• 締切済み

言葉の変遷にどこまで納得できますか? ~主格を示すのに用いる「の」について~

現代では主格を示すのに用いる助詞は「が」ですが、助詞の「の」を主格を示すのに用いる助詞として用いるのは納得できないと思っています。例えばこんな風に使われています。 例:人の表す感情が・・・。 「の」は終助詞や準体助詞として用いる以外は、連体修飾するために用いるのが自然だと思うんです。しかし助詞の「の」を説明するホームページをいくつか見ると主格として用いる用法が書かれています。つまり「の」を「が」に置き換えても意味が変わらない用法だということです。 主格については、昔(アバウトですみませんが^^;)は現代とはちょうど逆で連体修飾するために用いるのが「が」で、主格を示すのに用いるのが「の」だったらしいですね。 例:オラが町 「の」を主格を示す助詞として用いるのに納得できない点を簡潔に言うと、 「人が表します。」は自然に思えるけど、 「人の表します。」は自然に思えないということです。 先の例で挙げた「人の表す感情が・・・。」で言うと、「感情」という言葉を「人の表す」という文節が修飾して新たに大きな主語である「人の表す感情が」を作っていると思うのですが、それだと「人の表します。」という文章もOKだということになりますよね。でも実際はそのように、名詞+の+用言+名詞という形の場合だけ、「の」を主格として用いているようです。つまり「人の表します。」という文章は、「の」を主格として用いている人も自然ではないと思っているということですよね。そしてそれは、「が」を主格を示す助詞として用いている現代では、言葉によくある例外・変遷だと思います。 ちょっと前は「全然+平叙文」が納得できないとかで話題になりましたが、この例外・変遷をみなさんは納得できますか? またはどう思いますか? 僕はとても納得できません!!

  • DMIM
  • お礼率54% (65/119)

みんなの回答

回答No.3

NO2です。主語のとらえ方ですが、主語というのは述語動詞があって初めて なりたつものです。しかも文としてきちんとしたものでなければなりません。例えば「私の買う本」というのは文といえません。「私の本」が文でないのと同じ理屈です。両方とも語句にすぎません。語句の中では主語の資格は与えられません。「私の買う本が見つからない」としてはじめて文となるのです。この文の主語は「私」ですか。そうではないでしょう。「本」が主語ですね。「の」は「私の本」のことであり、所有を表す「の」と考えるべきです。決して主語を表すものではありありません。 「人の表します。」は自然に思えない・・・ ということですが、当然のことです。それはここの「の」は「が」とちがって主語を表すものではないからです。 「人の表す感情が・・」であれば自然な言い方になります。 「人の言うことはよく聞くものです」の言い方は極々自然な言い方ですね。 少しもおかしくありません。

DMIM
質問者

お礼

millennium-manさん、回答ありがとうございます。 思ったことや考えたことを正直に書きました。 途中の(1)や(2)は最後に読むと良いかも知れません。 主語のとらえ方ですが、主語というのは述語動詞があって初めてなりたつものです。 → はい、僕もそう思います。 しかも文としてきちんとしたものでなければなりません。 → ・・・はい、僕もそう思います。 例えば「私の買う本」というのは文といえません。 → はい、僕もそう思います。 「私の本」が文でないのと同じ理屈です。両方とも語句にすぎません。 → はい、僕もそう思います。 語句の中では主語の資格は与えられません。 → (1)へGO!! 「私の買う本が見つからない」としてはじめて文となるのです。 → はい、それは文だと思います。 この文の主語は「私」ですか。そうではないでしょう。 → はい、僕もそう思います。 「本」が主語ですね。 → はい、僕もそう思います。 「の」は「私の本」のことであり、所有を表す「の」と考えるべきです。決して主語を表すものではありありません。 → (2)へGO!! 「人の表します。」は自然に思えない・・・ということですが、当然のことです。 → はい、僕もそう思います。 それはここの「の」は「が」とちがって主語を表すものではないからです。 「人の表す感情が・・」であれば自然な言い方になります。 「人の言うことはよく聞くものです」の言い方は極々自然な言い方ですね。少しもおかしくありません。

