• 締切済み

自己と他者について

現代社会について思うんですが、いよいよ 今世紀も終わりに近づくなか、I.T革命だの 叫ばれてはいるけれど、自己と他者との対話 がめっきり減り、自己と他者が、ますます 不透明になっていくような気がするのです。 20代のわたしですら、今の十代は、他者 との対話がないがゆえに、例えば、「人を 殺してみたかった」などと発言しているのでは ないでしょうか?これは、ばかなマスコミが 言っているように、単なる想像力の欠如では ないとおもうのですが・・・・。

みんなの回答

  • KomiyaYui
  • ベストアンサー率29% (7/24)
回答No.10

建て前で強調するべき小規模な共同体の『外部』に対しまして、 日本語では、【三人称命令形】を使える様になっているそうです。 従いまして、身近な環境の下で「建て前」の価値を学べていませんと、 仰る通りに、攻撃的な本音が増徴されやすくなるかも知れませんね。 実際に、米国では「建て前」の価値が軽んじられやすいせいで、 裁判沙汰が多くなっているらしいです。

  • rene
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.9

必ずしも相手を理解できないとは思いません. メルロ=ポンティは,赤ん坊が自分の母親が自分の母親と判別できる前に, 母親が笑ったら笑い返す,ということに注目しています. 独我論に陥った場合,相手は決して理解できなくて, 自分がそう思っているに過ぎないとするのでしょうが, メルロ=ポンティのように間身体論なら, 互いが理解できる可能性がある,ということです. よく体育祭や文化祭などで一体感を覚えると言いますが, その時点で他者の一部を相互に理解していると言えると思います.

回答No.8

自己を考えた場合、かならず他方に他者の存在があります。 自己の存在を価値あるものと考えるならば、同時に他者の存在も価値あるものと認めることが自己を認識する上で欠かせないと考えます。なぜかしら、今現在起こる犯罪等のなかで、マスコミが過剰な演出をした言葉なのかはよくわかりませんが、『人を殺してみたかった』などということを罪を犯したものが言っているとしたならば・・・他人の価値を認めていないことになります。ということは、自らの価値もないことになります。自己を認識できていません。自己の喪失です。犯罪をおかしてしまったとしてもなんら不思議ではありません。その罪をおかしたものにとっては他者は喜びも哀しみをもつ生き物ではなく『モノ』としか考えられないのではないでしょうか?罪を犯すものがなぜ?他者の存在を認められなくなったのか?犯罪を犯してしまった者がこれまで歩んできた中で、自分の存在価値を他者より否定されてきたのかもしれません。それが心のゆがみとなって屈折したかたちで表にあらわれ他人を傷つける結果となっているのではないでしょうか?何気ない一言がいともたやすく他人の価値をも否定してしまうことあります。価値のない存在などないのです。すべての人に価値があるのです。他人を否定・拒絶してしまうことは簡単です、しかしながら自分以外の他人を認め価値あるものと思うこと大事です。

  • yabunaka
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.7

相手を他者としてとらえると言うことは単に無関心になるとか隷属敵対度を取ると言ったことではないと思います、相手ととことんつきあっていく中で自分から独立した他者としての相手が見えてくると思います。無関心なのは他者としての相手を認めているのではなく値相手が見えていないのです。だって相手と向き合っていないのに自分から独立した他者だなんてわかるはずないですからね。このようなプロセスを経て他者としての相手が見えてきたときには自分もずいぶん実現していることでしょう。このことも無関心隷属からは出てこないでしょう。他者は自分も生かしてくれる存在であるはずです.もちろんそれはなれ合い別田利のおつきあいから出てくるものとはちょっと質が違うと思いますが

