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氏姓制度から、どうして公地公民になったのですか?

今、歴史の勉強(中学2年)をしているのですが、その中で分からないところがあるので、教えてください。 大化の改新のところで、参考書には、 「氏姓制度の場合は、皇族や豪族が、それぞれ土地と人民を支配していたが、天皇中心の体制をつくるためには、 全国の土地・人民を、国が直接支配する公地公民の制をとる必要があった」 と書いてあるのですが、天皇中心の体制(中央集権国家のこと?)をつくるのに、 どうして土地・人民を皇族や豪族が支配していてはダメで、 国が直接支配しないといけないのかが、分かりません。 どなたか分かる方がいれば、ぜひ教えてください。 それでは、よろしくお願いします。

  • 歴史
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みんなの回答

  • haifa7741
  • ベストアンサー率10% (20/193)
回答No.5

中央集権国家が財政的に成立し 天皇中心の朝廷体制を整えるには 税収をパーフェクトに把握する必要性 中間で豪族その他に横取りされず、国家を出来るだけ大きく 見せるための実力の元となる、穀物・織物その他の生産量を 完全に計数的に把握する必要があったわけです。 それくらい財政が逼迫していた。出来るだけ地方からの 収入を取り上げる必要があったわけです。 土地・民衆を地方豪族が把握・支配していると 軍事的な人員として召集することも自由に出来ず、当時の緊張する 国際情勢に即応する態勢が組めない。さらに収入を軍事力維持のために 出来るだけ欲しいのにもかかわらず、地方豪族等の贅沢に浪費されると 国難対処上にも軍事力の欠損に直接ひびき、問題となったのでしょう。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

世の中、財布を握っている人が一番偉い。 豪族が直接土地と人民を支配していれば、 「おいら 今日から、別でやっていきます」 と、言われれば、武力で占領しない限り、収入はあるのですから、やっていけます。(極論ですが) 政府からの給料だと、翌日から生活できませんから、滅多なことでは逆らいません。

  • jazzneko
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.3

氏姓制度は、確かに最上位に天皇がいて、その下に、豪族がいたのですが、そのころの天皇はあまり力が強大ではなく、豪族が好き放題やっていた面もあるのです。 豪族の支配グループ(村ということにしますね)がいくつもあって、村ごとにルールも違うし、税金も、身分制度も異なっており、まあ好き勝手にやっていて、その中の一つが、天皇村だった、とイメージしてください。 村人にとって、一番偉い人は村長であり、村長の言うことを聞いて生活していたのです。 しかし、天皇村の勢力が強くなり、村長連合の長と認められました。 しかし、それをおもしろくない村長もいるだろうし、天皇村より豊かで強い村は、自分の村人を使い、天皇村を襲うかもしれません。 それを一気に天皇村の支配に入れるには、土地(農作物が搾取できます)、人民(労働力を確保できます)を手に入れるのが一番なのです。そこで天皇村長は、国中の土地と人は自分の所有物だと宣言したわけです。村長は自分の支配していた土地と人を失い、村は解体です。 現在の日本も、けっきょく税収の多い市町村は強いですよね。税収が多いということは、働き手が多く、土地が有効に活用されているところです。 しかし、制度としては公地公民であっても、その後さまざまな局面で公地公民制度は変遷し崩壊して行きました。

  • outerlimit
  • ベストアンサー率26% (993/3718)
回答No.2

税の徴収です 支配しているものが 税(に相当するもの)を徴収します 現在は国税と地方税を区分けして徴収しますが、 江戸時代以前は 税を徴収するのは そこを支配しているものです ですから  土地と人民は朝廷が支配し、 貴族や豪族へは 朝廷が範囲を区切って任せる (あるいは 朝廷が全ての税を徴収し、貴族や豪族に配分する) 不都合があれば 返上させて  他の者に代える とか  他の場所に代える 権限が必要なのです この権限が無ければ、戦国時代の様に武力で奪い取るしか方法がありません そのために 公地公民の制度を定着させる必要があったのです それを実施するためには、反対勢力を押さえ込めるだけの力が必要です それだけの力を持てるようになったから実行できたのです 平安時代以降の荘園は、その力がなくなったから、藤原氏はじめ豪族や社寺が勝手に占有できたのです

  • uskt
  • ベストアンサー率49% (361/733)
回答No.1

たとえば、決められた税率が10%だったとしましょう。 ある畑からは、100の収穫があったとすると、税として納められるものは、1/10の10ということになります。 ところが、畑の管理を直接やっていれば「収穫が100あったな」とわかるところが、他の人が管理していて、その人からの報告を聞くだけだと、たとえば「収穫は50しかありませんでした」と言って、税として5だけ納めてきても、どうしようもないわけです。 あげくに「そこの畑は、たがやす人が去年死にましたから、収穫はゼロでした」と言われても、そうですかとしか言えません。 ですから、直接に土地と人民の状況を把握することが重要なわけです。 説明が下手ですみません。おわかりになったでしょうか?

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