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戦国時代の貨幣は?

starfloraの回答

  • starflora
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回答No.5

    PCの調子が悪いのか、回答を書いて送信しようとすると、フリーズしてしまう。入力エリアに書き込んでいると、しばしば、「このプログラムは強制終了」とか言って、全部消えてしまうので、別の場所で回答文を書いて、入力エリアにコピーするようにしているのだけれど、つい、入力エリアに回答を書いてしまう。      とまれ、もう一度書きます。      >例えば、三方ヶ原の戦いで、家康が逃げる途中で団子を食い逃げをし、店主に追い掛けられて銭を払ったとの話が有ります。この時に払った銭・・・当時この地方で使用されていたと思われる小額のコインは堺や武田、上杉などの領土では使用されていなかったのでしょうか?      何と書いたのだったか。一般庶民でも、銅の貨幣は、「銅」であるが故に、金属価値を簡単に識別できたということです。金などになってくると、庶民では、鑑定力がなかったが、銅だと、見ただけでそれと判別でき、またもっと近くでよく見ると、不純物が混じっているかどうか、品質なども判断できたのです。銅の銭は、「銅」であるが故に流通したので、それは貨幣の「使用価値」と「交換価値」における「交換価値」の自立という状態とは、随分遠い話だということです。      室町幕府は、しきりに通達を出して、「選り銭をするな」と言ったのですが、一般庶民は、そういう通達には耳を貸さず、「選り銭」を行っていたという話があります。現代の感覚だと、貨幣が汚れていたり、少々傷んでいるので、受け取り拒否というのはおかしいとも思えるのですが、当時、「選り銭」の対象になったものは、半分に割れてしまって、半分しかないとか、摩耗してぺらぺらになっているとか、混ぜものが多く品質が極度に悪く、こぼれていて、触れると形が崩れるなどの粗悪なものや、また、小さい銅貨を大きく見せるため、鎚で叩いて大きく延ばして、見た目は大きいが、銅としての価値は、大きさほどないようなものです。こういう銅の銭は、実質の「銅」の価値がないか少ないので、庶民に嫌われたのです。本当に貨幣が自立していれば、「交換価値」で決まり、現在の十円硬貨が汚れているとか錆びているとか、また紙幣が汚いとか、しわくちゃだとか、そんなことで通貨として通用しないということはありません。この千円紙幣は、汚れてしわくちゃだから500円の価値しか認めないなどということはないのです。しかし「選り銭」をする場合は、そういう話も交渉次第であったかも知れません。     銅の銭として見た目で品質がよいと分かり、大きさも重さも、その形状も整っており、おまけに銘が「永楽通宝」などとあれば、知っている人は、誰でも信頼したので、日本全国で通用したでしょう。しかし、それは、「永楽通宝」が「共通貨幣」であったからではなく、「銅」の価値において、品質に信用が置けたからです。家康が払った銅の銭は、茶店の店主がそれで納得したのなら、「銅の銭」として、見た目で、銅の価値があると庶民でも判断できたのでしょう。こういう銅の銭なら、堺でも武田・上杉・織田・島津などの領地でも、銅の価値として通用したでしょうから、日本全国で、銅の価値を知る人には共通に通用したということです。しかし、どこでも、それで物品を購入できれば「共通貨幣」の資格を持つかと言うとそうではないはずです。     例えば、重いかも知れませんが、米を5合持って、これで布を売ってくれとか、酒を売ってくれとか、飯代をこれで払うといえば、米が腐っているとか、砂だとかでない限り、これも日本全国で通用したはずです。では、米は「共通貨幣」かと言えば、違う訳で、それは物品としての価値の準普遍性による、物々交換の「代理貨幣」だということになります。銅の銭も、特に永楽通宝はじめ永楽銭も、銅の金属価値で「代理交換価値」が生まれたので、原始的な物々交換よりは遙かに進んで、貨幣経済の段階に踏み入れた時の代理通貨ということになりますが、日本全国どこでも通用する「米」と同様に、これを、共通貨幣というには、条件が満たされたいないのです。江戸時代では、「米」を武士階級は給与として受け取ったので、外国では、「塩」を給与として渡した例もあります。「米」も「塩」もかなりな普遍性を持って、物々交換の際に利用できたので、共通貨幣のような相を呈しているということです。      昭和時代に入って、敗戦直前の日本の少額通貨は、現在の1円アルミ貨幣のようなものが、現在では、100円ぐらいに相当する貨幣であったことがあります。これは戦争末期、金属がほとんどなかったからですが、実質価値がとても100円もない、ぺらぺらな1円アルミ貨が貨幣として通用したのは、その「使用価値」ではなく、「交換価値」で、交換がこれで可能だったからです。室町幕府や、江戸幕府や、江戸時代の藩が、どう裏書き保証しても、紙の貨幣は通用しなかったでしょう。江戸時代の藩札は、紙幣というより、いまの国債のようなものと考えた方がよいでしょう。      