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仁義礼智信・・・なぜ「笑」が付かないのでしょうか?

宗教、哲学書を素人ながら、たまに読むのですが、仁義礼智信に関係する記述はありますが、個人的に人生で大切な「笑」が含まれている書物を見かけることがありません。 何故なのでしょうか? それとも大部分の哲学、宗教家達は、「笑」の力を過小評価しているのでしょうか? 素人なので、できれば専門用語を使わずにご回答いただけると助かります。  以上です、ご教示ねがいます。

noname#68162
noname#68162

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  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.4

御返事拝見していて、思い出した話がありましたので少し追加させていただきます。 お釈迦様にまつわるエピソードで、禅宗方面で、よく話されることらしいのですが 「世尊拈華破顔微笑」「拈華微笑」(ねんげみしょう)というコトバがあります。 お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)にて説法されたおりに「悟りとはどういうものか」と聴衆に問われて、たまたま、その時に或る人から捧げられた花を一本、御手にとり黙ったまま、ちょいと、ひねってごらんになった。 見ていた人々には意味が分からずキョトンとしていたが、そこにいた御弟子の一人である摩訶迦葉(まかかしょう)だけが、お釈迦様のその、稚気すら感じさせるしぐさに思わずニッコリ微笑したそうです。 そこで、お釈迦様は「私が持っている真理は、たった今、迦葉に託した」と、彼にだけ仏教の真理を授けたということです。 禅宗で、コトバや文字に頼らない以心伝心で法を体得する妙を示すときの語なのだそうです。 私自身も初めて、この小話を知ったとき、なんとも微笑ましい気持ちになって、思わずフッと笑ってしまいました。 >「笑い」は不真面目な印象があるから哲学者達の間で行われなかった と考えるよりも、なにしろ真剣だったろうと思うのです。 穴にはまるのも気づかぬくらいに夢中になる、苦しいくらい真剣になるわけですから、それは或る意味ゆとりがない笑ってるどころではない、しかし、やがてのことに、そこを突き抜けて笑う、一つ前の段階なのでしょう。「ただ今、考え中」ってやつですよ、きっと(笑) 道元さんが仰ったという「自分を見つける事とは、自分を忘るる事なり」というのも、自分を忘るる前には自分を見つけようと必死であがく段階があるのだろうと思います。そのあがきを、パンクしちゃうからと避けない、避けずにズンズン突き進めるところに、脳みそと根性の常人離れしたスケールがうかがえます。。。 そしていつしか「自分を見つけようとすれば即ち自分を忘れることに如かず」とかなんとかいうところにたどり着くんじゃないのでしょうか??私には分かりませんが。。。(とほほ) >哲学、宗教家は、慣習や人の目とは無関係に生きている御方々が多く そうかもしれませんね、しかし人生一般について、これほど真剣に考える人種もまたいないはずで、その意味からも本来決して人の世と無関係なところで生きているはずもないと思うのです。 ですから何が真のユーモアたり得るか、単なる悪ふざけやギャグの類ではないなら、笑いといっても、苦しさから逃げたり、ごまかしたりするためのものではなく、真剣に突き詰めていった果てに或いは、その道々において何かしらストンと胸に落ちた、そこに至ったひとが、たどり着く笑いなのではないかと思います。 珍しい視点からの御質問で、私も楽しませていただきました^▽^

noname#68162
質問者

お礼

再度の、ご回答ありがとうございます。 >お釈迦様にまつわるエピソードで、禅宗方面で、よく話されることらしいのですが >「世尊拈華破顔微笑」「拈華微笑」(ねんげみしょう)というコトバがあります。 これは、また有名なエピソードですが・・・、回答者さまに引用していただくまで、全く気がつかなかったのですが、 「やっぱり笑っているんですね」 なんとなく、やっと分かってきました。 もしかしたら、「笑い」は、基本中の基本であり、また、奥義中の奥義なのでしょうね。 <私自身も初めて、この小話を知ったとき、なんとも微笑ましい気持ちになって、思わずフッと笑ってしまいました。> 私も、笑った記憶があります。 私の勉強不足なだけであって、所々に哲学的な、笑いを誘う言葉は沢山隠れているのかもしれません。 <そこを突き抜けて笑う、一つ前の段階なのでしょう。「ただ今、考え中」ってやつですよ、きっと(笑)> なるほど、哲学には限界が有りませんから、ひたすらに突き進みでいるわけですね。 もしかしたら、心の中で笑いながら考えているのかも知れません。 例え笑っていたとしても、それこそ難しい顔をしながら笑っていたので、誰も気がつかなかったのかもしれません。 <自分を忘るる前には自分を見つけようと必死であがく段階があるのだろうと思います。> おっしゃる通りですね、道元さんだけじゃなく、法然さんも含め、一見単純な行為をしている高僧というのは、そこに至るまでに想像を絶する努力が有りましたね。すっかり、忘れていました。思い出させていただき、有り難うございます。 <真剣に突き詰めていった果てに或いは、その道々において何かしらストンと胸に落ちた、そこに至ったひとが、たどり着く笑いなのではないかと思います。> やっぱり、笑いも悟りもそう簡単にたどりつけるものでは有りませんね。 笑いだけ求めても、笑いは得ず、ただ彼岸にたどり着いた頃、見えてくるのかも知れません。 本当に色々とお世話になりました。これからも、もし偏屈な質問をする事がありましたらよろしくお願い致します。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.3

