koosaka の回答履歴

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  • 仏教についての疑問

    仏教の目的は輪廻転生の輪から逃れて苦から解放されることだといいます。 それでは50億年後に地球が飲み込まれたら、人間もすべての生物も消滅して少なくとも人間道と畜生道は消えるでしょう。さらに時間が経過すれば宇宙は熱的平衡状態に到達し、すべては絶対零度の極低温に冷え切ってしまいすべての生物は存在できなくなるでしょう。 このような状態は仏教的には良い状態なのでしょうか? そこには苦しみはないです。何もないのだから。 私はそのような状態がよいとは思いません。苦しみや思い通りにならないことがあっても(いずれも仏教的には苦だそうです)、その一方でよろこび、感激、感動がある生き物が生き生きと生きている世界がいいと思います。 仏教的には煩悩だらけということになるのかもしれませんが、喜怒哀楽あって生き生きと生きている状態の方が何もない無のじょうたいより、よっぽどよいと思います。 仏教の考え方は消極的というかネガティブに思えるのです。苦から逃れることばかり考えている。苦も楽も両方あっていいのじゃないですか? 私は仏教に疑問を感じるのです。 それとも私が仏教を誤解しているのでしょうか?

  • 人間原理、時間論、存在論について

    人間原理、時間論、存在論について 哲学的なことに興味があります。人間原理、時間論、存在論について詳しく、お手数ですがわかりやすく説明してくれる方がいましたらお願いします。

  • 意識存在は輪廻転生の証拠となり得るか

    肉体の死によって全てが無になるのなら、これ以上楽なことはないと思われます。 しかし、現意識があるということは、現意識は、現世に存在したということです。 現世に存在したということは、意識がいったん無に帰したあと、ふたたび現世に現れる可能性があるということではないでしょうか。 現意識は現世に存在するという間違いを一度犯しています。 これは意識が現世に存在するということの証拠になります。 すると、無に帰した後、ふたたび意識が現世に現れるという間違いを犯す可能性があるということではないでしょうか。無に帰した意識がふたたび現世に現れないとするならば、無から意識が現れるということもないのではないでしょうか。 よく人間の意識を機械のスイッチに例えて、ついたり消したりする、それが意識に相当するものだという説があります。その説は意識を無から発生させ無に帰するものです。 しかし、優れたパソコンであっても、それは意識ではありません。優れたパソコンは電気が通っているかいないかというだけです。電気が通っていても意識はありません。 意識とそうでないものの違いは、感受性と創造性を発する主体(つまり心)があるかどうかということだと思います。 意識でないものと、意識を同一視することはできないのではないでしょうか。 そこで意識の比較対象が現時点では存在しないと思われます。だから機械のスイッチを入れたり切ったりすることは、意識が無から発し無に帰することを証明していないと思われます。 意識はまだ得体の知れない何かです。 睡眠と死を同一視する見方もあります。睡眠中は意識がなく、次の目覚めの時に飛んでしまうわけです。その間、無だったと言えるのではないでしょうか。しかし、肉体がなくなったとしたら、目覚めの時は永久に訪れないから、永久に無であると言えるわけです。 しかし、睡眠と死を同一視するのも間違っているのではないでしょうか。何故なら、睡眠は肉体が存続しているという条件で、死は肉体が存続していないという条件だからです。条件が違うのに、睡眠を理由に死を決定することはできないのではないでしょうか。 意識があるということは来世も存在するということなのでしょうか?

  • 哲学には世界平和に責任がある?

    この何百年と願い続けられた世界平和ですが まだ実現しません。米中露の和平交渉が上手く行くと良いのですが その為には確りとした理念が必要だと思います。 その理念は哲学・思想の仕事です あなたは世界平和にどの様な考えを持っていますか? イマジンでは実現しなかった世界平和 あなたはどんな考えを持っていますか? ぜひ教えてください。

  • 夢はありますか?こうなったらいいなと思いますか?

    人間の世界 ままならぬものがあります 夢はあっても何時しか忘れてしまうことが多いようです あなたにはまだ夢がありますか? あるとしたらどんな夢ですか?

  • 労働基準法等、労働三法はどこに行ったのか?

    私の周りの話でも 今はブラック企業が当たり前で 労働基準法を守ってるほうが珍しいとのこと 残業があっても残業手当があるならまだいいですが サービス残業も多いとか 辞表を出しても受理して貰えず、いじめの様な使われ方 休みの日まで買い物や休日出勤をボランティアで頼まれる うつ病になる人も多く なんでそんなに苦しんでまでサービスをしなければならないのか 消費者やインフラなどは充分ではないか?お金さえあれば暮らしに不自由はないのではないか これは過剰競争なのではないか?  少子高齢化と言っても、コンビニをあんなに作らなければならないのか? 物は溢れているのではないか? 老人ホームや保育園の仕事にしてもあまり酷使すると仕事に問題が生じないか? 移民を受け入れて仕事をして貰う事が出来ない日本はあまりに頑なではないか? 兎に角このままでは労働環境は改善されない。 労働組合や労働基準法も機能してない。仕方ないのだろうか?幸せで有り得るだろうか?

