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天皇はどこから来たのですか?

国分寺跡の「公地公民」は、天皇を祭り上げ中央集権の国家建設するためのものでしたが、それまでいた日本古来の地方豪族はこれにより天皇、朝廷に従うようになったのですか?

みんなの回答

  • ishi_saya
  • ベストアンサー率27% (84/310)
回答No.5

古代のことを言うのに、単語の意味を現代の意味付けで考えると何も分からないのです。「国家」「中央集権」「権力」「支配」「統治」などなど。「国家」は今のような国ではありません。「中央集権」は今のような仕組みではありません。統治者が権力で民衆を支配し搾取していたわけではありません。 日本各地に国分寺が建てられるようになる前から、地方豪族は天皇に従っていました。しかし時代と共に私有化の傾向が出て来たので、それを元に戻すためです。縄文文化から日本は「万物共有」であり私物化しないのが基本だったのです。しかし、大陸や半島からの影響でだんだんと私有化が広まってしまったのです。これは「水田稲作農耕」が定着したこととも関係しています。しかし、「公地公民」は天皇を「祀り上げる」とか、天皇に権力を集中させて国家を統一支配するとか、そういうのとは違います。 日本の天皇制は、古代ユダヤの仕組みと共通しています。政治行政を行う「世俗王」と、宗教の祭祀である「祭祀王」との二本立てで、「祭祀王」=「天皇」です。(ただし時代によってはその範囲を逸脱して政治行政に関わっていた時代もあります。) 政治行政は地方豪族に任せて、天皇は宗教/文化の長として日本を一つにまとめる役割です。

回答No.4

そんなことばかり書いてるから案の定また大きな地震に襲われてますね。やはり相当大きい地震、妄想ばかりの狂気を垂れてるからまた起こりますよ、天地がご怒りになっている。 神武東征にまつわる伝承ははっきりとした記述として残されている。本来の日本人には書き換えないといけない何の不都合も不利益も存在しない。本来の日本国民にとっては受容すればいいだけの話を改変改竄しようとしていることで、あなた達らは客質性外国人であることが分かる。このOK WAVEサイトの運営も同じ勢力であるだろうと思う、従ってもう利用参加はしない。 神武東征にまつわる記述は、難波津に上陸した神武への、天の磐船、饒速日命、長髄彦ら先権旧来勢力の抵抗で紀伊半島の熊野三山側へ迂回し吉野熊野山中を八咫烏に道案内され山中を踏破し旧勢力の背後に回り奈良県宇陀地方から山を駆け下り金色の鵄(トビ)に誘われて抵抗旧勢力も講和し平和裏に権力禅譲が果たされたのが神武東征の秘話。来られたのは天孫降臨の舞台、日向国から。出雲の大国主命への国譲りの談判と使者の武甕槌命、すべては神話として記録された、そして登場人物はすべて神であった、日本の古来は人は神だった、だから八百万の神信仰となった。その神の中から天照大神とその天孫が選ばれこの国を平定していったのが日本の歴史そのもの。天の磐船の饒速日命の一族は物部氏へと変わっていき、天孫系神々(天神)ではないので地祇とされた。 これをすべて創作だとすると気違いの脚本家が面白可笑しく執筆したとなるのでしょうね。記述される前に殺されてるでしょうよ。外国人らしい捏造の発想らしい。こちらの運営方針上、もう参加はしない。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9718/12086)
回答No.3

質問者からのお礼を拝見しました。 >神武東征があったのに、ですか??? ⇒「神武東征」は、地方豪族らが集まって自分たちの仲間の中から代表を選び、天皇としての適格者を決めることで大和国を設立した後に、いわゆる「権威づけのために創作した神話伝説」ではないかと推測します。 それゆえ、『古事記』と『日本書紀』で記述内容が異なったり、神話学の立場から諸説があったり、出発地について異説があったり、東征否定説さえ登場したりしているのだと思います。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10470/32925)
回答No.2

>国分寺跡の「公地公民」は、天皇を祭り上げ中央集権の国家建設するためのものでしたが、それまでいた日本古来の地方豪族はこれにより天皇、朝廷に従うようになったのですか? いいえ。国分寺が作られるようになったのは、741年に聖武天皇の命令によってです。 埼玉県にあるさきたま古墳群から鉄剣が発見され、そこに「ワカタケル大王」の文字がありました。その鉄剣に書いてあったのは「私はワカタケル大王の近衛兵をやった偉大な人なのだ」という自慢でした。 ワカタケル大王は雄略天皇のことで、この剣は471年に作られたと剣に書かれています。これにより5世紀には既に大和朝廷の権威が関東にも及んでいたことが証明され、かつ雄略天皇の存在も証明されたので、現在では雄略天皇が実在を確認できる最古の天皇となっています。 なので国分寺ができるずっと前から大和朝廷の権威はかなり広範囲に及んでいました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9718/12086)
回答No.1

以下のとおりお答えします。 >国分寺跡の「公地公民」は、天皇を祭り上げ中央集権の国家建設するためのものでしたが、それまでいた日本古来の地方豪族はこれにより天皇、朝廷に従うようになったのですか? ⇒はい、そのとおりだと思います。 なお、 >天皇はどこから来たのですか? とのことですが、その日本古来の地方豪族らが集まって、自分たちの仲間の中から代表を選んで、天皇としての適格者を決めたようです。

rekisho
質問者

お礼

神武東征があったのに、ですか???

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