• ベストアンサー

内に目を向ける、外に目を開く。

jumeの回答

  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.8

どうも、お返事、遅くなりました。 以前、cabaiieroさんがされた質問で「もう一人自分が」というものがありました。そこでの議論を読み返していたのですが、あそこで私は「自分」とは表れては消える波頭のようなもので、そういう現象でしかないと書きました。では波頭を波頭たらしめるものは、いったい何でしょうか? 水?水にぶつかる空気?おそらく、そうではありません。波頭を波頭たらしめているものは、それを見つめるものの視線です。波頭には、海と空との厳密な境界はありません。波頭は、あの白く見えている「あたり」に現象しているものとしか言い得ないものです。自我というのは、そんな波頭たる自分を外から見つめ、波頭だ(自分だ)と認識する「力」です。つまり、波頭(自分)を波頭(自分)たらしめる「力」を持った視線と言うことができるでしょう。 その「力」は、社会心理学者G.H.ミードの言葉を借りれば「I(主我)」です。このとき、客体化された波頭たる自分は「me(客我)」と表現されます。ここで言葉遊び。主我Iは、主格「私は」です。では、客我meはというと、そうです目的格「私を」です。つまりI see me「私は私を見る」が成立します。 自我が唯一のものだという指摘がありましたが、自我が自分というもやもやとして、実体のよくわからない変なまとまりを、まとまりとして認め、そこに「自分」という同一性(アイデンティティ)を持たせる機能をそのように呼ぶのなら、自我は唯一のものかも知れません。ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。それは自我の機能がなければ、同一性を保てないバラバラの記憶の集合(解離性同一性障害の状態)に陥ってしまうのですから。 従って、内に目を向けるとは自我を持つことに他なりません。caballeroさんが悩まされている、内と外の問題系は、自我と波頭たる自分を混同したために発生したかりそめの問題系であると思います。

caballero
質問者

お礼

お返事ありがとうございます、 >自我というのは、そんな波頭たる自分を外から見つめ、波頭だ(自分だ)と認識する「力」です。つまり、波頭(自分)を波頭(自分)たらしめる「力」を持った視線と言うことができるでしょう。  ありましたね。青い電燈の話ですよね。jumeさんのアドバイスはいつもほんとに参考にさせていただいています。 >ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。  そうです。波頭に唯一など使えるわけがないと僕も考えています。事実、波頭(自分)は一時として同じ姿をしておらず、外世界の諸々の言語の交わりとして、あります。自分たらしめる力の視線、これが自我です。言葉を言葉として存在させるものです。この自我は唯一というか、個数の問題とかではないと思います。しかし、この自我、何故存在するのか?外世界(波頭としての自分を含めた)があるのは、自我の視線があるからです。自我も、一言語としてあるのなら、見られておかねば存在できず、その場合、自我(客我ではない)すらも外宇宙の一言語で、流れるものです。死ねばはかなく消え去ります。私が私である所以はそれでも説明がつきます。私が客我としてのjumeさんになることは想像がつきます。jumeさんもcaballeroになることは想像つきます。しかし、入れ替わったからといって、何も変わりません。絶対的な個性の無さ、そのような機能として存在するということで、無二性を保つ場所となっているのです。そして、外宇宙はその自我という場所の領域です。自我という強大な、外宇宙をエーテル的に満たしている一言語に埋もれるようにして、流れる、移り行く波頭としての、客我としての私があるため、自我を有することになるのです。やはり、波頭はいくつもの言語の一時の交わりとして波頭たるのであって、エーテル的な自我が、やはりそこにあるために、自分というものが波頭に生まれるのです。つまり、もはやエーテル的な自我というのは、言うまでもない「場所」の事で、場所すらない場所のことです。ある一瞬の波頭がある、それだけで、無二性をもち、一瞬であるが故に唯一的であり、すべからくはかない。この外宇宙では、言語(諸々の諸事象)が存在するとき、それはすでにはかないのです。なぜなら唯一という存在だからです。 >従って、内に目を向けるとは自我を持つことに他なりません。caballeroさんが悩まされている、内と外の問題系は、自我と波頭たる自分を混同したために発生したかりそめの問題系であると思います。  ぼくの言う内とは、言語の中身?のことであり、自我の内のことです。存在するということの内のことで、移り行くカギ括弧の「」自体の内のことです。  客我は当然、流れる外世界のものです。それを見つめる自我もまた流れる外宇宙の産物なのです。急に俗な話になったと思わず聞いて欲しいです。自分が、タンポポの綿毛の一つの種子についている一本の毛と考えるとどうか?意識はないが、それはそうである。ある原子の、原子核の一部としても、それはそうです。トートロジーの内を見たいのです。見るとかの問題ではないので、内に向くとしました。むしろ我々が自我を持っているという認識、それこそがかりそめの認識と気付きました。また、ご意見いただけるとありがたいです。ウィトゲンや、等の、言語世界の話は、言うなればすべて右側の話だったといえます。右側の中だけで、客我や自我、内側外側、何から何までを語っていたように思います。

