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金に困っている人は、金持ちになる必要がない。

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.1

畑 茂夫(@Flareon)さん、ユーザーIDが変ったのでしょうか? 以下のとおりお答えします。 >お金に困っている人って、現実的ならば出費を抑えるとかの他に、さらに有効なのは今より高度な計画性を獲得るように生活上の努力で自己改変するのがよかったりで金がないことを理由にむやみに他者にすがってはならないものだ。 ⇒まあ、そうですね。同意します。ただ、ボクの十歳代はひどかったなあ。つくづく、「衣食足りて礼節を知る」の意味を、改めて認識したという思いでしたよ。(どんなにひどかったかは、あとで書きます。) >社会的な生命である人は同じ人とつながって人間となる。 そうすると、一番認識しやすいのは、精神に内包する心理学的な形容の客体が他者の意志となる。欲望というのは、客体が起源である「誰か他者の望み」であって「自己の望み」ではないんだ。 そうすると無欲とは何かと言おうと「望がない事」ではない。「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 ⇒なるほど、素晴らしい理念ですね。こんな格言を聞いた覚えがあるよ。「人間は人間に生まれるのではない。人間になるのだ」とね。これといくぶん、いや、かなり通底するものがあるんじゃないかな。 >他者から欲望をもらわないためには、自分も他者に欲望を抱かないことが大切だ。そういうと、哲学者には面白いヒントだろうけども、出来るわけがないとか考えるかもしれない。やればできると言いたいところで、その場合に集約するのが「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。そうするとどうなるかというと、自己の意志行為と言及の誠実さが、結局は周囲に影響を与えるが、それは大抵の場合で良い結果になる。 ⇒今、ボクは、何とか人並みの暮らしができるようになったので、戦争とか地震、台風などで被害を受けた方々は、「もう一人の自分」と考えて、できる限り(つまり、無理のない範囲で)寄付を心がけている。かつていろいろな方面から助けてもらった、せめてもの恩返しの一部になればと、思ってね。 >さて、奇人変人のたまり場である哲学カテゴリーで、自分で命題らしきものを土産物に作成しました。 研究を作に進めるために、なんらかのご回答をお願いします。変人同士ですので、意味不明の喚き散らしも風物詩として歓迎いたします。 ⇒「奇人変人」(と認める者)の習いだ。以下、勝手に「少年期の自分史―ああ、赤貧の思い出」を書くよ。相変わらずの気まぐれだけど、一瞥してくれたら嬉しい。 「ああ、赤貧の思い出」(その1) 辺鄙な片田舎に暮らしていた。小学校高学年の頃までは、どちらかと言えば豊かなほうだったと思う。そんなある日、父親が急死した。日銭の稼ぎ手がいなくなると、途端に貧しくなった。泣き面に蜂。その上、裏小屋に備蓄していた食料をごっそりまとめて盗まれ、一家もろとも餓死の寸前に陥った。終戦後間もない頃で、世間一般に貧しかったが、それに輪をかけて、「爪に灯をともす」暮らしを強いられることになった。 エンゲル係数百%の暮らしであった。いや、百%でも足りなかった。浅ましさの極みだが、何でも貪り食った。桑の実や野イチゴは最高級のご馳走だった。サツキの花を摘んで何枚も重ねて頬張ると、口の中がピンクに染まったものだ。(ちなみに、ツツジはサツキに似ているが食用にならない。お疑いの向きは池の鯉にでも聞いてみられたい。)「ケンポ」と呼ぶ、甘い味のする木の枝があって、それはそれは「バカウマ」であった。バームクーヘンよりもクーヘン的だった! ただし、今考えると、それが何の木だったのか皆目見当もつかない。 植物だけではない。イナゴやタニシは一大珍味である。ドジョウやヘビはとびきりの滋養食である。ハチの子やイモムシの類だって、こんがり炙れば香ばしい味がする。燻製仕立てならもうほとんどグルメの世界だ。しかし、常に動物性タンパクに恵まれるわけではない。時にはあらぬものを「捕食」する。例えば、夏の風物詩のヌシだ。「静けさや岩にしみいる…」などと風流を決め込んではいられない。ヌシの死角(真下)から垂直にそっと手を伸ばして、パッと押さえる。串に刺して火にかざす。まず羽がチリチリ、続いて手足もチリチリ…。「ナンマンダブ、ナンマンダブ」、ふーっとひと吹きして、塩を振って、パクリとやる。あ、うっ、ま、まずい! 何とも名状しがたい味だった。 パールバックの『大地』を読んで感動したのはこの頃である。その大地(中国)が飢饉に襲われると、草一本生えなくなる。農民は、食べるものが何もなくなり、ついには、何と、泥を食べる。そのくだりを読んで、いかに勇気づけられたことか!「オレはまだ泥は食ってない。泥を食うまでには間がある。当分の間餓死することはあるまい」と。おかげで、少々の空腹には動じなくなった。(その2へ続く)

