひま薬に飽きたら 読んでみてください。

fishbowl66
質問者

お礼

ちょっと待って、 一先ず、読んでみましたが、益々混乱。 神とか宗教が出てくると、 触らぬ神に、たたりなし。で逃げ回っています。 ただ、今回の質問が、宗教と関係有った事を、思い出しました。 本当にボケが始まったのではと、不安一杯。 で、それは、イスラムやユダヤ教、キリスト教はどうでしょうか、 それらの宗教に見られる、内外での二重基準の事。 よく、イスラムの無利子銀行は単純に美化されますが、 あれ、イスラム以外からの利子は奨励しているらしいのです。 そのような、二重基準の成立が、少し関わっていたようです。 二項と超越は、またの機会に、有難うございました。

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noname#84124
noname#84124
回答No.13

>何の役にも立たない補足、はぁ~・・・ そりゃ~残念でした。ということは、こちらの長たらしい投稿も何らの役に立たなかったということで全く時間の無駄でした。 >言葉で発するたびに、私は、言葉に裏切られる。 こんな気分、味わったことありませんか 私はあまりないほうだと思います。たまには相手が思い込みから事態をややこしくすることもありますが、自分で自分の言葉に裏切られるというのは比較的少ないと思います。 >本能的な知と言葉による知の違いは有るようですが そこから先へ、思考が進みません。 今月に入って、公私とも絶不調、気分転換が必要で そのようですね。ま、ある程度本質が掴めていれば前提としての言葉も質問も的確なものになるはずですから、無理に質問を繰り返さないほうが無難ということでしょう。 「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。」

fishbowl66
質問者

お礼

う~ん、時間の無駄をさせてしまったでしょうか。 「バシ、峰打ちじゃ。」痛い痛い。 兎に角、今回は、自己の同一性に自信が無くなった。 質問文を改めて読んでも、質問時の問題意識が蘇らない。 仰る通り、本質の整理が不足していて混乱したのでしょう。 >「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。」 この様な表現はよく目にしますが、こう書かれると、あれと。 直観知とか感覚的なもの、そういった知りようは無いのか? そこで、猿や魚が出てきたのかもしれない。 世間に馬鹿さ加減を広めております。また、ため息。

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noname#80116
noname#80116
回答No.12

fishbowl66さん また長居することになって申し訳ないですが コメントをもらって 書き込みます。 《内・外 そして 超》 この三つの範疇が必要だと考えます。《超》は 無でもいいのですが おそらく この無ないし超の世界に 自身が 閉ざされていてはいけないのであって 開かれていなければいけない。閉じたら 自然科学・経験科学がすべてとなります。文字どおり一切を包みこんで おしまいです。 (記憶・知解・意志の三つの行為能力からいけば 知解能力が 単独分立かつ他を支配するという恰好だと考えられます)。 カントの文章では 最後の一文の ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、自らの素質を完全に発達させる域まで到達させる事ができるのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この中で 《人類が理性をそなえている》という部分が くせものです。人類としての理性は それがあるとしたなら (1)個々の人の集計和(?)と (2)総体としてのそれと そして (3)しかしながら この表現を単なる修辞上の工夫にしかすぎないと見ることによって 実際には 個人個人がそれぞれ理性を備えていると解する場合とがあると考えられます。 (2)と(3)とは 両立するでしょう。・・・

fishbowl66
質問者

お礼

いよいよいけません。 最後の部分が、どうもよく解らない。 此処でも、三位一体でしょうか、 内外の把握と、超の把握は、同じ次元でしょうか、 なんとなく、内外があって、そのあと「超」のような。 などと書いても、もうひとつ調子が悪い。 あまり長居すると、病気がうつるかもしれませんよ。 特効薬は「ひま薬」か、有難うございました。 PSそうそう、最後の部分、ソシュールにのっとり 理性もある意味、言語と同じく、「共同体の財産」とすれば、個と集団は両立するはずですが・・・やはり判っていないか。

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noname#84124
noname#84124
回答No.11