御安心ください。当方も専門用語に縁のない思いっきり素人です。 暑くて眠れぬほどの夜が続いておりますね。 かねがね思うことなのですが、所詮ニンゲンどんな偉そうなことを言おうと、暑過ぎる寒過ぎる空腹過ぎる痛過ぎる…こうしたことで、もうグーの音も出ないていどのものではないでしょうか。 「衣食足って礼節」とも言います。 「笑うかどには…」というコトバが挙がっておりますが、笑えるということ自体が、ゆとりを示している(示そうとしている)ことに他ならず、その、ゆとりが、これ即ち福ということではないのかなと思います。 古今東西の哲学、宗教家たちの多くが >「笑」の力を過小評価しているのでしょうか? との仰せですが、まぁ確かに哲学やら宗教やらに関してアタマから湯気出すほどにウンウン唸りながら考えるような人は、マジメの上に、まだ何かつくほどマジメでないわけがなかろうとは思います。それだから穴にはまって通行人に笑われても、自分は、それどころじゃないのでしょう。 実際、古代ギリシャの哲人において哲学とは血みどろの戦いに等しい学問であったそうです。これでは確かに笑ってる場合じゃない。 それに私が聞いたところでは、昔の日本人にも、やたらとヘラヘラ笑ってるのは、いかにも締まりがなくて不まじめでケシカランという考えの人が多かったそうです。 外国の人などから見れば、日本人が自分ちの不幸事を説明するのに、うっすら口元に微笑を浮かべて話すのが非常に気味悪く感じることも多いそうです。 笑い、と、ひと言に言いますけれど、笑いにも、いろいろありますね。 ヒトと、それ以外の動物たちとを厳然と分ける特徴の違いに「笑い」も、その一つとして挙げられるようなのですが、この真偽に関して私は、よく存じませんが、少くとも動物たちが「あっははぁ!」という感じで笑っているのは目撃したことございません。しかし莞爾とした微笑を浮かべているのを目撃したことはあります。(これを言うと、それこそ笑うヒトが多いのですけど) 確かにヒトのようなゲラゲラ大笑いをするのは、さすがに見たことありませんので、基本的に動物、とくに野生のそれは、根がマジメなものなんだなという印象です。彼ら必死で生きてるからなんでしょうか。。。 一般に笑いというものがヒト特有のものであるとしたら、それは多分に知性との密接な繋がりを含んでいるものではないかと思われます。とすれば、それは、すでに「仁義礼智信」をも含んでいるのではないでしょうか。 もちろん笑いにも、いろいろと種類がありますからには、これらを含まない「下卑た」笑いもありますが。(これまたヒトならではの笑いであると思います。) >ジュール・ルナールのように(哲学者ではありませんが)「大切な事は、真実を書くことではなくて、いかにユーモアにするかだ」 かのルナールが、そのように言っていたとは存じませんでしたが、なるほど、さすがと思いました。 しかし、何が真実であるかを思考し見抜く知性があってこそ、ユーモアそれも上質のユーモアたり得させるのだろうと思います。

noname#68162
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 このサイトでは、専門家の先生方の中にも、謙遜で一般人を名乗っておられる御方々も多いので、回答者様が専門家の先生なのか全くわからないのですが、私に理解できる文章でのご回答誠にありがとうございます。 さて、よくよく考えてみましたら、私は「福」について誤解をしていたのかもしれません。ついつい「福」と言いますと「裕福→金」を連想してしまいます。 心の汚さが、露出してしまいますね。 (こころの)ゆとりが、福、笑いをもたらす。   おっしゃる通りです。 お忙しい中、詳しいご解説、ご回答ありがとうございます。また、これからも、よろしくお願いいたします。(文字数制限がありましたので、補足欄に色々と独り言を書いておきました、本当に独り言なのですが・・・。)

