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人はそのままで完全だ

ニール・ドナルドウェルシュの「神との対話」を始め多くの宗教哲学書に、「人はそのままで完全。変わる必要はない」と繰り返し書かれています。 わかるのですが、反省、学び、悪癖からの脱出、などに対して努力することは意味が無いようにおもうのですが、どのように理解すればいいのでしょうか。 ご意見お願いします。

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回答No.8

昔この人の本はずいぶん読み込みました。 よんでいると「要するにどうしたらいいんだろう」と思って、 答えになるところを探していくと、必ず「あなたはどうしたい?」「あなたはどうなりたい?」という問いかけにぶつかりました。 二ール・ドナルドウォルシュは 「ダメ(不完全)だからこう変えよう」というネガティブな動機付けではなく、 ただ「こうなりたいからこうしよう」というナチュラルな動機付けもあるのだよと、示唆しているのだと思います。 自己否定や他者への否定が、争いを生むわけだから。 右の道も左の道もいい悪いはない、ただあなたが目的や目標を持ったときに、どちらがより適切なのかが決まるのだ、と言っているのだと思います。 まず最初に「これはいいこと」、「これは悪いこと」と図式化して、そのチャートに照らして行動を決めようとするのではなく、ただあなた自身に「どうしたいか」「どうありたいか」を問いなさいと言っているのだと思います。で、感情に耳を澄ますように、喜びのある感情に注意を払うように、身の回りのメッセージに気づくようになどと提案してくれているのだと思います。 キリスト教世界には宗教的に植えつけられた罪悪感「原罪」というのがありますよね。それに対するアンチテーゼであるようにも思います。 また自分の過去からも自由であるようにとのメッセージであるように思います。 内在についてはRPGの喩えを出してましたよね。あるRPGのソフトの中は、そのゲームのルールの上でのあらゆる可能性があらかじめ存在している。それとまあ似たようなものだ。と。 蛇足かもしれませんが、、、 昨年、NEWTONで、パラレルワールドの存在が数学的に証明されたという記事を見ました。「あらゆる可能性はあらかじめ存在している」という古来からの宗教的言説と、最新の数学の発見が一致したという点で、興味深いと思いました。

appleapple
質問者

お礼

そうです。 なんでもあり、という感じなんです。 質疑応答でも、似たようなことが書いてあるのを思い出しましたが、やっぱり現実生活に照らし合わせると、「これでいいのか・・・」と迷ってしまうのです。 NEWTONの報告はおもしろそうですね。 回答ありがとうございました。

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その他の回答 (7)

noname#80116
noname#80116
回答No.7

《求めるものは すでに内在していて・・・》というappleappleさんの補いをうかがって 次のように解釈します。 すなわち初めには 《変わる必要はない》という言い切りに抵抗を わたしも感じていたのですが 《人はそのままで完全》という見方は 次の考え方に基づいて有効だと思います。 けっきょくまず前提としてやはり 生身で生きている限り わたしたちはその今の状態から変わる必要があるという立ち場に立ちます。けれども その良いほうへ変わるというとき わたしたちは おそらく 弱点を矯正し欠陥を取り除くことによってではなく 《わたしは わたしである》という地点を回復することによってなのではないか こういった考え方です。 実践の具体的な方式を言っているというふうに読みました。 その書物も著者も知らずに発言してしまいました。

appleapple
質問者

お礼

《わたしは わたしである》と、その本には書いてあります。人間はその心に全てを備えている。全てとは、愛、憎しみ、悲しみ、喜び、全てです。時には憎しみの塊になり、また時には慈悲の女神になる。要はそのバランス、いかにプラス面を出すかでしょうか。 しかし、そのプラス面が時代、国によって違ってしまうところが「自分である」のがむずかしい理由の一つなのかも知れません。敵討ち、魔女裁判がどうどうと行われていた時代もあります。 アドバイス、参考になりました。 ありがとうございました。

