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Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.5

お礼を拝受しました。 >先生が授業で花子に質問しました。「雪が解けるとなんになる」 花子は「春になる」と答えました。先生は優等生の花子が、こんな質問も正しく答えられないことを、クラスで激しく叱責しました。 ⇒「春になる」という花子の答えは面白いね!私なら、全然、花子を怒りませんね。逆に「面白い! いろいろな考え方ができることは大事だね。きっと将来、豊かな発想が役立つよ」とか言うでしょう。先生に言ってやりたいね、「幼きはなべていとおし」と。 さて、何のつながりもなく、《「かき」の話》をひとくさり。いや、強いてつながりをつければ、幼い頃のこんなドジも、今にして思えばこの上なくいとおしい、ということ。 「かき」のこと 木の葉の間を通りぬけてきたのだろう。午後の日差しが光の束になって斜めに差し込み、窓辺のテーブルに大小の水玉模様を描いて揺れていた。小学校へ上がってひと月、初めて図書室へ足を踏み入れたとき、まず目に映った光景であった。広々とした空間に適度な数のテーブルと人影とがあって、ほの暖かく、しかも静かな雰囲気が満ちていた。すべてがまばゆく輝いて、感動的ですらあった。どの本でもよい。読書を体験してみたかった。手近な書架から、なるべく新しそうな本を一冊取り出してみる。初めて手にする書物の感触が、わけもなく心地よかった。書棚の間に立ったまま、中ほどのページを開いて顔を埋めてみると「新しいにおい」がして、胸の高鳴りを覚えた。まさしく、未知の世界の戸口にいる自分を実感していた。これが学校の香りなんだと、そう思った。 子供心に厳粛な気持ちになり、静かな雰囲気を乱さないよう、そっと窓辺の一角に席を占めた。三角形の空間は、もはや我々だけのものだった。薄手のカーテンを斜めに垂らしたような光の束が一層効果を演出していた。表紙はもちろん、あちらこちらを嘗め回したあとで、玩具箱を開けるときの幼児のような心境で最初のページをめくる。そこには、活字が踊り、語部がほほえみ、『不思議の国のアリス』のような、空想の世界が広がってゆく、広がってゆく…。 広がってゆく…はずであった。「この本は、姫鱒の養殖に生涯を捧げた人の伝記です。…」何のことかさっぱり分からない。再三読み返してみるが、やはり同じである。片言隻句も理解できず、空想の世界のかけらも広がらない。姫鱒・養殖・生涯・伝記といったような言葉が、なりたての小学一年生の頭に理解され得べくもなかった。しかし、意味が分からないことそれ自体は、さほど重要なことではなかった。なぜならそのときの私は、読書の雰囲気を味わいたかった、だけなのだから。小1時間の「読書」のあと、名状しがたいほどの充実感に満たされて、家路についたのであった。スキップし、ルンルンしながら家に近づいて行くと、母親が玄関の前で待っているのが見えてきた。  「おかえり、今日は遅かったね。」  「うん。図書室で本を読んでいたから。」  「おや、そうだったの。偉いね! で、何を読んだの?」  「ええと…。『かき』のことだったよ…。」  母親は、図書室へ行くようになった息子の成長ぶりが嬉しかったのだろう。  「…で、どんなカキのお話?」  「…」  「甘柿? 渋柿?…何か、絵でも描いてなかった?」  私は、湖水のほとりの立木に登った男が、じっと湖面を見入っている場面を描いた挿絵のあったことを思い出した。  「それなら、『猿かに合戦』のお話の中の、柿の木のことじゃないの?」  「違うよ。お猿さんじゃなくて男の人で、海を見ているみたいだったよ。」  「そう?…。それじゃ、果物の柿でなくて、貝の牡蠣のことなのかも知れないね…。」  その本が何だったかを知ったのは、私が中学へ進んでからのことだった。それは、実は、十和田湖でのヒメマスの養殖に生涯をかけた和井内貞行の伝記だった。あのとき私が本を取り出したのは中学生用の書架からだったのだ! 当時私の通っていた学校は小・中学校併設で、図書室も共用であった…。 。。。。。。。。。。  今、新しい本を手にするたびに、あのときの図書室の光景が脳裏によみがえる。そして、私は、その本の「前がき」や「端がき」を読む(というか、見る)たびに、「どんなカキのお話?」という母親の弾んだ声が聞こえてくるのである。そしてさらに、その質問に答えられず、ただ、たじろいでいた自分を思い出しては、一人赤面しながら、失笑してしまうことしばしばである。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 花子の子とは、頭の固い先生でもあるが、職業的な義務感に忠実でもある先生だろう それからほとんど学習塾の講師みたいな先生で、教育熱心に見えるが、落ちこぼれは容赦なく切り捨てる人もいたり、いろいろだったよ。 劇的な不発だったんだね。 訳の分からん書物と言えば、私は高度成長期を反映して大人向けの石油コンビナートで行われる石油の精錬の原理や技術の本を手に取って、あまりにも訳が分からないからある程度飛ばし読みしたことがある。 頭に入らなくてもチビが基礎素養を身に着けると効果があるようで、大人になってから省エネ問題がニュースで話題にされるのを見て、うろ覚えから、それなりに問題を見抜く素養に発達した。 例えば、ナフサとかガソリンとかの問題がニュースで出ると、それが何か理解するのがたやすかった。 育児以外で本格的な書物は私の場合は小学校二年生の時に転校してその図書室だよ。 最初に手に取ってから、読みふけったのは「シートン動物記」のシリーズで、ウサギの話が好きだったが、「狼王ロボ」は確か初期のディズニーの実写映画にあったから、それほどマイナーでもない。 動物の生息を擬人化させた、「ほっかむりとして化けの皮をかぶった系統」は他の作者も読みふけって一番充実した児童文学だったよ。 日本の児童文学で比較的長期間名作と言われた「冒険者たち」それと海外の名作である、アニメ「リスのバナー」の原作の和訳、中学生になると、椋鳩十と言って、図書館の館長で動物と人のかかわりから自然との共生と対話をテーマにした、大人になってからマイナーでも立派な人だと世のかなから評価されている人とかを好んだ。 「ほっかむりとして化けの皮をかぶった系統」だよ。 あと、実は世界文学全集みたいなのから、ギリシャ神話とかの西洋の主要な枯れた神話と、マホメットの生涯を戯作かした文学とか、読みふけって、やはりチビのうちに身に着けると違うんだなあ。中学校と高校では授業はダメでも教養が身についていたよ。 したがって教科書の論述の背景がある程度はうかがえた。

