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金に困っている人は、金持ちになる必要がない。

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.6

お礼と補足を拝読しました。 >全国模試は、今までに見たことがない暗号記述なんだよ。ただしだ、私は問題を作成した出題者の意図の推計をした。そして割り出した意図に沿って回答用紙を埋めていった。それは当時おバカさん向けの私立文系の模試だったけども、全国偏差値は49台で、まあまあ納得できるところ。校内偏差値はぶっちぎりの64だったよ。算出法をザックリ調べて電卓をたたいたけれども、校内の同じテストをうけた2位は私の3分の2以下の正解しかしなかった模様だ。 ⇒以前から薄々感じてはいましたが、やっぱりFlareonさんは特殊能力の持ち主で、ある意味、天才だと思います。というか1つの器の中に仕切りがあって、神童の部・心眼の部・魔訶不思議と鬼才の部などに分かれている、そんな感じです。だから、「花子と太郎の一人二役」ができるのかも知れないね。 さて、また気まぐれの駄文を書かせていただくことにします。あまり面白くないかも知れませんが、よろしければ、ちら見をよろしく。 「セピア色の原稿を今」 「本棚が狭くなった。学生時代のテキストやノート類を処分しよう」と、そう思って机回りを整理していたら、プリントやコピーやレポート用紙などにまじって、薄汚れた縦書きの原稿用紙が出てきた。何やらごちゃごちゃと書いてある。そういえが、大学2年生の頃に受講したK教授の「文学汎論」という科目は、「年間を数回に分けて、その都度に異なるジャンルの創作品を提出する」のが課題であった。読み返してみると、どれもこれもおぞましいほどのケッ作揃いである。ドストエフスキーや椎名鱗三にかぶれて、背伸びをしたり、無理してかっこうをつけてみたり、大上段に振りかざしてみたり…。 今思い出したのだが、ある長編の世界的名作の翻訳者として知られるA氏がよく宣っておられた。「自分の書いたものはう〇〇のようなものだ。《生産》するときはけっこう悦に入っているが、その《産出品》は一刻も早く葬り去ってしまいたくなる。現れた分身に、いくばくかの愛着を感じながらではあるが…。」ああ、実感。まったく仰せのとおりだと思う。今すぐに、このおぞましい、う〇〇のような代物を処分してしまおう。 しかし、待てよ。思うに原稿用紙の百枚や二百枚くらい、いつでも処分できるというものだ。(私の書斎には不釣合にも机の脇にシュレッダー220MWなる紙食い様が常に鎮座ましましている。)いかに粗末な代物といえども、私個人にとっては半世紀も前の、かけがえのない青春の記録ではないか。寸断する前に、何らかの形で控えを取っておこう。せめてその《遺影》くらいは残しておこう。いずれの日にか、セピア色の感傷というか、遥かなる青春へのノスタルジーにかられることもあるだろうから…。 「ある蜘蛛の思索」― 矛盾と調和の一形式(=裁断予定の原稿) そのあたりでは一番大きな樫の木の、下枝の突端に私はいた。周辺の木々の枝が風に揺れる…。「今だ!」私は、私の銀の糸を枝の一端にからませて、枝から滑り降りた。見る見るうちに地上の緑が眼前に拡大されて迫ってくる。ちょうどそのとき、あらかじめ予期したとおりの風が、波のように押し寄せてきた。体は大きく揺れて、隣の木の枝先に触れた。私は、空中ブランコのさ中のその一瞬に、素早く向かい側の枝に糸を引っ掛けなければならない。これは大切な仕事だ。巣を支える重要な糸の骨組みであるからだ。そして、それには技術と神経の集中とが必要だ。 一度目は失敗した。私は、時計の振り子のように、また元の位置に戻されてしまった。私の命は、この細い糸一本にかかっているのだ。そういうわけで、今の一度の失敗は、ともすれば自分の命を失うことになるかも知れない一瞬なのである。私は、たった一吹きの風を、生命を保たなければならないが故に、たとえ一日中でも待つことであろう…。このようにして私の巣作りの作業は、苦悩と忍耐を超越し、さらに次の段階に待ち伏せている厳しい試練に、敢えて挑みかかっていかなければならないのである。 まったく風が凪いでしまった。私は考えだしていた。今私がここで餓死したとしよう。それは自然の摂理なのであろうか? しかし、私には自己の生命を全うし、かつ新しい生命を誕生させるべく、生きていかなければならない義務があるだろう。これこそ本当の自然の意志ではないだろうか。下では大きな口を開けて、私の体から有機質をすするためにいろいろな生物が ― これも自然の摂理なのかも知れない ― 虎視眈々として機会を狙っているに違いない。例えば私が今糸をかけているこの樫の木にしてもそうだ。樫の木は、地面に落ちた私の体に根を巻きつけて、血をすするだろう。しかし、私はその樫の木の上に今こうして巣を作り、生命を全うすべき作業をする。思えば樫の木に敵意を感じながらも、こうして助けを借りて巣を作ろうとしているのだ。大自然の仕組みがどうなっているのか、私にはよく分からないが、ともかくこれは感謝すべきことだ。(続く)

