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桜会について

昭和初期の軍人によって作られた桜会について知りたいことがあります。 桜会は橋本欣五郎によってつくられた中堅将校を中心とした団体で、3月事件や10月事件を計画するなど暴力的傾向が強い団体であったと思います。しかし、10月事件以後に桜会は消滅していまい、それに所属していた将校の多くが、その後統制派として活動していくこととなったと聞いています。 ただ、ここで疑問なのが統制派というものは、クーデターなどには否定的で合法的に権力を獲得しようとしたと聞いています。 桜会に所属していて、その後統制派になるというのは矛盾しているように思えるのですが、どうでしょうか? ご教示ください。

  • 歴史
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回答No.3

皇道派と統制派のことは、なかなか難題(アポリア)だと私は思います。目からうろこが落ちる本には出遭ったことはありません。以下くどくど申し上げるのは「回答がない」からです。 例えば、こうした分野のパイオニアである秦郁彦「軍ファシズム運動史」(河出書房新社)は、「昭和ファシズム史のなかで、皇道派と統制派、ひいてはその他の軍内派閥闘争をどのように位置づけるかは厄介な問題である」としています。 つまり通俗的にいわれているのは、北進論=皇道派、南進論=統制派とされていて、例えば田崎末松「評伝 真崎甚三郎」(芙蓉書房)は、二・二六事件は南進論者たちが北進論者である真崎を追い落とそうとした結末であったとしています。ただしこのことを論証できる事実は、昭和七年から九年にかけて起きた永田鉄山と小畑敏四郎の論争が唯一と云っていいでしょう。それは対ソ戦略を廻って繰り広げられました。対ソ威圧論でソ連との開戦を避ける立場の永田と対ソ撃滅戦論を掲げ早期にソ連と一撃構えるべきとする小畑との間に生じました。ふたりは陸士同期で、岡村寧次と三人で大正一〇年に南ドイツの保養地バーデンバーデンで軍の近代化を誓い合った仲でした。これが後に「一夕会」さらには「桜会」となるのですが、永田と小畑は一〇年後には互いに口を利かないまでに対立し、陸軍が真っ二つに分れたのでした。政策的には前者が後に南進論、後者が北進論となるのです。 そして少し応用問題になりますが、3月事件や10月事件以降、尉官級の青年将校たちは、佐官級の幕僚たちと決別します。 つまり歴史の糸は、1935年の相沢事件の前までは、二つあり、赤い糸が青年将校たちの昭和維新運動、白い糸が皇道派対統制派と呼ばれる将官級の派閥抗争であったと私は理解しています。これを急速に束ねる触媒の役割を果たしたのが、相沢事件でした。ですが白い糸に政策的、あるいは戦略的な意味合いがあったのか?と問われるなら、少なくとも相沢事件や二・二六事件の当時はなかったと言わざるをえません。どこにでもある「派閥抗争」の域をでません。それも佐賀だ、山口だという程度の低次元です。 さて本題です。永田鉄山が生きていたら昭和前期の歴史は変わっただろうか。という「イフ」です。はっきりいえることは永田が生きていれば、陸士一期下の東條は使われただけの存在です。あんなメモ魔で天皇に報告魔の男が歴史の正面に登場することはなかったでしょう。おそらく個人主義者で組織オンチの石原莞爾も永田の傘下は、天才戦略家として仕えたことでしょう。ですがはっきり言えるのはそこまでです。「英米蘭との太平洋戦争がなかった」と言い切ることができる人は誰もいないでしょう。永田は死の2週間前に朝鮮・満州の視察旅行から帰っての感想を国策研究会、矢次一夫の前で話します。「関東軍の満州国への内面指導は止めるべきだ。なるべく早く中国人の手に渡すべきだ。朝鮮は、軍備と外交を除き独立自治をゆるすべきだ」。 これをもって歴史が180度変っただろうといえるでしょうか。 簡単に想像がつくことは、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国は歴史上、登場しなかっただろうということです。日本帝国主義の中国大陸への侵略軍事行動があったからこそ、毛沢東が政権を担えたのです。毛沢東がいっています。「日本帝国主義は反面教師だった」と。 歴史のイフはなかなか難しいですね。

