• ベストアンサー

貨幣と金融業の発生

人類は昔、狩猟、漁業、採集などをして自給自足の生活をしていました。後にどいういう変化かわかりませんが、物々交換をするようになってきました。その後、貝、石、コメなどが貨幣として使われるようになってきました。その、次に現れたのが、金、宝石などです。そして、お札という流れになると思いますが、お金というものが、存在したということは、貝とかを貨幣にしていた時代にも金融業というものが存在したのでしょうか?貝を貨幣にしていたときでも、貝が取れすぎれば、貝の価値が下がってしまう可能性もありますよね?どのようにコントロールされていたのでしょうか?それとも金融業というのは、もっと後の話でしょうか?また、会社というものは、いつ頃から出てきたのでしょうか?古代から存在したのでしょうか?古代は会社という概念はなく商人が先でしょうか?ご指導ください。

  • 経済
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ajyu7
  • ベストアンサー率55% (142/254)
回答No.1

金融業がいつから、というのは明確ではありません。 歴史を見る限り、おそらく金や銀などの貴金属が貨幣として用いられるようになってからではないでしょうか。 中国では、いわゆる両替商がおり、例えば旅行者は旅行中に重い貴金属を持ち歩くにも限界があるので、両替商に預け、預り証を貰います。 同じ両替商の支店にいって、お金に戻すわけですね。これがある意味金本位制の紙幣の元祖ともいえますし、金融のはじめとも言えるのではないでしょうか。 ヨーロッパではBANKの言葉の起源として、ヴェネツィアの「バンコ」が有名ですが、あれは金融の一種ともいえますが、保険に近いのではないかと思います。 私見では「持ちきれないお金」が登場してからでないと金融業は存在し得ないと思っております。

NIPTUCK
質問者

お礼

ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • pluto002
  • ベストアンサー率22% (73/331)
回答No.2

No.1さんの言うように、明確な金融の誕生の起源というのは難しい気がしますが、近代的な金融を考えた場合、銀行の起源を探ればそれなりの答えが見つかるのではないでしょうか。銀行の起源 で検索すると結構出てきますので参考にどうぞ。

NIPTUCK
質問者

お礼

ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 貨幣経済終焉とニート

    うちの妹(ニート)が言うことには 近々、貨幣経済が終焉し、すると(妹のように経済力がない)自分の時代が来る、と言って喜んでいます。 スピリチュアル系の本をたくさん読んでいる妹は、その筋の方々が、貨幣経済の終焉、崩壊をを予言しているのを信じ、あたかも自分が予言者になったかのようです。 先見性があると言っています。 スピリチュアル系の識者の方々の理論が、信頼性がないとは言いません。 経済の行方が悲観的で、貨幣経済が一次崩壊する可能性は高そうですが、修復する可能性も高いようです。 妹は、糸紬から衣服を作ったり、畑に作物の種をまいたり、ということのできる人が次世代の人だと言っています。 自給自足を声高に叫んでいます。 が、妹が自給自足しているかというと、していません。 ほとんどの消費を親の金で生活しています。 私が、何か言っても、逆に上から目線で説教してくるので、説得などとてもできません。 貨幣経済が終焉し、お金のない世界がやってくると、ニートはどうなるのでしょうか?

  • 通貨と流通量について

    ある地域では、今まで狩猟などで自給自足の生活をしていたとします。その地域では、物々交換が最初に行なわれていました。 しかし、物々交換は、相手と欲しいものが一致しなくてはならないのでなかなか成立しません。 みんなそれぞれが、得意な分野で生産を行なって、それを交換するようになる。たとえば、漁のための道具や船をつくったり。狩りの道具をつくったり。それらと交換をおこなう。 そのうちに皆が認める価値のあるものができて、それと交換するようになりました。たとえば、おコメがそうです、それ自体も使う価値があるモノ。それらとモノを交換して、お金のかわりにするようになる。 徐々にその地域も発展していき、新しい国のようなものができて、その地域で印刷技術やお金を作る技術ができます。そしてその地域の中心でお金を作り地域に分配します。 今まで経済活動がなかった地域で経済も活発になってくる。それを前提で質問があります。まず、お金というものが存在しなかった地域にお金というものを流通させる場合に、最初は、どのくらいの量を作ればよいのですか?どのように量を決めていくのですか? もう一つ聞きたいと思います。もし、新しい国ができたとして、そこで独自のお金(独自の単位のお金)を作ったとします。そういう場合は、どうしたら良いのですか?何か、国際的に表明したりしなければいけないのですか?別のお金を使っている地域と売買を行なう場合は、どのように相場を決めていくのですか? 昔は、ラーメンが30円の時代があったり初任給が3000円の時代があったりとよく聞きますが、それはどのようにかわっていくのですか? ご指導ください