御質問本文の言わんとすることが掴みづらいので主として補足の方を参考にして述べます。 要するに「知る」ということに対する主観的影響力、客観的限界ということですか? 猿や金魚をやみくもに人間社会の状況と並べてみても考察は難しいと思います。人間のコミュニケーションと人間以外のそれとは、だいぶ異なる面が大きくなる一方ですし、それは、こうしたウェブでの言葉のみでのやりとりの特異性に代表されるところでしょう。 >1)檻の中で生まれた猿にとって、檻とは、自然でしょうか。 まず「環境」ですね。 その「環境」が、その、ある生物種の本来的な環境であるのかどうかが判断できるには、あるべき元の状態はどんなものかを知っていなければなりませんが、これは知性による判断よりも本能的生理的なものでわからざるを得ない面が大きいでしょう。たとえば空気がなくては生きていけないのは人間もその一種ですが、森のなかにいようとビルディングのなかの狭い一室にいようと空気が確保されていれば、それについては別段騒ぐこともなく、その環境で生きることはできる。しかし空気の流入が見込めない密閉された箱のような空間に押し込められると取り敢えずの間は息をしたり手足を動かすことはできても、やがて生命活動を脅かされる状況に至る。 温度にしても一定の要求幅があり、人間にとっての要求幅の中で温度調整したりして人間は自分の生息環境を「快適にすること」に余念がない。あくまでその最低限度の要求幅の中で、室内気温が26℃では暑過ぎると言ったり寒過ぎると言って騒いだりするわけです。あくまで最低限度の要求幅の中で、です。限度超えると死活問題ですから。 人と人との関係において考えてみると、たとえば長年仲良くやってきた夫婦が突然、片方から離婚を申し立てられ、あえなく熟年離婚ということがあります。離婚を申し立てられた片方は、お互い大小にわたって大よそのところは相手のことを知っているつもりで、多少の波風はあっても辛うじてうまくいっているし、この状態がこれから先も続くものと思っていた。ところが申し立てた側にとっては、そうじゃなかった。どういうことか。 自分は相手のこと、とくに相手が実のところ何を思い何を考えているのか、はたして知っていた、わかっていたと言えるのか。 あるいは相手の気持ちを逆なでし続けていることを薄々感じていながら相手が自分から離れていこうとしていることに無意識のうちに目をつぶってきたかもしれない。 相手のことを知っていたか、わかっていたかという以前に自分自身のことが問われることになります。 人間の社会においては、いろいろマナーとか倫理とか約束事とか要請されることがあり、自分以外の人に対して最低限の幅を越えない程度の規制を守りつつ、周囲の誰かが逸脱しかねない行為をしたというようなときに注意したりして限界を越えてしまわないように用心していきます。 その限界をギリギリであっても当面は越えないと見なされる限り「寛容」の名のもとに黙認することも多いです。 問題は、その「限界」点の見極め能力と自制能力でしょう。その能力が狂っていると危ないことになります。 コミュニケーションというのは基本的な大まかなところであれば、それほど難しいものではない、しかし言語によらなければならない緻密さが要求されると途端に難しい問題が起きてきます。しかも、この言語によることが、かえって緻密さを妨げる原因になるという皮肉な現象が起こってくることも多いです。このへんは質問者様自身にも思い当たるのではないですか? >感覚・クオリアは人間同士も共有できませんが、シンボルと行為の整合性から、シンボルに対する信頼が反復により確かめられるのかも。 絶え間なき願望ということですね。 「反復」によって確認せざるを得ない面があるのも確かですが、反復による確認が、まさしく「信頼に値する」ものとして完全に肯定できるかどうかは保証できないことです。 したがって永久に「反復」は繰り返される。 ことに人の間での願望や複雑なコミュニケーションにおいては特にそうじゃないですか。 そもそも「反復によって確認すること」自体を他者の「寛容」によって許してもらってることだってある。 だからこそ人間社会には、いろんな約束事が出現してくるんでしょうが、約束事を「単に約束事として」定着させることと、「知る」ということとは別の次元のことでしょう。 それよりは「約束事」として定着させねばならないという要請が何故起きてくるのかという源こそが重要でしょう。 まして、「約束事」として定着させるまでに至らなかった、あるいは至らせようとして失敗した場合の原因は何なのか、ということ。 象徴(シンボル):抽象的な思想・観念・事物などを具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと。また、その表現に用いられたもの。 現代人、我々にとって、その最たるものは「言葉」ですね。 >金魚が水面近くで、口をパクパク この次元のみでならば、とくに大きな複雑な問題は起きないかもしれないが >成るほど、知ること自体が、象徴化かもしれません。 これはどうでしょうか。 取り合えず「知った」つもりになったことを象徴化してみただけに過ぎないのではないか。本当に「知る」「知れた」こととは、また違うこともあるでしょう。 むしろ自他共に「知らしめる」ためのものではないか。内実は、この際、また別の問題になります。 あるいは確かには「知る」ことができないからこその「象徴化」ではないでしょうか。 また「象徴化」を行う際の意図、それが実質、実態から離れたものになればなるほど、その距離性の必然は、どこから生じているのか。 実質、実態の「隠蔽」なのか、「距離の克服」なのか。 >言葉で発するたびに、私は、言葉に裏切られる。 さて何故なんでしょうかね。 そんなことで、いったい何を「知る」「知った」と言えるんですかね。 >人間だけが自分の死を知っているとすると これは、そうと限ったことではなさそうです。 どういった環境を求めるかで、その者の生息条件を窺うことはできるでしょう。それが切実な要請であればあるほど、そのことは察せられます。 但し人間は「快適な」環境を執拗なまでに求めるという強い傾向がありますから、はたして、どの程度「切実」なレベルの要請であるのかは個々人の個性や表現方法の違いもあって見極めが難しい。 そのあたりを少しでも知ろうとするなら結局、言葉を超えた次元のことになります。 いずれにせよ自分の「快適」を要求する衝動が強ければ強いほど、他者の内実について疎くなるのは当然でしょう。余裕がないわけですから。 そのへんが分かっていないと大きな勘違いを引き起こすし、変化に対する柔軟性も低いということになるでしょう。 結果、周囲や他者を知ることがますます困難になり、自分の守備が危ぶまれるために、ますます余裕がなくなります。 そうした一連のことは言葉を超えたところに表れるものです。 なお「環境」とは、自分自身のことも含まれます。 それを知ることが困難であれば他者を知ることが困難であるのは当然です。 生息環境に、どのような快適を求めることかということは、その実行によって、その者の本質を窺い知ることが自他共に可能ですが、その途上において失敗することも実際あるわけですね。 そのあたり推測能力や制御能力などが問われることにもなってくるのでしょう。

