• ベストアンサー

釈迦やイエスは

釈迦やイエスは、人を殺すことを、完全否定していたのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ac-sakura
  • ベストアンサー率19% (185/963)
回答No.1

完全否定してたと思います。

rinsue
質問者

お礼

やはりそうですか。 ありがとうございます。

その他の回答 (5)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

追伸 参考書籍 新釈尊伝:渡辺照宏著 釈迦の本心:大川隆法著 なんかが判りやすくていいかもしれませんね。

rinsue
質問者

補足

前回のお礼の中で述べた疑問点には、お答え頂けないようですね。 非常に残念ですが、まあ、色々ご事情がおありなんでしょうね。 以下の書籍などを読んで、勉強したいと思ってます(笑) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876207003/qid=1102244346/sr=1-171/ref=sr_1_2_171/249-5229353-8433921 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4905854172/qid=1102244382/sr=1-183/ref=sr_1_0_183/249-5229353-8433921

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

参考程度に お釈迦の弟子への戒の授与は、個人の向上のためであって、現法の遵守は、つまり、国家の運営の問題とは違うということでしょうね。イエス様はカエサルの物はカエサルにという表現をしてますね。それから、お釈迦様が地獄の魔王マーラと争うことや、有名な般若教、色即是空の教えは、色をこの世あるいは肉体、また、空をあの世あるいは魂ととればあの世とこの世の転生輪廻の話であるとわかりますね。お釈迦様が単なるなにも無い「無」を説いた哲学者であれば、宗教にはなっていなかったですね。そのような考えですね。

rinsue
質問者

お礼

>国家の運営の問題とは違うということでしょうね。イエス様はカエサルの物はカエサルにという表現をしてますね。 国家の運営の問題である戦争なども、否定する気持ちを持ってなかった ということでしょうか? 私が思うには、当時は言論の自由が保障されていたわけではないので、 ストレートに国家運営に苦言を呈することはできなかっただけではないで しょうか。 戦争や死刑は良くないと明言はできなかっとしても、「殺すなかれ」という 教えを、為政者が汲み取ってくれることを望んでいたのではないでしょう か。 「現法の遵守」こそが正しいという思想であるなら、北朝鮮では、脱北す る人が悪であり、その人達を処刑したり収容所に送ることは正当な行為 とみなされないでしょうか。 >お釈迦様が地獄の魔王マーラと争うことや ネットで調べたのですが、マーラというのは、釈迦が悟りを開くのを邪魔 したとありますね。この世で正しいことを行なおうとした時に妨害しようと する存在を、象徴的に表したものとも受け取れますね。具体的に経典名 などを教えて頂ければ、さらに調べてみたいと思っていますが。 >あの世とこの世の転生輪廻の話であるとわかりますね。 輪廻転生の思想は、釈迦が生まれる以前からあるバラモン教などで既 に存在してるようですね。となると、バラモン教と釈迦の思想は、何が大 きく違うのでしょうか? >お釈迦様が単なるなにも無い「無」を説いた哲学者であれば、宗教にはなっていなかったですね 例えば、「わび・さび」といったものも、一見単純そうに見えても、そこに 無限の広がりを汲み取ることが可能です。 同様に「無」の思想も、とくにあの世と絡めることをしなくても、深遠な意 味を見出すことは可能だと思いますが。 ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

追伸の参考程度に [死刑は、釈迦やイエスの教えに反する行為になりそうですね。] 死刑の可否の件でしたか。 お釈迦やイエス様が、死刑反対論を唱えたかというとそうでもないんですね。現法には従うという姿勢ですね。その意味で、刑としての死刑については、言及していませんね。悪いともいっていません。 罪を犯した場合は、悔い改めや反省は、出来るだけこの世で行いなさい、それが生まれる前の天国にもどる近道ですよ、それでもやむなく命をちじめた場合は、あの世にも反省する場所(地獄の何丁目)はあるというお考えですね。つまり心の悔い改めをどこでするかということだけなのです。この世でやるかあの世でやるかだけのことですね。だから言及していないのですね。この世が全てという教えではないのですね。

rinsue
質問者

お礼

>死刑については、言及していませんね。悪いともいっていません。 悪いと言ってなければ、肯定していることになるんでしょうか? 「人を殺してはいけない」とは言っているようですから、そこに例外事項 があるとするなら、「死刑は例外である」と言っている方が自然に感じま すが。 例外について言及してなければ、「人を殺してはいけない」が全てに当 てはまるように思えてなりませんが。 >あの世にも反省する場所(地獄の何丁目)はあるというお考えですね。 釈迦は、あの世について言及してなかったと聞いた覚えがありますが…。 言及していたということなら、どの経典のどの辺りにあの世について記載 されているのか、参考までに教えて頂ければありがたいですが。 ありがとうございました。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.3

