観念失行とは?観念運動失行との違いについて

このQ&Aのポイント
  • 観念失行と観念運動失行の違いについて解説します。
  • 観念失行は道具を使うことができず、模倣もできない状態を指し、観念運動失行は道具を使えない状態を指します。
  • この場合、言語聴覚士の評価は「観念運動失行」となりますが、観念失行との違いについては詳しい解説が必要です。
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観念失行では?

観念運動失行と、観念失行についてきちんと判断できなければならない…といわれ、ビデオ評価をする講義を受けました。 そのとき、机上にポット・急須・湯のみ・茶葉があり、言語聴覚士が「これを使ってお茶いれてみて」と言いましたが、実際にはできず、模倣も促しましたができませんでした。 その状況で「観念失行」と評価したのですが、回答は「観念運動失行」だというのです。道具を使うので、観念失行だと思ったのですが…。 後日、どうしてもわからないので出題した先生(言語聴覚士)に聞きに行くと「解説したときに聞き来なかったんだから、もう教えない」と言われました。昨年まで現場にたたれて有名な先生なのですが…。 観念運動失行と観念失行の違いは、道具を使う・使わない以外で評価するポイントというのはあるのでしょうか?

  • 医療
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  • ez2ntz2
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回答No.1

そうですね、道具を使えば、「観念失行」ですよね。 下記参考まで。

参考URL:
http://www.mars.dti.ne.jp/~shigerus/pages/know/neurol/apraxia.html
ron_hiro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。そして参考HPまで…。 やはり観念失行でよかったのですよね。安心しました。 本当にありがとうございました。

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