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宿場について

江戸時代に地方の町が宿場町かそうでないかは何によって区別されたのですか?伝馬の施設や旅籠があるかどうかですか。

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kanchanku
  • ベストアンサー率100% (1/1)
回答No.2

あるサイトのパクリではありますが・・・ 東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて一番最後に庄野宿ができたのは、1624年(寛文元)だった。 宿場では公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになった。又、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などがおかれた。これらの公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったが、幕府は地子免除、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めた。ほかに一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげた。また、高札場も設けられていた。 明治時代以降、鉄道開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった。

mersess
質問者

お礼

やはり幕府との関係があるようですね、どうもありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

朝から日暮れまでに歩ける距離、大きな山、川などの地理的要素、検問機能などを考慮して、幕府があらかじめ設定したところに、旅籠や人家、遊び場などが次第に集まって出来たのが宿場町だと思います。

mersess
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • isoyujin
  • ベストアンサー率21% (145/662)
回答No.1

東海道53次のように、幕府が規定し、設備を充実させていったのだと思います。

mersess
質問者

お礼

ありがとうございました。

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