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noname#117439
noname#117439
回答No.6

いわゆる人間らしさに関する認識を高めていく必要があります。 自らの理性や本心と裏腹な心の動きがあることを質問者様自身悟ったことがあると思いますが、この手の葛藤の火種は要するに悪意です。 この悪意を取り押さえて吟味したことがありますが人間性のかけらも無く地獄の亡者そのものでした。 心から悪意を追い出したのがいわゆる仏だと認識しています。 これはあえて仏という言葉を使わなくても真実に人間らしい人間だと考えています。 人間とは光に向かって自らの足で歩くことのできる存在と考えています。 自らの思いや考えよりも、行動を大切にしてください。 なぜなら悪意は妄想や煩悩を生み出しても、体を動かしているあなたの意思には直接は触れられないからです。(これができたら精神病か犯罪者です) あなたが善行をつむと、ニヒルでその行いを小ばかにするような思いがよぎるかもしれません。 それは悪意そのものであなたとの同一性を望んでいません。

appleapple
質問者

お礼

いわゆる人間性善説ですね。 行動を大切に,自分の心を見つめたいと思います。 アドバイスありがとうございました。

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  • word5000
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.5

僕の個人的な考えを書きます。 基本的な考えとしては、人間は内在的な可能性を持って生まれてくると思っています。僕がそうした本で、人間は完全だという言葉に触れる時には、求めるものはすでに内在していて決して自分の外にあるのではない、という意味で捕らえています。僕自身の体験から言うと、例えば自分の中に悪癖があったとします。僕はこれを嫌いこれとは全く別の人格になりたいと思いますが、どんな理想を描いていたとしてもこの悪癖を嫌ってそうしていたのではいつまで経ってもこの葛藤は終わりません。結局はそのままの自分として生きて行かなくては道は開けていかないと思うのです。そういうことに関しては、分かることが必要で努力が必要だとは僕は思いません。つまり、観念として作り上げた何かに敵対した土台の上に存在している理想は弊害があると考えています。この意味で言えば、僕も人間は変わる必要はないと思うし、変える必要があるのはすでにある認識についての誤解を紐解くことだと思います。つまり、自分が認識するあらゆることについてもっとよく見て、本当にそうなのかなと改めて考え直し、すでにあるものを崩していった時に人間の可能性は発現してくると思えるし、もしそれが本を読んでただそうなんだと思っただけでは、何も変わらないとも思います。そういう意味では、人間は自分を疑う、知る努力はしなければならないと思います。

appleapple
質問者

お礼

「求めるものはすでに内在していて決して自分の外にあるのではない」 ニール・ドナルドウェルシュもこう書いています。分かるようで、分からない。しかし、世の中の常識と言われるものは、時代、場所によって変わります。 価値観は移ろいやすいものかも知れませんね。 回答ありがとうございました。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

老荘思想ですね。 無為自然に生きるということなんですね。この思想の根底には、人間には仏性、つまり神と同じ性質があるのだから、それに従って生きればいいじゃないかという考え方なんです。山野で一人静かに暮らせば、善悪など存在しないし、間違った行動や考えが起きるはずもないので反省なども必要ないということですね。 善悪や悩み、欲望など全てのものは多数が一緒に暮らすことにより「人・時・場所」で発生するのだからということですね。 では、そういう人間がひとたび人の群れに入ればどのようになるかといえば、見かけ上も存在するだけで悪になってしますのですね。例えば、汚い仙人のような風体で街中をあるいたら警察に通報されますよね。 つまり、より複雑な社会の中で自らの完全性を発揮する方法が、釈迦仏教における心の修行ですね。行き先は、生きながらの「涅槃寂静」の境地ですね。こういう方を悟りたるものあるいは仏陀というのですね。そのような人になるために人は、日々努力し格闘し反省しているのですね。結果が先にあるのではありません。その結果に向かって努力しているということですね。つまり、因果の理法は誰もくらませられないのですね。

appleapple
質問者

お礼

「無為自然に生きる」のは現代社会では難しそうですね。でも思想は分かるような気がします。 アドバイスありがとうございました。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