  • hish
  • ベストアンサー率100% (3/3)
回答No.6

 自分と他人のコミュニケーション形態について以下のとおり考えてみました。ご参考にして頂ければ幸いです。  インターネットや携帯電話による掲示板、メール等でのやりとりでは、情報的には書かれた文字列がすべてです(絵文字等で補完することもありますが)。  それは本や手紙などの情報伝達手段も同じです。  その内容の解釈は、読み手(受手)が頭の中に持っている情報、つまり、それまで育った環境や経験によるところが大です。  書いた人の意図というのはもちろんありますが、その意図と全く同じく読んでもらえるということは期待できません。  人間として(日本人としてといった方がいいかもしれませんが)、同じ文章を読んで共通に思うことしか伝えることはできません。  逆に読み手は書かれた内容を自分勝手に読むことができます。  また、目の前に相手がいないので、自分が発したことに対してどんなレスポンスが返ってくるか、自分のここはおかしいかなぁということに対する自己フィードバックといいますか、配慮はあまりしなくなるかもしれません。  一方、実際に目の前に相手がいて会話する場合(以下「対話型コミュニケーション」とします)では、音声で文字情報と同様の情報を伝えますが、それ以外にも、言葉の抑揚、目線、表情、身振り手振り、話されているシチュエーション等からより多くの情報が伝わります(伝えることができます)。  何より、目の前に相手がいますから、相手の反応というのを逐一気にして、自分の次の言動、行動にフィードバックしていると思います。(あるいは無意識的も影響を受けていると思います)  質問者の懸念を私なりに要約してみますと、  対面型コミュニケーションの機会が減少したり、または自ら逃避してしまうと、上述のような言葉以外で伝えられていた(伝わっていた)情報が伝わることがなくなってしまう。  そうすると、自分の外から入ってくる言葉だけを自分の頭の中で勝手に解釈、判断して自分の世界を作ってしまう。(脳内に経験として情報蓄積してしまう)  その結果、各個人個人が他人との対面型コミュミケーションを通じて、他人の顔色なども見ながら自分の行動の妥当かどうかいうチェックをしていたのが、その機会がなくなることにより自分の行動の制御がきかなくなり、皆が思っても見ない社会的に逸脱した行動をとってしまう。  以上のような傾向が社会の各構成員たる日本国民の多数を占めた時、対面型コミュニケーションを通じて創発的に形成されていた社会的な自己統制機能が不能となり、大規模的な問題が生じてしまう。  ということでしょうか。  ご懸念はごもっともです。  本来、人間は集団で生きていく社会的動物であり、「他人は関係ない、自分は1人でやっていける」などといって生きていけるほど強い存在じゃないと思ってます。  だから、初めに生で対面することなく自分と気の会う人を探すことができる出会い系サイトが流行っているんでしょうし、場合によっては、そこで気の会った人と直に会うまでに発展するんでしょう。  皆が、対面型コミュニケーション自体を全面否定しているものではないといえます。  多分、学校なり仕事場なりの閉鎖的で束縛的な空間内で半ば強制的に対面型コミュミケーションを強いられているのが嫌なんじゃないでしょうか。少なくとも自分はそうです。  翻って、このgooの質問コーナーは、電子情報のコミュミケーションにもかかわらず、相手の気持ちをおもばかって親切に回答・助言したりして、思いやりのあるコミュニケーションの場としてうまく機能していると思います。  むしろ、実際の生のコミュミケーション方がぎすぎすして、表面上の付き合いしかないといったことがあるんじゃないでしょうか。  私としては、先の出会い系サイトじゃないですけど、各人が潜在的に生のコミュミケーションを求めている状況があれば、他人をとことん無視して何かしようという気運が社会全体まで広がってしまうというところまでには至らないんじゃないかと楽観視してますけど。。。  確かに、時代の趨勢は、生の対面型コミュニケーションより、より精神負担、緊張感を伴わない電子媒体によるコミュニケーションへと比重を移しているかもしれません。  しかし、肝要なことはそのコミュニケーション時の紳士協定みたいなルールが自発的に管理主義にならない程度に形成されること。  そして、伝える情報は文字情報でも例えば小説のような情景や心の動きが分るような文体、それでも足りなければ画像などの視覚にうったえる手段を通じて、単なる文字情報列でしかない無味乾燥なものではなくて、豊かな情報統合型コミュミケーション手段を発展させていくことじゃないでしょうか。  皆は情緒豊かで生っぽく、かつ、気楽なコミュミケーションを求めているんじゃないでしょうか。 

  • buraian
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.5

僕は、「他者自体が本来全く不明な存在ではなかろうか」 と思うのです。 他者が不明であるのは、例えば言葉の問題について考えて みた時によく理解されるのではないのでしょうか。 言葉は極めて不透明なものです。言葉で何かを伝えようと する時、100%は伝わらないものなのです。もし、100%伝 わるのであれば、僕らは心理学や精神分析学を学ばなくて もいいのです。文学作品の多くは、複数の読み方が為され ています。それは言葉が決定的なひとつの意味を持ってい ないからなのです。だから、同じ日本語を話す僕たちの会 話だって同じことで、互いに完全に理解しえないのです。 だとすれば、僕らはお互いに理解しあえないということに なるでしょう。しかし、僕らは「理解しあえない」ことに 気付くことはできます。そして、僕らはその事実をできる 限り受け入れようと努力できます。或いは、理解不可能な 存在があるのだという意識を常に持つことはできます。 そのことをもう一度考えてみてはどうでしょうか。

