• ベストアンサー

ナルニアとイエス様**

ナルニアの映画が大好きです!! ストーリも構成もすごくシンプルなのに、登場人物一人をみても、武器ひとつを見ても、イロイロな比喩が隠されていて、イエス様の愛や、クリスチャンの姿が深く描かれていますよね*** 比喩の捕らえ方は人それぞれだと思います。多くの人の意見や感想を聞いてみたいので、もしよろしかったらあなたのナルニア話を分かち合わせてください^^

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • masa0000
  • ベストアンサー率36% (462/1265)
回答No.1

エドマンドが白い魔女からもらった「ターキッシュ・ディライト」って本来トルコのお菓子なんですよね。戦時中ですから甘いものに飢えていたとして、キャンデーやチョコレートでもよかったはずなんですが、ここであえてトルコのお菓子を出すあたり、意味深だと思います。 つまり、 白い魔女=トルコ=異教徒 アスラン側=十字軍 と考える事ができませんか?

riehana
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ターキッシュ・ディライト、印象的でしたよね! 私はただ単に白い魔女=サタンととらえていました。 いろいろな見方ができて本当に奥が深いなと思います^^ 大きな喜びと、素直な気持ちを持ってナルニアに入って行ったルーシー。疑いを持ったまま入っていったエドモント、彼が最初に出会ったのは、魔女・・・。私たちはイエス様なしでは、善悪の区別がつかず、サタンに付け込まれ、罪を犯してしまうんですよね・・。 子供のような気持ちを持ち、ルーシーのように喜びを持ってイエス様の友達になりたいなぁ~と思いました**

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • イエスの「山上の説教」について

    新約聖書の「マタイによる福音書」に有名なイエスの「山上の説教」がありますね。 この冒頭で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文にはじまって、同じ形式の文が8回繰り返されています。 最後の(8個目の)部分は、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉です。仮に、この部分がカットされて、冒頭7つの「幸い」だけが書かれていたら、どんな印象を持ちますか? 実はあるテキストで、この8つめがカットされて、最初の7つの「幸い」だけが引用されているのを見つけました。クリスチャンではない編集者によるものです。深読みなのかも知れませんが、最後の「幸い」をカットすることで、テキスト全体の印象を変える意図があるのかしら、と考えました。 必ずしも専門的なお答えを期待しているわけではなく、この8個目の「幸い」がカットされていることで、どのようにテキスト全体の印象が変わってしまうか、などのご感想・ご意見をクリスチャンの方などにお答えして頂けると、大変嬉しいです。もちろん専門的なお答えがあれば、助かります。

  • なぜイエス・キリストを語るのか

      その姿を見たこともなく、その声を聞いたわけでもなく、もちろん出会ったわけでもなく、また実在したかどーかさえ定かでなく、言葉も通じず、生活も文化も我々のものとはまるで異なる遙か2千年も前に、この日本からは地球の裏側にあたる最果ての地に住んでいたとされるある男について、奇跡を起こしたとか神の子であったとか言い伝えられるただそれだけの理由の為に、ただの大嘘つきであったかもしれないその人物について、なぜこれほど多くの人が考え語る必要があるのか不思議でならないと思うのは果たしてこのわし一人であろーか。      

  • イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。

    イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。 よく「神様」とか「神様仏様」と言う人がいますが、それは「イエスキリスト=神様」という意味なのでしょうか?ポストに入ってたチラシ表紙に「神が~~(略)」と書いてありました。 イエスキリストは、実在したのですか?実在したとしたら明確な証拠はありますか? イエスキリストがしたことで、最もすごいことはなんですか? イエスキリストと神様がイコールでないとしたら、神様とイエスキリストではどちらが偉いのですか?またはどちらがすごいのですか? 神って、なんですか?人?神?神って? 私は夫が神様だと決めてます。神様とか宗教に全く興味がなかったのに、よくわからないけど神様って本当にいるんだと夫と知り合って初めて思った、それくらい夫を尊敬してるという意味です。崇拝まではいかないかもしれませんが。 で、そんな、私にとっての神様である夫が、イエスキリストは居たと言っています。キリストはすごいというような事をたまに言います。それから、神様は居ると思うと言います。霊感など全くないですが心霊現象の存在は信じるようです。勿論遭遇したことはないです。私は宗教も心霊現象も全く信じないです。 夫も、無宗教で、むしろ宗教には絶対に頼らないという考え方の人です。 私はずっと前から夫を神様だと思ってますが、上記の、キリストが居たと思ってることを初めて夫が口にした時に、夫を神様だと思ってきたことを話しました。 夫は幼い時からそう思っいるそうです。知り合ってかなり長いですがお互い、宗教に興味がないことはわかってるので、話題にすらならなかったのです。 そういえばクリスマスって、他人の誕生日なだけなのに、なんでお祭り騒ぎなんだろうね、とか、そんな何気ない会話から夫のそのことを知りました。 クリスマスは毎年必ずパーティーやプレゼントしてます。私が、しないとふて腐れるのを知ってるから夫は一緒にクリスマス気分に付き合ってくれます。私がしたくないと言えばクリスマスイベントはしません。 二人とも普通の家庭で育ち今も普通の暮らし、夫の人柄も普通で優しく、友達も多く仕事も普通にしてます。 ただ夫が、幼い頃にたまたまごく近所の教会に、スタンプとお菓子をもらえるのを楽しみに友達と通ったことがあることは、はじめから度々聞いていました。でもキリスト教徒(=クリスチャン?)ではないそうで、それも聞いてました。仮にクリスチャンだとしてもかまいませんが。 教会では紙芝居のような、ノアの箱舟など、子供には楽しかったそうです。聖書は読んだことないそうですが賛美歌はその時少し覚えたそうです。 夫がキリストの存在や神様を信じるのはそれが関係してるのでしょうか。 夫がノアの箱舟やキリスト関係を、信仰?しないまでも存在したのは信じてると知り、ものすごい衝撃うけました。 神様(夫)が信じる神様とは、神様がすごいと思う神様って、どんだけすごい人で何した人か、夫よりすごい人がいるのかと無性に知りたくネットやポストチラシも見てみましたが、頭よろしくないドシロウトの私には意味わからない用語ばかりでした。 かといって教会に行ったら即勧誘されそうなので行きたくないです。 夫にも質問ぜめし、とてもわかりやすく夫なりの解釈で説明してくれましたが、それでも夫以外のかたからも聞いてみたいので、なんでもいいので教えてください。 いつのこと、とか、基本中の基本を、超ビギナー向け子供向けでいいのでお願いします。 夫は、一見キリスト教関係するとは想像つかないようなアニメや映画でも沢山キリスト教関連のストーリーがでてきたりするとも言ってます。 近く私はその(夫が読んだことがある)漫画本を読むつもりです。 まとまりない文章になりすみません。お読みいただきありがとうございます。

  • イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?

     聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為のみを問題とします。  たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。  ▼ (マルコ福音 12:30)  『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。  ☆ そして   ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。  ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?  《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?  《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?  世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。  ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~  6: キリストは、神の身分でありながら、    神と等しい者であることに固執しようとは思わず、  7: かえって自分を無にして、僕の身分になり、    人間と同じ者になられました。    人間の姿で現れ、  8: へりくだって、死に至るまで、    それも十字架の死に至るまで従順でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか?   これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?    要領を得ないのを承知で ひとまづ このように問うてみます。