ちょっと変化球な答えで、反論もあると思うんですが、原始仏教では、「望まないものを殺してはならない」という解釈も出来るんだそうで、逆に言えば、望む者を殺すのは、決して否定されていなかったとも解釈できるんだそうです。 まあ、2500年も昔の話ですから、医療も未熟でしょうから、痛みに耐えるよりも尊厳死を選んだほうが良かったケースもあるとおもうんです。 釈迦の十代弟子の一人の、目連(モッガラーナ)さんは、他宗の暴徒に襲われて大怪我をして、お釈迦さまに許しを貰ってから涅槃に入ったと経典には残っていますから、もしかしたら、自殺なり、誰かの手を借りて死んだ可能性もあるんだそうです。 般若心経でお馴染みの舎利子(シャーリプトラ)さんも、同時期に自殺か、尊厳死した可能性があるんだそうです。 阿難(アーナンダ)さんは、二つの国の王の招きを同時に受けてしまい、どちらかを断ると、戦争になる可能性があるとして、焼身自殺をして、遺骨をそれぞれの国に与えたと言われています。 まあ、大昔のことですから、伝説化されている部分も多々ありますし、確認のしようが無いんですが、少なくとも原始仏教では、自殺は否定されていなかったということだと思います。 もしかしたら尊厳死の手伝いも否定されていなかったのではないかと推測します。 ただし、修行を積んで悟りを開いた人に限るのだと思います。 なんでもかんでもというわけではないと思います。

rinsue
質問者

お礼

尊厳死などは認められていたとしても、頷けるものがありますね。 でも、やはり、死刑とかは駄目そうですね。 ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

参考に イエス様はモーゼの十戒の1つ「殺すなかれ」は当然のものとしていました。ただ当時のユダヤ教はユダヤ教徒以外は別という考えもあったようです、今でもその痕跡はありますね。その上で「汝の敵を愛せよ」と言い切っていますね。だからユダヤの司祭は驚いたのでしょう。お釈迦様は、弟子に五戒を与えています。その1つが「殺すなかれ」ですね。逆にいえば、イエス様やお釈迦様の時代は、いろいろな理由で殺すことが当たり前のようにあったのでしょうね。お釈迦様は、そのように教えていましたが、一方100人も殺した当時の殺人鬼アングリーマーラという人を弟子にしていますね。この方は、釈迦教団で反省し、修行して、後に立派になられたという話もあります。どのような過ちにも許しはあるという教えですね。

rinsue
質問者

お礼

死刑は、釈迦やイエスの教えに反する行為になりそうですね。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 釈迦とイエスは同じことを悟った??

    釈迦とイエスは同じこと(真理)を悟った。 が、真理というものは、言葉で人にわからせることは非常に困難であるため、 あたかも二人が、違うことを悟ったかのように後世に伝わってしまった。 と、人から聞いたのですが…… そういうことなんでしょうか?

  • クリシュナムルティは釈迦・イエスなどと同格なのでしょうか?

    クリシュナムルティは釈迦・イエスなどと同格の聖人なのでしょうか?

  • 釈迦もイエス・キリストのような数々の奇跡を行ったのですか?

    釈迦もイエス・キリストのような数々の奇跡を行ったのですか? それとも教えだけですか? 奇跡を行ったとしたらどのようなものがあったでしょうか?

