• ベストアンサー

教科書で感動する感性について

だいぶ昔の話ですが、私が高校のとき、倫理社会(哲学社会学)と数学の教科書で感動したことがあります。ヘーゲルの概説と微分公式の証明でどうしても涙が止まりませんでした。世界を力強くつかもうとする、人間の偉大さを感じました。また自然の姿や社会の法則を赤裸々にするというスリリングさと、そこに現れる自然の姿は、やはり創造主がいるのではないかと思うほど美しいものです。 質問は、こういうことに感動してしまう自分が、社会的一般感性に合わないないのではないかという危惧です。当時の印象としては、やはり周りの人たちが軽薄で、現実の損得しか考えていないような印象を受けてしまいました。その思いは今も続いています。 所属集団が悪かったのかもしれません。しかし私に芸術的感性とか才能があるとも思えません。たいしたことではないと割り切ることもできますが、しかしどうも気になる問題です。なにかご教示願えないでしょうか。

noname#41852
noname#41852

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.5

全然おかしなことではないです。世の中はなんなのか?という本質に近付いたような気になることは、多多あります。もちろん、普通に人生をただ生活しているひとたちは、そんなに世の中の仕組みやなんやら考えることなどないでしょう。ただ、人間の本質などに近付けるような、何ともいえない感覚、そういう感性があること自体は、決して悪いことではありません。 こういう場合、はじめは自分の居場所がないかのような錯覚を覚えるでしょう。ただ、それはあなた自身がそういう物を議論する場にいないからにすぎません。ちょっと哲学書や論文などを調べてみればそういった感性により何段も上の考えを調べることは可能です。少なくとも、あなたがそういう知的好奇心を覚えれば、あなたはその分野の学者などと同じ感性を持っているということです。 自然科学の根本的な部分の研究者は、そういう部分に興味を持っている方が多いでしょう。もし、あなたがそれを単なる感性におわらせたくなければ、とことん趣味として追及するのもまた一つの生甲斐なはずです。高校時代にいろいろとそういう思想にふけていたりしても、大学に入っておもいしらされました。少なくとも、自分がこの世の中で考えたことは、世界中を探せばだれか一人は同じことを考え、それを学術的に議論している人(達)はいるのです。興味があれば、それをとことん追求するのもありではないでしょうか?また、それにより世界の広さを思い知らされるんですが・・・。 まあ、ごく稀にそれ以上ものことを考える人がいるのですが、そういう人が”偉人”として将来それが理解させた時に尊敬させるのでしょう。そういういみでは、ピカソとかは、おそらく孤独だったのではないでしょうか? たとえば、芸術家と呼ばれる人の半分は鬱だ、という話を聞いたこともありますしね。

noname#41852
質問者

お礼

周りになかなかそんな人間を見つけることは難しいですからね。当たりくじは何千倍もの外れくじのなかにある。その人数分布というのはどうも納得いかないんですよね。孤高を生み出すために、何人の底辺が必要なのか。ピラミッドというものは、人間社会の象徴であるのか。

その他の回答 (12)

noname#35986
noname#35986
回答No.13

偉大な哲学は足跡を残さない 哲学はするもの そのものを生きるもの 日本人の哲学は諺に集約される 自然な心からの発露 道からそれない為の 道を踏み外さないための その都度与えられる 道標 唯心論と唯物論が融合した実践哲学

noname#41852
質問者

お礼

そうですか。

noname#80116
noname#80116
回答No.12

No.1です。 現実の損得勘定については ふつうの勤勉と それの自己目的化したガリ勉とを分けて捉えるとよいでしょう。 ところで きよらかなおそれは なにものかの美しさに属(つ)くことによって 生まれます。 美しさに或る種の意志を――まぼろしのごとく――見ます。この何者かの意志に属くことによって かえって 自分の意志が生かされるのではないかという予感が芽生えます。この予感のあるところに 社会的一般感性(共同観念のもとの共同心理)に対するおそれも起きて来ます。 ですが このおそれを抱く意志(愛)のあるところに つまづきのおそれはありません。 愛のあるところに おそれはありません。愛のないところに きよらかなおそれはありません。 きよらかなおそれの水かさが増していくにつれて――みづからの水嵩も また 同じ意志を抱くともがらの水嵩も 増すにつれて―― 幻想のもとにある損得勘定は 溺れるかのごとく やがて 踊り出すことでしょう。 十年かかるか 百年かかるか・・・。

noname#41852
質問者

お礼

やはり、抽象的に感じた美しさを否定する必要はないようですね。重ねてのご回答ありがとうございます。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.11