「偽金造り」というのが(非合法)商売になるのは、貨幣がある程度「交換価値」で意味を持ち始めてからです。江戸時代中期になると、そういう事態になる訳で、そうすると、小判の偽造を行って利益を上げようという犯罪者も出てくるのです。小判の偽金は、品質を落とし、混ぜものをするか、鉛に金鍍金などを行って造るのですが、前者は、偽金造りではなく、当の江戸幕府自身が実行しました。50万両の小判を改鋳して、品質を落とし、金含有率を減らし、重量も減らし、100万両分の新しい小判にすると、差額の50万両が幕府の収入になるというので、現実にそういうことを行いました。従って、江戸幕府が造った小判は、初期に造った小判の金含有量がもっとも多く、品質もよく、後になって改鋳したものは、金の品質が落ちてきます。金貨として見ると、初期のものと後期のものでは、価値が二倍以上違って来ます。      敗戦後、日本は金属がなかったのですが、当時造られた十円銅貨は、いまの十円と同じデザインですが、コインの周囲にぎざぎざが付いていました。また、百円ニッケル貨は、最初に造られたものは、銀を含有しており、これも、縁にぎざぎざが付いていました。このぎざぎざは何かと言うと、流通途上で、コインの縁を削られないための工夫です。金属の価値で見ると、銅銭や銀含有の硬貨の縁を削って貯めると、金属が蓄積されて、それなりに利益が出たからです。現在でも法律で、貨幣に傷を与えることは禁じられているはずです。それは、金属を削って、金属としての価値が低減することを防ぐ意味もあったのです。     金貨なら、ローマ帝国時代にもありましたし、それ以前にもあったはずです。これらは、金属の利用価値を前提として通用したので、「交換価値」、象徴的な価値として通用したのではないのです。永楽銭も同様です。永楽銭は、明から「輸入した」と表現します。ドル紙幣を「輸入した」とは言わないでしょう。     貨幣は、広い範囲で流通するということだけでなく、「使用価値」と「交換価値」が分離し、「交換価値」で規定されるものを貨幣というのです。「交換価値」で流通しているからこそ、大インフレーションが起こるとか、「交換価値」を保証していた国家等が破綻すると、貨幣は、ただの紙屑の山に変化するということが起こるのです。南北戦争の時、南部諸州は、北部に対し、独立宣言をして、南部共和国独自の紙幣を発行しましたが、南部が敗北した時、この南部共和国の紙幣は紙屑になりました。紙屑になる前は、流通していたということで、こういうものが貨幣なのです。     「米」は先に言ったように、堺でも、武田・上杉・織田・島津領へ持って行っても、これで物品を購入することができます。では、「米」は共通貨幣かというと、「代理貨幣」だとは云えるでしょうが、それが代理貨幣として通用するのは、「米」の「使用価値」に基づいているのです。別に、国家が国内貨幣として規定していなくとも、ドル札は、アメリカ以外の多数の国で通用します。この通用の理由は、ドル札が紙として価値があるからでなく、アメリカの経済力によって、ドル札で、色々なものが購入でき、またドル札を他の貨幣に「交換」できるから価値があるのです。アメリカが経済崩壊して、ドルの価値が現在の1万分の1にでもなれば、ドル札は、紙屑に近くなるでしょう。     広い範囲で「通用」するのが貨幣の条件ではないのです。貨幣は、貨幣経済の成立を前提として意味を持つものですし、貨幣経済の発達においては、その実質が利用価値ある貨幣ではなく、「交換」において意味を持つ、経済の価値象徴媒体が必要で、これが「交換価値」で規定される貨幣なのです。貨幣経済も十分に確立しておらず、貨幣も「交換価値」だけで純粋に自立していないのでない場合は、貨幣に見えるものは、その物品価値=利用価値で決まっている、代理貨幣でしかないのです。     以下のURLの第一節の「現金決済」の「近代紙幣」「電子マネー」を参照してください。また、第二節の「信用決済」なども、貨幣経済が、通貨の利用価値を離れた場合に、有効に成立するものです。(永楽銭の輸入は、「銅の輸入」なのです。明王朝が永楽銭を価値保証したのでなく、銅としての価値の品位の高さで共通に通用したのです。形状や銘は、銅に品位の保証であったのです)。     >第二章 従来の様々な決済方法   >http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/2.html   

参考URL:
http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/2.html
hubble
質問者

お礼

PCの調子が悪いのに再びの回答、ありがとうございました。 >明王朝が永楽銭を価値保証したのでなく、銅としての価値の品位の高さで共通に通用したのです。 納得です。 >このぎざぎざは何かと言うと、流通途上で、コインの縁を削られないための工夫です。 これはビックリしました。大変面白く読ませていただきました。ありがとうございました。

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