  • dollar
  • ベストアンサー率33% (63/190)
回答No.2

山川出版社の教科書では、統制派と皇道派について、次のような区別をしています。 統制派……合法的な手段で軍部政権を樹立させようとする 皇道派……クーデターを起こしてでも軍部政権を樹立させようとする 確かにこの区別でもってすれば、クーデターを主張していた桜会メンバーが統制派に加わったことは不思議に感じられるかもしれませんね。 しかし、私は山川の記述にはやや疑念を感じています。 統制派・皇道派の理念の区別は、「クーデターを容認するか否か」とは関係ないと思うのです。 ただ、結果的に皇道派がクーデターを起こし、統制派がそれを処罰して合法的に軍部主導政権を作り上げていったわけであって、あくまでも結果論だと思います。 では、統制派と皇道派はどう違うのか、私なりの説明をします。 まず、当時陸軍内で圧倒的な一大派閥を形成していた長州閥(宇垣派)に対して、若手将校たちが反対の気炎を挙げます。中でも永田鉄山と小畑敏四郎と岡村寧次の3人が、ドイツ旅行中に行った「バーデンバーデンの密約」というのは有名です。ゆっくりと温泉につかりながら、「いつか反宇垣の組織を立ち上げよう」ということを相談していたとの話です。 さて、昭和改元直後、彼ら3人の約束は叶い、「一夕会」が組織されます。一夕会の基本理念は、反宇垣ということと、「荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎」の3人の大将を盛り立てていこうということでした。 ところが満州事変後あたりから、強い結束で結ばれていた永田と小畑のあいだに亀裂が生じ始めます。 「作戦の鬼」と呼ばれる小畑は「ソ連こそが最大の脅威である。まずはソ連を仮想敵国として軍備を固めておくべきであって、中国とこれ以上争うことは無意味だ」と主張します。 それに対して永田は「いや、今こそ中国をたたくチャンスだ。ソ連は現在内政問題で忙しいから介入してくる力はない」と主張し、激しく議論を戦わせます。 岡村は双方を何とか妥協させようと頑張っていたようですが、苦労の甲斐なく一夕会は2つの派閥に分裂してしまうのです。 すなわち永田率いる統制派と、小畑率いる皇道派です。 ちなみに荒木・真崎・林の3大将は皇道派側についてしまいました。 つまり、統制派と皇道派の基本理念の違いは、「対ソ」か「対中」かということにあるのです。 そしてもう1つ、大きな理念の違いがあります。それは、経済に関する考え方です。 統制派は財閥をうまく利用して、政府と財閥が協力して軍部政権を運営するということを理想としていました。 それに対し、皇道派は「農民が飢餓に苦しんでいるのに」ということで、財閥を解体させることを理想としていました。これは北一輝・西田税など国家社会主義の思想の影響を強く受けたものです。 例えば三井合名会社の団琢磨を殺した血盟団などは、皇道派に近い考え方といえるでしょうね。 まとめると、 統制派……対中強硬策・財閥と協力 皇道派……対ソ強硬策・財閥を粉砕 といった感じです。 さて、桜会のメンバーはクーデターの協力者として、大川周明などを引き入れていました。財閥とは協力しあおうとしていたようです。 そういうわけで、北一輝・西田税にも声をかけたが「理想が違う」といって断られたそうです。 桜会は(外交関係にはどういった理想を持っていたかはわかりませんが)、少なくとも財閥とは協力するという思想を持っていましたので、統制派のほうになびいたそうです。 ちなみに、犬養内閣発足時に荒木が陸軍大臣となり、真崎も参謀副長となり、皇道派全盛の時代が訪れるのですが、荒木に思ったような改革ができなかったため(荒木は露骨な派閥人事を嫌ったようです)、皇道派内で「荒木は何をやってるんだ」と不満の声が上がり、遂に荒木は軽い肺炎を理由に陸相を辞任しました。後任に林銑十郎がついたのですが、何と林は何を思ったか、統制派の永田鉄山を軍務局長に抜擢。永田は真崎教育総監を更迭するなど、露骨な派閥人事を行います。 皇道派の将校たちは、「林は統制派側に裏切った」と感じたようです。 結局永田鉄山は皇道派の相沢三郎に殺害され、皇道派と統制派の対立は最高潮に達し、ついに二・二六事件が起こったのです。

kaokao7
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 統制派、皇道派はクーデターについての考えだけで区別すべきものではないのですね。 理解しやすくなり大変助かりました。

  • Kohki2666
  • ベストアンサー率23% (5/21)
回答No.1

統制派、皇道派というのは、桜会縮小後に出てきた流れですが、大まかに説明してしまうと、統制派は手段次第では内閣を自身の意図で組閣可能な位置にありました。 つまり、合法的に権力の獲得をする方法が具体的に手の届く範囲にあったわけです。 後の統制派になった人でもそうした手段がない人たちや皇道派でも若手の将校などが暴力的傾向を用いたまでで、どちらの派にも暴力推進者も非暴力主義者もいました。 桜会の隆盛と衰退の流れは、最近新装版で文庫が出ている松本清張の「昭和史発掘」が集大成なので、一読すると流れがよくわかると思います。

kaokao7
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 参考としてあげてくださった本を読んでみたいと思います。

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