- ベストアンサー
戦における兵の集め方のその後の行方
tanuki4uの回答
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
現代的な感覚で言うと「税金」と考えると理解しやすい。 ●●家に一万石与えるというのは、奉公として一万石に見合う軍勢を戦争の時に連れてこいということ。 http://www.0105.jp/~mizuki/gunekikitei.html これは、慶安の段階、つまり戦争が無くなった段階で、それまでの戦国時代のノウハウが固まった段階のものです。 戦国時代の平均的な動員力はNo2さんのご指摘の通り一万石で300名ほど。 戦国時代の上杉謙信、越後の国が40万石に届かない状態。総動員で一万二千、無論、越後をもぬけの殻にするわけにはいかない。なのに、関東攻略では万以上の動員があった。なぜか?農民の出稼ぎがあったから。戦争に勝つと、略奪し放題というのが、当時の常識。なので、越後の農民は喜んで謙信についていったそうだ。んで、勝つと略奪、人さらいです。あんまり勝ちすぎると奴隷相場が下がるという事もあったそうです。
関連するQ&A
- 関ヶ原の前夜、家康は。。。
関ヶ原の戦いの前夜、徳川家康は緊張して眠れなかったんでしょうか? 石田三成なんかも緊張していたんでしょうか? 記録が残っているのであれば、どなたかお教えください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?
石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。 関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。 こんな疑問が浮かんだのは理由があります。 今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。 しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に 「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」 と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。 ●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた
関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた 小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。 小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。 もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合 関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが 裏切ってくれなかったとしたときのために 家康は何か策でも立てていたのでしょうか 皆様の考えをどうかよろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 徳川家康は、なぜ当然のように天下人になったのか
一般的な歴史では、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、当然のように天下統一をしているようなのですが、疑問があります。 もともと、関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部での権力闘争でしかなかったはずであり、徳川家康も、関ヶ原の戦い以前には、 「豊臣家打倒」 などとは、全く言っていませんでした。 豊臣家内部の権力闘争に打ち勝ったというだけなのに、なぜ、徳川家康が、「当然のように」日本全体を統一する政権をつくってしまえのかが不思議でなりません。 今日の私たちは、実際の歴史を知っているので、疑問をもたないかもしれませんが、当時の人々からすれば、関ヶ原の戦いに勝ったからといって、 「だから家康が天下人」 という意識は、まだなかったのではないか、と思うのですが、なんで、家康が天下人ということになっていったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- もしも大垣城に立てこもっていたら?
歴史にもしもが無いのはわかっていますが 関ヶ原の戦いのとき 石田三成は大垣城に居ましたが家康が佐和山城を攻めると言う流言に踊らされて関ヶ原に誘い出されました もしもこの時 このまま大垣城、あるいは堅固な岐阜城に立てこもって篭城戦になっていたら 結果はどうなっていたと思いますか? 家康はもとより、東軍の武将は殆どが城攻めは苦手な連中な気がします(だからこそ野戦に誘い出したんでしょうけど)
- ベストアンサー
- 歴史
- 石田三成の正義は正しかったのでしょうか?
関ヶ原での敗戦後、石田三成が罪人として家康に捕らえられてからも尚確信をもって言っていた「正義は我にあり」という言葉は果たして正しかったのでしょうか? 徳川に支配されては日本は乱れ、滅ぶという三成の思いとは裏腹に、江戸幕府は安泰のまま200年以上も続きました。家康も戦国大名としては長寿を全うし、満たされたまま死んでいます。 三成が義の人間であればある程不憫に思えてくるのは私だけでしょうか?昨日大河ドラマ「天地人」を見ていて思わずそう考えてしまいました。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
すいません。 補足じゃなくてお礼でした。 ごめんなさい。
補足
tanuki4uさん 回答ありがとうございます。 理解できました^^