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中国はなぜ朝鮮を版図にしなかったのか

中国は古くから東アジアに大帝国をつくり、四方を版図に組み込んだのに、なぜ地続きの小国・朝鮮を版図に組み込もうとしないで、朝貢だけさせる冊封国として認めていたのでしょうか? 琉球や倭・日本は海があるので征服に手間がかかったでしょうが、朝鮮なら、帝国構築の序に征服して仕舞えそうな規模ですがー。

  • gesui3
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みんなの回答

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (953/1525)
回答No.6

版図にしなかったというよりできなかったといったほうが適切だと思います。 南北朝時代を終わらせて中国を統一した隋は、三度にわたって100万人規模の兵力で朝鮮半島の高句麗に遠征したものの失敗に終わり、逆に国力を疲弊させて滅亡しました。 隋にかわって中国を統一した唐は、新羅と共闘して高句麗を滅ぼすことに成功したものの、新羅との戦いに敗れ、西方の吐蕃(チベット)や北方の突厥への対応を迫られていたことも重なって、朝鮮半島に築いた安東都督府、熊津都督府といった直轄支配の拠点を放棄し、新羅による半島統一を認めざるを得ませんでした。 唐の挫折をもって中国王朝による朝鮮半島直轄支配の試みは最後となり、その後は、軍事的に圧倒して相手を全面降伏させた元や清も、直轄支配をしようとはしていません。すでに国家的統一が成熟した地域を他国が直接支配するのは困難です。困難でもやり遂げるだけのメリットがあれば別ですが、中国王朝にとって朝鮮半島支配にそこまでのメリットはなかったということでしょう。 逆に近代の日本にとって朝鮮半島を直接支配することは、ロシアの脅威に対応するうえで、非常に大きなメリットというか死活的な必要性があったと思います。朝鮮が自ら近代化してロシアに対抗してくれれば、困難をおしてまで直接支配しなくても良かったのでしょうが、当時から反日意識の強い朝鮮は、日本の影響力を排除するためロシアに接近しようとしてましたから、ほっとけばロシアの従属国になるのは目に見えています。

gesui3
質問者

お礼

> 版図にしなかったというよりできなかったといったほうが適切だと思います。 なるほど。一番スッキリとする説明です。 > 逆に近代の日本にとって朝鮮半島を直接支配することは、ロシアの脅威に対応するうえで、非常に大きなメリットというか死活的な必要性があったと思います。 ここからが、理解に苦しむ、不思議な論理です。が、本題から外れるので、深入りできません。 ただ、たとえ朝鮮がロシアに征服されようと日本には文字通り「対岸の火事」のハズ。わざわざ海の向こうまで出かけて行ってロシアの代わりに自分が他国を支配しようなんて、論理が飛躍し過ぎだと思うのみです。単に自分に野心があっただけでは? (西郷隆盛も同じ変なこと言ってるんですよね) > が、当時から反日意識の強い朝鮮は、日本の影響力を排除するためロシアに接近しようとしてましたから、ほっとけばロシアの従属国になるのは目に見えています。 朝鮮の反日意識は、日本の強盗政策への反発から生まれたもので、家康の開いた江戸時代を通して、日韓は長く善隣外交をしていました。因果を逆に見ていませんか?

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.5

>中国はなぜか台湾に対しては強盗でしたが これね、誤解している人が多いのですけれど、今の台湾国の正式名称は「中華民国」なのです。 中華民国は孫文が作った中国政府です。歴史の授業でも習います。だから元々「中国の政府」なのです。大日本帝国は太平洋戦争でアメリカと戦争をする前に日中戦争という泥沼の戦争をやっていたのですが、その日中戦争の相手国が中華民国です。つまり台湾(中華民国)は百年近く前は戦争していた国なのです。 それが第二次世界大戦後に、日本と戦争をしていた蔣介石率いる中華民国と、毛沢東率いる共産党との間で「国共内戦」と呼ばれる戦争になって、それに共産党が勝利して今の「中華人民共和国」が成立したのです。 その中華民国が逃げてきたのが台湾で、今に至るのです。 だから台湾に「故宮博物院」があるのです。そもそも「故宮」とは北京の紫禁城を差す言葉なんですよ。蒋介石が紫禁城にあった歴代皇帝の宝物を台湾に持ってきちゃったのです。 ゆえに、何らかの形で中華民国(台湾)を妥当しないと「本当の意味での中華統一」は成し遂げていないということになるのです。 だから中華人民共和国は台湾を併合して「本当の意味での天下統一」を目指しているのです。 日本に例えるなら、大日本帝国が沖縄に独立国として存在しているみたいなものですね。

gesui3
質問者

お礼

誤解ではなく、仰る時代以前を念頭に置いています。 清末期に、明治政府から詰問されて、台湾なんて「化外の地」だと答えています。 その言質をタテに明治政府は台湾出兵をし、初めて持った植民地を「外地」と呼びました。 初めてなので緊張感をもって、搾取・差別は根底に持ちながらも、ルールに基づく法治施政に努め、朝鮮に対するような野蛮でデタラメな強盗行動はしていません。  しかし世界大戦Ⅱ出の敗戦で日本は撤退。代わって中華民国が台湾にやって来て、婦女暴行や強盗事件が頻発。公所と政府軍の腐敗が激しかったことから、反発で二・二八事件が起きています。蔣介石はこれを徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷き、数万人を処刑する「白色テロ」を起こしています。 「犬が去って、豚が来た」は当時の台湾での流行語、幻の名画「悲情城市」ではこの間のことを描いています。