  • 奈良~平安時代 『租』について

    律令制度の始まりに伴い、古代日本では6年ごとに戸籍が作られ、6歳以上の人間には口分田が与えられました。 そして、誰しもが納めなければならない税である、租があります。。 国衙の財源(今でいうと県の財源と同じ)になるということらしいのですが、租というのは米を納めるんですよね。 ・ほぼ全ての人が米を作るとなると、米が余ってしまいませんか? ・私の認識ですと、この時代には貨幣があまり流通していないですし、  基本的に大勢の農民は自給自足だと思っていますが、間違いないでしょうか? ・貨幣が流通していないということは、一部の弓や剣を作ったりしている人々の報酬はお米なのでしょうか? ご回答お待ちしております。よろしくお願いします。

  • 男は狩猟者で女は採集者?

    心理学カテや生物学カテなどでたまに男女の心理の説明をするさいに、古代から男は狩猟をしてきて、女は採集をしてきたから云々、といった説明をする人がいますが、これって心理学的に信憑性がある考え方なんでしょうか。 男は狩猟の役割をしてきたから逃げる女を追い求める、とかオタクやマニアになりやすい、とか、女は採集をして家族を支える役割だったから女のほうが現実的、といった説明はどうにも信じられません。 私は高校、大学で生物学を勉強してきましたが、遺伝学や進化に関する勉強、昔の人間の生活に関する内容の講義などから考えると、たかだか数千年の歴史で中枢神経の行動を司る部位が変化するほどの淘汰圧がかかるとは思えません。上記の男女差については文化や生活習慣、個人差の影響のほうが圧倒的に大きいように思えます。 複数の大学のオタク系サークルを見た限りではサークルのメンバーの大半は女性でしたし、アイドルのおっかけとかいい品物(バーゲンやブランド)を追い求める女性の情報収集能力と行動力とお金の太っ腹な使い方は、そこらの男よりはるかに狩猟者しているように見えますし、男のコレクターの行動を見ていると、お前ら古代から採集ばっかやってきただろ、と言いたくなってきます。 方向音痴な男や、始めていく旅行先で、地図をさらっと見ただけであっさり山奥の目的地に車で辿り着く女性の友人も何人もいます。 私は心理学はあまり詳しくないのでもしかしたら非常に的外れなことを言っているのかもしれませんが、心理学的には男は狩猟者で女は採集者っていう論理はどうなのでしょうか。

  • 三内丸山遺跡の栗林は何故農耕とされないのか?

     青森県にある縄文期の遺跡である三内丸山遺跡では、遺跡の周囲に広大な栗林が存在していた事が判明しており、この栗林は意図的に植林されたものと考えられている様です。  ところが三内丸山遺跡に関して調べてみた処、「NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第4集 縄文 奇跡の大集落」等を始めとして、三内丸山遺跡では農耕が行なわれていたと見做していない情報が幾つもありました。  土地を管理し、植林等によって食用に供する目的で植物を増やして栽培していたのであれば、それは農耕だと思うのですが、何故、三内丸山遺跡の栗林は農耕と見做されないのでしょうか?  後それから、三内丸山遺跡の事を狩猟採集社会と見做す考えがあるという事は、その栗林で収穫される栗の実の量は、人口を支えるのに必要な食料の半分にも満たないものだったと考えられているのでしょうか?  もしそうではなく、人口を支えるのに必要な食料の半分以上を栗林等を始めとする栽培した植物からの収穫物で賄っていたという事であれば、その場合は農耕社会と呼んだ方が良いのではないでしょうか?(尚、食料の過半を農作物で賄っていたとしても、全てを農作物で賄っていない事をもって狩猟採集社会と見做すのであれば、現代社会もまた漁業等の農耕以外の手段によって得た食料も利用している事に変わりはありませんから、現代社会も狩猟採集社会と見做さねばならない事になってしまいます)