Flareon
質問者

お礼

参加してくれてありがとう。 IDについては指摘されて気が付いたけども、運営者がシステム変更で表記を変えたのだろう。 今回の件は質問後に主文が仏教的で日本人的な事に気が付いたよ。 どこがそうかというと、煩悩という言葉がさすことの説明に力点が置かれて、食事、安全、などの本来の欲望の必然性を飛ばしている。その点は欲望に関する仏教的な国際社会での少数派の見解になるだろう。 自己学習をAIと行っているからそれに気が付いたよ。 そして説明内容は欲望でなく煩悩についてだ。 さらに本来の承認されるべき欲望と別に、「遊ぶ金が欲しい」「贅沢する金が欲しい」この手の事柄を主題にしている。 そこで考えたけども、必然性が無いことに欲望を感じて、むしろ自分の生活が追いつめられるとはいかなる事態なのかと考えたよ。 下の方の記述の手記は面白いよ。 私は昭和45年生まれだけども、昭和30年代生まれの子供から見て大きな先輩は、生活の全てと社会そのものが貧乏で当たり前だったり、7人兄弟で唯一の男性だった父のもとに訪れる叔母たちが、子供のまえで自分の子供時代の話をすると、楽し気に思い出を語るのに戦争の影がちらつかなくても、戦前の経済などは庶民にとっていかに過酷なのか、世の中で多く語られる戦争の惨禍以外に、窮乏が当たり前の日常生活であることに子供ながらに驚いた。 貴方の年齢は私の父と近い模様だけども、父の子供時代の話には、腹は減ったけども蛇は食べたことがなかったとかの話があったなあ。 野イチゴは私の地方では「蛇いちご」という名前で、毒があるとうわさされて子供が食べないように教育していた。彼岸花の球根と同じ扱いだよ。 父は蛇は食べなかったけども、やはり窮乏が深刻な世相で、たまたま通りがかった、知らぬ家のニワトリの巣箱を野良猫が荒らしてニワトリを狩ったら、激高した家主が野良猫をたたき殺して、さらに偶然友達と通りがかっただけの、子供時代の父と友人に、たった今コロシを行ったばかりのおっかない形相で、そこで待って居れと言って、父は怖いから言われたとおりに待っていたら、猫肉の串焼きを家で調理してから持ち出してきて、子供に食えと言ったそうだ。あんまりおっかなかったから食べたそうだ。 猫肉はその後の人生においても、唯一の経験だそうだ。