DMIM
質問者

補足

(1)・・・僕が質問文では「新たに大きな主語」と、millennium-manさんの回答に対するお礼では「文全体の主語」と言葉を変えて部分と全体の主語の考えを言っているのにmillennium-manさんはずっと「主語」「主語」ですから、僕の考えを受けて回答してくれているのか疑問に思ってしまいます。 しかしもうわかったと思います。僕が言っている「部分で見た主語」のことをmillennium-manさんは主語ではなく主格だと言っているのでしょう。 一応最後の言葉(説明)の言い換えをします。文が他の文中の語句を修飾するというのは納得できますか? 「人が表す」は文です。「感情が重要だ。」も文です。「感情が重要だ。」という文の「感情」という語句に対して色々修飾できますよね。例えば「乱れる」という品詞(動詞)で修飾できるし、「人の」という文節でもできるし、それに「人が表す」という文でもできます。「人が表す」という文では「人が」が主語だし「表す」は述語です。その文が修飾した後の文では「人が表す感情が」が主語だし「重要だ」が述語です。つまり「人が表す感情が重要だ。」という文には文全体で見た主語もあるし部分で見た主語もあるということです。その考えを「新たに大きな主語」や「文全体の主語」という言葉で表していたんです。 (2)・・・連体修飾の他の例。「僕の壊れた時計」 その例はmillennium-manさんがNo.3の回答で言った、所有を表す「の」の他の例です。なぜそうだと断定できるのかと言うと「の」が主格を表す助詞だとすると「僕が壊れた」+「時計」という構造になって、理解できない文だからということがひとつです。つまり「僕の壊れた時計」という文の構造は「僕の」+「壊れた時計」なのですが、ここでもうひとつの重要なことが「壊れた時計」は「時計」が「壊れた」という主語・述語の関係が基だということです。 ここでmillennium-manさんが例として挙げた「私の買う本が見つからない。」という文を見てみると、millennium-manさんは「私の本」を基本として「本」に「買う」が修飾した形、つまり「私の」+「買う本」だと言っていますが、「買う本」は、本が買うという主語・述語の関係が基になっていませんよね。「買う本」と言いますが誰が買うんですか? もちろん「私」がですよね? 「私の」+「(私が)買う本」を普通、「私が買う本」と言うと思うんですがね・・・。 最後に、前も今もこれくらいの文章の量ですし、よく考えてなるべくまとまるように書いています。 僕は「人の言うことはよく聞くものです」を実行しているつもりですよ?

回答No.2

先ず主格のとらえ方ですが質問者さんは主格とは主語を表すものと思っていませんか。主格がそのまま主語に結びつくとは限りません。主格とは主体とも言います。 例:人の表す感情が・・・ の語句でいいますと「人」が「表す」の主格でありありますが主語ではありませんね。それでは「人が表す感情」のように「の」を「が」にした場合、 「人が」が主語になるかといえば言えません。なぜかといえば「表す」というのは連体形で「感情」の修飾語です。主語に対する述語ではないからです。 「人の表す感情が・・・」の例で「・・・」の部分はどのように書かれていましたか。仮に「人の表す感情がよく描かれている」という文で、主語は「感情」であり「人」ではありません。「の」を「が」に変えて「人が表す感情がよく描かれている」にした場合も同様で「人」が主語にはなりえません。「感情が」または「人が表す感情が」が主語です。 「人の表す感情・・・」の「の」は「表す」を飛び越えて「人の感情」と考えればわかり易いのではないでしょうか。「表す感情」「人の感情」のように「感情」は二重に修飾語を伴っているということができます。 重ねていいますが 「人の表す感情・・・」の「人」は「「表す」の主体(主格)であり、主語ではありません。「表わす感情」の主体(主格)ともいえます。

