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戦における兵の集め方のその後の行方

phantom1の回答

  • phantom1
  • ベストアンサー率24% (184/748)
回答No.2

農兵と傭兵の二種類があります。 農兵は読んで字の如く、領主が支配している土地の村々から身体壮健な者を動員する事で、これ等の兵士は基本的に農民です。小田原北条氏の古文書などで、その動員システムが現在に知られています。 農兵の動員は、領主側が直接村々に乗り込んで来て、「お前とお前は今から兵士になれ。」といった風に連れて行くのではなく、領主が各村の代表者(名主、庄屋など)に文書を送り、村の貫高、石高(簡単に言うと村の豊かさ)に見合った人数を村側が送り出す、と言うシステムになっていたようです。この人数については村の側からも交渉する権利があったようで、領主側も村々に離反されては困る為、あまり強圧的な態度は取れなかったようです。一般的には一万石につき兵300人程度の動員が可能だったと言われています。これ等の農兵は戦闘が終了すると、村に帰ってまた農民に戻ります。 もう一つの傭兵に関しては領主が金で雇った兵士で、農兵と違って常備兵に出来ますが、当然農兵よりも維持費が嵩みます。農兵と違って土地に縛りつけられていない(自分の土地や村などへの帰属意識が無い)ので、一般に結束力が弱く、農民としてまともに食っていけないようなあぶれ者が傭兵になるケースが多い為、モラルも低いのが普通です(これは現代の傭兵も同じ)。しかし、領地内の農民との関係が良くない領主などは傭兵に頼らざるを得なかった事でしょう。兵農分離を進めた事で評価される織田信長も実はその類ではなかったか、とも言われています。 これ等の傭兵達は、豊臣秀吉の惣無事令(国内での私戦禁止)以降、帰農する者もありましたが、東南アジアに進出し、傭兵として活躍する者も出始めます(山田長政が有名)。秀吉やその後の徳川家康も、国内に戦闘慣れした食い詰め牢人がウロウロしていたのでは治安上よろしくないとの考えから、この流れを止めようとはしませんでしたが、国内が安定し出してから鎖国に向かうまでの間にこの流れは止められ、東南アジア各地にあった日本人街も廃れて行き、やがて消滅して行ったのです。

zansan
質問者

お礼

すいません。 補足じゃなくてお礼でした。 ごめんなさい。

zansan
質問者

補足

phantom1さん ご回答ありがとうございます 傭兵があるとは知りませんでした^^; 参考になります

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