Flareon
質問者

補足

今回は自習も交えて準備したから、世界の信仰の中で欲望を否定するのは少数派で仏教位なものという事を踏まえている。ビングから教えてもらった。 例えばさ、あなたの何でも食べる子供時代の話と、それを成し遂げる生存のための旺盛な活力こそ、欲望の代表的事例だというのが世界の流れで、かつ欲望という言葉の使い方のようなんだよね。 全然そうは思わなかったんでないだろうか。 貴方の快活な手記や物語のような話は、そうしていることが当然でかつ生きるための活力だと知らない世代には尊敬を感じるし、年寄りから聞いて大人になっても楽しい話だよ。 それを欲望の最もいうのは、失礼もあるだろうが、言葉の使い方としてそのようなんだよ。 したがって「もっと遊ぶ金が欲しい」「もっと贅沢する金が欲しい」否定する欲望の言及はこういう無駄なことに偏っているし、実際は煩悩を研究している。 これは、私も質問を投稿してから、難解な質問でつじつまが合っていないと自覚したことだ。 それから、関係ないけど撤収する他の質問を備忘録としてこの下に張り付けるよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 妖精さん物語「堕天使のもたらす破壊」 私はアニメや漫画に使えそうなネタ帳を趣味で作るのが好きで、今回はその一つだ。 定番のあいさつだと(変則パターン)、私は自己を観念に昇華させるために、自分の分身を観念に放り込んだ。そのイケニエの名は「地の聖霊 ときわたりの世麗美」という。 西洋の「天の聖霊」の対局で、要するに堕天使だよ。 背景をすっ飛ばして、今回ネタ帳に加えたい話というのは、キリスト教圏には「キリストなる聖霊の宿り」というのをもたらす存在がいる。 「正当なるキリストの証」の発行権利者だ。 ただしだ、「キリストの証の亜種」というのを域外から発行できる天使に似た存在が2柱ある。 「天使(扱い)ウリナル」と「ときわたりの世麗美」だ。 なにが起きるかというと、私が勅命で渋々キリストを認めると「アマテラス臣下のキリスト」という瞬間芸が出来る。活動時間は私がまたしても人格交代した時だけだ。 ウリナルの方は「ダビテ臣下のキリスト」なんだよ。 これは、域外で「始点」と「終点」をすでに囲い込んだ状況が成立しているんだ。 その間に挟まって「正当なるキリストの証」の発行権利保持者が大慌てしているんだよ。 最後の審判が起動可能な条件整備が終了したのでね。 いやねえ、おかげで誤解が横行しているんだよ。 挟み撃ちが仕掛けられているから、万事休すだと判断している模様なのだが、囲い込んでいる2柱は「最後の審判」とかいうのをもたらそうなんて考えていないんだよ。 しかし彼らは自分たちが最後の審判を言い出したので慌てふためいている。 「キリストの証の亜種」の方は最後の審判の影響を受けないから、悠々と執行すると勘違いしておびえているんだ。 とことん悪魔だと思い込みたい模様なんだよ。 「正当なるキリストの証」の発行権利者は、人間の「暫定キリスト候補」とでもいうのを世麗美が丹念に域内を調査したら、主要人物だけで3000人ほど作ったとさ。

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    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • あなたの心になぜ神が不在なのかの考察

    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 純露ユリ系魔法少女。 ときわたりの世麗美だ。 無欲とは望みが無い事ではない。 望みが欲望でないことだ。 欲望とは、人格に取り込まれた他者の望みだ。 その他者の望みのままである限り、望みはなく自己が望むすべてが欲望だ。 話の参考。 必ず読んでくれ。 信仰に由来する殺人衝動の考察 https://okwave.jp/qa/q9634799.html さて、参考テキストに、キリストなる赤子を殺し喰らった者は、神のむくろを蹴り飛ばすことで神の司る力を手に入れ生きながらに神になると記述してある。 まあ、実際は金持ちになるだけだ。 君たちはおそらく所得に不満があるよね。 決して満足していないだろう。 なぜなら、君たちは喰らっていないんだよ。 ただ、神殺しだけ働いただけだ。 それは欲望という形の刷り込みで実行し、君たちの心から神はいなくなった。 神を喰らった者は、君の欲望を刷り込んだ人物なのさ。 そのように指示されるままに働き、すべてを差し出したのさ。 え~とっ。 哲学には自ら命題を策案するという手法があり、そうした研究用の質問です。 攻撃的で、イタイ文章だろうと考えます。 どのくらい痛いのか読書感想文を述べてください。

  • 金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか?