noname#68162
質問者

補足

独り言とおも言える事をたわい無い事ですが考えてみました。 ところで、私のつたない読解力では、 回答者様は、「笑い」は不真面目な印象があるから哲学者達の間で行われなかったとお考えのようですが、 >だから穴にはまって通行人に笑われ、 た哲学者を初め、頭を剃ったお釈迦様、日曜日に働くキリスト様、偶像破壊のマホメット、念仏を唱えながら踊る一遍上人、黙々と座る道元。 私には、哲学、宗教家は、慣習、や、人の目とは無関係に生きている御方々が多く、それならば、森山直太郎の「桜」(なんて場所からの引用だ!)のように「どんなに苦しい時も 君は笑っているから」という生き方も良いと思うのです。 もちろんそれを、禁じた哲学、宗教は無いとおもいますが、奨励した哲学、宗教家も、無知な私は、聞いた事がないのです。 この事が不思議に思えて質問してしました。 こんな事を書いていて気がついたのですが、もしかしたら、記録に残っていないだけで、本当はどの哲学、宗教家もよく笑っていたのかもしれません。 (やっぱ素人なので、返信文を書きながら混乱してきました。) <一般に笑いというものがヒト特有のものであるとしたら、それは多分に知性との密接な繋がりを含んでいるものではないかと思われます。> なんという、難しい・・・。 昔、私はそのような事を考えた事がありましたが、頭がパンクしそうになり、止めてしまいました。 >かのルナールが、そのように言っていたとは存じませんでしたが、なるほど、さすがと思いました。 素人なので、褒められると本当に嬉しいです、ありがとうございます。 <何が真実であるかを思考し見抜く知性があってこそ、ユーモアそれも上質のユーモアたり得させるのだろうと思います。> 道元さんは、「自分を見つける事とは、自分を忘るる事なり」と言っています。 知性が思考によって得るものなのか・・・? それすら分からない愚か者ですが、 失礼しました。 また、ご回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

[それとも大部分の哲学、宗教家達は、「笑」の力を過小評価しているのでしょうか?] 「笑」=「福」をあえて抜いたんでしょうね。 ここ2500年の間の大思想家は「豊かさをあえて退けていた」ので思想家の言葉に笑いがないのです。釈尊、イエス、孔子・老子、荘子、どのお方も貧しかったですね。みんな先に出た釈尊をまねたのでしょうかね。 「笑いの門には福来る」ですから豊かになるためには大黒天に愛されないと豊かになれないですね。仏教、キリスト教、儒教どれもこれも豊かさの理論がはいってないですね。人間完成の道は貧乏になる道ではないですね。豊かさにも多くの人々を幸福にする道があるということを教え忘れたのでしょうか。でも立派な思想家が過小評価したわけではないでしょう。むしろ「笑」は「仁義礼智信・・」と同じ効力があるからこそ、勉強しないで安易に幸福を求めようとしたのをいましめたのかもしれません。あえて抜いたとしか思えないですね。 教育者なら吉本に入る前にまず勉強しろというはずでしょ。よく勉強した上で「笑」を教えかったのでしょうね。21世紀の教育は「笑仁義礼智信・・」でいいように思いますよ。清貧の教えはもういらないですね。

noname#68162
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >ここ2500年の間の大思想家は「豊かさをあえて退けていた」ので思想家の言葉に笑いがないのです。 私は大貧乏人です。 日々の食事も、健康の為というよりも、食費節約の為に、「腹八分目」「野菜中心の食生活」「酒、タバコは、もってのほか」の生活をしています。  結果的に同年代の誰よりも、健康です。 なので、これは、これで良いと思います。 そんな事よりも、ストレスから、病気、犯罪に走る、人達もいると思うのですが、 そんな人たちは、マハトハ・ガンジーのように、一滴の水の中に、神を感じるよりも、 ジュール・ルナールのように、(哲学者ではありませんが)「大切な事は、真実を書くことではなくて、いかにユーモアにするかだ」(うろ覚えなので、多少言い回しは違うと思いますが)・・・と思える時が有るのです。 >釈尊、イエス、孔子・老子、荘子、どのお方も貧しかったですね。 >清貧の教えはもういらないですね。 少し話しはズレてしまうのですが、清貧というのは、比べる物があって初めて「清」「貧」という言葉がでてくるのではないでしょうか? 欲が無ければ、そもそも「清」も「貧」もその人に取って無いのでは? 色々とズレてしまって申し訳ありません。 ご回答ありがとうございました。

  • unikam
  • ベストアンサー率42% (29/68)
回答No.1

はじめまして。 フランスの哲学者アンリ・ベルクソンには「笑い」という著書がありますよ。 「薔薇の名前」という小説もお薦めします(既読でしたらごめんなさい)。キリストと笑いについての議論があり、分厚いですけれども物語としての流れのなかでのことなので比較的読みやすいかと。

noname#68162
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >フランスの哲学者アンリ・ベルクソンには「笑い」という著書がありますよ。 私は今まで全く知らなかったのですが、ウィキペティアで調べた所、ノーベル文学賞受賞者とのこと。  かなり、読み応えを期待できます。ありがとうございます。 >「薔薇の名前」という小説もお薦めします(既読でしたらごめんなさい)。 素人なもので、タイトルからは、全くキリスト教・・と関係のある小説だとは思ってもいませんでした。 映画化されているようなので、DVDでまず見てみようとおもいます。 それにしても、本当に一般人ですか、お詳しいですね~。 ご回答ありがとうございます。

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