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.4

補足読みました。 >良い意味で進化なのかよくわかりません 良い意味も「含めて」のということです。 要は村社会からの脱却という意味からです。 例えば江戸時代の農民なら、自分の村が存在の全てで知識として、領主や幕府のことを知ってるぐらいでしょうか。 しかし現代では、その世界はもっと大きくなっており、知識としては世界中がその範囲に、そしてインターネットを使えば外国の人とでも容易にコミュニケーションがとれます。人間の認識能力の限界として、どうしても情報としてしか置き換えられない部分もありますが、それでも私は昔よりもはるかにマシになってると思います。 >君とぼくとの関係ではないことです。 世の中に親友と呼べるほどの存在になるのは、そんなにいないと思いますよ。 >遠いところのものほど、生命のリアリティを感じない。 これは当然のことで、例えばアフリカの飢え死にした少年の死と近親者の死を同レベルでとらえる人の方が不思議です。

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.3

んーどうなんてしょう。対話さえしておけば何とかなる問題でもないと思うのですが。先日の爆弾少年だって、犯行に及んだのは彼が知っている土地ではなく、東京の繁華街のエロビデオ屋だった訳で、彼が東京の繁華街のエロビデオ屋に出入りする人間と対話してたことがあったら、そこで犯罪は起きなかったかもしれませんが、きっと別の場所で起きていたでしょう。 あらゆる情報を遮断し、閉鎖的村社会内に閉じ込めておけば、あらゆる他者と密接的な関係を築くことも可能なんでしょうけども、現実これは絵空事です。 現代のような情報化社会では他者すらも情報におきかえられてしまうという、これも良い意味も含めての進化と言えるのではないでしょうか。

peter8
質問者

補足

他者すらも情報、つまり物になってしまうのが、 なぜ、良い意味で進化なのかよくわかりません。 最近、非常に寂しいことは、ほとんどの友人と 思っていた人が、彼とぼくの関係(結局、ある出来事 でしか、関係を持てない、つまり、第三者からみれば 利用する物でしかない。)ばかりで、君とぼくとの 関係ではないことです。  先日の爆弾少年も同じく、恨み或るビデオ屋より 見知らぬビデオ屋に爆弾をしかけたのも、「生命の 遠近法」をよくわかってるからです。すなわち、 遠いところのものほど、生命のリアリティを感じ ない。物と同レベルの目線でみれるからです。

  • akitoru
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.2

私は、30代の後半です。しかし、IT関係は結構使ってます。20代前半の子たちとでも。今では、ネットとかメールがないと困りますね。時々、メールで生き方の悩みとかも相談してくるし。昔の手紙みたいな感覚でしょう。なおかつ、手軽。最近の子供の犯罪は気になることですが、今に始まったことではないし。言ってみれば、過渡期的現象としか言いようがありませんねぇ。いわゆる、高度成長時代の子供達が大人になって、子供を産んで育てた結果、ってところでしょうか?今世紀って言っても結局は人が決めた時間枠でしかないし、それに、メールが送られてきて、これは大変だって言う、メールには直接電話したりしてるし、ーーー要は、何を危険と思うか思わないかってところでしょうか? あるいは、何が痛くて痛くないかってことかなぁ? やっぱ、想像力の欠如でしょう。 そして、本を読まなくなった結果だと思います。 本を読むことによってこうなると痛いとか、が、分かったと思います。 しかし、受験には本は必要なかった。 そして、自分の興味のある本を数冊読んで犯罪を犯す。 色んな考え方の本さえ読まずにーー そう言った意味ではネットもそうとも言えるかも知れません。 自分の興味あるいは必要な情報を取得するだけせすからね。 でも、こうして、誰か分からないけれども返事を書き、また、質問をする、こういう関係も新しい人間関係になっていくのではないでしょうか?

  • tullio
  • ベストアンサー率20% (11/53)
回答No.1

peter8さんが心理学関係者では無いと仮定します.違ったらすみません. 早川書房の「診断名サイコパス」や,草思社の「平気でうそをつく人たち」をご覧になってみてはいかがでしょうか.「人を殺してみたかった」という発言が十分納得いくものであることがお分かり頂けると思うのですが.

