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神を信じる人種

海外では、宗教絡みの争いが常にあるが、その信仰している宗教が争いを煽っているのだろうか? どこぞの人種も、宗教や神を理由にして、単に争いをしたがったり、気に入らない相手を攻撃したり、領地を占領しようとしたりと、根幹は宗教も神も関係なく、人間そのもののエゴで争っているようにしか見えないのだが? 日本国内において、この令和の時代で宗教絡みで人々が殺し合いや争いをするなど到底起こり得るとは思えないのだが?

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  • ベストアンサー
回答No.6

ただ単に、宗教が違うだけでは争いは起こらないです。 それが、何で争いに発展してるのかは、理由があると思います。 争いは、人工的に造られてるんじゃないでしょうか? 戦争屋と言われる人たちが、国を分断し、わざわざ、相性の悪い集団を、隣り合わせて入植させたり、国の中に押し込んだりするから、争いが起こるんです。 争いが起こる状況を造っておいて「人間は争いがやめられない動物」とか、本質から目を逸らさすような頓珍漢なことを言う人は、要注意です。 こういうのに感化されると、正しい見方が出来なくなる。 分かりやすいのが、今、話題のイスラエルとパレスチナ。 インドとバングラデシュもそう、ミャンマーにも相性の悪い民族がわざと入ってくるように仕向けられてたと思います。 日本にも、外人を押し付けててくる奴らがいますよね。 こういうヤツらのせいで、ワザと争いが起こされてるんです。 不自然な、国の分断や入植を力業で押し付けてくるのは誰か? それが戦争屋とその手下です。 戦争屋は争いの種を撒いてまわる。 キッカケを作って、争わせ、武器を売って儲けるのが、この人たちです。

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回答No.9

長くなりますが、お読みいただければありがたい。 残念なことに、人間は「我々」を優先して「奴ら」を二の次にするという習性があります。これは家族・氏族・部族で生活し、限りある資源を拙い技術で獲得していた原始時代からの遺産ですからやむをえません。 その「部族を超えた集団」を「我々」として束ねるのに「宗教」が有効だった、というのも歴史のなかで起こってきたことです。 ここは専門家の知見が必要なのですが、我々日本人のような農耕民族は”地縁”で結合できますが、遊牧民には”地縁”意識は薄い(ない)とされています。遊牧民宗教として始まったユダヤ教がキリスト教/イスラム教に変遷してゆくときに”地縁”にこだわらない抽象性をもっていたことで広がったという解釈もうなずけます。(仏教の世界観も”地縁”にこだわらない抽象性があるのですが、ここでは割愛します。ただ、仏教徒も他の宗教を排斥した歴史はありますし、ヒンズーもイスラムを排斥してパキスタンを作らせたのですから、一神教/多神教では語れないことは確認しておきます) このことから、 >宗教が争いを煽っている のではなく、「我々←→奴ら」意識のために宗教が大きな役割をもっている、という理解がよりただしいと思います。 「我々」を結束させ、当事者性をもたせ、安心感をもたらす紐帯は、そのまま「奴ら」を排除し、関心を減らし、不信感をもたらす垣根となる、と言うことです。 「煽っている」のは、宗教を”口実にして”「奴らへの攻撃」を正当化しようとする「争いによって得をする」人々です。 ハマスによる攻撃も「自分達の存在意義の継続が目的」という見解があります。ハマスに限らず反体制組織は”体制側”がいなければ存在意義を失って消滅します。ハマスが(ヒズボラもファタハも)自らの消滅を明確に目的にしている組織とは思えません。 たしかに「奴ら」扱いされて不遇の中にいることによる「報復」や「賠償請求」が性急になるのは「やむを得ないこと」と理解できます。しかし、問題の解決にかかる時間を受諾しないと不遇が長引くだけ、ということは理解してもらいたい。 そのときに 「当事者の気持ちはわからない」 といって彼我を分断する言説は、結果として「不遇の延長」または「再生産」しか招かないという歴史を知ってもらいたい、と思います。

回答No.8

a) まずコロナワクチンは、致死率約0.01%(1万人に1人)の毒物であり、新型コロナの病気を遥かに凌駕する被害が出ています。ですから、コロナワクチンを推奨あるいは協力するような団体や個人は皆、有害です。宗教団体も同様で、カトリックもプロテスタントも、日本の諸仏教や神道も、全部同罪であり、堕落したと言えるでしょう。本来、宗教は弱い個人を守るべき立場ですからね。  b) という訳で、各宗教はほとんどが堕落していることが、コロナ騒ぎによって炙り出された訳であり、そんな堕落教団なら、戦争も推奨しかねないでしょうね。日本だから、安全とは言い切れないでしょう。  c) 日本でも、コロナワクチンによる急死者は、既に約10万人出ているようです(超過死亡)。この数字は、立派な戦争状態だと思います。

回答No.7

 イスラエルとハマスは宗教戦争にも見えますが、領土を巡っての戦いだし、ウクライナ戦争もそうですね。宗教より領土。  感じたのは、この2つの戦争、第二次世界大戦後の新たな大きな戦争に見えますが、アメリカが強かったパックス・アメリカーナの時にも、湾岸戦争とイラク戦争はありました。    地上戦ではなかったので、何かゲームのように見えながら、あっという間に終わったので、あまり他国からみて悲壮感は残りませんでしたが、イラクによるクウェート侵攻がきっかけなど、今と似たようなことはありました。  つまりアメリカや欧米が世界を力で支配しようとすると、こういう戦争が続く気はしますが、そうするとだんだん欧米が疲弊して、どうなっていくのでしょう?