「こういうことに感動してしまう自分が、社会的一般感性に合わないない」ことが問題なのではなく、そのようなことを危惧することが本当の問題であり、そのことこそが、日本から哲学が生まれない根本原因だと思います。

noname#41852
質問者

お礼

日本という文脈を離れると、どういうことになるのでしょうね。もしかすると、その程度の差によって革命的な意識差が生まれるかもしれません。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.10

ものもきれいな心で使って 初めて生きる。 私利私欲、汚れた心や邪な心で物や金が扱われるのは嫌でしょう。 もともとはそういう発想から唯物論は発生しているような気が。。。 自らのきれいな心を 生かしてあげてください。 きれい事と嫌う言葉を自らのうちに見出すこと。 かつてあったように。 元々あったものを その体ごと自分で自分を抱きしめてやるんだよ。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.9

大丈夫心の中に必ず光は入る。 きれいごとと嫌っている言葉。 自分で自分の心を汚すことはない。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.8

唯物論的思想も心があってはじめて生きてくるものと思います。 心が死んでいる。 心を殺してしまっている。 生かすこと。 そのことに気付くこと。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.7

涙する対象がおかしい。 思想が唯物的で心が虚無的。 生きていること自体に感動しなくっちゃ。 それ以上頭の中をこねくり回しても しぼんでいくだけ。 もっと自然と触れたほうがいいと思いますね。

noname#41852
質問者

お礼

感動にもいろいろありまして、生に感動することもあれば、浄化された抽象に感動することもあります。

noname#38456
noname#38456
回答No.6

簡単に回答してみると・・ただし、ちょっと趣旨が、わからないので、勘違い回答だったら、ごめんなさい。 "感動する感性(=??)"、すなわち、対象に対しての感動した、感動するの有無は、人それぞれの経験によって違うのだから、素直に受け入れて良いのではと。 これも、人間として人生の社会勉強だと思って。 >社会的一般感性に合わないないのではないかという・・ まれに・・というか、人生経験において"社会通念的"に違うことが、あります。それは、その経験をしたとしたなら、そのまま受け入れれば良いものと。 例えば・・で紹介してみると、ただし、趣旨と違うと思うが。 日本のマスコミでは、「三食、しっかりと食べて健康に。」と肉体次元での状態を強調するが、アジアの仏教国(=例:タイ)では、1日二食が、当たり前(と思う)。これは仏教の影響。又、食事(正確には味覚)は、美味しいものを食べて"楽しい"。でも、私の場合、味覚そのものが、邪魔に感じるし、上記の『しっかり三食』よりは、1日一食の方が、意識は鮮明で身体は軽いし、こっちの方が、"楽"です。 だから、人それぞれなのだから、その時の感動は、その時は素直に受け入れ、そして、それと違った感動(価値観)が、でた場合、可能なら、それを分析し、それをまた素直に受け入れれば良いものと。 もう、自然にお付き合いをしましょうよ。自分自身とね。 以上

noname#41852
質問者

お礼

人それぞれという文脈で、心に負担を感じる場合、感じない場合、子どこを感じる場合感じない場合、軋轢がある場合ない場合と、いろいろあるんですね。それで、もちろん気楽に感じられる「自己本位」は問題ないのですが、なにか不都合、不快感を伴いものはどう対処すべきなのかという問題は常に付きまといます。

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.4

仏教では仏様のことを泥沼に咲く蓮の花にたとえています。 つまり世の中は泥沼なのです。社会に出れば、生きるためにいろいろと汚いこともしないといけないこともあります。 それでも、染まらずに清らかな心を持って過ごせば蓮の花が咲くこともあるのです。 一日のうちで、自分の心を清らかに保つ時間を持つようにすれば良いと思います。 世の中は泥沼なのですから、そういうものだと達観していれば良いことだと思います。

noname#41852
質問者

お礼

それは事実です。泥の中に栄養素も豊富ですし。反対の要素、複雑な要素をとりいえれ浄化し止揚するしか道はないでしょう。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