関連するQ&A

  • 自己評価と他者評価の不一致

    今おそ松さんにハマってます。 アニメ1~3期&映画3本全部見終わってみて、自分の性格が一松そっくりだな〜って思いました。特にエスパーニャンコ回は共感の嵐でした。ただ、恋人や親友等の親しい間柄の方に「おそ松さんで例えると誰に似てるー?」って聞くと即答十四松でした。結構明るくて結構バカなのだそうです笑 一松と十四松って性格真逆じゃないですか。なんで自己評価と他者評価でこうも違うのでしょうか? あと私は一松ですか?十四松ですか?(謎)

  • 現代数学/論理学について勉強したい

    こんにちは。 20世紀初頭の論理学革命からの数論、論理学を勉強したいのですが、どのように手を付けてよいのかわかりません… 現代の数学論、論理学の最先端はやはり想像もできないほど難しい領域で初心者には垣間見ることも不可能ですか? 例えば哲学なら初心者でもなんとか第一次文献を読んで分かった気にくらいにならなれるもんですが、数論、論理学ではそのようなものではないのでしょうか? 特にフレーゲの思想やブラウアー直観主義体系を知りたいです。 それを追いつつ、現代の議論にまで追いつくことはできませんか? あまりに漠然として自分でも困っているくらいですが、どなたかアドバイスをもらえないでしょうか? お願いします!!

  • 自己破産

    私の妻が独身の時に作った300万円のしやっきんを、私と結婚して 自己破産しました。そしたらまた、カードで490万円私名義のカードで、やられました。妻を信じて私のカードをわたしたのですが。 私もカード使いましたが、とんずらされ、こんどは離婚調停を申し立てられました、なんとか良い方法が無いでしょうか。 信じた私がバカでした・・・ 私も自己破産しないと返済日が迫っています。会社も倒産、今は雇用 保険後2回でおわりです。あ~死にたいです。

  • 自己破産について友人に助言したが…。

    こんばんは。 早速ですが質問させて下さい。 先日、昔からの古い友人に自己破産について助言しました。 私は20代前半の女性で、相手は20代後半の女性ですが 借金をしていて困っているようで精神的にもいろいろな事情で 疲労しきっているようだったので助言しました。 なんですが、その時私は今まで生きてきた中で 人生最大くらいのいい出来事があった後で(少し大げさですが) 心がうきうきしていて友人の真剣な悩みにも軽はずみに 「そんなに辛いなら自己破産したらいいんじゃない?」と 楽観的に言ってしまいました。 でずがその後自分の有頂天な気持ちが一旦落ち着いて 冷静に友人に自分が助言した事を考えてみたら、 相手が弱っている時にいいことがあった自分が 軽率に大して考えもせず言ってしまった、 「自己破産」という言葉を言って薦めるような発言をした事にひどく落ち込んでしまっています。 結果友人は自己破産をしましたが、とても気になってたまりません。 友人は自己破産後も辛い状況から抜け出せていないらしく よく「自己破産者だから幸せになれない」ともらしています。 よく自己破産者という烙印がついてまわるとか、 一定期間中は部屋が借りれないとか 私なりに他にも調べてみましたが周りに言わない限りバレないとは思いますが 私が自己破産を安易に薦めなければ友人は何とか借金を返して 「自己破産者」にはならなかったかと思うと 自責の念にかられてかなり苦しくなってきます。 自己破産者をバカにしているつもりはないのですが。 それで質問はと言うと、 自分の軽はずみな発言で判断力が鈍っている人の人生を変えてしまった時 どういう風に対処すればいいんでしょうか? これからの友人の付き合い方と、 こういう風な心持ちでやって行けばいいかもよとか アドバイスでも何でも 教えて頂けると嬉しいのですが…。 よろしくお願いしますm(__)m 最後に、長い分を最後まで読んでくれてありがとうございました。

  • 私の心理状態

    例えば…誰かに『バカ』と言ったとします。 その人に『バカ』と言い返されました。 そうすると私は傷つくのです…。 だいたい言い返してくる人の言葉は、最初に言った人の 何倍くらい悪意に満ちているのも事実です。 バカ×3くらいになっています。 最初に仕掛けたのは自分なのに。ワガママですよね。 私はだいたいにおいて怒り任せ故の発言で本心じゃありません。 でも言い返してくる人は、私にはまるで本心のように聞こえてしまいます。 こんな私は、おかしいのでしょうか?自己中でしょうか? 言い返してきた相手も…きっと傷付いたから反撃してきたわけですよね。

  • このような本をご存じありませんか?