DMIM
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 millennium-manも特に不自然には感じないし納得できるということですね? 『「人の表す感情が・・・」の語句でいいますと「人」が「表す」の主格でありますが主語ではない』ということですが、確認したいのですが、部分で見た場合僕は主語だと思います。 「人が表す感情が・・・。」についてですが、僕もmillennium-manさんも「人が表す感情が」が文全体の主語だと考えていると思うのですが、その主語だけを見ると「人が表す」+「感情が」で、「人が表す」が「感情」を修飾していると思います。そして「人が表す」の「人が」は主語で「表す」は述語だと思います。 『「人の表す感情・・・」という例で、「表す感情」「人の感情」のように「感情」は二重に修飾語を伴っている』という説明ですが、前に『「人の表す感情が・・・」の語句でいいますと「人」が「表す」の主格であります』とも言っています。じゃあ「人」が「表す」の主格なのにどうして「感情」に修飾するのでしょうか? おかしいと思います。 もし「人」が主格として「感情」に修飾するのだとしても「人の感情」という言葉は、「人」が「感情」で定義される形になって意味として「人が感情」つまり「感情である人」ということになりますよ? でもそれってみなさんが言おうとしていることではないはずです。こういうことからも「の」を使うのは納得できないです。 『「人の表す感情・・・」の「人」は「「表す」の主体(主格)であり、主語ではありません。「表わす感情」の主体(主格)ともいえます。』ということですが、主体を示すための助詞は、みなさんには2種類、「が」と「の」があるんですよね。「人」が主体だというのなら例えばなぜ「何かを人が表します。」は見るけど「何かを人の表します。」は見ないのでしょう? まあ、連体修飾句の中ではないからでしょうが、さらにそれならなぜ連体修飾句の中だけなら主体を表すのに「の」も使うのでしょうか? 強く言えばおかしいと思っているけど、生き物に喩えられる言葉についてはひかえめにして、納得できない^^; 納得できないと思っている人は本当にいないんでしょうか^^;

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.1

「の」に関する以下の2つの性格から説明できると思います。 1.何故、「人の表します。」はおかしいか? それは、「の」が主格を表すことができるのは、「連体修飾句」の中のみだからです。「人の表す感情」は、感情を連体修飾しているのでOK。しかし、「人の表す。」は連帯修飾していないので不可。同様に、「私の好きな藍ちゃん。」はOK。「私の好きだ。」は不可。 2.主格を示す「の」と「が」はどう異なるか? もともと、「の」には、体言を修飾する性格が強いので、主格を示す場合にも、その性格が残ります。一方、現代文の「が」には、体言を修飾する性格は希薄です。具体例では、以下のとおりです。 「人の表す感情」の場合、「人の」は意味的には「感情」を修飾する性格が残っています。そのため、「人」と「感情」が結びつけて、「人の感情」という表現が可能です。一方、「人が表す感情」の場合は、「人が」には、「感情」を修飾する性格がありません。このため、「人が感情」という表現もあり得ないことになります。あくまで、「人が表す」+「感情」という統語関係になるわけです。 ☆なお、変遷という視点で考える場合は、本来、「助詞の機能」は文脈の中で発揮されること、そして、逆に、文脈は「助詞の機能」に意味的な反作用(揺らぎ)を与えることを考えれば、歴史的時間の中で、機能の綱引きが行われるものと思われます。「の」や「が」の役割が、時代と共に微妙にずれてくるのは、そのような文脈の中での生き物としての助詞の宿命と思われます。

DMIM
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 特に不自然には感じないし納得できるということですね? 「の」が主格を表すことができるのは「連体修飾句」の中のみというのが、「が」を主格を示す助詞として用いている現代では例外だと思うのですが、僕はその例外が納得できないんですよね。 「意味的に修飾する」というのは初めて聞きました。把握しやすくなりそうです。 「の」を用いる心理について僕が思うのは、先の例で挙げた文で言うと、「人が表す感情が重要だ。」等となると、「が」が近くで2回出て文が間違っているのではないかと思って「の」にしたり、「が」より「の」の方が音の響きがなめらかで良いから「の」にするのかなと思います。 それに人は他の人が話したり書いた文を基に自分も話したり書いたりすると思うので、文の構造などを考えたことがないと、自然さや不自然さを感じないでそのまま使うのかも知れません。2年前に僕が書いた文章を見ると「人の表す感情が・・・。」みたいに使っていましたから。 後、僕が納得できないレベルを言うと、「~のない・ある」がぎりぎり納得できないレベルで、「~の形容詞・形容動詞」はその次で、「~の動詞」が一番納得できないです。

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