  • イエスとは人間存在として実在していた。その2

    イエスとは人間存在として実在していた。その2 その1は下記 https://okwave.jp/qa/q10242245.html ーーーーーーーーーーーーーー イエスとは人間存在として実在していた。 イエスという人物の伝承を謎解きすると、イエスというのは史実として実在したことを示唆する論考も可能だ。 イエスを信じる宗教は、イエスが実在した人物なのか、明白な答えを出していない。 信じることですがっている。 イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒だと伝承は認めている。 イエスはキリスト教徒ではないのだ。 イエスの生きた時代のユダヤ人は奴隷だった。 イエスは聖職者として卓越していた。 奴隷のユダヤ人に信仰心を授けた。 現代でも信仰心の忠実な人を人間であると認めることは誰もが了解可能だろう。多少の異論は挟まるかもしれないが些細なことだ。 奴隷階級のユダヤ人を人間だと認めさせるイエスの行いは、「奴隷解放運動」「人権運動」これと似ていた。 そしてローマの治世には悪影響を及ぼす。 イエスは国家反逆罪で処刑。 名目は、残っている伝承だと、古代王の末裔を名乗ったことにされている。 誠実なローマの提督はユダヤ人の訴えで偽物の救世主を処罰したことになっている。 そうした言及が書物に記載されたのは、イエスの処刑からかなり後で、当時を知る者は一人もいなかった。 行政には犯罪者に恩赦を与える権限がある。 ローマは過去に功労が大きかった提督を恩赦する意図で、提督の不手際をユダヤ民族の不手際にすり替えた。 この巧妙な手口では、ユダヤの人として生きて、ユダヤの救済を生涯にしたイエスをわからなくさせる効果がある。 ユダヤ人がイエスを殺したというイエスの意図の真逆を演出する事なのだ。 イエスの後世に成立したキリスト教はイエスの生涯を蹂躙する取引でローマで地位を獲得した。 したがってキリスト教徒とは、イエスを理解してはいけない信仰心に収まった。 イエスの事は彼らにはわからない。 新約聖書編纂前の原始キリスト教の成立はおそらくはこう。 人が人らしく生きる事すらも、無下に蹂躙したイエスの処刑は、古代ローマとその周辺をローマの横暴として震撼させた。 そしてイエスを英雄のように祭る素朴な畏敬から、イエスの故事はユダヤ教徒以外に拡散していく。もしもそうした現象が無ければ、イエスの処刑は単なるユダヤ人弾圧だ。 そうした集団のイエスの意志の継承は「奴隷解放」「信仰心に守られた人間の謳歌」そして「反ローマ」だ。 ユダヤ人を離れて、広域の各部族社会に拡散したイエスの志は、改めて意思統一するために唯一神の概念を必要とする。 反ローマや革命的な意図のある反社会的な集団だから当然弾圧を受けるし、結束が強い半面で排他的だ。 そして治安維持対策をしたいローマの思惑と地位安定を図りたい原始キリスト教の思惑が一致して、編纂されたのが新約聖書。 それはイエスに背を向ける契約書だ。それ以降は言わば、新約キリスト教だろう。 私は単に考察してみただけだけども、イエスの処刑されたいきさつにねじれがあるという前提でそこを組み立てなおすと、人として生きたイエスの人生と、その功績というのが浮き彫りになるからだ。 キリストというのは、今のところ彼らに安寧をもたらすように寡作した、パウロキリストでないか? 私の論考は、イエスがキリストだという前提をいったん外して彼の人生を浮き彫りにしようとする検証だ。 キリスト否定と言われて、趣旨説明に聞く耳を持たない事だろう。 私は考えるんだ、彼らば集い祈る教会で、「我々の元にイエスを返してくれ」そういえばいい。 そして、イエスが彼らの元に戻ったならば、イエスはキリストだと、私も(自分の信仰ではないが)称賛しよう。 イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。 古文書にイエスの姿からは彼を見る者は、彼の姿の背後に神の存在を感じ、成したことに他に多くの人を彼が生きたというだけで救いもしたのだろう。 それは了解している、だから偉大な人物だと承知しているよ。 ------------------ ここまでが個人研究の取りまとめ。 社交的な場では、政治と宗教の話はご法度という慣例があって、哲学の学問カテゴリーはそのど真ん中だから、投稿する時は原則的に喧嘩を売る姿勢なんだよ。 その方が円滑なんだ。 それで、過去の喧嘩腰よりも、だいぶマシな論説を暫定的に組み立てています。 その1で、論説の甘さが多数指摘されました。 まあいいんだよ。浅学な私なりにパズルを解こうとしたんだ。 そして、現時点の完成度で思うところもあるのです。 特に「イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。」これは、キリストの再臨という予言めいた示唆と符合可能で、パウロキリストの陰謀で2000年間の新約キリスト教は迷走し、結局はイエスだけがキリストなのだと、さらに深くかみしめるヒントになるだろう。予言としてつじつまも合うのだ。 単なる親切心で、彼らの内部からは出てこない助言をしているんだよ。 私はキリスト教徒でないから、改革をしようとしないし、布教もしない、教祖になりたくない。 そういう趣旨で遊ぶ「おもしろ娯楽読み物」なのですよ。 すぐさま喧嘩になるとも思いましたが、キリスト教徒というのは、むしろこの娯楽でうわさ話に花盛りになる傾向があり、実は大好物なのではないか? そのように思いなおしました。 それで、その2で現時点の取りまとめをして仕切り直ししています。 喧嘩腰は学問カテゴリーの特徴なので、上品な解答だけしてくださいとか、そこいらのヘタレみたいなことは言いませんよ。 この先にも、個人的に思案を続けたいので、新着ネタになんでもいいから助言してください。

  • 「がさつ系」について

    最近、男性が嫌う異性のタイプとしてがさつな女性が挙げられていますが、 具体的にはどういった人物像が嫌われるのでしょうか。 皆さんが嫌いなタイプとして「がさつ系女性」を挙げる時、 どういう人の事を思い出しながら答えるのかを教えて下さい。 (ドラマや映画などの登場人物に例えるのでもいいです) また、少年漫画などのヒロインには割とがさつなタイプも登場しますが、 あのような女の子も感想としてアウトだと思うのでしょうか?

