解決済みの質問
家康は知略にたけ、タヌキと呼ばれていました。権謀術数型の底知れない男です。譜代の家臣団からも疑心暗鬼でみられていたこともあり、さらに外様大名や一般庶民から見ると、親しみや温かさがまるで感じられなかったといいます。全てに隙がなく、戦国の世を行き抜くための策略・政略を完全に身につけており、全く油断ならなかったのです。また目的のためには、人を陥れたり、犠牲にすることも平気であった、と思われていました。
3代将軍家光も利口で政略的なタイプです。もし、家康の後を家光、或いは家康的な人物が継いでいたらどうなっていたでしょうか。
強烈な専制君主で、油断も隙もない将軍が2代も続いたら、人々は心を許して徳川家についていくことはなかなか困難であったに違いないでしょう。どこかで、豊臣方の怨念が爆発したりして江戸幕府は破綻し、再び混乱が始まっていたに違いありません。
秀忠が2代将軍を継いだことは、緊張と緊張の間の緩衝剤
としてまさしく、天の配剤だったのです。戦国の世を再び繰り返さないーこれが家康の悲願であり、そのために長子相続制の徹底を断行し、その手本として秀忠に将軍職を継がせたことも考えられますが、それ以外にも、おそらく次代の将軍には、秀忠のような律儀さと人間的な温かさが必要であることを、家康は戦乱を生き抜いた知恵で直感的に見ぬいていたのでしょう。
また、秀忠の方も、家康の期待によく応えます。家康の方針をよく守り、親藩・譜代・外様などの複雑な大名・家臣の関係をうまくさばいたし、朝廷や仏教界の統制につとめました。優秀な家臣団に支えられていたとはいえ、彼らをよく信頼・服従させ、幕府の基礎を固めた役割は大きいです。
家康・家光に比べて、秀忠にはあまり歴史の光は当たりませんが、秀忠こそ幕府の基礎を築き、徳川260年の天下を支えた重要な人物です。そして家康・秀忠・家光と3代続く約半世紀の間に、徳川幕府の支配態勢はがっちり固められたのです。
投稿日時 - 2004-11-24 15:42:51
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ベストアンサー以外の回答(5件中 1~5件目)
(1)参勤交代のせいで各大名の経済力が衰えた。
(2)大名は家族を人質にとられていて、反乱を起こしにくかった。
などの原因が強いでしょうが、他の原因として私見を述べてみたいと思います。
鎌倉幕府は将軍ではなく執権北条氏が権力を握りました。
室町幕府も(後期になると)将軍ではなく三管領と呼ばれる補佐役、細川・斯波・畠山氏らが権力を握りました。
どうもトップよりもナンバー2のほうが実権を握ってしまうことが多いようです。
しかし、江戸幕府における政務担当の最高職は「老中」という役職なのですが、この役職は交代制で、任期が非常に短かったのです。徳川氏以外に長期の権力が及ばないようにしていたとか。このことも、江戸幕府を長期政権にした一因だと思います。
それから、元寇さえなければ鎌倉幕府はもう少し長く続いていたでしょう。「江戸幕府が長く続いた」と感じるのは、単に鎌倉幕府と室町幕府がそれより短かったからそう感じるのかもしれませんね。
投稿日時 - 2004-11-24 15:02:36
家康没後、徳川氏に対する対抗馬、それに匹敵する反対勢力はなくなったということが最大の要因ではないでないでしょうか?パワーの差です。
秀吉没後には、家康が。信長が横死したときには、戦国の群雄がまだ数多く割拠してました。
家康は、豊臣氏を滅ぼし、前田氏や加藤氏及び福島など外様も、領国的に眼中にないような領土を秀忠に残しております。もちろん#3の方の言われるとおり、領国的にも僻地に外様、主要箇所は、譜代及び天領と徳川の内輪で固めております。
更に、家康没後、徳川も外様も、戦争に長けた人物が払底しました。これでは反乱する気運がしぼみます。大平の時代に入ったのです。体制の領国の差、金力の差が歴然としては、長続きするのは必然です。
投稿日時 - 2004-11-24 10:47:57
大きな理由は2つあると思います。
まずは、徳川家康が幕府を開いた際、関ヶ原の戦で味方についたものに江戸近くなど要所に領地を配置し、敵方についたもの(外様)には領地取り上げもしくは遠方の領地に配置した事。
そして3代将軍家光が行った参勤交代。これを行う事により地方大名の資金蓄えを防ぎ抵抗する力を削いだ事。
どちらかというと後述の方が直接の理由かなとは個人的には思います。
確かに260年も続いたって事はすごいですよね。明治維新から今日まででもまだ150年も経ってないのですから。
今の体制があと100年も続くとは思わないし・・・。
そういう意味でも徳川幕府はすごいなぁ~と思います。
投稿日時 - 2004-11-23 22:34:08