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これって永劫回帰ですか?

自作小説で永劫回帰ネタをやりたいんですが 1.世界が始まる→世界が終わる→以前と同じ世界が始まる→世界が終わる→以前と同じ世界が・・・の繰り返し 2.世界が始まる→世界が終わる→人類誕生まで戻る→世界が終わる→人類誕生まで・・・の繰り返し(人類誕生以前は繰り返されない) これら二つは「永劫回帰」といいますか? 違うとしたら何と言うのでしょうか?適切な単語はありますか?

みんなの回答

回答No.2

どちらも永劫回帰という言葉を使うしかありませんね。人類の歴史だけが地球という惑星で繰り返すことや、この宇宙の現象のすべてが無限の時間では必ず同じ現象が繰り返しおきるはずだと言う意味で永劫回帰と言う解釈とかいろいろあります。 ところでニーチェも自分の人生を含めて世界のすべてが永遠に回帰するという啓示を受けたとき、その解釈に苦慮したようです。熱力学を少し研究して。同じビーカーで化学反応が無限に繰り返すことがありうるのかと研究しました。当時の宇宙論では説明できなかったのです。現代の宇宙論では宇宙は消滅しても再び無から発生すると言われています。そうするとこの宇宙が何千億年後に消滅してもゼロから発生してもまったくこの宇宙と同じものができあがることだってありえるわけで、銀河系のこの地球の同じ状態ができ、まったく同じ歴史が繰り返され。こうしてわたしがここで回答していることもありえるわけで・・。この永劫回帰の考え方が現代では一番妥当だと思います。でも簡単に信じられませんね。宇宙物理学で永劫回帰を証明できるとも思えないし。たとえ可能性が証明されても信じられない。でも空想することは可能です。自分がこの世から消えても再び次の宇宙でよみがえって同じ人生を繰り返す・・。ああまた失恋していやな人生・・。人生を悲観してる人にとって永劫回帰は残酷ですね。だから永劫回帰を望む人だけが信じればいい。永劫回帰を存在論として哲学的に解釈する場合もあります。キリスト教的な考えでは、宇宙論的な解釈には否定的です。日本の多くのニーチェ研究家も宇宙論的解釈を避けています。永劫回帰は日本でもヨーロッパでもなんとなくタブーになっています。あまり触れたくないのですね。神や天国や地獄などの死後の世界は宗教的として敬遠されます。永劫回帰も宗教的として敬遠されるのでしょう。 余計なことをいっぱい言いましたが、小説では永劫回帰の扱い方は自在ですから空想力が試されます。オリジナルが問われます。永劫回帰を変更不可能の宿命ととらえるか、変更可能なのか・・。どのような小説を構想されているのかわかりませんが、がんばってください。

回答No.1

「永劫回帰」で良いと思います。 簡単に例えると、人生も、世界も、宇宙もカセットテープの繰り返しだということね。 重要なことは、まったく同じことの繰り返しにすぎないということでなく、まったく同じことの繰り返しにどう対するのかということです。 貴兄の運命が一寸の狂いもなく、何万回もいや未来永劫(過去もそうであったように)繰り返される。反抗することも逆行することも、ちょい道をそれることもできない。それが世界の真実なんてんで・・・さあ、諦める?落胆する? 言っとくけど反抗や抵抗は無理よ。さあ、どうする・・・ これが永劫回帰ネタでしょうね。

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