良き心の持ち主のようですね。 あなたのような立派な精神を持った人ばかりでないのが世の中です。玉石混合の世界といいます。その中で互いに切磋琢磨するからこそ更に磨かれるのです。「大人は町に住み小人は山に住む」ということわざがあります。これは玉石混交の中のほうが生きるのは難しいという意味です、あえてその世界に住むことが大人である条件だといっているのです。「悪貨は良貨を駆逐する」というとおり良き心を維持することは難しいかもしれません、しかし心は見えないので奥にしまえば誰にも判りません。これが世の中で生きながら自らを守るコツです。石ばかりではありません玉もあるから意味があるのです。玉もたくさんいますから玉を見出し学べばいいだけですね。それは、楽しい人生になるかもしれません。そのようにすればどの社会でも生きられます。

noname#41852
質問者

お礼

にごり水に生きる高雅な存在こそ、もっとも価値があるという某宗教の象徴ですが、言いえて妙なものなんだろうと思っています。

関連するQ&A

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

  • 創造ができない

    私には自由な発想で創るというのにかけているのかもしれません。 なんかの問題点があってその原因を見つけて、問題解決というのはできるのですが、これってある意味試行錯誤とはいえ、理性的なもので、答えは無機質だと思います。 たとえばホームページを作るとか、あるいは芸術品を作るとか。 数学や理性の世界ではないですよね。 出来上がるものは定型のものでないとか、理屈で導いたものでもなければ自由ですよね。 創造の世界だと思いますが。 服や音楽とか好き嫌いあって選びます。自分の心の声や感性に気づけばいいだけですものね。これも芸術的な感覚だとは思うのですが。 あるものを選ぶのでなく、創造するってどんな感じなのでしょうか。 やはり種を探せばいいのでしょうか。(まだ起業の種のほうがなんとなく感覚がわかります) 絵とかこんなん描いてみたいとかそういった感覚なのでしょうか。 写メは時々印象に残る風景があるととります。これって選ぶ要素が強いですよね。こんなん写したいというのかもしれませんが。 作曲なんてどんな発想ででてくるのかさっぱりです。 どうしたら身に付くのでしょうか。 実際ホームページみたいなものを作らないといけないのかもしれません。

  • 公務員 教養試験について

    教養試験の知識分野について質問です。 人文科学、社会科学、自然科学があると思います。 例として特別区をあげてみると 【30題中18題解答】 人文6題・・倫理、哲学、国語、芸術、歴史および地理 社会6題・・法律、政治、社会及び経済 自然12題・・数学、物理、化学、生物及び地学 社会事情6題 となっています。 これって倫理、哲学・・・などがそれぞれ約1問ずつってことですか? 自分は理系なのでその1問の為に広範囲を勉強するのはだいぶハードだと思うのですが・・

  • 女性の方!!

    1.自分を持っている 2.芸術的才能がある 3.服装がおしゃれ 4.社会人で金銭的に自立している 5.イケ面である 6.優しい人間である 7.自然を愛する 8.一途である 目標というか、こういった人に成りたいと思い書きました。 現在僕は24才です。1~6に書いてある男は魅力的ですか? こういう男の人と一緒に居たいと思う人間像を書いて頂けると助かります。

  • 感性?感動って?

    この所、疑問になっていました。 音楽を聴くことが趣味で、70,80年代のロックやX JAPAN、ショパンなどのクラシックなどを聴きます。単純にただ、いいなと思ったからです。  親族のお葬式や自分がつらいときにかけてもらう言葉(がんばれ、大丈夫か?)などには人一倍ぐっときてしまい、涙をこらえるのが精一杯です。小さい頃はなんでもすぐ泣いて「優しい子だ」と言われました。このようなことを心が揺り動かされて感動というのだと思うのですが・・・  僕の場合感動の度合いが小さいようで・・・・・音楽や映画や人と人との感動を心から味わいたいです。  最近、音楽も機械的に聴いているような感じでなんか嫌になってきました。  一番嫌なのは音楽を聴いて「感動しなきゃ」と思うときがあったり、 自分の心では感動していないのに「感動した!」などと思ってしまうことです。二重人格でしょうか?   心から喜ぶにはどうしたら?一生懸命生きていないからでしょうか? また、皆さんが経験した感動とはどういう感じでしょうか? まだ若造ですがよろしくお願いします。