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2184/4838)
回答No.5

>海外では、宗教絡みの争いが常にあるが、その信仰している宗教が争いを煽っているのだろうか? その通りでしようね。 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教ともに、一神教ですよね。 が、不思議な事に「神様は同じ」ですが・・・。 ユダヤ教の矛盾から、キリスト教が誕生。 キリスト教の矛盾から、イスラム教が誕生。 ですから、エルサレムがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地。 「自分の解釈が正しい」と信じているので、他の解釈をする者は排除するのですね。 これは何も海外だけの話では、ありません。 創価学会初級教本に「他の教え(大先生に反対する)を信じれば地獄に落ちる」との記載がありす。 >人間そのもののエゴで争っているようにしか見えないのだが? その通りでしようね。 どの宗教も「殺すな・盗むな・傷つけるな」が、教えの基本です。 宗教は「儲かる商売」ですから、特権・利権の欲望の塊。 結果として、敵をつくる事で結束を固めます。 某反日国家の政府と同じ。^^;

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (379/1172)
回答No.4

一神教と多神教の違いではないでしょうか。 一神教では、他の神を信じては成らぬと排他的ですから、同じ宗教 でも宗派が違うと争いが起こります。 エジプト王国、ペルシャ帝国、ローマ帝国は多神教でしたので、 歴史上、領地の奪い合いは有りましたが宗教の違いの争いは 無かったと認識しているのですが、アレキサンドロス大王の 東方遠征は領地の拡大だったと思うのですが。 日本は八百万の神々で多神教です、仏教が伝来したら、お釈迦さまも 八百万の神々として受け入れました。 仏教徒が布教拡大の為に他国を侵略した歴史は有りません。 多神教のヒンズー教のインドも布教の為に他国に攻め入った歴史は ありません。 ローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝がキリスト教を国教とした 時から、皇帝の領土拡大と教会の布教拡大との両方の利益が合致 して、世界侵略が始まりました。 旧約聖書に書いて有るから、そこをどけと3000年も住んでいた パレスチナ人は暴力で土地を追われました。 国連の安保常任理事国は中国以外キリスト教の国で占められて いますので、パレスチナ人の訴えは通りません、となると後は 弱者はテロ行為で主張するしかないですよね。 正義はパレスチナ人側に有ります、ガザ地区にイスラエル軍が 侵攻して住民を殺したら、イスラム対キリストの第三次大戦に なります、イスラムの最大の国インドネシアが義勇兵を派遣 する事になったら、アジアも対岸の火事で済まされなくなります。 キリスト圏の欧州は近代兵器を装備しているから負けないとの 雰囲気が漂っていますが、中央アジアが参戦したならば、人海戦術 でキリスト連合軍は勝てないでしょう。 豊臣秀吉と徳川幕府がキリシタン禁止令を出した事に感謝ですね。

  • okok456
  • ベストアンサー率43% (2569/5928)
回答No.3

そうですね。 イスラム教、ユダヤ教、キリスト教それぞれの神は同じだそうです。 神のことばを伝える天使 ガブリエル https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB 「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じ?」 https://www.youtube.com/watch?v=2wLa7J9VWnY 【ユダヤ教・キリスト教・イスラム教】3つの宗教の始まり https://www.youtube.com/watch?v=znUg-0DBzJs ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が 指導者、支配者が民衆を扇動していますね。 パレスチナでイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していた時代もあったようです。 https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/ ヨーロッパで迫害されたユダヤ教徒の国イスラエルが、イスラム教徒を迫害し追い出す。イスラエルが嫌われて当然です。 キリスト教 カトリックとプロテスタントの戦争 https://www.y-history.net/appendix/wh0903-022.html キリストの教え???? 日本の仏教界は戦争に加担しました。 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71132 指導者は都合の良い解釈で民衆を扇動し戦いが正しいと信じさせるようですね。 >日本国内において、この令和の時代で宗教絡みで人々が殺し合いや争いをするなど到底起こり得るとは思えないのだが? オウム真理教の起こした凶悪事件を忘れてはいけませんね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99 警視庁 オウム真理教の危険性 更新日:2023年5月10日 https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/heion/aum.html

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10491/32993)
回答No.2

>日本国内において、この令和の時代で宗教絡みで人々が殺し合いや争いをするなど到底起こり得るとは思えないのだが? いやいや。たった1年前に、旧統一教会に強い怨恨を持つ二世信者である山上徹也容疑者が、旧統一教会への恨みを晴らすために教団と非常に関係が近い安倍晋三元首相を銃撃して暗殺しましたよ。 山上容疑者は一貫して「犯行の動機は政治的な思想によるものではない」と供述しています。つまり政治テロではなく、宗教的怨恨です。 また旧統一教会は、その後の教団への締め付けを「宗教弾圧である」といって強く反発しています。 その他にも、具体的な事件は起きていませんが、顕正会と創価学会などお互いに激しく憎み合い対立している宗派も日本国内には存在します。

  • mimazoku_2
  • ベストアンサー率20% (1846/8846)
回答No.1

神は、1柱で絶対神。 これが、原動力。 つまり、世界にいる神の信者たちが、「私の神が1番であり絶対神だ」という論理で他の神を否定する。 それがエスカレートし、侵略と言う名の蹂躙が始まる。 だけど、多神教においては、そういう問題が生じない、と言うより、目立って否定こそはしないが、基本スタイルとしては「我関せず」だ。 だが、こういう情報もある。(参考動画:アンデスの黄金板) この情報が確定されれば、一神教は人為的に作られた神になるでしょう。 そうなった場合、一神教の信者達はどう行動するのかが、見物です。 世界各地に古代日本人の痕跡?アンデスで発見された謎のの黄金板がヤバスギ!宇宙人の文字を解読した神代文字【都市伝説】 https://youtu.be/OdMvglCH8oM?list=PL27uTCZSivddQDsGpxZeVDHXPm9o4uRwD&t=345

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