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自然-相互扶助について

starfloraの回答

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.3

    これは、「呪術的世界観」の話と関連のある話だと思います。呪術的世界観と言っても、それで何かを貶めているのではなく、この世界観も、人間が生きていく上でかけがえのない一つの世界観・世界把握のモードなのです。     それはとまれ、「後悔しながら食べる」とはどういうことか、経験がありませんので、よく分からないと述べます。「食べ物」は貴重なもので、粗末にしてはいけないとか、色々な事物も貴重なもので、粗末にしてはならないというのは、わたしは当然のように、そう考えて来ましたし、そのように行動して来たつもりです。例えば、卵は、スーパーに行くと、20個詰めで、山のように売っていますが、あの卵の大量生産のかげで、狭いケージに閉じこめられ、ただ卵を生むためだけに生かされているような夥しい鶏の生命があるのだと言うことに、遙かな昔、衝撃というか、感銘を受けたことがあります。     感銘というと変ですが、人間は何と自分勝手なことをするのかと、いう悲しみのようなものです。動物の肉などもそうですが、イスラム諸国では、いまでも、食肉用に動物を屠殺する時、クールアンの一部を読むのだったか、何か儀式を行うそうです。また、魚屋の前に並んでいる夥しい魚を見ると、この一匹一匹が、それぞれの生命を持っているのだと感じます。     「いのち」とは貴重なものでしょう。環境保護の問題でも、人間の都合か、野生生物のいのちか、で人間の都合を優先させてしまった結果、環境系の破壊が起こることがあるのですが、人間が、自分たちにとって都合が悪い結果になるので、環境保護とか言っていては、問題の本質が見えていないでしょう。また、「環境保護」という表現に、その傲慢さが出ています。「環境」とは、人間が生かされている場のことではないのか、「保護」とはおこがましいのであり、「環境との調和・共生」というべきでしょう。     仏陀釈迦牟尼も、覚者マハーヴィーラ(ジャイナ教の教祖)も生き物の殺生を禁じました。何故であろうかと考えると、輪廻で繋がっているというより、人間も世界の一つの成員で、世界に生かされてあるという事実を峻厳に受け止めねばならないということなのでしょう。     人と人が互いに相手の立場を尊重して、共に宥和において生きることが望ましいのでしょうし、それは、生き物すべてにも、自然の世界にも通じることでしょう。ただ一方で、人間は「知能」を持ち、他人を騙し、また文明を築き、地球の環境を破壊し、生物を滅ぼし、自分たち同士でも殺し合いをし、戦争などをします。世界貿易センタービルを破壊して、何千人もの人を殺す行為が、神を喜ばせるジハードだとは思えませんし、また、それに報復するに、アフガンに爆弾を落とし、政府を転覆させることも、正しいこととは思えないでしょう。結局、WTCビルを破壊した者たちとどう違うのか、力を背景に自己の行為を正当化するだけに、アメリカの方が余計に悪辣で無慈悲で勝手ではないかとも思います。     わたしは、自分の「死」の客語ができていないです。死は恐怖でしょう。そして、人間の知能による文明の進歩もまた、これも自然=宇宙が内在させていた可能性です。生物の歴史や、宇宙の歴史を振り返れば、弁証法的進歩とまではいいませんが、古い段階の生態秩序が、新しい種類のより複雑な生物によって崩され滅び、新しい生態系秩序が成立したということが、幾度も幾度も起こっているように見えます。自然は、事実として、ダーウィン的な適者生存の原理か、または、目的論的な進化か、何か分からないのですが、「進化」して来た事実があります。      宇宙論的には、わたしの私見ですが、あらゆる生命の生死は、人間の生死も含め、「等価」である可能性があります。この時、わたしたちは、人間が生きていることの事実、その生存のために犠牲としているものの大きさに、戦慄し畏怖するでしょう。しかし、また、宇宙の進化の事実は、人間は、そして宇宙は何を目的としたものなのだろうか、という疑問ももたらします。     生命と知性の普遍的な宥和と、共に存在することの意味が実現される宇宙が訪れるのか、進化とは、そのような宇宙へと宇宙自身が上昇している過程の苦しみなのか。『新約聖書・ローマ人への手紙』第八章22-23で、パウロスは次のように述べています:「22 かつ被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの榮光の自由に入る望みが残されているからである。