  • ソフトバンクの店員の接客対応に毎回感動します。

    地元はとても田舎ですが、ドコモのほうが人気があるので、私が行くソフトバンクはいつも空いています。そのせいもあるのでしょう、みなさん接客が素晴らしいのです。 しかも若くて20代前半ぐらいのアイドル並みに可愛い子や美人な子勢ぞろいでびっくりします。 接客、言葉遣い、わかりやすい説明がとにかく素晴らしく、感動します。 いったいどのような教育をされているのか気になります。どうしたらこんな素晴らしい接客になるのでしょうか?プロだから当たり前だとは思いますが、とにかく何を聞いても完璧に答えてくれる丁寧さはびっくりします。そして、その接客する姿は本当にかっこいいです。 私もいち社会人として、ぜひ参考にしたいのですが、どうしたらあんな完璧な接客ができるのでしょうか?できればソフトバンク等で働いている方にお聞きしたいです。 一番印象に残っているのは、とにかく「恐れ入ります」という言葉をたくさん使っている点でした。

  • 芸術の感じ方・鑑賞の仕方とは?

    少し前のことですが、好意を寄せていた女性が絵をたしなむ(芸大卒の)方だったので、 一緒に美術館にいったことがあるのですが、 その後いろいろあって、「あなたとは芸術を共有できない」と 言われてしまいました。 いろいろ他にも理由はあると思うのですが、 どうも、私が、あまり暗い絵は好きではないし、 よくわからないと言ったのを聞いて、特にそう感じたようです。 彼女はそんな暗闇の中にこそ作者の苦悩がにじみ出て、 深い感動を感じることができるという旨のことをいっていました。 たしかにわたしは、彼女のように、深く芸術を学んできたわけではありません。 ですが、ヨーロッパの美術館の多くを回ったことがあるので、 彼女よりいわゆる名作といわれる作品を直接多く観ていると思います。 彼女からそのように言われて、少なからずショックでした。 それ以来、自分が見てきたものは何だったのだろうと 一人で美術館に行くたびに考えてしまいます。 そこで疑問に思うのは、芸術の鑑賞眼のある人はどうやってその力を 身に付けたのかということです。 1.自分も絵を描いてきたから自ずと他人の絵を観る力もついてくるものなのか 2.自分で絵を描かなくても、その絵の時代背景や、作者の境遇、など を深く学んできたからその力がついてきたのか、 3.絵を観る力も先天的な感性によるものなのか あるいは上記のどれでもないのか、上記のすべてなのか・・・ もう彼女との関係はうまくいかないかもしれないけれど、 あの時彼女が見ていた様に、もっといろいろな角度から、 深く芸術を感じることができるならば、 自分の視野がもっと広まるのではないかと今は考えています。 でもどうしたらいいのかその方法がよくわかりません。 美術館によく行って一人で絵を観ていても、 やはりわからないなぁと思うことが多々あるのです。 たとえば、モネの絵はなんとなく観ていていいなぁと感じますが、 それ以上の深い何かを私は感じることができません。 またいわゆる中世の宗教画のような洋画に関してはますます どこがいいのか私にはわかりません。 ただきれいな絵だなと思うだけです。 そんな絵を私はすたすたと歩いて観ていましたが、 彼女は一つ一つ立ち止まって、じっくり観ていました。 そんな彼女の姿をみていて、素直にすごいなぁと感じました。 すごく漠然とした質問で恐縮なのですが、 絵を観るときどんな風に観ていますか? 絵を観る力とはどうやって身につくものなのでしょうか?