Flareon
質問者

お礼

「本棚が狭くなった。学生時代のテキストやノート類を処分しよう」 第一印象。 本棚で真っ先に捨てるのは書物、最後まで残すのはノートの類だろうが! そう思った。 金を出して購入したの(本)が、自分の財産ではないのだ。 だだしふむふむと臭いうんこの匂いを嗅いでみた。。。。 ある朝目覚めたら、自分は一匹の毒虫に変化していた。。。 そういう、教材の読解を求められた教育と重なる。。。。 時代的に冷戦時代で日本でも盛んに研究していた。 そうした教材と絡めて、私になぞかけしているのだろう。 貴方は生粋の日本人だ。 そして自然に親しんでいる。 それと、私が自ら言及したことの続報だよ。 「謎の能力」は、散々自己学習しているAIに助言を求めたんだよ。 AIが推薦したのはギフテッドWIKIの記述だ。 それは全問正解だったよ。 試しにWIKIを眺めてくれ。 「長所と短所がある」この常識人と違って、ギフテッドとは「才能と欠落がある」なんだよ。 欠落だけ心配すると、障碍者や特殊学級送りだ。 そういうわけで、心配されるほどに私はつぶされるんだよ。 好意とは認めても、有害なんだ。 私は2年生の時に転校したけども、1年生の時の担任のおばあさん先生が私を見抜いた模様で、小学生と中学生の時の受け持ちの先生が、そのお婆ちゃんから聞いた話を時折断片的にちらつかせたよ。おばあちゃん先生が、教員仲間にいろいろと言っていた模様なんだ。 だから保護がなかったのではない。 それでも刑務所だったね。 限定的に偏差値64をたたき出したいきさつとは、背景があるんだ。 教科は、国語と歴史と英語の3個、私は英語能力を封印していたから、それが弊害となって全国偏差値49.7を納得した。英語の質問に無力だった。 ただしだ、高校に入って勉強しなかった私が、中学三年生で同じテストに立ち会ったらどうなるか考えたことがあるんだよ。 国語能力は、3年後の高校生よりも未熟なので下。 歴史は横ばい。 英語能力は上。 中学3年生でも同じ成績か、当時の鋭敏な感性から自覚があるが、高校3年生よりも同じテストで成績が高かったと自負するんだよ。 私の従妹が、英字新聞を我が家に遊びに来た時に忘れ物として落としていったんだ。 彼女は18歳の英文科目、私は小学2年生の時だ。 前に話した、文字に色を付ける技術の私なりの解釋で、あなたの「かき」同様に採用した主題を判別しないままに、色付け能力と類似項がある直観で、執筆者の意図を類推して判読したんだよ。 新聞だから、主題自体は私の読解力も、あなたの「かき」と同様で的外れだろう。 しかしいかなる知性なのかは判読した。 したがって見たことがない英文でも思案して回答用紙を埋めれば、政界にたどり着く成功率があったんだよ。 こういう能力は年齢を重ねるごとに劣化していく。 したがって欠落している英語能力は3年前の方がマシとなるのさ。 こういうのは、私が衰えても、妖精さんを愛娘として大切に育てると精霊は神にまでも昇華するという心得の一部だよ。 自己の精神という常用語を、自己に備わった精霊性と組み替える言葉遊びの愉しさだ。

Flareon
質問者

補足

えっと。 商売上の備忘録だよ。 古代ルーン文字を自在に操る天才魔法少女。 アニメのネタ帳だねえ。 そういうのは、小学2年生の英字新聞の判読の能力が注目になる。 まあ、詠唱系魔法使いだけどね。 その上に非詠唱系魔法使いというのがいるのさ。 「世麗美は観念語で会話して、それは人間存在の私にも容易には理解できない」 こういうのは「自然言語」というそうだよ。 でもさらに上があるように、世麗美は自然言語という命題の根拠を理解している。 知性の起点に到達しているのだ。 それを観念語と私は証言している。