23 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」。わたしは別にキリスト教の宣伝をしているのではなく、人間中心と考えられるキリスト教のパウロスの手紙の言葉にこのような言葉があることに感銘を受けるのです。ここでいう「被造物全体」とは、神が創造したすべてのもので、すべての生き物が、「共にうめき共に産みの苦しみを続けている」とパウロスは言っているのです。     キリスト教では、あまり生き物の命を重視しません。牛や羊は、人間に肉や皮などを提供するために神が造ったのだというのが一般的な考えにもなっています。そういう傲慢な考えで、野生生物の保護などと言っても、何か矛盾を感じます。     しかし、キリスト教のなかでも、中世のアッシジの聖フランシスコなどは、生き物と親しく交わり、彼が山や自然に行くと、獣や鳥が、怖れることなく彼に近寄って行き、聖フランシスコは野生の生物に囲まれて、花は草のあいだで教えを説いていたという話があります。普通、こういう聖者は、キリスト教では、異端審問にかけられ焼き殺されるのですが、時の教皇は、優れた人物で、広い心を持っていたので、聖フランシスコを支持し、彼が修道会を開くことを許可します。教皇の後ろ盾がある以上、他の聖職者などは不満があったのでしょうが、どうすることもできず、聖フランシスコ亡き後も、フランシスコ会が残り、教皇庁と対立しつつ存続します。     『薔薇の名前』というウンベルト・エーコ原作の映画がありましたが、あの話の背景には、フランシスコ会が主張する、人は「清貧」でなければならず、教会や聖職者こそ、その模範を率先して示さねばならないという主張に対し、各種特権を持ち、大領主のような権力や富を持つ各地のカトリック司教や、更に、皇帝権力とも争う、西欧の宗教的皇帝ともいえるローマ教皇庁は、このようなフランシスコ会の主張は認めることができず、しかし、フランシスコ会が提示する、キリストは財産を放棄せよと教えた、人間は平等だと教えたなどの、『聖書』を読めば、その通りに書いてあることは、フランシスコ会という修道会が主張するのですから、簡単に無視できず、「清貧論争」という議論になり、その最終の教皇側からの回答と、最後の議論が、あの映画の背景の修道院で行われていたのです。     教皇庁は、フランシスコ会の主張を斥け、総長以下代表者をアビニョンの教皇庁に呼び出します。フランシスコ会代表者は、一応アビニョンに行ったのですが、どう考えても、これは教皇庁が、自分たちを逮捕して、異端審問にかけるか、または牢獄に閉じこめて世のなかから消し去ろうとしているのだ考え、一夜にして彼らはアビニョンから逃げ出します。教皇庁は、当時のフランシスコ会指導者を解任し、更に、過激な一派も異端宣告し、粛正します。しかし、フランシスコ会は修道会として生き残り、カトリックのなかで、反教皇庁の最大勢力となって現在に至っています。     何か話がずれましたが、すべての生命のいのちの価値は貴重であり、その生死には宇宙的意味があり、人間もまた、共に、この宇宙的過程のなかで、いのちあり、いのち消え、死して行く者でしょうが、宗教的な話ではありませんが、このいのちの存在の宇宙において、すべては、何時の日にか、甦るのでしょう。「甦る」とは、宇宙の目的の実現だとも言えます。キリスト教が教えるように、「霊肉の復活」を、この「甦る」ということは意味していません。     聖フランシスコのように、空の鳥に向け、また野の鹿に向け、人間を相手にすると同様に、「わたしはあなたである、あなたはわたしである……わたしたちは兄弟なのだ」と語りかけ、生き物たちと共に、この存在の宇宙の目的である未来へと進んで行くのが、一つの理想のありかたでしょう。     単なる食物連鎖の話ではなく、イエズスが述べたように、「太陽の光は、悪しき者にも、良き者にも、変わることなく恵みとして与えられる」という言葉を敷衍して、「太陽の光は、人間だけではなく、空の鳥にも、野の鹿や獣にも、草にも樹にも、変わることなく恵みとして与えられる……」。生きてあること、存在してあることは、ただ、他の存在の犠牲の上にあるというだけではなく、わたしたちもまた何かの犠牲であり、「存在」全体は、互いを与え合いつつ、共に、宇宙の未来へ向けて、生きているのだということでしょう。「存在」は多様な意味で「恵み」であり、すべて、感謝の心は重要なことでしょう。     自覚薄き我らのために、宥和の主よ、恵みと赦しを与えたまえ。  

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