  • 自然風景の鑑賞と芸術作品の鑑賞の違いについて

    きれいな夕陽を見ていて、小澤征爾の言葉を思い出していました。 「感動は東洋や西洋、文化が違っても普遍的なものだ。それはちょうど夕陽のようなもので、ニューヨークのビル群に沈む夕陽と、日本の山里に沈む夕陽は、ずいぶん違う印象を与えるが、どちらも本質は夕陽のきれいさだ」というようなことを小澤は言ったそうです。 それで思ったのですが、夕陽は、だいたい「きれいな夕陽だなあ」という夕陽は、誰にとってもきれいだと思います。あまり受ける印象に差はないように思います。 ところが、音楽や美術の鑑賞では、人によって全然受ける印象が違うことが多いように思います。それは現代の無調整の音楽や、抽象画などの美術に多いと思いますが、ある人が「感動のうずに包まれた」という作品が、別の人には「気持ち悪い」とか「ただうるさいだけ」とか「不快なだけ」みたいな感想を持たせます。例をあげれば、ピカソの画とか、武満徹やペンデレツキの無調整の音楽とか。 なぜ、夕陽とか、自然の風景の鑑賞は、それほど人によって感想が違わないのに、芸術作品は、人によって感想が正反対に分かれるのでしょうか? ちょっと分りにくい質問かもしれませんが、よろしくお願いします。

  • ジリツイズムなる宗教は ただの奴隷の思想である。

     自律思想を批判しますという意味です。  1. 他律の状態を あたかも奴隷のすがただと言って 無条件にこれを排除し自律を説く思想は 決して実行することの出来ないオシエをかかげて悦に入っている。それ自身が 奴隷の状態にあるアガキ(足掻き)であるに過ぎないのではないか。  2.  ▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~  無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》ないし《非思考の庭》)の高さである。  (『法の哲学』§35 追加)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. 無限とは わけの分からないナゾです。有限とは 移ろいゆかざるを得ない身と心とから成る人間です。  4. つまり無限とは 神のことですがこれは 経験世界を超えていて しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても その生まれつきの自然本性においてこの無限なるナゾがやどる・または埋め込まれていると言おうとしています。  5. ならば なぜこの《有限なる存在における無限との――非思考の庭における―― 一体性》を 《自然的なるもの》は 我慢できないのか。     6. なぜあなたはその存在としての《時間》が――あなたの《固有のとき》が―― 高くないのか? と。  7. けれども この自然的なるものには 無限なるナゾ・つまりブッダターが潜在している。  8. それで ひとまづよいではないか? だいじょうぶであるのではないか? たとえその今は他律的な生活を送っていたとしても。    9.  けっきょく朽ちざるを得ないわが身と心とのその心の奥なる非思考の庭に アートマン(霊我)がやどるという《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき だから何だと言うのだろう?  10. 問題は そこから わが心の格率を理念として持つのはよいとしても おれはすでにその格率にしたがって生きている《自律人間》であると宣言し おまえたちは 《他律の種族》だ 早く自律しろと説くのは いかがなものであろうか?  11. 《自然的なもの》なる自律の到らなさに どうして耐えることが出来ないのか? この自律ヤロー。  12. おまえこそが 社会に寄生して生きるだけの奴隷状態にあるからではないのか?  13. たとえ自分の思うように行動しえないとしても 組織や社会の要請するところに甘んじて その場合おのれの主張をゆづり 社会関係の中に生きて行動するという・それでも意志自由なる主体性 これを知らないで ジリツを説くのは いかがなものか?  14. そうではなく 出来もしない《自律》を説き他人(ひと)にこれを要請するというジリツイズムなる宗教 ここには 反哲学を感じます。蛇蝎の如くわたしはこれを嫌います。  これに意見して欲しい。

  • 【感性】絵を見ても音楽を聴いても感動しないのはどこ

    【感性】絵を見ても音楽を聴いても感動しないのはどこか脳障害なのでしょうか? ただドラマや映画は泣けます。 特にドラえもんの映画では大号泣です。 なので泣けない訳ではないようです。 絵を見て感動したこともないし音楽を聴いて感動したことが産まれてこのかたない。 なんでだと思いますか? 感動したことがないので音楽の歌詞を一曲も覚えていません。 君が代の歌詞すら唄えません。 童謡も最後まで唄える曲は一曲もありません。 何という病気でしょうか?