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内に目を向ける、外に目を開く。
chihokoの回答
- chihoko
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●ミームを語るには まず 本質というものについての 説明を聞いてもらうほうが いいでしょう。 そのもの(存在)の本質とは何でしょうか? わたしは こう考えるのです。本質とはそのものの全て つまり 存在理由も含むもの なぜ在るのかのわけの答えをも含む全てであると・・・。 ビッグバンを言葉で指し示すことは できます。 ビッグバンの全てを含んだビッグバンを言葉で指すわけです。 しかし その言葉はビッグバンの本質を含んでいるのではなく ビッグバンという言葉の本質を含んではいるのですが それは ビッグバンの本質とは無関係のものなのです。 ●さて人間の本質とはなんでしょうか? わたしはこう考えます。 精神こそ本質であると・・・。自我こそがその本質なのです。 言葉ではありません 自我が言葉を使っているだけなのです。 自分とは肉体と精神の融合体ですよね。自分の本質は自我にはわかりません。 なぜなら自我は精神の中枢という一部で 自分は物質が関与しているから それぞれの次元が違うわけです。だからわからないのです。 自分はなぜ存在しているのか そのわけが 自我には分からないのです。 ●しかし 自我には自我の存在理由はわかります。本質が精神だけであるからです。 わたしは 自我の存在理由をこんなふうに感じています。 「我こそ ほかのだれでもない 宇宙でたったひとつの我である。」 脳がこの簡単な感覚を創造し得たとき 人間は生れたと・・・。 ●ミームのなかから人間の精神と肉体の活動から派生した伝達物だけに限定すると (われわれが悩まされるのはほとんどが それです。) そのミームは人間の精神から生れているからその本質を認識することは可能です。 しかし ここが重要です。人間はミームを獲得したことで自然淘汰の流れから 逸脱してしまっているのです。言葉で「地球は私一人で住む。」 と表現できるように 現実にそうすることもできてしまうのです。 本質が40億年の地球上生物を 本質がたかだか何十万年の言葉が 駆逐してしまう危険性が あるのです。いやもうその危機ははじまっています。 だからこそ ミームにとらわれては いけないのです。 地球上生物を死滅させたくなくとも ミームのもつレトリックで だれもが望まない結末を迎えてしまう危惧が 確かに今 存在しています。 ●さて 叙情にはなしを 移します。 自我を皮膚感覚に集中してみてください。右手で左腕をなでると 肉体の曲線 めくるめく皮膚感覚を おぼえますよね。 しかし その集中していた時間 ほかのことには 目が届かなくなります。 叙情とは自我を開放して どの情景に寄り添うか そのよりそった情景を そのひとの叙情と呼びます。だから人それぞれです。 ごみぶくろが風に舞う情景に叙情を感じるひともいるでしょう。 (映画:アメリカンビューティの一場面) 自我は 前にも話しましたが 真善美恋と言葉やイメージをシェイクして 論理を展開する部分でできています。そしてここは経験で変化していくのです。 ●外に目を開き 内に目を向ける とは正によりよく生きるための あたりまえの手法であるだけなのです。 わたしは 芭蕉の俳句から 芭蕉の叙情を推察して わたしもかくありたいと感じる一面もある その程度のものです。 わたしたちのまわりは 叙情だらけでもあるし 不愉快なことだらけでもあります。 自分の時間を世界の改善に向けると 自分のやすらぎは無くなります。 それは 自我の喪失につながる恐れがあるからです。 ほどほどに 自分の器にみあった生き方を選択するのが 賢明というものでしょう。 ●「ぬけがらを見た」 着眼がすばらしいですね。祭りもそうですけど じつは ぬけがらになるまえのにぎやかなプールや 汗のとびちる祭りのまっただ中にも ぬけがらや祭りから離れた場所にある 詫びさびが あるんですよ。 もし見つけることができたなら そのにぎやかさの中にある詫びさびのほうが いかに大きいかを 感じることでしょう・・・。 ●抜け殻にまつわる わたしのエピソードをひとつ。 今年の夏 森のなかの桜の葉にセミの抜け殻を 見つけたんです。 広い 広い 森の中で 桜の木の一枚の葉に セミの抜け殻が ふたつ並んでくっついていたんです。 それを見た瞬間 鳥肌がでて 涙がボトボトとこぼれました・・・。 いまでも はっきりと その情景を思い出せます。
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お礼
宇宙の歴史は150億年といいます。 >今年の夏 森のなかの桜の葉にセミの抜け殻を 見つけたんです。 広い 広い 森の中で 桜の木の一枚の葉に セミの抜け殻が ふたつ並んでくっついていたんです。 それを見た瞬間 鳥肌がでて 涙がボトボトとこぼれました・・・。 いまでも はっきりと その情景を思い出せます。 104億年と、46億年の重みでしょう。細かいですね。ぬけがらを見た で、あなたがセミの抜け殻を想起したことが僕はうれしいです。夏で、抜け殻はセミですよね。詩がひととおりできたあとに、セミの抜け殻が思い浮かんだんです。だから、それを冒頭につけたのです。chihokoさんの感想を読んで、初めてプールが抜け殻になっていることに気付いたあほあほでした。あの題はセミだったんですよ。まぁ僕も脱皮したようなものですから、ちょうど良かったです。あの脱皮する昆虫は劇的なもので、壮絶な訴えを起こすものです。そのセミの抜け殻達に出会えてよかったですね。僕も、そういう抜け殻の一つになるのもいいなぁと思いました。二つあるのがいいです。だって、二人いるってことじゃないですか。 >もし見つけることができたなら そのにぎやかさの中にある詫びさびのほうが いかに大きいかを 感じることでしょう・・・。 