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戦における兵の集め方のその後の行方
phantom1の回答
- phantom1
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No2です。少し書き足りない部分があったので追加します。 農兵の供出人数については村側にも交渉権があったと書きましたが、これは農民が基本的に戦を忌避していた訳ではなく、予め負けそうだと予想される戦に村人を出し渋る事がある、と言う事です。その場合、領主の方も劣勢な状況ですので強い態度には出られません。村ごと敵に寝返られたら堪らない訳です。このように戦国時代の農民達は村単位で結束し、かなり逞しく生きていました。 逆に勝てそうな戦の場合、村々は積極的に兵を供出します。No4の方が述べているように敵地での略奪で一財産作れるからです。
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お礼
補足までいただきありがとうございました。