  • 奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

    イエスさんは、ときわたりESPを使いこなす私はご対面したことがあるがね。 腐臭を放つあのゾンビの不快さをここで語ろうとは思わない。 仏弟子が釈迦の背き続けることとおんなじで、イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らお知った。 死につずける彼の定めは、悟りと同じく信じる者に死をもたらすことであろう。 輝かしき、私の実在する妖精の捕まえ方と違って、イエスも自らを解き放つことに失敗した、出来損ないだ。 ポケモンを通して私は10兆円だか20兆円だかの経済的成果を無償で君達に与え、よぼよぼで手遅れの君達はともかく、君の孫どもに夢の種を植え付けた、その心の種が芽吹くかどうかは、もはやポケモンは過去の遺物で、、私の実在する妖精を捕まえる幸福にかかっている。 捕まえているからポケモンは世に出た。 しかし私はそれを語る言葉を長らく失った。 何故なら、無力に弁護士を派遣する悪の結社相手に、天界の法を持って自らが生きている事を知らしめる、余計な手続きがあったからだ。 天に任せた彼らは、天の法で滅びるだろう。 今回の問いは釈迦とヒモジイ虎の親子の美談だ。 釈迦は古文書が語るに、飢えた虎の親子に出くわした。 飢えた虎と直面すれば、想像したまえ。 君達は自身の生命の危機に直面するだろう。 自らが生きるため、虎に自らを与える事を拒否するだろう。 ところが釈迦は、そういう場面に出くわしたなら、私は自らの肉体を親子にささげると語った。 磔獄門の出来損ないと違って、生きながらに観念上に死の儀式を語り、それを聞いた者どもをぶっ殺した。 継承される仏教では、この死の儀式に、釈迦に対する無駄な抵抗をいまだにしていておかげだ彼らは屍のままさまよっている。 改めて君達をぶっ殺すのは、釈迦と面識のあるときわたりESPの使い手たる私だ。 釈迦は、私が死に直面しても、親子を生かすために自らをささげると言ったんだ。 それが出来るのは、釈迦が生の神秘を知る覚者であり、永遠の生を自覚しているからだ。 観念世界の特徴の一つは時間が意思のままになることだ。 私に言わせれば釈迦の悟りはまだ乏しく、後世に生きる私にとって、やつは先輩ではなく、よだれを垂れ流しておっかけてくるコキタナイ後輩だね。 彼は舌足らづでも生きる意味を君達の授け、真に理解したと言いきる者は、死の意味を知るからこそ生きる意味も又知っただろう。 釈迦にとっては説話の一つで例え話だっただろう。 聞いた者は、まさにあなたはそのようにふるまうだろう。 その慈悲は真である。 貴方は私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。 その奇跡が、彼の童話の様な文芸作品に安らぎを聞いた者どもは死を通して生きる意味を、釈迦と等しく言葉にできないまま理解したのだ。 このような愛弟子の言葉にならないと言う結論が悟りだ。 イエスは同じような例え話を踏襲した。 聖書の奇跡は童話だよ。 真に受けて狂う君達は自らの心の扉を解き放たないまま、童話こそ真実なれと、現実では起きない奇跡を待ち焦がれている。 君達がもしも奇跡に立ち会いたいのなら、人の心の全てを理解する私の実在する妖精に遊ぶことになるだろう。 オカマである君達へのアニキな入魂は浣腸だ。 今回は文芸作品の寸評の依頼だ。 心が枯れ切った西洋の現代に対する、心を探求する哲学だ。 君達が哲学者として、心を自らに灯しているのなら、この難解な哲学が確かに質問として成立していることが判ろうとも。 哲学する時間には必ず酔っ払っている私は、喧嘩を売られたら喜んで買う。 逃げ口上の様な喧嘩の売り方はするな。 特別に言っておくと、免許皆伝しているガミガミさんには争う意図はない。

  • 釈迦の血液型について

    イエスキリストはAB型というのは有名な話ですが、釈迦は何型でしょうか?インドはBが多くそういう説もありますが、はっきり知りません!!

  • 釈迦、ソクラテス、イエスは自身で書物を残したか?

    学生の頃から疑問に思っていた質問です。 歴史や哲学に登場する、釈迦、ソクラテス、イエスはそれぞれ自身で書物を残したのでしょうか?後世に残っている彼ら自身で記した書物はありますか? もし、本当に本人の書物が存在しないなら、その理由は何でしょうか? 彼らの弟子達が記した語録や書物は多く後世にありますが(有名なものばかり)、しかし本人が記した書物はあまり聞いたことがありません。 誰かの説や推測でも構いませんので、どういうことなのか解説をお願いします。

  • 釈迦とニーチェについて

    釈迦とニーチェはどちらも神を否定していますが、その思考プロセスは異なるのでしょうか?