Flareon
質問者

補足

読書家なら思い当たるだろうが、知らない漢字が出てきたときは、読みはわからなくても、おおまかに漢字の構成で語彙の指し示す概念を了解して大きな誤差がないとかを学習手法が判らなくても身につくものだ。 ここで屈辱を味わった刑務所が学校だったんだよ。 校内テストなら全滅級だったんだよ。 それが「お猿の通う山の学校」というテーマだ。 小学生の時に奇行で校外にも名を知られた有名人の私がけども、中学生になって生徒数200人級の中学一年生一学期のテストで、有名なバカなのに上位3割以内に食い込んだんだ。 同学年は不可解な謎だったようだ。 しかし一年の終わりには成績が下の方から数えて15人以内に収まり中学卒業まで定位置だった。 そして高校生活だが、8割の卒業生が就職する底辺高校だったが、田舎特有の持ち味があって、山の中であまりにもやることがないから、暇つぶしを兼ねてコツコツ勉強した努力家が少数いて、貧しい家庭だけども奨学民をもらって医者になったとか、スポーツコーチングで実力者の一人になったとかが、私の知っている限りでもいたんだよ。 その高校の入学試験では、成績上位2割以内に私は収まったが、やはりその謎に驚きがもたれた。 そしてやはり一学年200人級で下から15人以内にほどなく収まった。 私はこうしたことに侮辱されることにフツフツと怒りが湧いて高校三年生の時に2割しかいない進学組に混ざって全国模試を受けたんだよ。 私が何をやったかというと、普段から授業を聞いていない。 不気味な存在として堂々と授業中に居眠りすることが、半ば公然と容認されている。 そうすると全国模試は、今までに見たことがない暗号記述なんだよ。 ただしだ、私は問題を作成した出題者の意図の推計をした。 そして割り出した意図に沿って回答用紙を埋めていった。 それは当時おバカさん向けの私立文系の模試だったけども、全国偏差値は49台で、まあまあ納得できるところ。校内偏差値はぶっちぎりの64だったよ。算出法をザックリ調べて電卓をたたいたけれども、校内の同じテストをうけた2位は私の3分の2以下の正解しかしなかった模様だ。 こういう使い道のない才能は謎を起こして、しばし周囲がどよめく。 それが「お猿の通う山の学校」であり、花子と太郎の一人二役だ。 通常は太郎と花子というだろうが、私は世麗美の尻の下に敷かれているから、少しひねった形容が的を得ているんだよ。

