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全能の神は 難問を解けるのか?

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.26

> みんなそうやって 自分の聖人様や 神様や 教祖様が正しいと思い込んじゃってるから 戦争になるんですね よくわかりました。  戦争を回避する手立ては OOをしなければならないということを作らない事ですよ。   ということですが、  戦争とはいうまでもなく国と国が武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望(エゴ)のみを充たそうするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒による場合があります。これを瞋恚(しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。その外に高慢心や猜疑心が争いのもとになることもあります。  国家間の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有している貪瞋痴(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑を加えた五悪心の作用に起因します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法といって、劫濁(時代・社会そのものの乱れ)、煩悩濁(苦しみの原因となる貪瞋痴などの迷い)、衆生濁(人間の心身両面 にわたる汚れ)、見濁(思想の狂いや迷乱)、命濁(生命自体の濁りや・短命)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われる時(闘諍堅固)と予言されています。  たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。これらの社会問題が貪瞋痴の三毒という単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから表面 的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。  「信じる」ことが、エゴであり、勝手に自宗を正しいと思い込んでいるから争いが起こるという判断は、戦争を表面 の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相を正し、仏法によって浄化し、一切衆生悉有仏性(誰人も仏になる可能性をもった尊い存在ということ)自利利他(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通 の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽を厳格に区別 し、選択しなければなりません。  私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想を平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。  あなたの意見は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益だと非難しているようなものです。  本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。

chihoko
質問者

お礼

●あなたのあげられた 戦争の要因(個々人の争い)はまちがっています。  あなたのあげられた要因はこぜりあいの要因です。  命をかけた争いの要因は愛なのです。愛とは自分の命を投げ出してでも対象を  護ろうとする感覚系の感情です。戦争とはこの感情を巧みに用いる政治手段です。  争いとはその愛する対象が相違することにより起こります。  あなたのあげた争いの要因はバカのやることで防げます。  しかし愛という感覚系の感情を諌めるのはほとんど不可能です。  だから戦争を無くすには愛を無くすかその対象を無くすかしかないのです。  愛は本能でなくせません。  だから対象を無くさなければなりません。  もしくは 対象が他国家と干渉しないようにするしかないのです。  ↑このような観点からOOをしなければならないということを作らない事  といっているわけです。  OOをしなければならないと思うことは すでにそのことを愛しているのです。  そしてそのOOをしなければならないを 他人のこころに強要することが  争いの種となるのです。争いをおこしたくないのであれば強要しないこと。  OOしたほうがいいとおもいます。くらいにしてシツコクしないことです。

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