caballero
質問者

補足

jumeさん、あなたは導いてくれたのですね、。 危ない橋を渡るときに、下から支えてくれたのはあなたです。僕は今、上から来ています。上とは、内を通して得られる真の外側の事です。つまり、あなたは、支えるべきを知っていた。泣きそうです。(幸 >自我が唯一のものだという指摘がありましたが、自我が自分というもやもやとして、実体のよくわからない変なまとまりを、まとまりとして認め、そこに「自分」という同一性(アイデンティティ)を持たせる機能をそのように呼ぶのなら、自我は唯一のものかも知れません。ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。  そのとおりです。数えれるような者ではありません。「一」と言うのが間違いだったのです。それは、真の外側において認められます。そこに、数はありません。 それはそれなのです。それは、すべてです。数えれないのです。

関連するQ&A

  • 誰か私に金ください

    やあ、みなさん。 今回はいつもの挨拶ぬきです。 実在する妖精の捕まえ方は置いておいて、社会人として自活するための検討課題です。 今回は弥勒菩薩商法の復活の余地について質問です。 私はお釈迦様の言った涅槃と同じく、自らの本質に到達し、そこに新たな世界を見いだした現代の仏陀です。 そこは、古くに研究されたイデア界でもあり、永遠の生にいきる神の世です。 貴方達は死後、それとは別の死者の国で死にっぱなしになります。 それに耐えられないで、生を求め転生します。 しかしそうして生きることも又、耐えられない。 そのように苦しみぬきます。 そしてまた死にたくなるのです。 この死のループが輪廻であり、解脱すれば天国で永遠に生きます。 それは個人の認識のみで自覚できる事で教えはありません。 すなわち悟りが大切です。 私の言葉を信じても意味ありません。 自覚のみが到達するのです。 すなわち教えとは君達の望み通り輪廻することで正解で、お釈迦様は正しかった。 それは神と離れた異常な状態で、仏陀は皆さんの懇願と、それに答える慈悲により、あなた方を天界から遠ざけ地上に縛り続けています。 全てあなた方の願いに仏陀として答えたからです。 感謝してください。 だからお金ちょーだい。 古来の宗教と同じような形で、貴方がたに判り易く救いを説いたつもりです。 大うけの自信があります。 喜んでもらえるでしょう。 でも私は世間知らずで、どうやったらこの救いの言葉がお金になるのか判りません。 大人の皆さん。 教えてください。 今回は事業に関する質問です。

  • キリスト教の「御使い」について。

    キリスト教の「御使い」についてお聞きします。 キリスト教は三位一体と言われ、お祈りした後に「父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン」と締めくくります。 ここで疑問があるのですが、御使いに対しては感謝しなくてよいのでしょうか? 私としては「父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン」の後に「御使い様(御使いの方々)もありがとうございました。」と言いたいのです。 しかし一方では、御使いは神ではないので「様」も要らないし、感謝する対象にしてはならないのでは・・・?と言う気もするのです。 どうか、アドバイスをお願いします。

  • 勇気が湧いてくる祈り言葉

    ユダヤ教徒もしくはキリスト教の方々に質問です。 何か大きな試練、もしくは何か大きな壁や、異性への告白とか、プロジェクトとかを前にしたときに、「どうこれを乗り越えられるように勇気をください」とか「神の御加護をお与えください」といった、心の中で神に唱える祈りなどありますか? よろしくお願いします。