fishbowl66
質問者

お礼

はぁ~と、ついため息が、 仰るように、質問文を読み返して、 何が聞きたかったんだろうと、ため息のくり返し。 1)と2)で問題点が混乱しているような、 ミスを取り返すための3)も1)と同じ理屈のような。 何の役にも立たない補足、はぁ~・・・ 本能的な知と言葉による知の違いは有るようですが そこから先へ、思考が進みません。 今月に入って、公私とも絶不調、気分転換が必要で、 言葉で発するたびに、私は、言葉に裏切られる。 こんな気分、味わったことありませんか、う~ん ご回答有難うございました。 感謝いたしておりますが、文字に出て来ないですね。

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回答No.10

こんにちは、fishblow66さん。 ●檻の中で生まれた猿にとって檻は自然でしょうか? 猿を申に変換してみます。「申」を分解してみますと、中の中に一を加えますと「申」が現れます。また、申から一を抜き取りだしてみますと「中」が現れます。そして、申から中を抜き取り出してみますとくと「一」が現れます。 自然です。と、いうよりも鎧です。殻。 地殻、地層、表層、大気水…三層構造 【洞窟のファウスト】 http://www.hc.keio.ac.jp/lib-arts/journal/cla3.pdf

fishbowl66
質問者

お礼

littlekissさん、毎度 檻の中に、何もいなかったら、 自分が檻の中に入っている。 ファウストの30ページを越す文字に圧倒されての独り言。 三層構造より、階層性の変換・翻訳、これです。 なんちゃって、有難うございます。

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    お騒がせします。 皆様、敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、 どちらか、ご存知でしたら、教えてください。 以下余白

  • ほにゃらか形而左右学 敬語(3)

    お世話になります。 敬語について、あれこれ考えてみたのですが、 沢山の有意義なご回答を頂きながら、敬語を掴み切る事が出来ません。 敬語は、思った以上に、手強く興味深い対象のようです。 例えば、 1)敬語は敬意を表わす、言語表現である。 2)敬語は上下関係を明示する、言語規則である。 3)敬語は内外の関係を明示する、言語コードである。 4)敬語は恐れを隠す、コミュニケーションの道具である。 5)敬語は第三者間の上下関係を表わす、言語記号である。 ・・・等々 後を、表現・規則・コード・道具・記号としましたがどれも間違いではないような。 そこで、敬語も言語の一つですから、記号論によせて、考えてみてはと思いつき、又してもお願いいたします。 記号論の伝統的定義は、記号は「他の何かを代表する何か」と言う事でしょうか。 但し、記号論は西洋の思想で、名詞句に関しては比較的分かりやすいですが、日本の敬語のように語尾変化・追加等々で敬意・意味に違いをつける場合、なかなか判りにくいですね。 拝見、愚考と言った謙譲語はまだしも、召し上がる、ご覧下さる、と言ったある意味重複しているような場合、はたして記号なのか、つまり、シニフィアンとシニフィエの対の関係もはっきりしません。また、する、を、しなさる、しなされる、と言い換えて、なぜ敬語になるのか。 成立の問題ではなく、意味論的に、例えば「れ」は敬意を意味するのか、とか。 今回の出発地点を要約すると、 詞と辞の違いは日本独特のようで、詞だけでなく、辞の意味作用をシニファイン・シニフィエの表裏と言う比喩で、解決できるのでしょうか。 以前の続きも歓迎いたします。宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 「ちから」2