gesui3
質問者

補足

誤:しかし世界大戦Ⅱ出の敗戦で日本は撤退。 正:しかし世界大戦Ⅱでの敗戦で日本は撤退。          ^^^

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2184/4839)
回答No.4

>なぜ地続きの小国・朝鮮を版図に組み込もうとしないで、朝貢だけさせる冊封国として認めていたのでしょうか? 倭国・日本との「緩衝地域」が必要だったからです。 第三国と戦果を交えて朝鮮が敗北しても、皇帝の威光には影響を与えません。 また、領土経営には莫大な資金が必要ですからね。 冊封国扱いだと、実質的に「属国・植民地」として扱う事が出来ます。 1500年代のキリスト教布教用地図には「明国属朝鮮国。清国属朝鮮国」と記載しています。 国王の即位及び結婚・皇太子の任命及び結婚などは、全て歴代中国皇帝の承認が必要でした。 ※そもそも、朝鮮国と言う国号は「明国皇帝が李成桂(高麗国を謀反で滅びした)に与えた国号」です。 ※韓国の正しい歴史では否定していますがね。 これが、1910年の日韓併合迄続きました。 今でも、DNA的に「中国には服従政策。日本には反日政策」を行っていますよね。^^;

gesui3
質問者

お礼

「中国には服従政策。日本には反日政策」なのは、日本は戦国時代と近代で<強盗政策>を取ったからでしょうね。中国はなぜか台湾に対しては強盗でしたが、朝鮮に対して強盗は働いていないからでは??

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.3

韓国料理がビビンパのような混ぜご飯が多いのは、寒くて美味しいお米がとれなくてお米があまり美味しくないので、おかずと混ぜることで食べやすくしていたなんて話があるくらいで、基本的に朝鮮半島は寒くて山だらけで険しい場所です。日本でいうなら伊豆半島みたいなものです。 なので中華帝国の版図にしてしまうと維持コストがかかってしまうので、帝国の属国という形式になるなら統治の面倒が要らないというのがあったと思います。 それに加えて、北方のモンゴル騎馬民族と違って帝国に襲い掛かってくることがほとんどなかったのも中国人的に安心できる部分はあったと思います。 ただ、一部の人たちが倭寇のフリをして略奪に行っていたということはあったと思います。 南越(ベトナム)もあまり中華帝国は手を出さなかったですよね。あんなジャングルだらけで病気がうようよしている地域なんて、帝国の版図にしてもコストばかりかかってメリットがなかったからだと思います。

gesui3
質問者

お礼

費用対効果を考えた計算づくだったわけですね。 回答をありがとうございます。

  • staratras
  • ベストアンサー率40% (1444/3522)
回答No.2

漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部・中部に楽浪郡など四郡(漢四郡・朝鮮四郡)を置いて直接統治していますので、版図に組み込んだ時代もありました。武帝の時代には朝鮮半島だけでなく、インドシナ半島の今のベトナム北部・中部に交趾郡・日南郡が置かれるなど、現在は中国以外の国となっている地域を直接統治しています。 この楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされましたが、その後、高麗を屈服させた元(モンゴル)以外の歴代の中国の王朝が朝鮮半島の直接統治に乗り出さなかったのは、コストがかかる割に得られるものが少ないという判断でしょう。あの強大なモンゴルの武力をもってしても、江華島に遷都して立てこもった高麗政権を滅ぼすのが容易ではなかったことは象徴的です。「領土(帝国)の周辺に冊封国という緩衝地帯があったほうが何かと好都合だという判断は、現代中国まで一貫しているように見えます。

gesui3
質問者

お礼

漢の時代は版図に入れていたのですね。これは認識不足でした。 冊封は、徳威をもって緩衝地帯を形成する、懸命な間接支配方法ですね。誰が考えたのか。

gesui3
質問者

補足

誤:懸命な間接支配方法 正:賢明な間接支配方法

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (379/1173)
回答No.1

朝鮮半島に金目物はないでしょう。 植民地にして手間暇掛けて税金を絞る取より、朝貢させた方が 費用対効果が有ると思ったのでしょう、中国は損する事はしない 狡賢い、したたかな国なのです。 そんな国を植民地にした、お馬鹿な国が大日本帝国です。 税金を取るどころか、鉄道、学校、病院などの、インフラに多額の 投資をして識字率が高い国にしました、そのお陰で、現在は日本より一人当たりの稼ぎが多い大韓民国になりました。 植民地に投資する国など歴史上、何処にもないですよ。 日本列島は狭くて小さく、体格の小さい日本人など眼中に 無かったのでしょう、遣隋使の小野妹子が手土産に持って行った 品は、干し昆布、干し椎茸などの、海産物だそうです。

gesui3
質問者

お礼

>植民地に投資する国など歴史上、何処にもないですよ。 当時の世界の覇者・イギリスの植民地政策に倣ったのではないでしょうか。恩恵を与えつつ利益を収奪する式です。

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