  • 信じているとは 心が閉じられていないことである。

     《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと理解していますが これは どういうことか?  できるだけ経験的なことがらによって表現された説明を持ちたい。  次のように考えますが どうでしょうかという問いです。  非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。  どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。  心の伸び? 心の明け?  けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。  そうだとすると たぶん 非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。こういうことではないか?  たぶんこの《信じる》にあっては その対象は ひとつであるはずだ。  全体としてのひとつであるはずだ。  どんな名前を持って来ようと それは《かみ》である。《無い神》を持って来ようと 同じくである。  人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。無神論なる信仰をもふくめて 人はその神の名を自由にえらべばよい。  これが 信教・良心の自由の中身である。  

  • 目が合うけど・・・。

    前回以下の内容で質問をさせていただきました。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5728011.html ご回答いただけたか方々には感謝しております。 未だ気になる方とは何も進展ありませんが、 だんだんと不安になってきてしまいました。 やはり私が意識してしまっているからでしょう。 今まではお互い目が合う感じだったのですが ここ最近はやはり私が彼を見ているから 彼と目が合うのだと思うようになりました。 会釈をしてみようと前回ご回答いただいて 何度も試みようと思ったのですが 何もできないままですれ違ってしまいます。 避けられているようには感じません。 同じ電車のドアですれ違わなくても 彼も私に気が付くと彼が振り返って 目が合うようになります。 でも手紙も用意して「今日こそは!」と思っても 声をかける勇気もなく、ただ普通にすれ違ってしまいます。 前回と今回の内容でみなさんは 相手の方はどう思っていると感じますか? ご回答いただけると嬉しいです。 よろしくお願い致します。

  • 生きている内に見たい

    62歳男 生存している間に見てみたいです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8C%E9%81%93%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF 軌道エレベータ 下から煽りで、中から外も上も下も… すでに建造計画は有るらしい…宇宙と地上を繋ぐ技術も素材も開発済 造るのに膨大な予算が必要との事で国家事業為らぬ国際事業に成る。 余談…私的にはこの際、誰が創造等…有るならこの眼で見てみたい 月や火星で発見されている建造物はどうやら "軌道エレベータ" ? とか一部で…造ったのが神様だろうが先史文明だろが異星人だろう がどうでも良い…有るなら生きている内に見たいです。 特に火星のソレ?は、バベルの塔では?とか…私的にどーでも良い 早く見たいそれだけです。

  • クリスチャンの祈りについて

    こんにちは。キリスト教を勉強し始めたばかりのものです。 昨夜悪夢にうなされて夜中に目を覚まし,思わず神に祈ってしまいました。 「神様,私を試みに会わせないでください。この悪夢が正夢にならないようにしてください。」 みたいな感じで(こんな感じでいいですか?)。 しかし,朝起きて冷静に考えると,クリスチャンは神のなすことはすべて善だと考えるのですよね? だとすると,何のために祈るのかよくわからなくなってきました。悪夢を見たことも神に感謝すべきなのでしょうか?悪夢が正夢になるかどうかもすべて神にゆだねるべきで,祈るべきではないのでしょうか? あるいは,神が全知全能であるならば,祈るまでもなく私の願いは届いているはずだと思うのですが,だとすれば人は何のために神に祈るのでしょうか? アドバイスをよろしくお願いします。

  • 《哲学する者は神の国の外交官である》は成り立つか

     1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

  • 多神教は他の国からどんなイメージを持たれてるのでしょうか?

    日本って多神教ですよね、すいませんよく解って無いのですが・・・ キャンプに行ってお日様ありがとう、森林浴で草木に感謝等普通に感じます お墓参りで先祖に感謝 漠然とですがすべてに感謝と敬意を覚えます 八百万の神々とウマイ事言うものですね~ でも、多くの他の国は違うそうですね キリスト教でしたらキリスト=神なので 多神教の日本の宗教感覚は理解出来ないと想像できます エジプトも多神教ですよね? 同じ様な考えなのにあまり交流が無い様な・・・ 本題ですが 多神教と言いますか八百万に神々と言いますか、この考えは他国から見てどんな印象を持ってるのでしょうか? 特に近隣の韓国や中国のが持ってるイメージが知りたいです よろしくお願いします

  • 英語を勉強するためです

    ネーティブな英会話を覚えたいため 教会の英会話スクールに入りたいと思いました。しかし 私自身宗教にたいしてまったく興味がないというより、仏に近いかもしれません、そうこのいうときって 教会の方々に失礼のではないでしょうか?もちろん外国の文化を知るのも悪いことではないと思いますが、キリスト教に入るつもりはないです。神様が違っても 心は一緒ですと、私はそう思っています(^_^;) 教えてください。