    「ちから」に関して、哲学的考察が可能か、という質問です。 一般に、「ちから」といえば、物理学です。 重力・磁力といった、「ちから」の分析、慣性の法則の発見、などなど。 それと、生理的な「ちから」も、熱量として、生物学や栄養学、などなど。 ところで、人間は社会的動物と言う事で、必ず集団を作ります。 他の動物も、集団を形成しますが、人間の作る社会の制度は、特別です。 そこで、この社会を必然的に構成する「ちから」これが謎です。 この、社会を構成する「ちから」は、物理学上の力の様に、考察の対象になるでしょうか。 「精神のエネルギー」つまり「思考する力」 あるいは「ちからの総合」も視野に入れて、 今回の考察の、足掛かりについて、なんでも教えてください。 前回の質問 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3305165.html 前回の質問が長くなり、改めて、質問しなおしました。

  • ほにゃらか形而左右学 影

    毎度、お騒がせいたします、影だけ屋がお邪魔します。 かげ屋~かげだけ~♪ かげ屋~かげだけ~♪・・・ えへん、こんこん、調子が悪いですね。ほにゃらかに行きましょう。 「影を売った男」確か、悪魔に影を売るんでしたね、結局、良い事はなかった。 天使に売っておけば、良いこと有るのかな、とも思いますが、それはさておき。 影というと、表と裏の二元論的な一面ですが 木陰と物陰、守ってくれる陰と、排除する陰。 またまた、二元論に、陥ってしまいますが、さてさて、 われわれの習慣として、この様な分節に親しむ理由もさておき。 影とはなんじゃろうか。 最初は、存在論的に、影は、実在しますか、存在しますか。と問うて見ましょう。 実在 [哲]一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。 特に、プラトンは感官によって知覚される存在を影にすぎず、その背後のイディアを真の実在と考えた。 アリストテレスを承けて種のような普遍を実在とするアベラールのような考えもある。(以下略、広辞苑) 存在 [哲]実体と属性とに分かれ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また実体には、自然的・物的なものと、意識的なもの更に超自然的で非感覚的なものとがある。(以下略、広辞苑) 影と陰の国語の講釈も、良ければお願いします。 お礼は遅れがちになりますが、宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 矛盾つづき

    前回の質問が、諸般の事情(ぉぃ)により、中途で締め切ってしまいました。 前回の質問は要約すると以下の通りです。 悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 前回の進展 自然の中に矛盾を見つけるのは、どうやら難しそう。 蓋然的にせよ、自然の中に矛盾は無いと言う仮設が成立し その結果、矛盾の可能性は人為の中から始まることになります。 そこで、人為のなかに矛盾の根っ子を探しに行くと、 「道具」と言う厄介なものにぶつかります。 自然と人為の明確な線引きがそもそも出来ないのではないか。 そこで、今回、改めて道具は人為なのか?から始めて、 飛行機が空を飛ぶのは、自然だろうか人為だろうか。 飛行機が空を飛ぶのも、墜落するのも、自然の法則に乗っているだけで、 そこに、人為は無い、人為は鉄の塊を飛ばす意図にある。 自然と人間の意図・意思・観念の辺りに、自然と人為の線引きを試みると 知覚・感情・記憶・思考・・・この階梯のの何処かに原因が隠れていそうです。 例えば、感情や感覚、同じ20度と言う外気が、季節により、涼しくもあり暖かくもなる。 知覚に関しては、眼という器官が、あるはずの盲点に、無いはずのクオリア補正する。 このような例が矛盾に当たるのでしょうか? さらに、逆の方向、量子力学の問題。 量子の両義性、存在と非存在・波動と粒子、これは矛盾なのか? フッサールの助言に従って、知らん振りするか? ちなみに、矛盾の本質的原因は言語の不条理によるものだょ~ といった、明快な回答が可能なら、是非教えてください。 以下CM、前回の質問は一枚下にあります。是非見てね。

  • ほにゃらか形而左右学 矛盾

    お世話になります、或いは、お騒がせします。 最近、矛盾という言葉を、彼方此方でよく耳にするのですが、 矛盾について考えてみました。嘘がつけるかどうかと同様 矛盾がそもそも可能であるとはどのような状態なのでしょうか。 そこで、悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 さてさて、自然の中に矛盾を探しにいき、見つからなかったのですが 本当に見つからないのでしょうか。 宜しくお願いします。