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ローザンヌ条約

トルコでは第一次大戦後、敗戦した罰として1920年に「セーヴル条約」を突きつけられましたよね?しかしその3年後、この条約を破棄して「ローザンヌ条約」の締結に成功しました。ここで質問なのですが、同じ敗戦国として、ドイツには「ヴェルサイユ条約」が締結されましたが、これは破棄できずに、結局ヒトラーが強引にこの条約を無視しました。なぜ、地位的にも、経済的にも上の立場にいたドイツでは破棄できなかったのに、トルコでは破棄できて、ローザンヌ条約を締結できたのでしょうか?

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  • jk7
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回答No.2

まず第一に、国家体制が変わったということ。 そして第二に、その新国家が、外国軍隊を撃破して自国領を守ることに成功するばかりが、一度失ったイズミルを奪回しているほど、実力を持っていた。 第三にケマル・アタテュルクが、西欧を模範とする近代化を目指していたということ。 トルコの場合、これらの要因が複雑にからんでいたのです。

その他の回答 (1)

  • yakyutuku
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回答No.1

ムスタフ・ケマル・パシャが新しい政府を組織し、新しく軍隊を組織し、実力でギリシャ軍を撃退したからです。イギリスが再度強力な陸軍を組織し、トルコと戦うことはできませんでした。(国民が許さなかったでしょう)疲弊した国家が更なる戦争をできるかというと、国民の支持が難しいと思います。それができたのがトルコ(ムスタフ・ケマル・パシャ)だったということではないでしょうか?それにトルコはアナトリアは守り抜いているし、ダーダネルス海峡も抜かれてませんし、第一次大戦で完全に負けたとは思っていなかったのではないでしょうか?

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