  • カルヴァン統治時代のジュネーブの権力のあり方についての質問です。

    シュテファン・ツヴァイク著「権力とたたかう良心」を読んだ上での質問です。 (1)カルヴァン統治時代のジュネーブには福祉施設が存在したようですが、それはどのようなものだったのでしょうか。 (2)カルヴァン自身は生涯にわたって極めて厳格に禁欲的態度を貫いたようですが、カルヴァンの周囲にいる人間(牧師、市当局関係者等)はそこまで道徳的に立派な生活を送っているわけではなかったようです。同書にカステリオンはそのことを知っていたとあります。その中で性道徳について質問ですが、同じ宗教改革期の人間として、ルターは私生児を設けたりしていたようですが、この時代のジュネーブでも愛人を持つことが許されたりする余地はあったのでしょうか。 (3)蓄財を肯定するカルヴィニズムは主に中小の商人、職人の間に広まったようですが、ジュネーブという都市の中で農民として貨幣経済から離れて自給自足の生活を送ると言う選択肢は市民にあったのでしょうか。事実上、職業選択の自由があったかどうかということとも関連します。

  • 日銀のETF購入について疑問があります。

    日銀のETF購入についての質問があります。 私は経済的な分野の知識はほとんど持ち合わせておりませんが日銀が行っているETF,J-REITの直接購入についてどうしても正当性を感じられません。経済活動とは、人々がまだ原始的な生活をしていた時代、生産物(狩猟、採集、農耕等で得られた物)を人々が市場に持ち寄って、自分が持っている物と欲しい物を交換した事から始まり、その後、その物々交換を仲介するいわゆる「貨幣」なるものが、小麦(メソポタミヤ) → 硬貨 → 紙幣へと進歩していったものだと理解しています。つまり「お金」とは生産活動の裏付けがあって生じるもので、これがない刷っただけ(経済的生産活動の伴わない)の紙幣を直接的又は間接的にでも市場投入し、経済活動に寄与させるのはなにか釈然としません。 別の見方をすれば、ETFの購入をどんどん増やせばいくらでも有価証券等の含み益を増大させる事が出来、無い物を有る物にしてしまう事になり、紙幣=日本銀行の借用書の機能を逸脱している事にはならないかと感じます。・・・ ・・・私は素人ゆえ理解や認識に間違いがあるかもしれません。ですので日銀のETF購入についてみなさんがどうお感じになられるかご意見ください。

  • 非現実的な質問かもしれないけど

    なんで、世の中はお金なんだろうねえ。 愛とか正義とか言っても お金が 無ければ、 生きる権利がない (食うことは、おろか、住むのにもお金が必要) なのは、 どうしてか? 愛とか正義 があってもお金がなければ生きることができなく、 この国の官僚とかは、あらゆる悪を働いてでも、 手段を選ばずとも、 お金をあつめようとしている。 哲学は、そもそもこの問題を解決するための学問ではなかろうか 生きる意味を問うことは、本当はどうでもいいはずだ。 だけど、人間の内面を無視して、 貨幣特権主義一辺倒で、 生きるのにものさしをつくるのは、やはり問題だ。 所詮哲学は、お金にならない、 お金に関係ない、 と言われればそこまでだが、 哲学はその難問を解決しなければならない。 お金の問題を放置して、死後の 世界がどうこういうのは間違っている。 (お坊さんが、世の中は汚い。お金が汚い。 とか言ってるクセに、自給自足の生活をせず、 お金で生活しているのことに すごいおおきな矛盾を感じているのは 自分だけではないはず………) そもそも、生きるのに、対価(お金) が必要で、そのために、お金を集めよう とたとえ悪いことでも謀ろうとする のは間違っていると思う。 というか、 もう、世の中全体が、 命を削ってでもお金を集めようとする 風潮がある。