宗教書は良く知らないので、ニールさんがたの意図しているところはわかりませんが、 「自分の意志で変わったつもりでも、それは元々神の意志である。 無駄なあがきをせず、心を無にして神の摂理に従うことが肝要だ。」 とかいったような意味なんでしょうかね? いくら歳月が過ぎても、どんな努力をしても、あいも変わらず、 いじめ、戦争、自殺、事故、事件が昔に比べて減っているとは思えない現状を鑑みれば、 確かに人間の知恵と言ったって所詮猿知恵、 何の進歩もしていない・・・、のかもしれませんね。 それでも、私はあがき続けたいとは思っていますが・・・。

appleapple
質問者

お礼

私も、日々あがいているので、疑問に思ったのです。 回答ありがとうございました。

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  • Sombart
  • ベストアンサー率16% (45/267)
回答No.2

 宗教の役割の一つに、精神的なよりどころを提供する、というものがあります。その観点から、「いまのままでいいんだよ」と言ってもらって安心したいという需要に対するサービスの提供だと理解すればよいのです。  それ以上の細かい話は、言ってる人によって「完全」の意味が違いますから、そこを明確にする前には理解や解釈はしないほうが無難です。自分の勝手な思い込みになってしまうだけですから。  当然、社会の中で生きるためには、その人の目的に依存してスキルを挙げないとまずいこともあるでしょうし、いろいろと努力する必要も出てくるでしょう。ご質問の話とこの社会の話とは、まったく別の問題です。

appleapple
質問者

お礼

宗教的な意味がある、ということですね。 ありがとうございました。

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  • blacklabel
  • ベストアンサー率12% (124/1033)
回答No.1

その悪癖も含めて人間であるからです。 いつも進化していこうとすることこそが人間なので、完璧になれば進化することもなくなるのです。 完全無敵になってしまっては、みはや人間とは言えないのです。

appleapple
質問者

お礼

なるほど、完璧ということはありえないので、今のままで、という感じですかね。 回答ありがとうございました。

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  • 「哲学」は「宗教学」に近いのですか?

    当カテゴリで、いまだ未締め切りの質問を抱えている者です。 「哲学」がなんたる学問かについては良く知らず、 自分の質問内容が投稿先の候補としていた「心理学」や「国語」には多分当たらないであろうとの 消去法で「哲学」カテゴリに投稿した次第です。 私が投稿した質問はごく日常的な疑問です。。 何人かの方がすぐに回答下さり、とてもありがたく思いました。 しかし、ふと「哲学」カテゴリの質問リスト(回答数も載ってる)をみてみると、 タイトルに宗教的なものが多いように感じたのです。 聖書がどうしたこうした、仏がどうしたこうした、神がどうしたこうした… しかも、宗教的な質問ほど多くの回答が集まっているように見える。 これは私が考えていた「哲学」とは異なる傾向です。 「哲学」は宗教などから離れて、あるいは少なくとも宗教の教え等は第三者的な視点から捉えて、 人間の真理を追究する学問と思っていたからです。 ざっとみた感じなので申し訳ないのですが、 どうにも「哲学」カテゴリが「宗教」に巻き込まれているように思えてならないのです。 たとえば、本カテゴリで興味深い質問をみつけ、少し見てみたのですが、 回答された内容に、「輪廻転生」を前提としたものが複数見られました。 私は「輪廻転生」自体は否定しません。 しかし、「哲学」カテゴリで、 「人間は生き返るのだから大丈夫だよ」などとする意見はどうしても受け入れ難い。 これってまさに宗教的じゃない?気持ちわるーい!と思うのです。 私の「哲学」に対する認識は間違っているのでしょうか?