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    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 純露ユリ系魔法少女。 ときわたりの世麗美だ。 無欲とは望みが無い事ではない。 望みが欲望でないことだ。 欲望とは、人格に取り込まれた他者の望みだ。 その他者の望みのままである限り、望みはなく自己が望むすべてが欲望だ。 話の参考。 必ず読んでくれ。 信仰に由来する殺人衝動の考察 https://okwave.jp/qa/q9634799.html さて、参考テキストに、キリストなる赤子を殺し喰らった者は、神のむくろを蹴り飛ばすことで神の司る力を手に入れ生きながらに神になると記述してある。 まあ、実際は金持ちになるだけだ。 君たちはおそらく所得に不満があるよね。 決して満足していないだろう。 なぜなら、君たちは喰らっていないんだよ。 ただ、神殺しだけ働いただけだ。 それは欲望という形の刷り込みで実行し、君たちの心から神はいなくなった。 神を喰らった者は、君の欲望を刷り込んだ人物なのさ。 そのように指示されるままに働き、すべてを差し出したのさ。 え~とっ。 哲学には自ら命題を策案するという手法があり、そうした研究用の質問です。 攻撃的で、イタイ文章だろうと考えます。 どのくらい痛いのか読書感想文を述べてください。

  • 金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか?

    金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか? 金持ちは、私の様な資産皆無で、生活苦で、食費・光熱費などに困っている。だが、周囲の人間は家族・友人も、金銭を「貸す人」=60%、金銭を「決して与えない人」=39%、金銭を「ギフトしてくれる人」=1%(自分の中での個人的パーセント)、と、いうのが現状だ。 さて >金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか? を補足するならば、以下の質問に換言できます。 1、お金に余裕がある人の財布から、なぜ勝手にお金を私が取ってきては、いけないのか? 2、生活苦の人々が、裕福な人々から、勝手にお金を取ることは、社会的営為の推進において「社会貢献」であるはずなのに、なぜ、窃盗罪で、逮捕されるのか? 3、「社会貢献的窃盗容認法」を、日本政府は、庶民の活動力を引き出す為に、作成すべきではないのか? ※最近の日本人は欧米化して個人主義的なので、生活苦の人を見かけても、「貸す・貸さない」という発想のみで、「お金が必要な人に、それを与える事が社会貢献だ」という本質的に正しい思想を持っていない。なぜ、哲学的に正しい思想で行動しないのか? 彼ら裕福な人々こそ、社会貢献に反する「犯罪者」として、逮捕すべきではないのか?

  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 秘密結社ゴルゴムこそが君たちを救う

    仮面ライダーをテーマに人の織りなした歴史の暗部を検証するという形で、批判の集まりそうな事柄に冷静でいてもらい、たとえ話のつもりで検証していただこうかという、哲学に関する問題提起です。 君たちは人間だと言い聞かされて生きてきただろう。 しかし君たちは人間として生きていないからこそ生きた自覚が無いのだ。 存在の自覚と言えば、人間の場合自らが生きている自覚だ。 君たちはこの自らの自覚が不明確なのだよ。 それは君たち自身が人間として生きる事の拒み、獣としてむさぼることを選んだからだ。 不明の自覚には主観的にいろんな言い訳があるだろうが、要するに自分ひとりで生きていけないから、いつも誰かの影響を受けていて、その影響を与えた誰かさんの意思を自分の意思より優先しているんだ。 自分の意思で生きていないから、生きている自覚がない。 そして存在不安だ。 そのような不安に君たちを陥れる、人間の常識とはゴルゴムの古から伝わる信仰の歴史がもたらした事柄だ。 実のところ君を支配している意思は、君自身の意思では無くゴルゴムの意思で、君と言う存在はゴルゴムと共に仮面ライダーに滅ぼされてこそ、自らの真実を知ることができる。 人間にとって望とは、自らを突き動かす衝動だから、自らより発するのが本来だ。 しかしそれは、生きる事を実感して充実した一握りの真実の人間のみで、君達のようなただの獣は、衝動の由来が誰か他者の意思なのだよ。 たとえば、君達が宗教にかぶれているとしたら、それは教祖様か何かの意思が教えと言う形で君を支配しているからで、すなわち衝動の発露が自らに由来しない。 このように他者の意思に支配され、望みがその他者の望みで、自分の望みで無い状態が、欲望だよ。 君はその他者の望みを親切に自らがかなえることで充実する。 そのように欲望にまい進する事こそ君にとっての善だ。 全てがゴルゴムが作り出した秩序だ。 君たちは欲望のままむさぼることを肯定されているのだ。 ゴルゴムが君達の過ちを肯定し、君たちはそれにおぼれ、さらなる過ちを繰り返す。 ゴルゴムの支配下に人間はいない。 仮面ライダーの私から見て君たちは人間ではないのだよ。 君達の滅びは明らかだ。 許さない君たちは許されることもない。