  • 資本主義経済を除く物資交換方法について

    リーマンショック以降、経済の低迷が続いて、ますます貧富の差が大きくなっているように感じます。お金持ちは、今あるお金を他の人に貸す事で、どんどん資産が増える仕組みになっています。どうしてこのような世界になったのかという疑問を感じます。 世界には一日の食べ物が満足に得られない人がいます。 生物の多様性が失われ絶滅していく種が増えています。 人間の可能性が広がりすぎて、自制が効かず、地球環境を破壊しつつあります。 色々問題はありますが、一番身近な生活を営む方法の基礎として、貨幣を交換媒体とした資本主義経済があり、この元にたって、必要な物資を調達しています。 小さなコミュニティを基調とした自給自足生活スタイルがいいのではないかとも思います。 資本主義経済に対する納得できる批評記事、これからの人間生活の仕組みがどうあるべきかのヒントが書かれた文献、ホームページなどがありましたら、教えてください。

  • 「パートナーとの関係」は金融商品よりも扱いにくい?

    「どうすれば,パートナーができるのか?」 このような質問にたいして,わたし自身は,「パートナーをつくること,パートナーとの関係を保つことは,まるで金融商品を扱うようなものである」という考え方にたどりつきました。 そして,多くの人々が「出会い」や,「パートナーとの関係の継続」のために,「多くのお金を費やしている」姿を,わたしはみてきました。そういった「現状」をみていると,「パートナーとはお金で“買う”存在,お金で“操る”存在」だと,わたしは思うときがあります。 パートナーがいる人々は,みずからのパートナーとの関係のために,「たくさんのお金」を費やしていると思いますが,それは,「今までに費やしたお金の総額」に相当するものでしょうか? たとえば,あなたがパートナーに何かをプレゼントしたとき,あなたのパートナーは,そのプレゼントの価値の分だけ,あなたに何か良いこと,あなたが嬉しくなることをするのでしょうか? 参考までに: パートナーとの「出会い」のために,「投資」をする。それは,まるで,先物取引の商品のようなものです。「成功」すれば,いいのですが,「失敗」すると,そのときの損害は大きいものです。カップリングのパーティーなり,合コンなどに足を運ぶにしろ,1回あたり,数千円~10,000円程度の「投資」となります。あなたは,今までにどのくらいの「投資」をして,出会いをつかみとりましたか? さらには,運良くパートナーと出会えたとしても,その後のデートなり,記念日等のプレゼントなど,「さらなる投資」が必要となります。このときの「投資」は,出会いのための投資とはちょっと異なるでしょう。リスクが,少しだけ,低くなるのかもしれません。しかしながら,場合によっては,数万円する商品などをプレゼントすることになるでしょう。ここでの「投資」も,「失敗」してしまうと,経済的にも,精神的にも,「ダメージは大きい」と思います。たとえば,パートナーとのデートにしても,交通費,経費,プレゼント代など,数万円はかかるでしょう。そして,誕生日のプレゼントも,数万円相当のもの(たとえば,ブランド品のバッグなり,ブランド品の装飾品,など)をプレゼントすることになると思います。あなたは,貯金をしたくても,パートナーとの「関係」があるために,思うように貯金ができなくなってしまうでしょう。 「パートナーとの関係」とは,まるで,高リスクの金融商品を扱うようなものです。そして,このように断言することは怖いのですが,高リスクの金融商品よりも,「たちが悪い」のかもしれません。そういった「都合の悪い事情」があるのならば,倫理的にも,道徳観という点においても,大いに議論となるだろうものではありますが,「火遊び(キャバクラなどの特殊飲食店,ソープランドのような特殊娯楽,など)三昧の人生」のほうが,「経済的にもオトク」ではないかと,そのように思ってしまうときがあります。