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生類憐れみの令について
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綱吉は基本的には犬が一番。 カラスだけは綱吉に無礼な事をしたので許せなくなったそうです。多くのカラスを島流しにしたとか・・・ 「生類憐みの令 カラス」で検索して! ↓こちらが一番詳しいです。
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- tanuki4u
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歴史は勝者が作るもの。 この原則を忘れると、綱吉の業績が無視される。 生類哀れみの令の評価で申し上げれば、敗者は、自己の系統(直系あるいは、娘婿であった尾張家)に将軍位を継承できなかった綱吉、勝者は甲府家および、尾張家を排除し甲府家から将軍家を譲られた紀伊家の吉宗となります。 生類哀れみの令を評価したのは、(本来なれば四男の綱吉ではなく、三男の系譜である)甲府家なのです。 生類哀れみの令を肯定的に捕らえる考えとしては 黄門さまと犬公方 (新書) 山室 恭子 (著) があります。 武断政治から文治政治に大きく舵を切ったのが綱吉。それについて行けなかったのが水戸黄門という構図です。 ※ 黄門様、自ら家来をぶった切ったり、辻斬りとかやってますからね。
お礼
こんばんは 「甲府家」という存在を知らなかったので「へぇ~」と思って見させてもらいました。 この「生類憐れみの令」もあって綱吉には大変興味があるので紹介してくださった本も読みたいとおもいます。 ありがとうございます。
最初は、動物を大切にしましょう。くらいのことが、段々エスカレートしていきました。 豆知識・・お犬屋敷は、現在の中野サンプラザの場所にあり、飢饉もあり、人間が満足に食べられないときも、お犬さまは、手厚く保護されていました。 綱吉の死後、お犬屋敷は、閉鎖となり、犬の引き取り手を募集しましたが、かわいそうに、引き取られた犬は、永年のうさばらしのため、虐殺されることも多かったそうです。 他の回答者さまのご紹介サイトを見ていないので、かぶるかもしれません。 綱吉本人は、史上最高の法令と信じており、臨終のときも、「この令を永久に守るよう」と、言い渡したそうです。 お台場に「大江戸温泉物語」というスパ施設がありますが、犬専用の温泉が「綱吉の湯」という名です。 一部のブランドワンちゃんは、現代のお犬さまですね。
お礼
こんばんは 僕が調べても見つからなかった知識ばかりだったのでとても嬉しいです。 綱吉の湯 とは面白い名前ですね。 ありがとうございます。
- luune21
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ひ孫引きになりますが、以下のような記事がありました。 http://j-history.cocolog-nifty.com/misakijapanhistory/cat2861974/index.html 2番めの「徳川家四百年の内緒話」のところです。 >また、豆知識などがあったら 「生類憐れみの令」という名前の法律はなかったそうです。 http://e-obs.com/heo/heodata/n333.htm いろんな令の総称だったんですね。 とすると、先の問題は、「鳥魚貝等の憐み令」を調べてみるといいようですね。
お礼
ありがとうございます。 特に二番目の方はとても解かり易くて本当に助かりました。 教科書には「1680年 徳川綱吉が将軍となり、政治を行う。生類憐れみの令を出し・・・」みたいな感じでしか書いてなく僕はまとめたものを生類憐れみの令というということを知りませんでした。なのでとても助かりました。 ありがとうございます。
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ありがとうございます。 大変参考になりました。 検索もこれからしてみようと思います。 しかし、紹介してくださった内容だけで十分なくらい解かり易く、求めていたものだったので本当に助かりました。 ありがとうございます。