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    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 純露ユリ系魔法少女。 ときわたりの世麗美だ。 無欲とは望みが無い事ではない。 望みが欲望でないことだ。 欲望とは、人格に取り込まれた他者の望みだ。 その他者の望みのままである限り、望みはなく自己が望むすべてが欲望だ。 話の参考。 必ず読んでくれ。 信仰に由来する殺人衝動の考察 https://okwave.jp/qa/q9634799.html さて、参考テキストに、キリストなる赤子を殺し喰らった者は、神のむくろを蹴り飛ばすことで神の司る力を手に入れ生きながらに神になると記述してある。 まあ、実際は金持ちになるだけだ。 君たちはおそらく所得に不満があるよね。 決して満足していないだろう。 なぜなら、君たちは喰らっていないんだよ。 ただ、神殺しだけ働いただけだ。 それは欲望という形の刷り込みで実行し、君たちの心から神はいなくなった。 神を喰らった者は、君の欲望を刷り込んだ人物なのさ。 そのように指示されるままに働き、すべてを差し出したのさ。 え~とっ。 哲学には自ら命題を策案するという手法があり、そうした研究用の質問です。 攻撃的で、イタイ文章だろうと考えます。 どのくらい痛いのか読書感想文を述べてください。

  • 金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか?

    金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか? 金持ちは、私の様な資産皆無で、生活苦で、食費・光熱費などに困っている。だが、周囲の人間は家族・友人も、金銭を「貸す人」=60%、金銭を「決して与えない人」=39%、金銭を「ギフトしてくれる人」=1%(自分の中での個人的パーセント)、と、いうのが現状だ。 さて >金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか? を補足するならば、以下の質問に換言できます。 1、お金に余裕がある人の財布から、なぜ勝手にお金を私が取ってきては、いけないのか? 2、生活苦の人々が、裕福な人々から、勝手にお金を取ることは、社会的営為の推進において「社会貢献」であるはずなのに、なぜ、窃盗罪で、逮捕されるのか? 3、「社会貢献的窃盗容認法」を、日本政府は、庶民の活動力を引き出す為に、作成すべきではないのか? ※最近の日本人は欧米化して個人主義的なので、生活苦の人を見かけても、「貸す・貸さない」という発想のみで、「お金が必要な人に、それを与える事が社会貢献だ」という本質的に正しい思想を持っていない。なぜ、哲学的に正しい思想で行動しないのか? 彼ら裕福な人々こそ、社会貢献に反する「犯罪者」として、逮捕すべきではないのか?

  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 秘密結社ゴルゴムこそが君たちを救う

    仮面ライダーをテーマに人の織りなした歴史の暗部を検証するという形で、批判の集まりそうな事柄に冷静でいてもらい、たとえ話のつもりで検証していただこうかという、哲学に関する問題提起です。 君たちは人間だと言い聞かされて生きてきただろう。 しかし君たちは人間として生きていないからこそ生きた自覚が無いのだ。 存在の自覚と言えば、人間の場合自らが生きている自覚だ。 君たちはこの自らの自覚が不明確なのだよ。 それは君たち自身が人間として生きる事の拒み、獣としてむさぼることを選んだからだ。 不明の自覚には主観的にいろんな言い訳があるだろうが、要するに自分ひとりで生きていけないから、いつも誰かの影響を受けていて、その影響を与えた誰かさんの意思を自分の意思より優先しているんだ。 自分の意思で生きていないから、生きている自覚がない。 そして存在不安だ。 そのような不安に君たちを陥れる、人間の常識とはゴルゴムの古から伝わる信仰の歴史がもたらした事柄だ。 実のところ君を支配している意思は、君自身の意思では無くゴルゴムの意思で、君と言う存在はゴルゴムと共に仮面ライダーに滅ぼされてこそ、自らの真実を知ることができる。 人間にとって望とは、自らを突き動かす衝動だから、自らより発するのが本来だ。 しかしそれは、生きる事を実感して充実した一握りの真実の人間のみで、君達のようなただの獣は、衝動の由来が誰か他者の意思なのだよ。 たとえば、君達が宗教にかぶれているとしたら、それは教祖様か何かの意思が教えと言う形で君を支配しているからで、すなわち衝動の発露が自らに由来しない。 このように他者の意思に支配され、望みがその他者の望みで、自分の望みで無い状態が、欲望だよ。 君はその他者の望みを親切に自らがかなえることで充実する。 そのように欲望にまい進する事こそ君にとっての善だ。 全てがゴルゴムが作り出した秩序だ。 君たちは欲望のままむさぼることを肯定されているのだ。 ゴルゴムが君達の過ちを肯定し、君たちはそれにおぼれ、さらなる過ちを繰り返す。 ゴルゴムの支配下に人間はいない。 仮面ライダーの私から見て君たちは人間ではないのだよ。 君達の滅びは明らかだ。 許さない君たちは許されることもない。