  • 暇な方 ジブリ作品

    こんばんはo(^-^)o ふと、疑問に思った事ですが答えて下さる方がいらっしゃるのを期待して質問させて頂きます。 ジブリ作品で、多くの作品において「女性」の姿が描かれていますよね!? その中で 「自分はあの人みたいな女性になりたい」 「私はあの人みたいな女性に近い」 「あの人みたいな女性が大好き」 「あの人みたいな母親に憧れる」 「小さな頃は似たような子供だった」 な~んて登場人物、居ますか? 容姿や人間性も魅力的な人物ばかりで、一度くらいは憧れたことがあるのではないでしょうか(^_^)? 皆様の憧れた人物、私にも教えて欲しいです(^O^)

  • ボーンアイデンティティについて

    映画「ボーンアイデンティティ」の感想を教えてください。 ・印象に残ったシーンとその理由 ・この作品を見て感じたこと ・気に入った登場人物とその理由 の三点を教えてほしいです。

  • イエスは死の7日後に復活したという故事

    イエスは死の7日後に復活したという故事 あ~あ、世の中とはくだらない。 キリスト教の教会で入信を認めるのは、日本の場合はコノ「イエスは死の7日後に復活した」というのを、信じて一切疑わないことだそうだ。 他国のいきさつは知らんけども、日本ではこのバカげた話を信じると、宗教にその人の人生の全てがむしり取られる。 私が何故馬鹿げていると思うのか、納得できる説明をしよう。 現代の心理学の研究者が、患者から相談を受けた事例で、老夫婦で伴侶に先立たれた片割れが、伴侶と生前を過ごした寝室で寝ていると、生前の伴侶をありありとその目で目撃して驚くのだそうだ。 こういうのは心理学では、睡眠状態で記憶の整理をするときに、人生の多くを共に過ごした伴侶をありありと思い出す。そして睡眠から覚醒の途上で一定の条件が整うと、記憶の中の伴侶が、現実にまだ、その場にいるような克明な体験をする。 この世とあの世の接点という奴だよ。 現代ではこういうことは医学的に了解されている。 イエスはそれと関連すると考えると合理的だ。 こうだ、 「イエスは死の7日後に復活した」というのは、生涯を共に過ごした伴侶と同じ、あの世とこの世の邂逅を証言した記述で、要するにそうした人物は、自らが生きることが十字架にかかったイエスと共に生きることであるというほどに、イエスを深く理解して、自分の生涯でイエスがともに寄り添っていた。 このイエスを理解しているという事が重要だが、だからこそキリスト教の信仰心を試す、うってつけの命題になった。 だから、この故事を信じるならキリスト教徒だという事だ。 私の場合は、こうして納得できる説明をしているからには、自分でもこの故事を信じていない。 理解しているからだよ。 したがって私はキリスト教徒ではない。 こういうのも哲学カテゴリーの知的ゲームになりえて、じゃあ信じる条件とは何かご回答ください。 こうした哲学を先に進めるための助言になりますから、お互いにとても有意義です。

  • 小5の娘が指輪物語で読書感想文?

    小5の娘が2年程前から「指輪物語」にハマり、もう何十回と9巻を読み、追補編や映画DVD、サントラまでのハマりようです。(フィギアには興味なし^^;) 「今年の夏休みの読書感想文に『指輪~』で書きたいねんけど、枚数2枚程度やし、うまく考えがまとまるかな~」とか「9巻ある話だけどタイトルはどうしたらいいの?」とか「王の帰還から書いてもいいの?」とか、過去私は課題図書1冊で無理矢理2.3枚埋めてたタイプなので、「共感できるとか憧れてる登場人物について思った事、書けばいいのでは?」という事しか言えず、すると「好きなのはエオウィンかファラミア(主人公より脇役かい!)サムもいい味出してるし。2、3枚で収まるかな?」と。指輪物語は感想文を書くには不向きなのでしょうか?長編好きの娘なので、第2希望はハリポタ、第3希望はナルニア。。。よろしくお願い致します。