    初めまして。大学生の女で、fumika913と申します。 卒業論文を書くにあたり、次のような内容の本を探しています。 「現代人(もしくは若者)は、個性を求める一方で“皆と同じ”にもなりたがる」 または 「“これがいい”でなく“これでいい”と思う現代人(若者)」 といったことについて書かれている本を探しています。 今のところ自力で探し当てた本は 『「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える』(岩波ブックレット) 『自己と他者の社会学』(有斐閣アルマ) 『無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉』(中公新書) の3冊です。 まだ手に入れてはいないので、私の思うとおりの内容かどうかはわかりませんが…。 一冊でも多くの本を知りたいので、このような本をご存知の方、 どうか教えて頂けませんでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 村上氏の会見には何の意味があるのか?

    村上氏の言っているのはそれほどウソとも思えませんが。 でも、ペラペラと自己弁護に終始する姿にあまり良い印象は持てませんでした。「聞いちゃった」のが意図的なのか偶然なのか、そんなことはマスコミでしゃべったからといって法の追求が変わるものでもないでしょう? もっと大人な人物だと思っていたのに、やはりライブドアの人たちと同じ幼稚さを感じました。媚びていながら世間をバカにするような発言もあるし。印象を良くする役にはあまり立たないように思えるのに、何のための会見でしょう? またこの人の言う「日本を良くする」ってどういう日本にすることなのですか?今までどんなことで日本を良くしてきたのでしょうか?

  • 「会社の人は想像もしないだろうね」と言う彼

    30代の女性です。 彼氏と性行為の最中彼はよくタイトルのように、 「あなたの会社の人は、今あなたが(俺と)こうしていることを想像もしないだろうね。」 とうれしそうに?(自分に言い聞かせているように??)言います。 時にはそのときの行為を直接指して言います。 こういう男性心理は何ですか? 言われて嫌な気持ちにはなりません。私を愛しているゆえの発言なら嬉しいのですが・・。 今までの彼氏には言われたことはないので、こう言うときの男性の気持ちとは何かご経験者などご回答をよろしくお願いします。

  • 自己への戒めが全く無いバカ兄弟 なぜ違う日・中韓

    中国の国賓として迎えられた皆様のアイドル、朴ちゃんと 中国の最高権力者!?近平君が反日共闘で決済 他に話す事ね~のかよ^^ 文化大革命で自国民を大量虐殺したことへの反省が 全くないというか!?その歴史的事実100%自体存在を 許さない国と、 アメリカ軍の要請で、自国民の麗しき女性たちの春を奪い 続けた国 共に嘘800で日本に虐殺の汚名と、強制慰安婦の汚名を ぶっ掛けてきやがる・・・ 人の振り見て我が振り直せ! ということわざが、日本の古き良き時代からある。 他者を悪く言う前に自分はどうなのか?という 自己への戒めが込められた、ことわざなのだが、 あのバカ兄弟の国には、こういう ことわざ は、 無いアルか? 日本と超1流中韓は、なぜ、こんなに違うニダ?

  • 自己否定感・劣等感

    20代前半・女です。 私は自己否定感・劣等感が強く、バカ真面目な人間です。 自己否定感の原因として、幼少期の両親の愛のなさというものがありましたが、 私は親の愛をいっぱいもらって生きてきました。 なぜここまで劣等感に自分を苦しめているのかがわかりません。 劣等感といいましても、今まで人生において大きな失敗をしたことがなく 逆にこの劣等感が「このままではいけない、なんとかしなければ」という向上心に火をつけて ある意味いいサイクルが回っているのも事実です、が、やはり心としてはきついです。 自己否定感が強い人にありがちだという、バカ真面目な性格で 「-しなきゃ」「-でなきゃ」と自分の行動をがんじがらめにしてしまいます。 もっと人生を楽に生きたいです。 もっと気軽に人と関わりたいです。 まじめすぎて神経質なくらい人の顔色をうかがってしまい、人付き合いも疲れてしまいます。 なぜこうまでも劣等感が強いのか、そしてなぜ真面目に生きれないのか・・ と、バカ真面目にまた自分に問いただしてしまう自分もいるくらいです。 読んでてイライラさせてしまったらごめんなさい。 何かアドバイスを頂けたら嬉しいです。 よろしくお願いします。