  • ショーペンハウアーの言う所の「天才」とは何か

    閲覧ありがとうございます。 岩波文庫の『知性について』を読みました。 そこに「極端な例えとして中国産の高級な将棋で将棋を打つ時、天才はその材質に見惚れて負けることがあるが凡人は材質なんて気にせず勝ちを取りに行く」 という文章がありました。 しかし「凡人は感覚的なものばかりを求める」という文章もありました。 高級な将棋に見惚れるというのは感覚的ですよね。彼の言っている事の辻褄が合わなくて混乱しています。 結局、彼の言う所の天才とは何だったのでしょうか。詳しい方回答よろしくお願いいたします。

  • これからの天皇制度

    生前退位が時の問題となっています。 まぁ今上陛下のご苦労は分かります。 天皇制というのを廃止するのは反対ではないが賛成はしない。 国家という形態からは存続させていくのだろう。 まぁ一条もよくいっている、”日本国と日本国民統合の象徴”とは。 これは必要でしょう。統治の権能はなくても国事行為や国賓等の接遇は必要でしょう。 ではこれから天皇制ってどうあるべきなのだろう。 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12606481.html?rm=150 皆さんのご意見を承りたい。よろしくお願い致します。

  • 本能 理性

    人が子供を産み持つのは本能の働き(性欲)によるもの、生まれた子供が愛しいと思うのも本能、そして子供を欲しいと思うのは理性で合ってますか?

  • 【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いとい

    【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いという悟りに行き着いたという。 親鸞は悟り後はありのままに自分のしたいように生きて亡くなった。 これって本当ですか? 親鸞は若い時は厳しい修行をして己を苛め上げていたが悟りを開いたあとの後世はのんびりきままに自分のやりたいことをやって宗教の呪縛から解放されて伸び伸びした生活をして死んだ。

  • 虚空とは空間か

    虚空菩薩の虚空とはカントなどが云う所謂る知的論理の西洋哲学などにおける時空の国なのであろうか。その違いを教えてください。

  • 他人の観る私について

    自分を他人の目で見てみたい。 どんな方法があるでしょう。 他人っていっていますが、特に特定していません。 鏡では自分の姿や顔は見ることができますね。 鏡で見る姿や顔ではなく、生き、歩き、行動しているというような受け取られている像のことです。 ツエギーさんは”人に聞け”とご回答されましたが、言葉でではなく受け取られている像を自分自身で見たいのです。

  • 【瞑想は深呼吸をしたら出来るとネットで見ましたが】

    【瞑想は深呼吸をしたら出来るとネットで見ましたが】瞑想=何も考えないって誰が言い出したんですか? 瞑想って座禅の1つですよね? 座禅って宗派によって違って、何も考えないことを座禅とするのは曹洞宗なだけであって、瞑想=何も考えないって考えるのは短絡的では? 逆に座禅をして考え抜く臨済宗とかありますよね? だから、瞑想=何も考えない=深呼吸すれば瞑想が出来るって違う気がします。 確かに深呼吸すれば考えられなくなる。これは裏ワザで良いが、なんか瞑想=何も考えないと思われているのがしっくり来ないんですよね。

  • 【宗教・座禅の足の組み方】は「結跏趺坐(けっかふざ

    【宗教・座禅の足の組み方】は「結跏趺坐(けっかふざ)」という座り方があるそうですが、この結跏趺坐は「右足を下、左足を上」というのは決まっているのでしょうか? 左足を下、右足を上に組むのは結跏趺坐とは言わない?

  • ゆっくりの進化で適度な競争でいいのでは?

    急激な進化は危険が大きいです。過激な競争も犠牲が多すぎる。 バスが満員だから要らない人は降りてくれと言う訳には行きません。 ゆっくりの進化でハッキリした目標を持ち人間として幸せに生き抜ける社会 時間は何千年とあるのです、自滅するような過激な進化ではなく 目的に確実に向かっていく生き方で、楽しみながら、頑張りながら生きて行くのが良いと思います。 人間の目的は存在する事、未来の存在を実現する事、永遠への存在を実現することです。 どうしてそれに気づかないのでしょうか?

  • この「性質」の説明は語感として分かりますか?

    もしエネルギーに、性質と言う普遍的な法則に則った、目に見えないものが存在していなければ、エネルギーは無秩序な、カオスにもならないと言っていいでしょう。そのエネルギーによる引力や斥力や電磁波のような波としての性質が織り成したのが私達の知る宇宙です。 特にこの引力はエントロピーを維持しあるいは減少させます。もしこの引力がなければ物質は秩序をなし得ませんし、天体も形をなし得ないでしょう。 そしてそのエネルギーの持つ性質が 同時にそのエネルギーに態を与えているのです 性質がフィードバックをしてその存在を更に在らしめているのです(→亀の存在性 動物の存在性 進化論 例えば食べるという性質が体を維持する 見るという性質が交通事故を避ける等 因果) 場の中で。 でなければ存在を保つことはできません。 性質は法則に則ってエネルギーに現れ、その性質がそのエネルギーに態を与えます。下の「酸素原子の存在性」を参考にされてください。(性質も変化し続けます) そのものが持つ性質が原因となって、そのものが存続すると言う結果となる(アイデンティティ)(因果律)  (物質もエネルギーで出来ていと思います) ☆この性質についての説明は語感として分かるでしょうか?よろしくお願いします。

  • この「性質」の説明は語感として分かりますか?

