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戦における兵の集め方のその後の行方

komesの回答

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  • komes
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回答No.7

当時の農民というのは現代の3Kに相当する厳しい生活でした。 この境遇から脱出する途は戦争による臨時収入が魅力だったのです。 たのご回答にあるように戦争に勝利すれば略奪がある程度自由ですし、労働力になる捕虜は人身売買で大金がえられます。 兜首などが得られれば、武士に取り立てられるチャンスにもなります。 農民生活から脱出する一番の早道でした。 この様な上昇機運から農民兵は募兵に応じたのです。 さらに農地面積毎に募兵の割り当てがありました。 このように当時の軍隊は自発的な者と強制的なものとの集合体でした。 従って勝利しそうな見通しがある場合は勇敢に戦いますが、退勢となると一挙に崩れることがおおいのです。 敗軍側は落ち武者狩りや残党狩りで命を失う事がおおいのですが勝利者側は武器武具の略奪、捕虜の確保に狂奔するわけです。 戦争が終われば農民兵は故郷に帰り、専業の武士は平時の任務につきます。 敗北側の武士は勝利者側に採用されるか浪人となり次の機会をまちます。

zansan
質問者

お礼

なるほど、とても参考になりました。 ありがとうございます。

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