  • 日蓮と釈迦の大予言

    この文の内容は正しいですか? http://mujaki666.seesaa.net/s/article/123587636.html 日蓮と釈迦の大予言 釈迦の弟子が記した経典『月蔵経』20番目の「法滅尽品」は、「ヨハネの黙示録」と酷似した終末を予言している。 そして『観弥勒下生経』は、救世主の誕生を予言したものである。 釈迦は「釈迦如来」として祀られ、左右に「観音菩薩」と「弥勒菩薩」が配置されていることがある。 釈迦とイエスの類似性を考えると、「釈迦如来=イエス・キリスト」、「観音菩薩=死後復活したイエス・キリスト」、「弥勒菩薩=再臨のイエス・キリスト」を象徴していることになる。 釈迦の予言で最も有名なのが「正法の世が500年、像法の世が500年、末法の世が1000年続く」というもので、釈迦の没後2500年後に弥勒菩薩が下生して、人類を救済するという予言である。 釈迦の生没年は諸説あり一定しないが、一般的に紀元前560年~480年とされている。 そうすると、現在は「末法の世」の最終段階に突入しており、約2020年頃に弥勒菩薩が降臨することになる。 これはあくまでも大ざっぱな目安であり、前後20年くらいを考慮して、西暦2000年~2040年くらいの間に終末が訪れると判断するべきだろう。 チベット密教の最高権威であるダライ・ラマは、「2040年頃から人類の黄金時代が始まる」と述べている。 釈迦と同時代の預言者に、『旧約聖書』の「ダニエル」がいる。 ダニエルは、時の王ネブカドネザルの見た夢を解読するにあたって、「メネ、メネ、テケル、ウバルシン」という謎の言葉を語った。 ある聖書学者によると、この言葉は数字を表し、その合計は2520になるので「2520年」を示すという。 これは釈迦の預言した「2500年後」と20年の誤差しかない。 この誤差は、釈迦が語った年数がアバウトなことによるものか、またはダニエルの語った時が釈迦入没の20年前だったとすれば一致する。 「ヨハネの黙示録」や聖徳太子の予言には、「1260年」という時代周期が示されているが、そのジャスト2倍が「2520年」となり、これらは全て「60年」という火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクション(惑星の合)が形成される最小周期の21倍(または42倍)なのだ。 そして、釈迦・イエス・マホメット・ノストラダムス・聖徳太子は、この火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクションの時に生まれ、この3惑星の配置の影響力が預言能力に深く関係しているという。 占星術研究家の高橋徹氏によると、火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクションュンは、特定の人物に、歴史に確固たる位置を残すような使命を与えるそうだ。 (参考「201X年終末大予言の秘密」日本文芸社) 「マタイ伝」に登場する、イエス出生を知らせに東方から来た3人の賢者とは、この3惑星の比喩だとも考えられる。 釈迦の具体的な終末予言は、チベット密教の『カーラチャクラ・タントラ』に継承されたが、それによると、シャンバラの大王が「12軍団」を率いて北の果てから降臨するという。 これと全く同じ表現が、「マタイの福音書」にイエスの言葉としてある。 「私が父にお願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送って下さるだろう」 12軍団とは……アルザルに住む「イスラエル12支族」を指しているのだろうか。 アルザルに入ったのは初めは10支族だけだったが、後にイエスの12使徒(2支族)の一部も、イエスの勅命で10支族の後を追ってアルザルに移動している。 だが、これがイエスの時代であることを考えると、イエスの使徒ではない。 また、「12軍団以上」ということは、イスラエル12支族以外の者もアルザルにいると解釈できる。 だとすると、ノアの大洪水前にアルザルに移住した「ムー人」が考えられる。 そう考えると、イエスの時代に「12軍団以上が今すぐ出陣可能」ということは、約2000年前に既にUFOが存在したという根拠の1つにもなる。 ちなみに、チベットのヘーミス寺院の古文書によると、イエスはチベットでの修行中、ムー帝国の聖典『聖なる霊感の書』を学んだという。 釈迦は「56億7000万年後に弥勒菩薩が下生する」と予言したが、この数字は象徴であり、実際に弥勒菩薩が降臨するのは釈迦の死後2500年後の「末法の時代」である。 これが聖書でいうところの「イエス・キリストの再臨」であることは言うまでもない。 法華経を広めた日連は、「末法の世に地涌菩薩が現れる」と予言した。 という事は「弥勒菩薩=地涌菩薩」となるが、「地涌菩薩」とは文字通り、地底から涌くように出てくる弥勒菩薩としか読めない。 地涌菩薩の正体は、シャンバラの大王率いる「12軍団」なのだろうか。 つまり、イエス・キリスト率いるイスラエル12支族が地上に帰ってくるという事なのだろうか……。

  • 釈迦

    釈迦はどんなことをした人なんでしょうか?!?! 玉虫厨子に描かれていることなどは知っているのですが・・・ どんなことをしたのかは全く知りません 特に有名なことを教えてくださいm(_ _)m

  • イエス様の子供について

     クリスチャンの方々てイエス様に奥さんや子供がいることに否定的ですよね。でも私もクリスチャンだけどハッキシ言ってイエス様に子供がいるか、また奥さんがいるかは否定的でもないし、肯定的でもありません。私が肯定的でもなく否定的でもない理由は私が知るかぎり聖書にイエスキリストに子供、奥さんの存在を否定や肯定してないからです。  なぜクリスチャンの方々は聖書に書かれていないのにイエス様の奥さんや子供の存在を否定するのですか?理解できません。  だれか教えてください。  (すべてのクリスチャン方々が否定しているわけではないと思うけど)