    金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか? 金持ちは、私の様な資産皆無で、生活苦で、食費・光熱費などに困っている。だが、周囲の人間は家族・友人も、金銭を「貸す人」=60%、金銭を「決して与えない人」=39%、金銭を「ギフトしてくれる人」=1%(自分の中での個人的パーセント)、と、いうのが現状だ。 さて >金持ちからお金を「盗む」のは犯罪なのか? を補足するならば、以下の質問に換言できます。 1、お金に余裕がある人の財布から、なぜ勝手にお金を私が取ってきては、いけないのか? 2、生活苦の人々が、裕福な人々から、勝手にお金を取ることは、社会的営為の推進において「社会貢献」であるはずなのに、なぜ、窃盗罪で、逮捕されるのか? 3、「社会貢献的窃盗容認法」を、日本政府は、庶民の活動力を引き出す為に、作成すべきではないのか? ※最近の日本人は欧米化して個人主義的なので、生活苦の人を見かけても、「貸す・貸さない」という発想のみで、「お金が必要な人に、それを与える事が社会貢献だ」という本質的に正しい思想を持っていない。なぜ、哲学的に正しい思想で行動しないのか? 彼ら裕福な人々こそ、社会貢献に反する「犯罪者」として、逮捕すべきではないのか?

  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 秘密結社ゴルゴムこそが君たちを救う

    仮面ライダーをテーマに人の織りなした歴史の暗部を検証するという形で、批判の集まりそうな事柄に冷静でいてもらい、たとえ話のつもりで検証していただこうかという、哲学に関する問題提起です。 君たちは人間だと言い聞かされて生きてきただろう。 しかし君たちは人間として生きていないからこそ生きた自覚が無いのだ。 存在の自覚と言えば、人間の場合自らが生きている自覚だ。 君たちはこの自らの自覚が不明確なのだよ。 それは君たち自身が人間として生きる事の拒み、獣としてむさぼることを選んだからだ。 不明の自覚には主観的にいろんな言い訳があるだろうが、要するに自分ひとりで生きていけないから、いつも誰かの影響を受けていて、その影響を与えた誰かさんの意思を自分の意思より優先しているんだ。 自分の意思で生きていないから、生きている自覚がない。 そして存在不安だ。 そのような不安に君たちを陥れる、人間の常識とはゴルゴムの古から伝わる信仰の歴史がもたらした事柄だ。 実のところ君を支配している意思は、君自身の意思では無くゴルゴムの意思で、君と言う存在はゴルゴムと共に仮面ライダーに滅ぼされてこそ、自らの真実を知ることができる。 人間にとって望とは、自らを突き動かす衝動だから、自らより発するのが本来だ。 しかしそれは、生きる事を実感して充実した一握りの真実の人間のみで、君達のようなただの獣は、衝動の由来が誰か他者の意思なのだよ。 たとえば、君達が宗教にかぶれているとしたら、それは教祖様か何かの意思が教えと言う形で君を支配しているからで、すなわち衝動の発露が自らに由来しない。 このように他者の意思に支配され、望みがその他者の望みで、自分の望みで無い状態が、欲望だよ。 君はその他者の望みを親切に自らがかなえることで充実する。 そのように欲望にまい進する事こそ君にとっての善だ。 全てがゴルゴムが作り出した秩序だ。 君たちは欲望のままむさぼることを肯定されているのだ。 ゴルゴムが君達の過ちを肯定し、君たちはそれにおぼれ、さらなる過ちを繰り返す。 ゴルゴムの支配下に人間はいない。 仮面ライダーの私から見て君たちは人間ではないのだよ。 君達の滅びは明らかだ。 許さない君たちは許されることもない。