僕は叙情にはまってから、いろんなものが流れ込んできます。そういうものもみれるといいですね。そのときにはそのときの、その瞬間にはその瞬間の叙情があることがうれしいです。あきませんし。 >だからこそ ミームにとらわれては いけないのです。 地球上生物を死滅させたくなくとも ミームのもつレトリックで だれもが望まない結末を迎えてしまう危惧が 確かに今 存在しています。 よくわかります。しかし、バッハの音楽も人間のミームだし、優れた建築も人間的なミームです。医学もそうですよね?ミームに感じる叙情もあります。我々は、自分で次のミームを選べるのかもしれないですね。地球的なミームの一つがDNAでしょうか?しかし、時代が僕にあっているのを感じます。だから僕が大丈夫なら大丈夫です。暴言と思わないで下さい。 >外に目を開き 内に目を向ける とは正によりよく生きるための あたりまえの手法であるだけなのです。 ほんとうにそのとおりですね。 >自分の時間を世界の改善に向けると 自分のやすらぎは無くなります。 それは 自我の喪失につながる恐れがあるからです。 その人にそれがふさわしいなら、そういう救世的な生き様も当然でしょう。しかし、内に目を向けて生きている人が、その生き様を生きているだけで、それは世界をよくしているのです。しかし、内を見た人間が、世界のことを考えて動くと、それは、良くも悪くの一手でも、百手、千手の意味になります。なぜなら、その人の頭には輪廻?といっていいようなものがあります。その人の一手は世界の一手です。世界には50歩100歩の位ですが、人間、特に周りの人間にとってどれほど影響がでるでしょうか。永遠はどれほど遠いのか。それでも、あなたの一手は大きかったといえるのです。僕はべらべらしゃべるので、殺されるかも知れません。しかし、頭があまりよくないので、伝わることがあまり広がらず、それほど目立たないかもしれません。目立たなければ殺されません。一歩で百歩進む、それが一万人いたらどうでしょう。 ?中には、万の手を打つ人もいるのです。世界は踏破され、変わってしまいます。だから、殺されるのです。だから、あなたのような人が増えないのです。あなたに触れて僕が開眼したように、どんどん増えていくのです。現実的な話になりますが、お金のあり方は変わります。それは、僕のような者が、次の時代までに死なないためです。僕はガキだし、若いので、たぶん次の時代にこそ生きることになるかもしれません。もう止めれません。被害妄想と思わないで下さいね。 自我の喪失についてですが、死んでも自我は保存されます。あなたの言うように、「我こそ ほかのだれでもない 宇宙でたったひとつの我である。」 だからです。風呂の中で水風船を割って下さい。水風船の中の水はなくなりません。しかし、水風船は割れたのです。水の形はなくなるのです。しかしどうでしょう。水風船の水が赤い水なら、お風呂の水に赤が広がっていきます。 外側に続く内側、内方向とはなんでしょうか?そこは、あなたの言うとおり次元が違います。精神は、自我を知る事で次元を越えれるようになります。次元を越えて、情報が動きます。精神が、自我に伝えられます。水風船に色がつくとはそういうことです。精神が自我を開放する時、自我は、精神の形によって、影響をうけるのです。なぜなら、精神の一部は共にすごした自我によって、次元を越えるからです。ここに人間の構造をいうと、指を切って痛いといって血が出るところ、繋がって、精神活動をするところ、その内の一部が自我と接する所、それで自我です。自我以外は、すべて肉体に関与しています。精神が自我と接する部分は、精神活動そのものなので、自我と接し、次元を越えることが出来ます。接している部分は、おなじロジックで結ばれています。自我と接すれば接するほど、色はこくなります。しかし、その行為は、自分から目を、どんどんどんどん離れてさせていく事なので、皮肉な事に、自分ばかり気にする人は、それを死ぬときに失い、自我のためにそうしない人は、それを少なからず得るのです。これを読む方にいいます。自我に近づくには内側に向き、進んでいかなければなりません。目を閉じた方が出来るかもしれません。眠れない時がいいかもしれません。見えてないということは、外側に向いていないということです。そして、chihokoさんの言うように、ミームを排除するのです。ミームはいつもの外側の産物です。しかし、いつもの外側をないがしろにしてはいけません。自分を保存したいからといって、そうしてはなりません。自分を大切にしたい人が、自分をないがしろにするようなものです。自分は外で育つのです。内側を見ていない間は、自我に到達していない間は、自分は外側の者なのです。はかない自分自身を大切にしない者が、自我を大切に出来るわけがないです。厳重にいいますが、あなたや僕は、自我ではありません。自分なのです。自分が、自我に到達するのです。あなたが何も感じる事がないというようなことが、ないように。あなたが、あなたの生き様を生きれるように。今はっきりいえないですが、自分は自我を忘れ、完全にいつもの外側になる事があるかもしれません。もしあれば、そのとき、人はマジで死ぬのです。 >それぞれの次元が違うわけです。だからわからないのです。 自分はなぜ存在しているのか そのわけが 自我には分からないのです。 そうです。なぜなら自分という水風船で区切られているからです。そこが自我の世界になっているのです。赤い水と青い水が会話するとします。別々の水風船に入っていては無理ですが、お風呂に出ると混ざります。思ったらすぐ伝わります。赤と青があって、初めて紫になります。紫を見れば、赤と青があることを知らなければなりません。その時、赤と青は生きているのです。赤と青は、知られている事で生きているのです。人が死んだとき、同じ事が起こります。知られる事で、その個性は保たれます。もちろん、たくさんの人に名前が知れても関係ありません。 ビッグバンのたとえ、そのとおりに同感です。このやり取りで、2年生ぐらいになったかもしれません。自我の解釈が多少ずれていると思います。どうなんでしょうか?