    もしエネルギーに、性質と言う普遍的な法則に則った、目に見えないものが存在していなければ、エネルギーは無秩序な、カオスにもならないと言っていいでしょう。そのエネルギーによる引力や斥力や電磁波のような波としての性質が織り成したのが私達の知る宇宙です。 特にこの引力はエントロピーを維持しあるいは減少させます。もしこの引力がなければ物質は秩序をなし得ませんし、天体も形をなし得ないでしょう。 そしてそのエネルギーの持つ性質が 同時にそのエネルギーに態を与えているのです 性質がフィードバックをしてその存在を更に在らしめているのです(→亀の存在性 動物の存在性 進化論 例えば食べるという性質が体を維持する 見るという性質が交通事故を避ける等 因果) 場の中で。 でなければ存在を保つことはできません。 性質は法則に則ってエネルギーに現れ、その性質がそのエネルギーに態を与えます。下の「酸素原子の存在性」を参考にされてください。(性質も変化し続けます) そのものが持つ性質が原因となって、そのものが存続すると言う結果となる(アイデンティティ)(因果律)  (物質もエネルギーで出来ていと思います) ☆この性質についての説明は語感として分かるでしょうか?よろしくお願いします。

  • この「性質」の説明は語感として分かりますか?

    もしエネルギーに、性質と言う普遍的な法則に則った、目に見えないものが存在していなければ、エネルギーは無秩序な、カオスにもならないと言っていいでしょう。そのエネルギーによる引力や斥力や電磁波のような波としての性質が織り成したのが私達の知る宇宙です。 特にこの引力はエントロピーを維持しあるいは減少させます。もしこの引力がなければ物質は秩序をなし得ませんし、天体も形をなし得ないでしょう。 そしてそのエネルギーの持つ性質が 同時にそのエネルギーに態を与えているのです 性質がフィードバックをしてその存在を更に在らしめているのです(→亀の存在性 動物の存在性 進化論 例えば食べるという性質が体を維持する 見るという性質が交通事故を避ける等 因果) 場の中で。 でなければ存在を保つことはできません。 性質は法則に則ってエネルギーに現れ、その性質がそのエネルギーに態を与えます。下の「酸素原子の存在性」を参考にされてください。(性質も変化し続けます) そのものが持つ性質が原因となって、そのものが存続すると言う結果となる(アイデンティティ)(因果律)  (物質もエネルギーで出来ていと思います) ☆この性質についての説明は語感として分かるでしょうか?よろしくお願いします。

  • 人間は存在しようとしてるのではないでしょうか?

    人間は存在しても次の瞬間を実現しないと消えて無くなります。存続しないといけないのです。 存在を求めて働き言動している。それによって何日も何年も何十年も存続出来るのではないでしょうか? 人間以外の物や生物も存在存続しようとするものが多いですが、人間はそれにも増して 存在を意志して存在する者ではないでしょうか? 存在しない事には話にもなりません。自分が死んだら残った人が憶えてるでしょうけど 自分にとってはそこで終わり 無になります。 影響は残ります。良い行いは良い影響として永遠の未来まで、悪い行いも未来永劫に影響します。 ただ 人間は存在する為に努力しますが 皆が存在するために行動するのが正義ではないでしょうか? どう思います? みなさん?

  • 神と人間における自由意志の一体性&分離性について

    難しいタイトルですが、言い換えると、もしあるとするならば、 神と人間の意志の境界は一体どこにあるのか?と言う質問です。 例えば先日にクリスチャンとして洗礼の証しを書き記したのですが、果たしてこれが 自分の意志のみによって書かれたのか、それともどこかで何らかの神の意志が働いて いるのか、ふと疑問に思ったのです。自分と神様の思いはどこで線引きをすれば良い のか、その境目を見極めたく思っています。 ちなみに今のところ私は、洗礼の証しは自己と神の共同著作のように考えています。 また神様と人間は本質的には一体な存在でありながらも、物質が大勢を占めている この世において、ある相対的な分離が起こっているのではないかとも考えています。 更に言うと、これに関する質問を自分がよく通う教会の牧師にも尋ねてみたところ、 明確な返答を頂けませんでした。なので、極めて難問であることは間違いないです。 読者の皆さんは、どう思われますか? かなり返答の難易度を上げたかもしれませんが、個別に思うことで構いませんので、 何かご意見がありましたらお気軽にお返事よろしくお願いします。