• ベストアンサー

「乃の」の読み方は?

 「過去十年間の仏教界」(桑木厳翼)に、次のくだりがあります。 「これらの人々は我を発見しようとする努力の結果、我を立てる傾向を生ずる。乃て社会の監督整理の任に当る者は、これらの主我思想の運動を監督することが…」  この文中の「乃て」は何と読むのでしょうか。  因みに漢和辞典によれば「乃」の字義は  (1)すなわち、やむなく  (2)なんじ  (3)これ  (4)それ  (5)それがし  (6)その  (7)…の などとあるのですが、「乃の」との関係が推測できません。  宜しくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • dddluiddd
  • ベストアンサー率68% (42/61)
回答No.2

「カクて」だと思います。

Dauphin
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「かくて」という読み方も考えてはみましたが、広辞苑によれば「かくて」は「斯くて」とあることから、「乃て」の読み方がますますわからなくなったという次第です。 「かくて」が正解ということですね。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • garamond
  • ベストアンサー率53% (1119/2111)
回答No.3

#1です。 #2さんの回答に教えられました。 最初の回答は取り消します。 旧版の『大字典』(上田萬年ほか、啓成社)に「そこで」「かくして」とありました。 #2さんの「かくて」が正解だと思います。

Dauphin
質問者

お礼

再度の回答、ありがとうございます。 「かくて」という読み方も一応考えてはいましたが、広辞苑には「かくて」は「斯くて」と掲載されていることから、「乃て」の読み方がますます分からなくなったという次第です。 >旧版の『大字典』(上田萬年ほか、啓成社)に「そこで」「かくして」とありました。 いろいろ調べて頂きありがとうございました。 これで納得いたしました。 私が使っている「角川漢和中辞典」には、このような読み方というか、字義は掲載されていませんでした。大変参考になりました。 それにしても、明治・大正時代の措辞は難解です。(^^;

  • garamond
  • ベストアンサー率53% (1119/2111)
回答No.1

タイトルと質問の最後は「乃の」とあり、引用文とその直後には「乃て」とあります。 どちらなのでしょうか? 後者として臆測すれば、 「仍て」(「よりて」「よって」)=「だから」「それ故」 の誤りということはないでしょうか?

Dauphin
質問者

補足

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